だってしょうがないじゃない
−スウェーデン空軍戦闘機開発の歴史−


文:まなかじ
ZUN01214@nifty.ne.jp







 北欧の永世中立国、スウェーデン。
 しかし、この国は、税金が高い高度福祉国家、金髪おねえさんの無修正画像国家、装甲車並みの頑丈自動車国家という側面以外にも、非常に高い軍事力を誇る高度国防国家でもあることを忘れてはいけない。
 ボフォーズ、ランズベルグ、サーブ、ボルボ…いずれも高度な兵器産業企業を擁し、陸戦兵器、潜水艦、電子兵器、そして航空兵器に独自独得の優れたものを開発生産装備する能力を保持しつづけている。
 今回は、その中でも戦闘機開発の足跡を探ってみよう。


黎明期


 第一次世界大戦前に航空機産業は2社あった。
 しかし、飛行機キチが趣味と道楽で作った会社であった。社とも第一次大戦中に倒産したが、その理由は、どちらの社長も、趣味で飛行機を飛ばしているうちに墜落死を遂げてしまい、あとを継ごうという物好きはどちらにも現われなかったせいである。
 第一次大戦中に陸軍航空機工廠(後のFFVS)が開設されたので、航空の灯はかろうじて消えずに済んだが、さもなければスウェーデン空軍の歴史はずっと遅れて始まったかもしれない。
 第一次大戦にも中立を守ったスウェーデンは、大戦中からの好景気に乗って空軍を独立させた。
 とはいっても、貧乏国にして永世中立国たるスウェーデンであるから、好景気といってもたかが知れており、予算は微々たるものであったが。
 それに伴い、国内の航空機会社もいくつか開業しだしたところで、世界不況を迎える。


初めは、あまりしょうがなくも…ないかもしれない
(スベンスカ/ASJA J6「ヤクトファルク」)


 それまで、ろくな飛行機を作ってこなかったスウェーデンの、初めての自国開発の制式戦闘機が、J6「ヤクトファルク」である。なにしろ名前が勇ましいので、筆者の好みである。
 …勇ましいのは名前だけで、外見は平凡で冴えない単張間の複葉機である。
 同時代機でも、ポーランドのP.Z.L P.7 やフランスのニューポール・ドラージュ、リオレ・グールドゥ・ルスール、日本の九一戦(フランス人設計だが…)、イギリスでもホーカー・フューリあたりに比べると、まったく垢抜けない。
 1928年の設計で、新進のスベンスカ・アエロ社は、自主開発の設計を空軍に持ち込んだのである。当時としては悪くない出来であったので、とりあえず原型機2機の契約を交わした。この原型機はアームストロング・シドレーのジャガー465馬力エンジンを装備している以外は量産機とまったく同一である。
 この原型機は好調であったが、ジャガーの複列14気筒の複雑さを嫌った空軍は、更にブリストル・ジュピター500馬力装備の増加試作機2機を発注。
 この増加試作機と、1931年にイギリスから買ったブリストル・ブルドッグMk.IIAを比較した結果、なんと国産ヤクトファルクの方が性能がいいようなので1934年になってヤクトファルク12機の「量産」を発注することになる。
 なんだかずいぶん手間取っているようだが、1931年にブルドッグを12機買ってすっからかんになったあと、一年間貯金してホーカー・ハート軽爆を購入、その次の年度になってようやく発注ができたという、空軍の貧乏さ加減のせいである。
 量産機は増加試作機とまったく内容は同一のもので、事実増加試作機もそのまま部隊配備についている。
 しかし、この手間取りが仇になったのか、世界恐慌のせいなのか、空軍の払いが遅れたか、はたまた値切りすぎたのか、スベンスカ社は空軍の主力戦闘機を受注して量産に励んでいるその真っ最中に不渡りを出し、8機を納入したところでパッタリと倒産してしまう。
 残りの4機に、追加の3機を加えた7機は、生産を肩代わりしたASJA社が製作した。
 これで、J6、J6A、J6Bというサブタイプがありながら、どれもまったく同じものという謎が解けるわけなのだ。J6は増加試作の2機。J6Aはスベンスカ製の量産機。J6BはASJA製の量産機。ということなのである。
 ヤクトファルクは長生きをした。
 1936年には、むき出しだったエンジンにNACAカウリングをとりつけてみた。
 1939年、ソ芬戦争(冬戦争)でスウェーデンが義勇飛行隊を出したときには、本土防空部隊として居残ったが、これは単純に低性能で役に立ちそうもなかったからであり、精鋭だったからではない。(もっとも、1940年(冬戦争中)にフィンランドにJ6Bの3機が練習機として引き渡され、ヤクトファルケンIIの名で1945年まで在籍していた。)
 それでも、1941年にレッジャーネRe2000(J20)と交代して練習機に格下げされるまで、都合7年間にわたってスウェーデンの空の護りとして任務につき、更に1944年まで練習機を勤めたので、10年間もの間スウェーデン空軍に就役していたことになる。
 木金合製の羽布張り機としては異常な長命というべきで、1944年当時にはあちこち修理を重ねて、ほとんど作りなおしも同然になっていたものと想像される。


