1000  後知恵の結果論ですが中翼の紫電を開発せず、強風からすぐに低翼の紫電改を開発することはできなかったのでしょうか?
 
じぱんぐ

  1. その場合、紫電改が紫電になって、ネームミングとしての紫電改が誕生しなかったことになりますが、それでもいいんですか?
    トキ

  2. 雷電二一型、三一型、三三型が雷電改と呼ばれていたようです。
    仮に紫電が最初から低翼で開発されたとしても、その後のタイプで紫電改と呼ばれるものが出てくる可能性はあると思います。
    ただし雷電のように、戦後「〜改」の名称が定着しないかも知れませんね。
    mikey

  3. 中翼紫電と17試陸戦の研究結果を経ずに水上戦闘機強風から一気に開発された低翼紫電が史実の紫電改とどう違うのか私は気になりますね。
    ぶちゃー

  4. 世傑の受け売りですが。
    強風→紫電→紫電改のステップがあったからこそ川西が堂々と陸上戦闘機を作る事ができる状況になったのではないでしょうか。

    紫電改はほとんど再設計されていますし、紫電の開発中には既に紫電改の構想はまとまっていた様に感じられますが、紫電をそれなりの形にまとめたからこそ紫電改というものを開発すると、川西の立場から言えたのかなと。
    さわりんX

  5. 17試陸戦が川西に発注されているわけですから「川西が堂々と陸上戦闘機を作る事ができる状況」という表現は賛同できません。
    ぶちゃー

  6. 世傑の受け売りですが。
    強風→紫電→紫電改のステップがあったからこそ川西が堂々と陸上戦闘機を作る事ができる状況になったのではないでしょうか。

    紫電改はほとんど再設計されていますし、紫電の開発中には既に紫電改の構想はまとまっていた様に感じられますが、紫電をそれなりの形にまとめたからこそ紫電改というものを開発すると、川西の立場から言えたのかなと。
    さわりんX

  7. #6は再読込した時のエラーです。お手数ですが削除してください>管理人様
    さわりんX

  8. 川西に生産が割り当てられていたのは、元々は飛行艇と水偵であり、これは昭和13年11月の生産能力第一次拡充示達の中身に見ることができます。
    14年6月の実用機試製計画では、これに高速水偵と水戦が割り込んで来ていて、この時期には川西に小型高速機を作らせる意図が明示されるようになっています。
    仮称一号局戦成立後の17年6月実計では川西への試製割り当て機種は一変していて、局戦、遠戦、中攻といった陸上機の中核機種に主軸がすっかり移行しています。これは十七試陸戦設計着手より早い時期にあたります。また同年8月の第三次生産能力拡充示達の内容も小型機生産額の3/4以上が陸上機(陸戦)で考えられています。

    強風、紫電改にはある種瀬踏みとしての意味合いはあったのだろうとはたしかに思いますが、「川西の立場からいう、いわない」ということとは関係なく、初段が突破できさえすれば、もっとも海軍の息が濃くかかった機体メーカーである川西になし崩し的に陸戦を生産させる腹積もりがむしろ海軍の方に存在していたのでした。





  9. ×強風、紫電改にはある種瀬踏みとしての意味合い
    ○強風、紫電にはある種瀬踏みとしての意味合い

    でした。すみません。


  10. もともとのお題に戻って「中翼の紫電を開発せず、強風からすぐに低翼の紫電改を開発することはできなかったか」ということですが、これは火星に代わる小直径大馬力発動機の早期の登場が要素として必要になる話なのかもしれませんね。


  11. 興味本位の質問で申し訳ありませんが、強風からフロートを取り去ったときの最高速度、計算値でもどなたかお持ちではありませんか。
    とおり


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