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A6M様2017/10/18 [12時35分11秒]
 御指摘ありがとうございました。
 早速、訂正させて戴きました。


データーに誤りA6M2017/10/17 [12時50分52秒]
はじめして、「しらぬい」から「あさひ型」のところに飛んだところ
VLSが当初世艦などで言われていた16セルのままになっていました。公試の「あさひ」の画像から実際は32セルなのが確認できます。御確認くださいますよう御願い致します。


戦争の話でもしましょうか(2)2017/08/01 [20時28分29秒]
 父と一緒に入営した人の中に、沢村栄治がいたそうです。御存知の方も多いと思いますが、ジャイアンツのエースだった人です。彼が手榴弾を投げると、練兵場の塀の外まで飛んでいったと言っておりました。
 もっとも、彼はその手榴弾の多投で肩を壊し、1940年に満期除隊によりジャイアンツに復帰しますが、上手で投げることができなくなっており、横手投げの変化球主体の当主になっていたそうです。
 彼がそこまでして手榴弾を投げ続けたのは、入営の前年、日本が中国と戦争を始めたからです。ただ、私達の年代は日華事変と習ったように、日本政府は、戦争ではなく、事変だと主張しておりました。戦争と称すると、中立国、特にアメリカからの戦略物資の輸入が止まるからでした。
 そういう中で、当時の首都南京を日本軍が攻略します。この作戦に、私の母の長兄、私からいうと伯父が第16師団歩兵第38連隊の兵員として参加しています。この時、一発の銃弾が鉄兜を打ち抜きます。普通ならそれで死亡したところでしょうが、斜めに命中した銃弾は半周して、後方に抜けたそうです。このため、命は助かりました。
 もっとも、広島の陸軍病院に後送され、随分と長い期間入院していたようですが、慰問に来た同郷の娘さんと結婚し、私の従兄弟たちが生まれています。ただ、後遺症で、片耳は聞こえませんでした。


戦争の話でもしましょうか(1)2017/07/30 [07時40分01秒]
 父は1917年、元号でいうと、大正6年の生まれです。生きていれば100歳ということになります。
 山の中の寒村に生まれましたが、津の商業学校を卒業して山田(現在の伊勢市)で会社の会計をしていたようです。それが徴兵検査で合格したことにより、運命が大きく変わります。現役兵として、第16師団歩兵第33連隊に入営したからです。
 初年兵教育を受けた後、父は機関銃兵となります。前にも書いたことがありますが、20mmの機関銃弾が頭に当たったら頭が、腕に当たったら腕が飛んでいくと言っていました。
 実際、津市の塔世橋の旧橋には空襲時の弾痕が残っていましたが、欄干の鉄の部分さえもぎ取っています。これがB29のものでないとしたら、P51の銃撃によるものでしょうが、だとすれば20mmではなく、一回り小さい12.7mmなのですが。あと、JR阿漕駅前のロータリーには、銃撃の跡を残す憲兵隊の塀の一部が保存されていますが、拳が通るほどの大きさです。
 以前、沖縄で買ってきたアメリカ軍の20mm銃弾は親指ほどの大きさがありました。旧日本陸軍では11mm以上の口径のものは砲だったそうですが(海軍は40mm以上)、むべなるかなです。
 


殿様2016/05/22 [22時43分17秒]
 お久しぶりです。
 表紙の「最近の更新」欄に記入致しましたように、御依頼のリンク先変更のほうは概ね変更させて戴きました。
 あと少し残っておりますが、そちらも近日中に出来上がると思っております。
 なお、そちらの文章中に書いておられた常磐の件につきましても、一部訂正をさせて戴きました。
 いつも御教示戴きましてありがとうございます。
 末筆ではありますが、15万安打達成おめでとうございます。

 写真は、先に表紙に使ったバス停の待合室に転用された国道306号線沿いにある醤油の仕込み樽。
 この近くには踏み切りのある家もあって(もちろん線路などありませんが)、面白い田舎道です。
 


サイト移転のお知らせ大名死亡2016/05/22 [00時58分52秒]
ごぶさたしております。大名死亡でございます。
ニフティが @homepage を閉めるので、サイトを移転しました。
Naval Data Base の各所からリンクを貼っていただいていますが、大変お手数ですけれどもリンクの修正をお願いいたします。
新URLは
http://daimyoshibo.la.coocan.jp/ です。
よろしくお願いいたします。


