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戦後、航空機で復員をされたという話を聞きました。 復員の際の方法と復員先基地での手続き その後の航空機がどうなったのか教えて下さい。 鶉野 |
- 私もその手の話を聞いたことがありますので非常に興味深いです。
私が聞いたのは今から30年ほど前に当時60代と思しき知り合いからでした。
その知り合い曰く「終戦後南方から自分で操縦して島つたいに本土まで帰ってきた。」と言う様なお話でした。
そんな話が現実にあったのかどうかも今となっては知る由もありませんが、
実際のところ技術的な問題であるとか、燃料などの補給は?また当時の国際法上?不可能なように思うのですが、どうなのかご教示お願いします。
通りがかり
- 復員の定義如何ですが、満州にあった飛行機や要人の帰国のために派遣された飛行機で、あるいはその飛行機に力ずくで乗り込んで復員した方は何名かいらっしゃる様です。例えば、草地貞吾著「将軍32人の風貌姿勢」等にも記載されています。
UK
- 回答有り難う御座います。
特に日本国内(現国土)での出来事を
知りたく思っております。
鶉野
- 公式には8月19日付で以下の通りです。
一、 海軍総司令長官ハ指揮下航空機ノ飛行ニ関シ左記制限ヲ行フベシ
記
(一) 八月二十二日零時以後已ムヲ得ザル輸送以外ノ飛行ヲ禁止ス
(二) 八月二十四日一八〇〇以後一切ノ飛行ヲ禁止ス
二、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム
これは大海令第四十九号で8月22日午前零時以降「一切ノ戦闘行為ヲ停止」を発令したのに伴う措置です。
陸軍も同様なはずです。
ただし、8月24日付で、
一、 海軍総司令長官ハ大海令第五十一号所定ニ拘ハラズ終戦用務遂行上特ニ必要ナル場合ハ連絡輸送用トシテ指揮下航空機ノ一部ヲ使用スルモノトス
二、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム
と補足されています。
しかしながら、ここで飛行が再開される可能性が出たのは中央の許可を得た終戦連絡用の機体のみです。
それ以外、個人の復員のために飛行機に乗る、飛ばす、というのは軍法の外のこと、勝手にやっているだけのことになります。したがって、「復員先の基地での手続き」なども特にはなかったのではないかと思います。
いずれにしても、とある基地に飛行機が存在していれば、それは連合軍への引渡の対象になります。
片
- なるほど。
ご丁寧に有り難う御座います。
復員先が遠方の場合はどこかの基地で
給油してから目的地の基地へ向かいましたか?
また連絡、申請をせずに隠密の飛行でしたら飛行場外に
着陸をしていたとかは有りますかね?
鶉野
- いずれにしても、ほとんどは米軍の進駐が始まる前のことだったのではないかと思います。
違法であっても、それほど咎める人も存在していなかったのではないかと。
たぶん、基地員もなあなあで面倒見てくれたのではないかと思います。
片
- やっぱりそうですか。
早速に御回答有り難う御座いました。
鶉野
- 既に占領をされている外地から日本国内の
侵入は色々と問題が有りそうですが
米軍進駐前の国内間移動は案外と戦後の混乱でラフだったんですね。
鶉野
- 25年ほど前に亡くなった祖母から聞いた話なのですが、終戦直後に松山市市内を流れる石手川に日本軍の飛行機が墜落して大騒ぎになったことがあるそうです。飛行機の中には操縦していたパイロットとその奥様の二人が乗っていたそうで、ほとんど怪我もなく無事だったそうです。祖母が言うには「飛行機に乗って夫婦で無事に逃げて来たのでは?」というような感じの話でした。質問者様の質問の内容を見て祖母の話を思い出しましたので、書かせていただきました。
camomania
- 有難うございます。
無事で良かったです。
最後の記念飛行中の事故でしょうか。
もしくはいずれかの基地からの移動でしょうか。
いずれにしても旧軍の基地の方はおおらかな理解の有る
方が多かったという事が想像出来ます。
鶉野
- パイロットの奥様とは話が整合しませんが
終戦後に下記のような情報を元に8月16日
出撃。一機はエンジン不調により
由良湾内に不時着と有ります。当時域内に
有ったいずれかの基地から出撃された
航空機だったのでしょうか。
http://www.naniwa-navy.com/senki-raiden-hayasi.html
鶉野
- 332空、そして引渡目録の機種、機数と近いので鳴尾基地ではないでしょうか。
BUN
- 有難うございます。
鶉野