頭文字はL(サーブL-12(J19))


 Lはサーブ社リンチョーピン工場の頭文字である。
 1937年に新設されたこのリンチョーピン工場では、アメリカから招聘した47名の技術者たちによって新型軍用機の開発が行われていた。
 しかし、1939年になって欧州に戦雲が動くと、アメリカ人たちは、びびってしまったり、出向元の会社から呼び戻しを受けたりでみんな本国へ帰ってしまい、冬戦争が始まるころにはひとりもいなくなってしまっていた。根性のない四十七士ではある。
 開発が進んでいたL-10ことサーブB17はそのまま完成した。このL-10を作っておいたことは、後でいいこと(?)になって返ってくる。
 L-11は、アメリカ人たちの原案では三車輪式のB-25かA-20風の双発爆撃機だったが、スウェーデン人は全面的に作りなおしてサーブB18としてまとめあげた。
 では、L-12はどうなったのか?
 ブリストル・トーラス装備で、零戦によく似たシルエットの単座単発戦闘機だったが、スウェーデン人の独力では、B18の製作で手一杯であり、計画中止になってしまったのである。
 なに、セバスキーEP-106が入ってくるから大丈夫さ、現にもう部隊配備に入ってるじゃないか。
 と思っていたのが大間違い…。
 このL-12を中止してしまったことは、後でたいへんなことになって返ってくる。


ハーフタイム(外国製機)


 ブリストル・ブルドッグMk.IIA(J4)

 このスウェーデンのブルドッグはエアフィックスのキットの箱絵を飾ったこともあり、けっこう有名である。しかし、こちらは次期主力戦闘機たるグロスター・グラジェーターの配備と同時に練習機に格下げになり、1940年中には戦闘機隊から引退している。

 グロスター・グラジェーター(J8)

 こちらは、なんと55機を装備し、スウェーデンは英国に次ぐ規模のグラジェーターカストマーであった。
 1937年にMk.Iを購入。
 冬戦争では義勇飛行隊(F-19戦隊)として常時8機が戦場にあり、延べ17機が参加し、3機を失ったが、1機は事故で失われたので、2ヶ月の空中戦で失ったのは2機である。
 この事故というのは、急降下中に舵が利かなくなるという欠点があるようなので、それを調査しようと急降下試験をやってみたところ、機首前方から『衝撃降下90度』さながらに空中分解を起こして、操縦者もろとも墜落したというものである。
 喪失機が少ないのは、戦線北方の比較的ひまな戦区で、2機一組になって凍った湖を転々としながら戦ったせいであろう。

 セバスキーEP-106(J9)

 1939年6月29日に15機を発注。10月になって45機を追加し、1940年1月5日に更に60機を追加して、合計120機を発注することになる。
 EP-106はEP-1(P-35)のスウェーデン向けの特製で、機首の機銃を12.7mm2挺、主翼に7.7o2挺に武装強化、能書きを全てスウェーデン語としたバージョンである。
 しかし、本機は半分の60機が納入されたところで、アメリカに輸出をストップさせられてしまう。
 60機のEP-106はP-35Aの制式名称をもらって米陸軍航空隊に就役したが、なにしろ能書きが(マニュアルから機体の指示書まで)ぜーんぶスウェーデン語なので、米軍整備兵は非常な苦労を強いられたという。
 20機は真珠湾のヒッカムに送られ、40機はフィリピンのクラークに送られた。
 そして、真珠湾では第一機動部隊に散々に叩かれた。フィリピンでは三空、台南空の零戦と四日間戦って8機しか残らなかった。
 また、これの複座型みたいな2PAも50機注文して2機しか届かず、ヴァルティ48Cヴァンガードに至っては144機の注文がまるまるキャンセルになってしまった。
 イギリスにしか兵器輸出はしませんという武器貸与法の条項に引っかかったため、といわれているが、これは要するにスウェーデン系のロビイストの力不足に帰せられるべきだろう。
 EP-106(P-35A)はそれでも米陸軍が装備したが、ヴァンガードは法改正により後に128機が中華民国へ送られている。
 中立国に送ってもあんまり意味がないと思われたのだろうが、そこを納得させるのがロビイストの腕というものである。現に中華民国空軍に行ったヴァンガードにせよランサーにせよ、活動は不活発で、たいしたことはしていない。たいした事をしていれば、この2機種はもっと日本人に知られているはずである。