愛宕(34):出雲(14)2015/01/31 [22時08分27秒]
 平安京に見られる条坊制、つまり、碁盤の目のような街路を採用した最初の都は、日本では藤原京(新益京)である。そして、ここに遷都したのは持統天皇だが、建設自体は、その前の天武天皇の時代に始まる。また、伊勢神宮も天武の時代に建設が始まり、持統の次の文武天皇の時代に完成したとされる。つまり、両者は同時代のものとなるわけであるが、伊勢神宮においては道を曲げ、藤原京では真直ぐに道をつけている。つまり、同時代のものでありながら、片方で破邪を行いながら、もう片方で行っていない。一応、藤原宮そのものは、高さ5mほどの塀で囲まれ、門が設けられていたが、都自体には城壁はなく、平城京、平安京に見られるような羅城門もなかった。それどころか、藤原京の発掘調査の結果、現在では藤原宮の南側に応天門と目すべき門はあったようだが、朱雀大路北端部にあるべき朱雀門はなかったとされる。
 したがって、伊勢神宮の蕃塀と同様、破邪のためともとれる門は宮殿にはあったが、それだけであり、しかも、直線道路であるため、悪霊がこれを突破した場合、直に天皇に向かうということになる。つまり、神を守ることはしても、天皇を守るためには、不充分なものであったということになる。しかし、天武は、柿本人麻呂によって「大君は神にしませば」、天皇は神でありますのでと詠われた人物である。これは、現人神というようなものではなく、歌の修辞ともいうべきものであるが、神にも比されたこの天皇を守るために、なぜ、道を曲げなかったのだろうか。
 藤原京の発掘調査によると、藤原宮の部分で通りの跡が発見されている。しかし、宮城の中に通りがあるというのは不自然である。また、その南にあった薬師寺の敷地でも、同様に、街路の跡が見つかっている。これは、最初に通りを造り、その後、宮殿や寺を建設した際にこれを廃し、埋め立てたということを示す。しかし、天武が薬師寺の造立を命じたのは、680年で、その2年後に着工、88年に伽藍が整い、98年、落慶となっている。これに対して、藤原京は90年着工、94年、遷都、704年に完成となっており、薬師寺のほうが先に着工されたばかりか、藤原京の着工以前に伽藍が整備されていたことになっている。したがって、これでは、薬師寺の敷地に通りが造られていたという事実に反するので、藤原京の実際の着工は676年であったということになっている。しかし、だとすれば、天武政権のごく初期であり、藤原京の造営には30年近い長年月を要したことになる。また、着工から遷都に至る期間だけを見ても、20年近い。
 平城京、長岡京、平安京の場合、実際の完成はともかく、着工から数年のうちに遷都していている。このことを考えると、これは、あまりに悠長な話である。もっとも、これら三都の場合、先行する都の資材を利用できた。たとえば、長岡京の場合、わずか十年間しか使用されなかったので、未完成で放棄されたと考えられていたが、発掘調査の結果、かなり完成したものであることが分かっている。これは、難波京等から運んだ宮殿を使用したからである。また、最近、奈良の平城京大極殿の復元が終わったが、再建にあたって、ほとんど資料がなかったという。ほとんどの建物が、平安京に移され、そこで火災等によって失われていたため、元の場所には、礎石か、柱穴しか残っていなかったからである。
 もっとも、藤原京は、寺院だけでなく、中心となる建物も、瓦葺きで、礎石に柱を載せる中国式で建てられた最初の都である。したがって、それまでの日本式の掘立柱、草葺き建築とは根本的に異なり、ほとんど新造であったはずである。特に問題だったのは、瓦で、200万枚が必要であったと試算されている。このため、畿内だけでは生産が追い付かず、海を越えた香川県でも、焼かれていたことが確認されている。したがって、既存の建築物を利用できた後の都と、同一尺度で考えることはできないが、それにしても、この差は大きい。ただ、通りが造られてから主要建築物が建てられたのなら、つまり、そういうものの配置が定まっていないうちに、とりあえず街路を整備したというような状況であったとしたら、理解できないでもない。しかし、そのような都市計画があっていいものだろうか。
