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96艦戦や97式戦は日米開戦時にはすでに一線級ではなかったと思いますが、F4FやP40を撃墜した例はあるのでしょうか? かめ |
- 九七戦は哀しいかな、開戦時の主力戦闘機ですからP-40との戦闘記録はありますよ。撃墜報告や戦術についての報告も残されています。九六戦も基地防空や哨戒任務で前線に出ています。
BUN
- 九七戦を高等練習機化した二式高等練習機という機体がありますが、昭和20年2月16日にF6Fを撃墜したとWikipediaに書かれています
脚注から引用
光人社NF文庫 九九式襲撃機ラバウル空戦録 P149 長機の大石中尉が被弾して戦場を離脱すると、森脇伍長は単機で雲底にへばりつき、下方を突き抜ける敵編隊の最後尾機に上方から垂直降下をおこない、射程距離百メートルで一撃をあびせかけた。彼が撃墜したグラマンの残骸を見ると、エンジン上部から操縦席にかけて七・七ミリ機銃弾の弾痕が十数発も確認された
ガス欠
- BUN様 そうか、97式戦は開戦時には数の上では主力ですよね。カタログスペックではどうやってもP-40には勝てない気がしますが、97式戦側からはP-40と戦うにあたってどのような戦術をとるべきだとされていたのでしょうか。
ガス欠様 立ち向かうだけでもハードルが高いのに、F4FどころかF6Fを墜とした例があるのですね。
お二方、ご回答ありがとうございました。
かめ
- 編隊戦法を徹底し、数で押し包んで戦うことが推奨されてはいましたが、こうした戦い方もそれを報告した各戦隊が「必勝の信念は揺らがないが」と前置きしてのものですから、実際にはかなりの苦戦だったようですね。
二式単高とF6Fとの空戦は昭和19年10月にルソン島で発生していますが、撃墜戦果はありません。二式単高は一挺の機関銃しか装備していないため、三機が密集編隊を組み、三挺の機関銃を集中して敵機に対処するなど苦しい対策が採られてはいますが、二式単高を装備していたのは基礎訓練中の操縦者を集めた教育飛行隊ですから、徹底して邀撃戦を戦った訳でもなく、隊員の多くは台湾に後退しています。
BUN
- BUN様、重ね重ね 丁寧なご回答ありがとうございました。双方のスペックの詳細が分かっている今だから言えることですが、これらの機材で立ち向かった当時のパイロットの戦意と勇気には言葉がありません。
かめ
- 出典がわかったので追記します
昭和49年「丸」10月号 されどわが愛機恥ずることなかれ 海法秀一
光人社NF文庫 九九式襲撃機ラバウル空戦録 内のP89〜P173に収録されています
千葉県横芝の第三十九教育飛行隊、機種は
九七戦、二式高練 約40機
隼2型、飛燕1乙型、九七式高練、各2〜3機(迎撃用)
中隊付先任教官の升沢正利准尉(下士学生67期)
助教の森脇公之伍長(少年飛行兵13期)
この2人が昭和20年2月16日の迎撃戦で別々にグラマンを撃墜したと書かれています
森脇伍長は二式高練、升沢准尉の乗機は不明ですが
優位にいるグラマン4機を相手に全弾撃たせて弾切れにし、引き上げる敵の最後尾機を撃墜したそうです
ガス欠
- ガス欠様、追加の情報ありがとうございます。
かめ