あああ、たいへんだぁ(緊急的買出し)


 こうして、頼りのアメリカ製戦闘機合計250機あまりが一挙にキャンセルになってしまったスウェーデン空軍は真っ青になってしまった。
 もちろん、もはやイギリスはドイツとの戦争で必死であり、アメリカの援助でようやく持っている状態で、戦闘機を売るどころではない。
 オランダやフランスは既に地図からなくなってしまっている。
 ドイツも、ドルニエDo215爆撃機をキャンセルしてスウェーデンから取り上げてしまっているくらいであり、しかも下手をうてばこれから踏み潰しちゃおうかなぁ〜とか思ってる国に戦闘機を売るわけもない。
 ソ連は当然論外である。なにしろ、スウェーデンは王国なのである。
 それでも、まだソ連空軍にさえ配備されていない(!)最新鋭のYak-7BことYak-9を第三国経由で手に入れようとしたフシがあるのだが、このころのソ連はI-152/153かI-16以外は輸出にまわしていないことがわかり、断念せざるを得なかったようである。
 信憑性は薄いが、なんと日本に対しA6M、すなわち零戦の引き合いがあり、日本も乗り気になったという話もある。これは、日本がスウェーデンまでの船便を確保できなかったために流れたというのだが…どこまで信じたものか眉唾な話ではある。
 零戦は1941年12月までに自国の第一線部隊の必要量をも満たし得なかったほどであり、とても輸出にまわす余裕などないはずである。
 …が、当時の日本の状況から見て、スウェーデンの持つ高品質鉄鉱石、あるいはニッケル、クロームといった鉱産資源はのどから手が出るほど欲しかったに違いないのである。日本側のデータで裏付けが取れないのが残念な話。
 こうして一流戦闘機が手に入らず、焦りに焦ったスウェーデンは、隣りのフィンランドにミルスキを買いに行こうとすらした。
 そう、ミルスキに装備予定のエンジンは、スウェーデンが供給する予定なのである。
 しかし、タンペレのVL工場は修理再生でこそ世界水準をはるかに超える能力を持っていたといわれるほどなのであるが、新規開発や改良というともうからきしで、フォッカーDXXIにツインワスプ・ジュニアを積んでパワーアップしたところ、なぜか性能が低下してしまったとか、ミルスキの試作機も外板は飛ぶわ安定性は悪いわで、とてもよそさまへ売るどころの騒ぎではない。
 イタリアに買い物に行った組は掘り出し物を見つけてきた。
 フィアットCR42を72機も売ってくれるというのである。もう、CR42といえばもうバリバリのイタリア空軍主力戦闘機(そうしたかったかどうかは別にして…)である。
 しかも、レッジャーネRe2000も、これまた60機も売ってくれるというのである。
 レッジャーネRe2000といえば、セバスキーに修行に出ていたレッジャーネのロンギ技師が設計したもので、すっかりセバスキーにかぶれて帰ってきたのか、ほとんどP-35の改良型といえる戦闘機であった。これで、ちょうどぴったりEP-106の穴を埋めることができるではないか。
 いやあ、ありがたい。しかも、支払いはクロームやニッケルとのバーター。物々交換である。外貨に乏しいスウェーデンとしては、これもありがたい。アメリカとの商談ともなれば、いつもニコニコ現金払いなのである。
 CR42はJ11の名で、Re2000はJ20の名で、それぞれスウェーデン空軍に就役した。

 しかし、ところで、イタリアはといえば、戦闘機の慢性的な不足にお悩みではなかったのだろうか?
 主力戦闘機の三本柱、CR42・MC200・MC202を合計しても4200機強にしかならない。これにG50を加えてもようやく5000機であり、いくら1943年までとはいえ、この四機種を合計しても、我が一式戦闘機隼にも足らない生産数である。
 ここからCR42を出し、貴重な資源と生産力を使ってわざわざRe2000を作るなど正気の沙汰とも思えないが、このへんがラテンなところなのだろう。
 ともかく、イタリアからの補給で一息つけそうなスウェーデンであった。