 結果として、藤原宮は、大和三山の一つ、耳成山の真南、南東を天の香具山、南西を畝傍山に囲まれる場所に造られた。しかし、これは都の中央部である。これに対し、時の唐の都、長安は、前都、洛陽と同じく、都の北辺に宮殿を置いている。そして、長安の場合、宮城の南面に、細長い広場である中央通りを建設した。天子は南面するのだから、その北方に人が住むというのは、背後を脅かすことになり、不敬である。しかし、皇帝より北方の地を、すべて居住禁止というわけにはいかないので、城郭で範囲を限り、南側には、外来の客を驚かすために、広大な通りを造った。臣民はその広場に北面し、ひれ伏して皇帝を仰いだのである。すべては、皇帝の権力を他に見せつけるための、壮大な舞台装置であったのである。
 ところが、これにならったはずの藤原宮は、藤原京の中央部にあった。つまり、洛陽、長安とは、似て非なるものである。ただし、「周礼(しゅらい)」という中国の書には、都の中央部に宮殿を置けとあるので、藤原京は、同書、または、それを受け継いだ書に基づいて建設されたのかもしれない。しかし、この書の成立年代は、戦国時代であるとされる。つまり、紀元前である。何百年も前の中国の書物にならってはいけないとは言わないが、なぜ、天武は、同時代の唐の都にならわなかったのだろうか。しかも、この天武は、「日本書紀」に「能天文遁甲(天文遁甲を能くす)」、天文遁甲に優れていたと書かれた人物でもある。この天文遁甲は中国の占いのことであるが、推古朝に百済僧観勒が伝えてきたものである。このため、天武は中国通の天皇ということになっているのである。
 この時代、百済は滅亡し、白村江の戦いにより、日中間の関係は冷えていた。新羅とは、関係を改善できたので、こちらから伝わってきたものがあるかもしれないが、直接、中国の最新知識を得られる状況にはなかったのである。したがって、天武が中国にならった都を建設しようとした時、知識は、書物か、渡来人に頼るしかなかった。しかし、百済から大量の人々が日本に流れてきたはずではあるが、その中に、実際に都の建築に携わった人がどれだけいたのだろうかと思う。また、中国式の建築を建設した技術者はどれだけいたのだろうかと思う。
 藤原京の中央通りである朱雀大路は、他の通りと同じ広さで築かれているが、これは洛陽以前の方式であって(洛陽には、銅駝街と呼ばれる広い通りはあるが、これは明代のものである)、長安のそれとは違う。しかし、よしんば、長安の街路計画が耳に入っていたとしても、当時の日本人には理解できなかったのではないかと思う。中国の場合、皇帝は絶対的な権力者であるが、日本の場合、蘇我氏、物部氏をはじめとする豪族の連合国家でしかなかったからである。このため、天武は、大臣を皇族で占め、八色の姓を定めて臣下の上下を決め、律令制を導入しようとするともに、従来の大王(おおきみ)という名を、道教の神にちなんで天皇と改めさせたのである。したがって、藤原京の内裏の南側に朝堂があるので、天皇は南面はしていたようであるが、朱雀大路が、他の大路と同じ道幅で造られていたのは、このことを理解していなかったからである。つまり、条坊制を採用し、天子は南面すという形式はとっていたが、それだけであり、知識を得られなかったがゆえに、理解が深化していなかったということになる。これが、中国の都城を模してはみたが、結局、模しただけになった理由である。
 
