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5077 B29の出現は、早くから日本でも予想されていて、それに対抗するため高高度で運用できる迎撃戦闘機を開発していたと聞いていますが、こういうアメリカの開発情報はどのようなルートで得ていたのでしょうか。ホーカータイフーンの完成予想図は航空雑誌に出ていたようですが、出版物から得ていたのでしょうか。それともいわゆる秘密情報員からもたらされたのでしょうか。 
K.M

  1.  昭和17年12月の「週報」にはB−29爆撃機の記事が掲載されたそうで、翌年に「航空アサヒ」などにB−29やP−51の写真掲載されているそうです。
     これは、米英側は、国民に政府の軍事政策の努力をある程度公表して、理解を得ることと、予め大量配備予定の兵器は公表して、味方の兵士に予備知識を与え、配備してもすぐに使える心積りと、味方撃ちの誤射を防ぐ目的があったからです。
     そのため、雑誌、新聞等で公表された記事・写真が第3国(スイス・スウェーデン・スペイン)に輸出され、そこの外交官や駐在武官が入手して、潜水艦やシベリア鉄道を利用して陸軍技術本部(のちの陸軍行政本部)もしくは陸軍航空本部にて収集していました。
     資料の出展は、陸戦研究平成8年7月号掲載記事「太平洋戦争期の日本軍の情報収集と調査研究(副題:米議会図書館所蔵旧陸海軍資料を中心にみて)」より
    魂コレクター

  2. B−29という新爆撃機の試製計画がある、ということは、すでに戦前の段階で日本側に把握されていました。これは当時の米国での報道によるものと思われます。
    17年秋に実機が完成すると、徐々に情報が中立国経由で日本に伝わり始め、同じく中立国を通じてもたらされたシアトルでの試作機墜落事故報道で実機の存在が確実になります。この時点より日本側はB−29対策を本格化させてゆきます。まず、B−17のデータを元にその後継機の予想性能推測が行われ、随時中立国経由で入手される情報を元に精度向上がはかられた、といいます。




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