だってしょうがないじゃない(国産新戦闘機計画)


 しかし、予定では250機近い数が130機と半分になってしまい、しかもその半分はグラジェーターよりホンのちっとばかしましなだけの複葉戦闘機になってしまったので、戦力不足なことには変わりがない。
 しかも、CR42は在庫から出してきたのか早めに揃ったが、Re2000は作りながらであるので納入は遅れに遅れる。(それでも、既に北アフリカが相当にヤバくなっている1942年7月までかかって60機全機納入しているあたりが、ラテンである)
 こうなったら、やっぱり自分のところで戦闘機を作るに限る。
 大体、こんなに苦労せにゃあならんのは、そもそも外国から戦闘機を買っているからではないか。
 外国などあてにならない。ベルギーを見よ、ノルウェーを見よ、中立国は、自力で国を護らねばならないものなのだ。
 そうでもしないと、しょうがないじゃないか。
 という調子に悟りを開いてしまったスウェーデンは、自国製の本格的戦闘機の開発に手を染めることになる。
 ヤクトファルクは持ち込みの自主設計であった。今度は、国家的方針として、戦闘機を作るのである。
 計画は、二本立てである。
 一つは、性能重視の強力な重戦闘機。もう一つは、製作期間重視の急造軽戦闘機。
 軽戦闘機を全速で作りつつ、重戦闘機をじっくり作ろうというものである。
 前者は例のサーブ社リンチョーピン工場に、後者はFFVS(航空庁国立工場)に試作命令が出された。


世界最速!(FFVS J22)


 きりもよく、1941年1月1日に、ヴァルティに技術習得のために派遣されていた航空庁の技術者ルンドベリを主務設計者として計画のスタートが切られた。
 ヴァンガードは流産してしまったが、なんとなく二流メーカーに見られがちなヴァルティ社の技術力がそうバカにしたものではないことを、ルンドベリは証明するのである。
 もっとも、本人のセンスも非凡なものがあったのであろうけれども…。
 お隣りのミルスキと同じエンジンを装備するこの戦闘機は、これまたミルスキと同じように木と鋼鉄で造られることになった。スウェーデンではボーキサイトは出ないが、鉄は豊富だし、木材もまた豊富にあるからである。
 さて、このエンジン。プラット&ホイットニー・ツインワスプなのだが…正規のライセンスを得ていたわけではないのである。
 実は、L-10(サーブB17)を試作しているときに、こっそり図面を引き写しておいたのだ。
 早い話が盗作、海賊版(バイキング版?)である。
 スウェーデン名STWC3Gと称するこのエンジンは1065馬力を発揮する。当時スウェーデンが使える最強エンジンであり、B17、B18(初期型)、そしてJ22と、スウェーデン空軍の新型機は、こぞって海賊版のエンジンをつけて飛んでいたのである。
 1942年3月21日、待ちかねた国防省は原型の初飛行を待たずに60機の量産発注を行う。
 この冬、ドイツ軍は初めて陸戦での挫折を味わい、戦線は崩壊寸前にまで立ち至った。スウェーデンとしては、北方軍集団戦区が崩れ、フィンランドが崩れれば、最前線は自国国境となることを恐れたのである。
 更に半年、1942年9月1日、J22の原型機は完成し、直ちに試験飛行に取りかかった。
 お隣りのミルスキ1は救い難い欠陥機であったが、ルンドベリ技師のアメリカ修行が効いたのかJ22には欠点らしい欠点はなく、操縦性も卓抜であり、それはおろか最大速度573km/hという値は1000馬力空冷星型エンジン装備の実用戦闘機としては、世界最速であった。
 先物買いの60機の博打は大成功を収め、12月に予定していたRe2000の追加発注を延期、イタリアが火の車になってそれどころでなくなったので、結局キャンセルすることにし、J22を追加することにした。
 狙いどおり、11ヶ月でJ22は完成し、戦力化は更に1943年11月を待つことになるが、とにかくスウェーデンは国産戦闘機で、東部戦線崩壊寸前に空の国防を固めることに成功した。
 フィンランドの国産戦闘機は間に合わなかった。ミルスキ2、フム、ピョレミルスキ、どれも1944年半ばを過ぎてしまった。だが、開発開始では遅れていたJ22は、間に合ったのである。
 1946年4月までに199機が生産された。