 写真は藤原京から見た天の香具山。
 


愛宕(33):出雲(13)2015/01/28 [23時02分00秒]
 では、この他の神宮のすべてが、破邪のために直角に参道を曲げているかというと、よく分からないというのが正直なところである。たとえば、大分の宇佐、宮崎の鵜戸(うと)、福井の気比(けひ)神宮等の参道は大きく曲がっているが、これらの神宮には長い歴史があり、様々な信仰が重なっていることもあって、一筋縄にはいかない。特に、気比神宮の場合、参道が東から西に大きく変わっており、福井空襲で焼かれたこともあって、本来の配置がどうであったのかも分からない。また、滋賀県の近江神宮、この神社は、神武天皇即位紀元2600年を記念して1940年に建てられた新しい神宮であるが、参道が曲がっている。しかし、伊勢神宮の配置に似せたのかもしれないと思う程度で、なぜ、そうなったのかは分からない。ただし、楼門から広場を経て拝殿に至る部分は直線であり、神殿が東を向いていることも含めて、地形的な制約のためと思われる。
 一方、「日本書紀」で、神宮とされた石上神社はどうだったのかというと、既述したように、参道から直角に曲がって拝殿に向かう配置となってはいるが、悪霊が入り込まないようにするためではなく、南向きに社殿を建てたからである。本来は神体山である布留山に向かっていたと考えれば、東向きの参道の先に拝殿があったか、そもそも、拝殿がなかったかのどちらかである。実際、同社の聖地は、拝殿奥の禁足地である。そして、ここは明治時代の発掘調査で、剣が埋められていたのが分かり、1913年に拝殿奥に本殿が建てられているが、拝殿を無視して考えると、ここは参道のほぼ先端部である。そして、その方向に神体山である布留山が聳えているのであるから、現在の参道で考える限り、直線で繋がっていたと考えるほうが自然なのである。もしかすると、武器を収める場所であったので、破邪を行なう必要がないと考えられたのかもしれない。
 また、和歌山市の日前(ひのくま)、国懸(くにかかす)神宮の参道も直角に曲がっている。この両宮は、明治以前から神宮を称しており、神階を与えられていない。他に、神階を持たなかったのは、伊勢神宮だけであり、このことは、皇室に非常に近い神社であることを表す。というのは、この神宮の神体となっている鏡は、伊勢神宮の神体の鏡と同等のものとされたからである。しかし、参道が直角に曲がっているのは、両宮を同一境内に併置しているからである。境内中央に参道が通っているので、同格の両宮のどちらを優先するわけにもいかず、結果として、直角に曲げざるをえなかったものと思われるからである。
 ただし、ここは、1585年、紀州を攻めた豊臣秀吉によって破壊され、初代紀州藩主徳川頼宣によって再興されたものの、大正時代にも改修されている。現在の左右対称の配置は、この大正改修の後のものである上に、これら以前に鎮座地を変更していることが記録に残っている。したがって、創建時に、破邪を意識して、直角に参道を曲げていたかどうかを知るすべはない。
 また、神宮を称しているが、参道が曲がっていないものも存在する。たとえば、愛知の熱田、奈良の吉野、京都の平安神宮等は、直線の参道である。うち、熱田神宮については、尾張造りと呼ばれた独特の神殿建築を、伊勢神宮と同じ神明造りに変えた経緯はあるが、参道までは変えられなかったということなのだろう。ただ、この神宮は、本来、伊勢湾に突き出た岬の上にあったので、参道を直角に曲げるということが地理的にできなかったのかもしれない。また、祭っているのが草薙の剣とされているので、石上同様、曲げなくても破邪の力があると考えられていたのかもしれない。
 吉野神宮については、明治になって建てられたものだが、珍しく北向きに建てられている。これは、祭神である後醍醐天皇が、京都に戻ることを切望していたため、わざとそうしたと伝えられている。だとすれば、参道は、直線のほうがふさわしいと考えられたのかもしれない。神霊が京都の方向を見るのに、参道が曲がっているのは不都合だからである。平安神宮については、もともとが博覧会用の建物だったということもあるが、その原型となった平安京自体も、羅城門、朱雀門を通って、真直ぐに天皇の居所に繋がる構成になっている。

 写真は、熱田神宮信長塀。
 


BUN様2015/01/19 [12時44分38秒]
 中学校の修学旅行で鎌倉の大仏に行ったことは、写真が残っているのではっきりしているのですが、それから40年も経っても、その古都に足を踏み入れた記憶はございません。ですから、鎌倉宮の名は、鎌倉丸の由来であるということで存じているだけです。しかし、そのように興味深い場所とは存じておりませんでしたので、ストリート・ヴューとネット検索で参らして戴きましたが、紅白に塗り分けた、随分と縁起のよさそうな鳥居に、まず驚かされました。そして、御紹介を戴いたようなものが隠されているとは、とても思えないような瀟洒な神社だと思ったような次第であります。
 しかし、このようなものを、
BUN様のような学識豊かな方に読んで戴いるとは、大変にありがたいことです。今後ともよしなに。
 
 また、アクセスが認められませんと出ましたので、御返答が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
 


大塔宮BUN2015/01/18 [09時38分20秒]
護良親王を祀った鎌倉宮へはいらっしゃったことがありますか。
土牢前面壁、その前にまた塗り込めの門、人が通れない階段と拝殿から土牢へ一直線に道があるものの、その道は絶対に通れないように造られています。
不気味なものですね。


