976 |
974の質問を見て疑問が湧いたのですが、そもそも軍部や飛行機メーカーは何を根拠に、富嶽は開発可能と判断したのでしょうか?私みたいに後付けで見るとかなり無茶な計画と思えるのですが?この計画に携わった軍人、技術者の中にも「こんな機体作れるわけねーじゃん!しかし上司あるいは上官がうるさくって…」という人もかなり居たと思うのですが… まさのり |
- もちろん、提案者中島知久平自身も根拠を携えた上で関係者を説得しようと、事前に自社内で計算をさせて臨んでいます。しかしながら、中島が求めたような性能が実現できる根拠は見いだせず、説明を受けた軍令部も「新工夫なし」「唯大きいだけ」と受け止め、乗り気を示すに至っていません。
それが、テーブルに乗るに至ったのは、ひとえに中島知久平が政治力と押しの強さにものをいわせたからだったというしかないところです。
片
- 富嶽委員会が設けられた背景には、現実にアメリカが試作しているB-36というタイプシップの存在があります。
この点で富嶽は夢想の産物ではなく、現実に敵が持ちつつある兵器への対抗手段としてリアリティがあったのです。目標が敵国の試作兵器として存在するのですから技術者も軍人も「できない」と言えば自ら負けを認めることになりかねません。
いずれは持たねばならない兵器であるけれども、果たしてそれが合理的に実現できるか、中島知久平が説くような全航空工業の富嶽への動員が可能かどうか、あるいは計画を実現可能な形に縮小するにはどの程度変更すればよいか、といった問題を検討したのが富嶽委員会です。
そしておっしゃるように「こんな機体作れるわけねーじゃん!」と言い、中島に説得されなかった人物の代表が初代の軍需大臣である東条英機です。
そして東条失脚後にB-29の空襲が開始されると「だから言ったではないか」と批判を開始して富嶽復活を説き始めた中島は終戦時に最後の軍需大臣に就任しています。それは富嶽計画を説いても気ちがい扱いはされていなかった事を示しています。
BUN
- 片さん、BUNさん回答ありがとうございます。検索してみるとヤフー知恵袋でも同じような質問がありました。盛り上がってたのは中島知久平氏周辺で、軍部は富嶽よりも「深山」「連山」を何とかしたいというのが本音だったみたいですね
まさのり
- 初期に携わっていた中島の設計技師など知久平の奇戦術の方に幻惑されてしまった部分があるようで、爆弾10トン搭載機は可能、ただし中高度・短い航続距離でなら、といっては、軍令部側から、いや、それは話が逆で爆弾その半分でいいから高高度・大航続力の機体が得られなくては、と返されてしまっています。
軍令部の方では目的の把握はしっかりしていたようです。
ただ、その目的に照らすなら、大きさでB-36い対抗するのはやめた方が良いようにも思われていたのではないかと思います。
そうした文脈から軍需省のTBプランなども出てきたのではないでしょうか。
片
- 富嶽計画を葬った最大の敵は軍需省だと言えます。
戦闘機超重点主義を掲げる首相兼任の軍需大臣東条英機と航空兵器総局長官遠藤三郎中将によって昭和19年度の航空機大増産計画の支障となると考えられた超大型爆撃機計画が中止に追い込まれたというのが大まかな流れです。
富嶽の物語の中で添え物的に登場する軍需省案、川西案(TB)と呼ばれる計画は富嶽計画にぶつけるために東大航空研の研究を利用して立案されたより簡易な爆撃機計画という性格があります。
ですからTBの図面を見ると、まるで航研機を拡大したグライダーに毛の生えたような大型機であることがわかります。実現する可能性は高くても、実用性では問題にならない計画であるとも言えます。
こうした状況で軍需省から相手にされず、その上、構想の本質から遠い対抗馬をぶつけられ、具体的な進展が無いまま富嶽委員会は活動を停止してしまうのです。
そして海軍としては深山はとうに諦めていましたし連山は既存の試作計画に乗っている機種ですから、これが富嶽と対立するとは考えていません。富嶽によって圧迫されるのはそれよりずっと小型の海軍爆撃機計画ではなくて、陸海軍の航空機生産そのもので、生産計画の大幅な修正と新しい動員体制を要求する一つの改革が富嶽計画だったとも言えます。
そして中島知久平にしても、富嶽を1000機、2000機揃えることが本当に可能だと思っていたのかどうか、再考すべき点があります。構想当初の「必勝戦策」の中でさえ、現実的なのは400〜500機程度と踏んでいたらしいことも窺えるからです。
BUN