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以前、ご老人からこんな話を聞きました。 『戦艦大和が出撃するに当たって、関門海峡を通過するのを目撃した。他の人たちもみんな見た。』 当時ご老人は4〜5歳であったそうですが、私にはどうもこの話は信じられません。本当にこんな事があったのでしょうか?。彼の言葉が真実なのか、単なる何かの思い違いなのか、あれからもう何年も過ぎ去った今でも気になってます。 piyo |
- 関門海峡は1945年3月27日にB-29が機雷封鎖し、以後大型艦艇の通行はありません。大和の出撃は4月6日で、それ以前と同様豊後水道からです。
一番それらしいのは、1945年2月20日にシンガポールから帰ってきた戦艦伊勢と日向が、外海から瀬戸内海向きに通過しています。 伊勢と日向は戦前によく知られた艦容(砲塔6基)から航空戦艦に姿が変わっていて、見たことのない戦艦は、新型戦艦だということになったのでは。
3月26日に、沖縄戦に向け大和(第一遊撃部隊)は呉から佐世保に前進・待機という命令が出ていて、このあたりの話が混ざって伝わったのではと思います。
他にその頃関門海峡を通った戦艦というと、1944年12月12日に戦艦榛名が佐世保から呉へ関門海峡を抜けています。
IWA
- IWA様、丁寧な回答を有難う御座います。武蔵の可能性も捨て切れないでいたのですが、やはり他の船だった様ですね。いずれにしても関門海峡を目近に通過するその姿は、まるで山のごとく偉大だったそうです。幼い少年の目には、強烈にその姿が焼き付けられたのでしょう。
piyo
- >1に関連して。
3月28日、呉出港後佐世保へ回航中、米軍機の南九州空襲により断念したとの記述を見た記憶があります。
そこで
実際にそういう行動はあったのか?
その場合関門海峡経由という予定だったのか?
関門海峡通過後引き返したということは無かったのか?
可能性は少ないとは思いますが、識者の方のご教示を御願いします
わんために
- JACAR http://www.jacar.go.jp/ 参照ください。
レファレンスコード C08030103100
第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報「天一号作戦海上特攻隊戦闘詳報」
1945年3月27日 4/60ページ、3月28日 5/60ページ
1YB:第一遊撃部隊(大和)
2SD:第二水雷戦隊(矢矧、響、霞、磯風、雪風、浜風、朝霜、冬月、涼月)
31S:第三十一戦隊(花月、榧、槙)
d:駆逐艦
IWA
- >4. 2SDは、d×9でした。上で抜かした^^;)のは、初霜です。
その他の略号
GF:連合艦隊、2F:第二艦隊、KdB:機動部隊、B:戦艦
IWA