愛宕(32):出雲(12)2015/01/18 [00時16分33秒]
 一説に、怨霊を祀った神社は、これが外に出ていかないように、参道を直角に曲げたという。これは、太宰府天満宮の参道がそうなっていることに由来するようだが、菅原道真の怨霊を祀るのは、ここだけではない。たとえば、京都の北野天満宮の創祀は太宰府天満宮の後であるが、明らかに怨霊封じのために建てられたものである。また、同じく京都市内にある上、下御霊神社も、その名の通り、怨霊封じの目的で建てられたが、すべて、参道は真直ぐである(下御霊神社の場合は境内が狭く、直角に曲げるのは難しいとは思うが)。もっとも、八坂神社の参道は曲がりくねっており、この神社は、御霊会に起源をもつ祇園祭で有名であるが、ここは、廃仏毀釈までは寺院であり、南参道が本来である。したがって、四条通りと東大路の交点に楼門が建つ西参道が曲がっているとしても、本来の南参道が直線であることを考えると、これも当てはまらない。
 また、このように参道を直角に曲げるというのは、一般的ではないが、他に例がないわけではない。有名な所では、香取、鹿島の両神宮がそうであるが、この両社が怨霊封じのために建てられたとは聞いたことがない。また、伊勢神宮、橿原神宮、明治神宮の参道も直角に曲がっているが、これらは、アマテラス、神武天皇、明治天皇を祭ったものである。つまり、この説でいくと、これら皇祖神は怨霊だったということになる。
 もっとも、アマテラスは祟ったという歴史があるので、荒魂は怨霊に近いものがあるかもしれない。しかし、同じく祟ったという記述のあるオオナムチの荒魂を祭る、大和神社の参道は真直ぐである。もちろん、前回述べたように、大和神社は移転しているが、そういう禁忌があるのなら、現在のように真直ぐにする必要はない。したがって、参道が直角に曲がっている神社があるのは、別の理由によるものである。そして、これを考える際に重要なのは、これらがみな神宮であるということである。
 神宮とは、言うまでもなく神の宮であり、宮殿である。つまり、皇室に直結する、もしくは、関係の深い神のみを祭る神社のみが称するものであった。したがって、神宮という名称の使用には勅許が必要であり、天満宮も、皇族関係ではないため、宮という文字の使用が許されず、明治になって、大宰府神社、北野神社と改称されている。しかし、戦後はその制約もなくなったので、大宰府、北野天満宮となったわけだが、熊本県の河尻、西岡両神宮のように、失礼ながら、あまり有名でない神宮も出現している。
 この神宮という名称が使用された最初は「日本書紀」であるが、同書に記された神社の中では、伊勢と石上だけが神宮である。実は、他に1箇所あるのだが、これは後述するとして、「延喜式神名帳」では、石上が外れて、かわりに鹿島、香取が選ばれている。つまり、上記5社のうち、伊勢、鹿島、香取は古来の神宮であり、前述の通り、橿原神宮は、初代天皇とされる神武天皇を顕彰する目的で畝傍山麓に、明治神宮は、明治天皇を称えて東京に建設されたものである。そして、伊勢神宮はアマテラスを祭り、鹿島、香取は大和平定に関わって功績を示した神を祭る。
 ところで、「更級日記」の中に「つねにあまてる御神をねむじ申せといふ人あり」、いつもアマテラスを念じられよと言われる人がいても、作者は「いづこにおはします、神仏にかはなど」、どちらにおられる神であるかは分かりませんがなどと書いている部分がある。また、伊勢神宮を参拝した西行が、「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」、どのようなものが祭られているのかは存じませんが、そのありがたさに涙がこぼれることだよと詠んでいる。「更級日記」の作者の菅原孝標(たかすえ)女や、西行の活躍した平安時代中期から末期には、信仰する人が出てきたようだが、まだ、伊勢神宮に祭られている神がアマテラスであることを知らない人が多かったのである。
 これは、伊勢神宮が、皇室のためだけにあったからである。以前、別の所にも書いたように、伊勢神宮は、私幣禁断であった。つまり、天皇、皇后、皇太子以外は幣帛を許されない場所であった。伊勢神宮の正式名称が、神宮だけで、伊勢がつかないのは、この考えからきているわけだが、この称号は、伊勢神宮のみのもので、他には許さないというのである。このため、孝標女や西行も貴族の一端、もしくは、そこに近い存在であったが、天皇、もしくは、その近親者ではないので、アマテラスの存在すらも知らされていないのである。これが、江戸時代の伊勢参宮のように、庶民に開放されていったのは、伊勢神宮の神官が鎌倉政権に近づき、皇室の衰微により失われた彼等の経済的基盤を取り戻そうとしたからである。つまり、これら神宮は、天皇家にとって非常に大切な、言い換えれば、極めて神聖な場所であったのである。そして、その神聖な場所を守るために、参道を直角に曲げたのである。
 これは、悪霊は真直ぐにしか進めないという考えがあるからである。中国では、家の入口に壁を作って迂回させたり、わざと向きを変えて入るようにしたりすることからも分かるように、中国伝来の考えであるが、沖縄では家の門と母屋の間に塀を建てる。これも同様の目的であるが、この塀をヒンプンと呼び、漢字では屏風となる。したがって、日本でも、入口に屏風や衝立を置くのは、その簡易版とも考えられる。だとすれば、葬儀の際に逆さに屏風を置くというのも、悪霊を妨げるためとされるのだから、同様である。そして、伊勢神宮でも、蕃塀(ばんぺい)と呼ばれる塀が建てられているが、これもそうであり、よく言われるように、目隠しのためではない。
 というのは、内宮本殿の蕃塀は階段下の広間の南端部に、外宮本殿のそれは広場の中央にあり、どちらも拝殿を窺う妨げにはなっていないからである。したがって、この塀は、悪霊を防ぐためだけに存在すると考えるべきである。そして、参道が直角に曲がっているのも、同様である。つまり、怨霊が出ていかないようにするためではなく、逆に悪霊が入り込まないようにするための仕組みであったのである。
 では、太宰府天満宮の参道がなぜ直角に曲がっているかというと、ここが寺であったからである。903年、大宰府で死亡した道真の遺骸を乗せた牛車が安楽寺の門前で動かなくなったため、同地に葬られたとある。一説に、この安楽寺の墓地に藤原仲平により社殿が設けられたともいわれるが、前述のように、明治になって大宰府神社となり、戦後、太宰府天満宮となっている。したがって、浄土宗の隆盛により東向きに寺が設けられ、西方浄土を拝むようになるまで、寺院は南向きに建てるものであったので、安楽寺も南向きに建てられていたのである。しかし、天満宮の西側以外には山があるので、そこへの道は、そちら側からしかなかったということなのである。
 
