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いつも教えて頂きましてありがとうございます。 旧日本海軍の一般的な「軍艦色」は「白3・黒1の割合で混色」と規定された鼠色となっております。 しかし戦前撮影の「鳥海」「球磨」などでもっと白っぽい灰色で塗られている(ように見える)写真が残されています。 (どうも南方艦隊や在支艦隊所属の艦に多いように思いますが) 戦前はまた別の明るい「軍艦色」が規定されていたのでしょうか? そうだとすれば、どのように規定された色だったのでしょうか? 宜しくお願い致します。 Ranchan |
- 英海軍より押収した塗料を使用したんじゃないでしょうか
駄レス国務長官
- 長官!
どうして、イギリスから押収したものが戦前に使われているのですか?
hush
- モデルアート増刊号「軍艦の塗装」によりますと、
「当時の塗料は(略)、品質は三カ月程度しか持たず、色の劣化は激しかったようだ。「鼠色」が三カ月もすると「白化」して「銀鼠色」となり、スコールを浴びると元の色に戻るという笑い話さえあった」
とあります。
ですのでたまたまこの退色した状態を撮影した写真だった、或いは光加減等で色相が変わって見えた、という可能性が高いのではないでしょうか?
加えて戦前の塗料は納入業者によって鼠色を構成する顔料が微妙に違う上、塗色標準が定められていなかった事から工廠や造船所毎に微妙に違う色相だったとの事です。
薩摩
- 艦船の塗粧は「艦船造修規則」により定められていますが、少なくとも昭和14年まではいわゆる「軍艦色」に変更がないので「規定はなかった」が結論です。
ただし、昭和16年12月26日付の内令第千七百三十八号では
「所属長官戦時事変等ニ際シ必要有リト認ムル時ハ第二百二十八條ニ既定スル塗色ヲ変更シ第二百二十八條又ハ二百二十九條ニ規定スル艦船名、所属名、若クハ隊名ヲ抹消シ又ハ其ノ文字色ヲ変更スルコトヲ得。」
とあります。
この内令は開戦直後に出されたものですが、同様の内令が支那事変中に出された可能性はあります。
その場合は長官命令で麾下艦船の塗粧が変更されることもあったでしょう。
出沼ひさし
- 皆様ご回答有り難うございます。
古い雑誌ですが「シーパワー」79号掲載の「昭和10年7月16日、青島に在泊中の『球磨』」と題する写真の解説文中に「在支艦隊特有のやや白っぽく見える艦体の塗色」との一文があります。
「所属艦隊によってその艦隊独自の『軍艦色』が別途定められている場合もあるのか?」と疑問に思ったため質問させて頂きました。
盛夏の撮影ですし、在支艦隊所属艦がそろって退色してしまい、それがあたかも「在支艦隊特有の明るい軍艦色」であるように筆者の方には思えてしまったのかも知れませんね。
Ranchan
- 揚げ足を取るつもりは無いのですが。
「白3・黒1」の顔料で混色すると「鼠色塗具」の青味がかった濃い灰色になり
いわゆる「軍艦色」にはなりません。
「軍艦色」は模型用塗料、塗色として半世紀ほど前に艦艇模型製作者グループ
の先輩諸氏が試行錯誤の上で作り出した「創作物」です。
世代が違うので私は直接かかわっていないのですが、以前、ある方から当時の
苦労談を聞かせて頂き、所々に「?」と首を傾げざるを得ない事柄があり…
旧海軍艦艇を実際に見た経験も無く、海自艦艇を参考にすることも、当時の
塗料組成を調べることもないまま
「モノクロ写真の印画紙、印刷物の日本軍艦の印象を塗料で再現したもの」
なのだろうと推測しています。
結果、無彩色の灰色になってしまい、出回り始めた当時、まだ元気だった
旧海軍を知る方たちから「こんなドブ鼠みたいな色じゃない」とか「もっと
深みのある美しい色だった」とかの批判があったのだと思います。
モノクロ写真に写っている濃淡は撮影時の光量、露出や現像、焼き付け時の
操作で変化してしまう、させられることなので、背景や同時に映り込んで
いるものを比較、参考にするなどの注意が必要でしょう。
「軍艦色」の「4工廠色」なるものも撮影時の太陽光の強さ順なのでは?