世界唯一!(サーブJ21)


 1941年3月19日、サーブ社は次期新型重戦闘機の開発依頼を受ける。
 サーブではウェンストレーム技師を主務としてこの計画に応ずることとした。
 ウェンストレーム技師は11日間でラフスケッチを決め、4月1日に国防省へ持ち込んだ。
 そこには、双胴単発推進式の機体が描かれていた。エイプリルフールで国防省の役人をかつぐつもりだったわけではなく、これで真面目にやろうというのである。
国運を賭ける重戦闘機にこんな風変わりな機体を提出されて、即認可を出した国防省の役人は褒められるべきだろう。
 というのは、早くも4ヶ月後には国防省は迷い始めたからである。
 だって、こんな形式の戦闘機で、今現在大戦争を戦ってる国はないではないか。
実際その通りで、アメリカ、日本、オランダ、ドイツでいろいろ試みられたが、どれ一つとしてものにならなかったのだが…。
 8月、国防省は不信任案を提出する。すなわち、通常形式の戦闘機をもう一つ試作せよ、との指示である。
 空気抵抗が最も少ないはずの双胴推進式J21への風当たりは強かった。
 実際、設計には問題が山積みであった。最大の問題は、ツインワスプの冷却をどうするか、であった。推進式の機体に空冷エンジンというのは、閃電や震電、キ−98などに見る如く、とても難しいのである。
 しかし、問題は解決の方向に向かう。
 1941年秋、スウェーデンはドイツにDB605Bのライセンス購入を打診する。頼みごとをするときは、相手の機嫌をよく見ること。基本である。
 ドイツは絶好調でモスクワへ進撃しているところであり、悪くない返事が返ってきた。
12月1日、J21と、新たに試作することになったJ23はDB605の装備を前提に設計をやり直すことになったが、
 まだドイツは認可を出していない。
 12月8日、ドイツ軍はモスクワ前面から退却を開始。スウェーデンはここでうるさく言うのは得策でないとみて、翌年の7月まで待った。そのぶん試作は遅れるが、ここはやむをえない。
 果たして、ブラウ作戦は絶好調、PQ-17は全滅、またまたドイツ空軍省はご機嫌となっていたので、ついにDB605Bの現物が届き、ライセンス生産権も買うことができた。こうなりゃ、こっちのものである。
 しかし、やはり射出座席など未経験な部分が多くて開発は難航、J23を中止してサーブ社の総力を傾けたものの、ようやく試作一号機の試験飛行にこぎつけたのは1943年6月13日となった。
 このときは、滑走中に首車輪ブレーキが加熱してぶっこわれてしまい、一同をひやひやさせたが、7月30日の仕切り直しでは見事な飛行っぷりをみせた。
 推進式の配置ゆえ地上でエンジンがオーバーヒートを起こしやすい(なにしろ、プロペラ後流がラジエータに当たらないので…)ことを除けば欠点はほとんどなく、J21もまた成功したのである。
 量産型J21A-2の部隊配備こそ1945年11月と、ヨーロッパ戦線はおろか、第二次世界大戦そのものがすっかり終わってしまってからのことになってしまったが、生産前型J21A-1の実験戦隊は1945年4月初旬に配置についており「一応」戦争中には間に合ったと言えなくもない。
 1948年までに299機が生産された。





 このような背景で、スウェーデン空軍は自国開発の大切さを骨身に染みて思い知らされることになった。
 1945年3月にはアメリカからP-51Dを破格値で50機買ったが、これとてもタイミングあってのことであり、いつもこううまく行くとは限らない。
 その後、イギリスからデハビランド・バンパイアを買ってジェット機の勉強をし、自国のJ21をジェット化したJ21-Rを開発。
 それからはJ29「トゥナン」、A32ランセン、つなぎとしてホーカー・ハンター(J34)を買ったが、J35ドラケン、J37ヴィゲン、JAS39グリペンと、一貫して正気とも思えない勢いであらゆる苦労をはね返しつつ、一級品の第一線軍用機を独自に開発しつづけている。
 この頑ななまでの姿勢には、すべて第二次大戦直前から直後にかけての苦労と、それを 何とかした自信とがない交ぜになっての伝統が活きている。
 スウェーデン人は、けっこう根に持つタイプなのである。


参考文献
文庫版航空戦史シリーズ13「北欧空戦史」・朝日ソノラマ
週間エアクラフト各号・同朋社出版
ミリタリーエアクラフト各号・デルタ出版
その他



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