 写真は北野天満宮。
 


愛宕(31):出雲(11)2015/01/14 [21時14分51秒]
 このことを如実に示すのが、滋賀県野洲市の三上山である。この山の標高は432mで、それほど高くはないが、付近が平野であるため、非常に目立つ。湖南と呼ばれる、滋賀県南部地域ならば、大抵の所から見えるぐらいである。その上、上記の写真でも分かると思うが、北側に雌岳と呼ばれるピークがある以外は、ほぼ左右対称のきれいな三角錐状をしている。近江富士の愛称もなるほどと思うのだが、火山ではなく、平野部が浸食された後に取り残された残丘である。しかし、その秀麗な山容は神南備山にふさわしい。俵藤太秀郷の百足退治の場に選ばれたのも、このためだろう。
 この山の北側に隣接する大岩山周辺には、3世紀から5世紀にかけての約300年間にわたる古墳17基が確認されており、大岩山山麓からは24ヶにも及ぶ銅鐸が発見されている。そして、銅鐸博物館の愛称で知られる、野洲市立歴史民族資料館に展示されているこの銅鐸の群れは、高さが1mを超すものもある立派なものである。そして、古墳にしろ、銅鐸にしろ、これほどの多数が集まっているのは、滋賀県内には他になく、日本国内にも類例は少ない。つまり、ここは、古代有数の祭祀場所であったということになる。また、三上山の頂上には巨大な磐座があり、そばに、御上神社の奥宮が鎮座している。
 この御上神社は、三上山の西側に位置する神社である。そして、三上山を神体山としており、この山の入山料はこの神社に収めることになっている。しかし、神社の楼門、拝殿、本殿はすべて南向きに一列に並んでいる。しかも、参道は、国道8号線から神体山に背を向けて西に入るようになっており、入ってすぐに北側に向きを変えて楼門をくぐることになる。このため、拝殿付近から三上山を望むことは可能だが、拝殿と三上山を一緒に写真を収めようとすると、横手から撮影するしかない。つまり、神社の神体山が三上山であることは間違いはないが、拝殿なり、本殿に向かうと、山は正面に位置しない。
 しかし、上述のように、この山は、平野部に位置する孤峰である。したがって、四囲は開けており、どこに社殿に置いてもよかったはずである。しかも、古墳や銅鐸が見つかったのは北側であるが、御上神社は、わざわざ、この山の西側を選んで、造立されている。当然、神殿は西向きに建てないと、神体山を横目に見ながら参拝するということになり、いかにも不自然である。にもかかわらず、社殿は南向きに配置されている。
 社伝によると、御上神社は、孝霊天皇の6年6月18日、三上山山頂に出現した天之御影命を、御上祝(みかみのはふり)がこの山に祭ったことに始まり、養老2(718)年3月15日、現在地に藤原不比等が勅命により榧(かや)の木で社殿を造営したとある。これが史実を反映させたものかどうかは分からないが、「古事記」には「娶近淡海之御上祝以伊都玖(いつく)此三字以音天之御影神之女(近つ淡海の御上の祝が以ち伊都久[此の三字は音を以ちてす]天の御影の神の女を娶り)」とあり、開化天皇の第3皇子日子坐(ひこいます)王が近江の御上祝が祭る天之御影命の女を娶ったとある。そして、この天之御影命が御上神社の祭神であることを考えると、神社は不比等が造営したとされるものが原型であると考えられる。
 もっとも、この神社の参道は、本来、神社の西側にあった。というのは、現在の参道は、国道が山と神社の間に開通しており、北方の老蘇(おいそ)の森も削っているからである。これに対して、中山道は神社の西側、東海道新幹線の向こうを通っていた。したがって、本来の参道は西側から伸びており、現在もその跡が残っているのだが、これをたどると南端の楼門に出る。つまり、参道は中山道から三上山を目指して続いていたわけだが、にもかかわらず、本殿をはじめとして、神殿は、その端から直角に曲がった北側に建てられているのである。
 


