613  初国産戦艦に「薩摩」となずけたのは海軍内の薩摩閥への配慮でしょうか?
みりめし

  1.  薩摩閥におもねたかどうかは分かりません。というのは、命名者は明治天皇であり、その本心を知ることはできないからです。ただ、天皇が命名するにあたって、海軍大臣が1艦あたり2つの候補艦名を提出するというのが通常であり、この際に、何らかの恣意があったという可能性を否定するものではありません。
     また、本欄でも何回か、艦名の由来が話題になっており、薩摩についても、何度か取り上げられています。そういう中で、私自身の考えを述べることが許されるとすれば、薩摩は幕末時に多くの軍艦を提供し、海軍に多くの人物を輩出させた国であるからというのは説得力のある考えだとは思いますが、西南戦争の戦場であったからではないかと思っております。というのは、国名は、日露戦争での鹵獲艦の艦名にも採用されており、壱岐、石見は捕獲地近傍の国名(壱岐は島名と考えたほうがよいかもしれません)、備前、丹後、相模は佐世保、舞鶴、横須賀という軍港の所在地で、薩摩の準姉妹艦に安芸と命名されたので、呉のあるこの国名が使えずに、隣国の周防の名が採用されているからです。つまり、江戸時代の出来事ではなく、明治以降の実際にあった出来事をもとに命名されているのです。
     そのように考えていった時に、安芸がなぜ選ばれたかというと、呉があったからではなく、日清戦争時の大本営が広島にあったからであり、広島は安芸国に属していたからではないかと考えております。そうした時、明治以降、薩摩国で何が起きたかと考えると、やはり西南戦争が第一であり、西郷隆盛をはじめとする人々が賊軍となったとしても、近代日本最大の内乱を成功裏に収めえたという記憶が命名の趣旨ではないかと考えております。
     なお、明治末期、計画建造された砲艦に伏見、鳥羽の名が選ばれたのも同様の理由ではないかと考えております。
     
    hush


Back