593 明治陸軍、日露戦争の後備歩兵連隊について教えて下さい。
状況経過が長くてスミマセンが、是非読んで下さい。

太平洋戦争終戦時、皇居には57流の歩兵連隊の軍旗がったと言われています。
その内には後備歩兵連隊旗も含まれます。
後備歩兵連隊旗は、日露戦争が終結後、そのナンバーの歩兵連隊に一緒に保管され、
演習に一部が再出動し、演習終了後また返納保管された。
その後、陸軍増強計画(戦時50コ師団計画)で編成方法が変わり、
特設師団を編成する計画になり、後備連隊旗は用済みとなり、皇居返納。
皇居の櫓倉庫に保管されました。

57流うち後備歩兵以外の物としては、
乃木大将の少佐時代の再親授されてしまった歩兵第13連隊旗。
特設師団動員復員後に再編成されなかった歩兵第103連隊。
南海第1守備隊に改編された歩兵第122連隊。
歩兵第88連隊に改編された独立歩兵第1連隊旗
引き算すると、後備歩兵連隊旗は、53流。
(その他としては、搜索連隊、機動歩兵連隊に改編等で返納された騎兵連隊旗)
これらも、全て終戦時に侍従武官により、こっそり奉焼された。

調べて分かっていること事は・・・
・後備歩兵連隊は、第1次〜第3次に別れて編成された。
・第1次は、各連隊番号を継承し、2コ大隊編成。
・第2次の連隊番号は49〜60で、兵役法変更により捻出された後備兵で編成され、
最初から3コ大隊編成だが、各編成地は、各師管各1コで、
例外は、旭川師管は0で、東京師管が2コであった。
・第1次の内、野戦軍に配属され、当初後方警備、その後、兵力不足で第一線に
配属された後備歩兵連隊は、編成、補充担任は戦史から分かっている。
・しかし、韓国守備軍や、遼東守備軍に配属された独立配備の後備歩兵連隊は、
資料が見当たらず、戦歴、番号すら分らない物が多い。
・各師管で、合わせて3コ後備歩兵連隊しか編成されなかった、
とする資料もあるが、別の資料を発見した結果、
最初から4コ後備歩兵連隊を編成し、2、3コ連隊を後備歩兵第旅団として、
大陸に送り、1、2コは独立して要地、要塞守備に配属された師管もある。
(東京師管の後備第2、3連隊は、後備第1旅団に組み込まれず、
東京湾要塞に配属された)
(熊本師管の後備第45連隊は、対馬警備にあたった。
その後大陸に進出している)
(小倉師管の後備第46連隊は、長崎、佐世保要塞に配属された。)
(小倉師管の後備第24連隊は、下関要塞配属)
・各師管区は当初3コ連隊しか編成しなかった師管もあるが、
第3次兵備で、あとから4コ目の連隊を編成している師管もある。
・連隊とは、名ばかりで、1ヶ大隊の連隊も存在するらしい。
・戦争前動員計画で、後備歩兵独立大隊の編成計画はあるが、
後備歩兵連隊編成計画はない。
(この後備歩兵独立大隊計画が、修正されて後備歩兵連隊の編成になった様だ。
連隊旗を持たせて、団結心を高めたのであろうか?)
・旭川師管は、後備歩兵第25連隊を編成している。
(それは、師管内の4コ連隊区で精一杯編成した各1コ大隊の内、
3コを集成して、第3次兵備として連隊を編成して大陸に送っている。
・近衛は、近衛後備第4連隊を編成し、独立して大陸の兵站警備にあたっている。
(第3は、資料が見当たらない。もしかしたら広島大本営守護かもしれない)
(または、天皇家の神宮等に分散され守護?
後備近衛1コ中隊が、伊勢神宮守護を、後備33歩兵連隊と交代している)
・全ての後備歩兵旅団は、奉天会戦後に、後備混成旅団に改編されている。
・旅順要塞戦で大量の兵員を失い、自己師管では後備兵まで動員しても、
本体師団の定員を確保できず、他師管要員での補充を求めていた第9師管と、
第11師管の新編成は難しいと考えられる。

以上が分かっています。

53流の連隊旗から逆算すると、常設番号の内、編成不可能な第7師管分を
除いたナンバー連隊の内、5〜9の後備歩兵連隊が
編成されていない事になります。
そのナンバーは不明。

これらは、明治天皇記から、宮中の軍旗授与式の日付・他から、
後備歩兵連隊記事を調べました。



質問は、

(1)第3次の後備歩兵連隊の編成状況、編成地。

(2)どの後備歩兵連隊が編成され、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍
に配属されたか?

(3)これら、知られていない、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍に配属された
、後備歩兵連隊の戦歴について。

(4)編成されていない、後備歩兵連隊のナンバー。

以上、何でも良いです。
教えて下さい。


戦史叢書読みました。
明治天皇記読みました。
アジ歴も探しました。

防衛研究所行きは、ご勘弁。

何でも良いです。
思い当たること、よろしくお願いします。

よろしくお願い致します
mm058114


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