山本留吉様2015/01/06 [19時45分41秒]
 明けましておめでとうございます。
 旧年中は、本当にいろいろとお世話になりました。
 本年もよろしく御願い申し上げます。
 また、貴HPの益々の御発展を祈っております。
 


謹賀新年山本留吉2015/01/06 [18時50分20秒]
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


Takeahero様2015/01/01 [20時24分07秒]
 明けましておめでとうございます。
 寿命もあと数十億年かと思うと…。
 


謹賀新年Takeahero2015/01/01 [00時12分13秒]
 旧年中は・・・以下略。
 早くも21世紀15年。
 あっしの寿命も・・・


愛宕(29):愛宕(28)出雲(9)2014/12/31 [17時00分51秒]
 もちろん、奈良時代以前に創建されたと考えられる神社で、西向きでないものもある。有名なところでは、大和神社、龍田大社、広瀬大社、石上神宮等であるが、大和神社、龍田大社は東向きであり、広瀬大社、石上神宮は南向きである。うち、広瀬大社についてはよく分からないが、奈良県北葛城郡河合町川合という所在地名でも分かるように、高田川、曽我川が大和川に流れ込む場所であり、近傍では、龍田川、佐保川、飛鳥川等も合流する地である。つまり、大和盆地のほとんどの河川が集まる場所であるので、川筋が大きく変わるという場合もあるだろうし、社殿が流されたということもあったはずである。
 実際、広瀬大社の由来には、沼地が一夜にして陸地となり、橘が多く生えたのを奇瑞として創建されたとある。また、熊野、音無、岩田川の合流点にある大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中州にあった熊野本宮大社は、1889年の水害により流され、12社のうち、かろうじて残った4社だけを現在地に遷座する形で再建されている。したがって、神域は大きくは変わってはいないとは推定されているが、社殿の位置が往古のままであるとはとても思えない。当然、社殿の向きも、当初から南向きであったかどうかは分からない。もっとも、「和州広瀬郡広瀬大明神之図」という室町時代の図では南向きに描かれている。
 愛宕(22)で、宮殿大殿に祭られていたアマテラスが、伊勢神宮に落ち着くまでに幾多の変遷があったことを少し書いたが、大和神社についても、同様であったようである。もっとも、その細かなことは確かではないが、「垂仁記」には、「定神地於穴磯邑(あなしむら)、祠(いわ)於大市(おおち)長岡岬(神地を穴磯邑に定め、大市の長岡岬に祠いまつる)」とある。この長岡岬というのは、現在の桜井市穴師から箸中付近とされるが、現在の長岳寺であったという説もある。この寺は、大和神社の神宮寺として創建されたもので、本堂は南向きであるものの、龍王山の西麓に位置しており、参道も西側から続いている。
 また、淡路島にある大和大国魂神社は、西方の播磨灘を向いていたが、洋上の船に乗る人々が礼拝しなかったために、現在の南南西に向くようになったと伝えられているが、この神社は、当時の、現在の大和神社を勧請したといわれる神社である。そして、大和神社は、伊勢神宮に次ぐ広大な領地を持っていたが、中世に、すべてを失っており、社殿も仏教風になっていた。このため、1871(4)年に官幣大社に列せられた際に社殿を造営しており、遷座当初の配置がどうであったかを知るすべもないが、大和大国魂神社の例から考えると、西向きだったのかもしれない。
 一方、前述の通り、石上神社の拝殿は南向きだが、神体山である布留山は東方に位置する。そこで、鎌倉時代初期と日本でも最古期の拝殿であることは承知しておりますがと断って、本来は西向きだったのではないかと神職に聞いてみたことがあるが、否定はされなかった。そして、参道を挟んで南側にある、その名も出雲神社等の境内摂社は西向きで、まさしく、布留山の方向を向いている。
 これらに対して、龍田大社の場合、神体山とされる山は、東方ではなく、神社の西方にある。そして、この神体山には、「伝龍田本宮、御座峰」と書かれた石碑が、幾つかの磐座とともに山中にある。したがって、もともと、この神社は神体山そのものの中にあり、そこから東方に遷座したものである。これは、この御座峰が、信貴山と亀の背の間の生駒山中であり、南北方向に平地は少なく、東か西に遷るのが自然なわけだが、西の大阪平野より、東側の大和盆地のほうが王権の地に近いことから、こちらが選ばれたものと思われる。
 つまり、山頂にあったと推定される龍田大社は別として、これらの神社は、本来、西向きに建てられていた可能性が強い。また、石上神社の拝殿が建てられた鎌倉時代初期を上限として、これより前は、神社は神体山の東側に建てられるものであり、神体山を拝むために、西向きに社殿を建てていたと推定される。
 