と考えています。
P.D
- 質問者の方は既に納得なさっておられるご様子ですので、蛇足になりますが、「在支艦隊特有のやや白っぽく見える艦体の塗色」については、当該キャプションを書いた方の思い込みと言うことはないでしょうか。
出沼ひさし様も挙げておられます「艦船造修規則」は、砲艦の塗粧を鼠色(いわゆる「軍艦色」でしょう)ではなく、白色としています。そして、ご存知の通り、砲艦が活動していたのは支那方面です。
外舷が(実際白いのだから当然ですが)白っぽく写っている砲艦の写真を何枚も目にしていたため、偶然明るく写った球磨の写真を見て「やはり支那方面艦隊の塗粧は白っぽい」と認識してしまったとも考えられます。
同時期に撮影された球磨、あるいはその他の支那方面艦隊の軍艦の写真を比較検討した上でなければ、「在支艦隊特有のやや白っぽく見える艦体の塗色」なるものの存在を云々することはできないのではないでしょうか。
ご承知のことと思いますが、写真から元の色を推測するのは極めて困難です。
「すべての写真が、明らかに異なる色で塗られている様に見える」ならともかく、数葉の写真を根拠に「塗色が異なっていた」「退色していた」と考えるのは些か早計ではないかと思われてなりません。
ずっきーに少尉
- >6
軍艦色と続称される日本海軍の外舷色、正称「鼠色」は明治以来海軍の文書として色調の規格が色黒の配合比として定められています。
これは確かに無彩色です。
片
- あ、という同じようなことをおっしゃってるのかな。
だとしたら、失礼いたしました。
片
- 3で出した「軍艦の塗装」には四工廠の調合標準が記載されています。
一例として横須賀工廠は
煮亜麻仁油2号:40%
テレメン油:3%
ドライヤー:2%
白亜鉛粉:53%
松煙:2%
となっています。
これは泉江三氏が海軍工廠の「塗料調合標準及使用区分表」から成分の調合標準を確認したものだそうです。
「軍艦の塗装」の一覧表を見ると横須賀、佐世保、舞鶴の各工廠は主要成分は同じですが配合比率が違い、呉工廠は成分に胡粉、生油が追加されています。
この事から「工廠色」は間違いなく存在するものと思われます。
薩摩
- >10
「塗料調合標準及使用区分表」という文書はどのような種類のものなのでしょうか。工廠ごとに別個に定められる性質のものなのでしょうか。
便乗質問になり恐縮ですが、ご教示いただけましたら幸いです。
ずっきーに少尉
- >>11
前者については判りませんが、後者については「軍艦の塗装」を見る限りでは各海軍工廠ごとに「塗料調合標準及使用区分表」が定められていたようです。
10で書きこんだ横須賀工廠のものはあくまでも横須賀工廠の標準であり、他の海軍工廠では別の調合標準が定められているのは前述した通りです。
私は所持していないのですが、この塗装に関する泉江三氏の記事が掲載されたのは世界の艦船1980年5月号との事です。
薩摩
- >12
該当号の雑誌を持っておりましたので、調べてみましたところ、氏が1969年5月に中国塗料に依頼して作成したものをカラー印刷した「旧日本海軍艦艇の外舷塗料色調見本(鼠色)」なるものが16ページに掲載されていました。これで見る限り、佐世保>横須賀>呉>舞鶴の順に色調は淡くなっており、一番濃い佐世保と、一番薄い舞鶴では随分と違いがあります。
また、適当に写真撮影をして任意の一点を調べてみたところ、横須賀が#8b8b92、呉が#808185、舞鶴が#abacb1、佐世保が#585358という数値が出ました。もちろん、撮影はかなり適当に行っており、印刷を忠実に表しているものではありませんし、その一点も平均的なものではないと思われます。したがって、お持ちの方が比較すると、全然、違うではないかといわれそうですが、色調の差異がこんなにも違うのかと感じてもらうために、参考までに記させて戴きました。
hush
- 白と黒の顔料を調色、塗装してみると実感できるのですが
「ギョッとするほど青味がかって見える鼠色」になります。
青い顔料は「1滴も」使っていないにも関わらずです。
また、実際にその塗装片を横須賀の護衛艦と突き合わせてみるとほぼ同系色な
ことも判ります。濃淡に差はあるにしても。
この「青味がかった鼠色」に茶系色、緑系色などを加え、青味を調整、濁らせ
ると「軍艦色」に近くなっていきます。
試行錯誤の上の「創作物」としたのはこれが理由です。
「軍艦の塗装」も所持していますが、それとは別の昭和9年中央?の組成表でも
1号,2号白亜鉛、煮荏油を主成分に重量比で数%の黒顔料の松煙粉を加えた鼠色
塗具の記載があります。
溶剤に使っている煮荏油は黄色らしい(現在流通しているもの)のですが
「塗膜に光沢をもたせるために白色塗具に加える」とのことなのでそれほど
色味が強い訳でもなさそうです。
明治時代から基本変わっていない「外舷色」はこの白と黒の顔料からなる
「青味がかった鼠色」なのだと思います。
現代の感覚では「白3、黒1」で妙に納得してしまいますが旧海軍の組成表では
黒顔料松煙粉の割合は重量比で数%に過ぎません。
顔料同士の力関係?で変わるのでしょうけど本当に品質管理出来ていたのか
疑問です。濃淡にはかなり誤差の幅もあったと思います。
品質管理されているはずの現用艦でさえバラつきが見られますし。
「工廠色」にしても組成の数値が独自のもの、伝統のものなのかその購入した
塗料材料に対して中央からだされた数値なのかもしれませんし、同一年度なり
会計なりの数字で比較しなければならいのではとも。
P.D