 写真は大和神社拝殿。
 


愛宕(29):出雲(9)2014/12/24 [20時58分31秒]
 これらの神社が、なぜ、西向きに建てられたのかというと、東側に山があるからである。たとえば、大神神社は三輪山の、伏見稲荷大社は稲荷山の西に位置する。枚岡神社、恩智神社も、東側に生駒山がある。そして、大神神社は本殿を持たず、ただ、三輪山を神と崇め、拝殿だけがある往古の形を残している。そして、この大神神社が日本最古の神社とされるのだから、神を拝むということは、山を拝むということだったということになる。
 もっとも、これらは、単なる山ではない。三輪山も、稲荷山も、生駒山も、山中に磐座(いわくら)と呼ばれる、神が下るとされる岩が置かれている聖なる山なのである。稲荷山など、全山を覆いつくすかのような、伏見大社の鳥居の大群に目を奪われてしまうが、実は磐座だらけである。江戸時代の絵図には、この赤い鳥居の群は描かれていないので、幕末から明治にかけて始まったようだが、それ以前においては、磐座は、もっと目立っていたはずなのである。そして、人々は、この磐座に集まり、降臨するはずの神を祭ったのである。
 しかし、時代が下るにつれ、磐座よりも、それがある山全体に信仰が広がり、さらに、神が祭のたびに磐座のような依代(よりしろ)に下りてくるのではなく、常駐するようになると、その住居として、神殿が設けられていく。大神神社の場合は、その中間、山を拝むのだが、神社本殿を持たない時代の産物である。したがって、神体山を持つ場合、そちらに向かって拝殿、本殿を配するのが当然であり、社殿が山の西側にある以上、西向きに建てざるを得ない。
 だとすれば、住吉大社が西向きなのも、神体山の西側に建てられたからだという考え方もできる。一般に、海の神だから、海に向かって建っているのだという説明がなされることが多いが、反対ではないだろうか。というのは、「住吉大社神代記」という本の中に「膽駒(いこま)神南備(かんなび)山本記」というのがあるからである。
 この「住吉大社神代記」というのは、少なくとも、奈良時代末期には成立していたとされ、藤原定家の日記「明月記」にも、「神代記」という名で記載のあるもので、明治期になるまで公開はされなかったものの、この手の資料としては信憑性の高いものである。そして、この膽駒というのは、いうまでもなく生駒山のことであり、書名にあるように、この山が神南備山、つまり、神体山とされている。したがって、住吉大社においても、距離は離れているが、生駒山を拝むように建物を配置したと考えるべきである。
 もっとも、海の神である住吉神が山にいるというのも不思議な気もするが、この神は航海の神でもある。したがって、遣隋使船、遣唐使船は、この神社に航海の安寧を祈願したが、瀬戸内海から住吉津に入る船も、同様であった。そして、最終段階では、この神社を目標に入港したのかもしれないが、その前には、山を目標にしたはずである。
 生駒山付近の山からは大阪方面が一望でき、明石大橋も視認できる。逆にいえば、住吉津に接近する船からも、山頂はきちんと視認できるはずである。そして、港の入口というのは、海上からは存外に分かりにくいものである。しかも、レーダーや灯台のなかった時代、帆走を頼りに入港するには、目視できる目標が必要である。そのような時、このような山は非常に役立つ。
 江戸時代の話になるが、四国の、そういう船の目標となっていた3つの山にあった寺は、常夜灯を灯し続けていた。そして、夜間、港に入る時には、この灯りを頼りにしたのだが、その油は、海上を往く船から、大量に寄進されたという。嵐の中で、この常夜灯のお蔭で助かった船が少なからずあったからである。当然、寺に対する寄進は油だけではなかったのだが、そのような熱心な信仰から考えても、海の神だから、山に対する信仰がないと考えることはできない。実際、香川の金刀比羅宮は、奥社まで1368段という石段があることが有名なように、山上にあるが、この神社が海上交通の守り神として有名なことは、いうまでもない。
 しかし、なぜ、神体山の西側にばかりに社殿を造るのだろうか。もっとも、生駒山は南北に長い山なので、西方に土地を求めたいという気持ちは分かる。したがって、枚岡、恩智の両社については仕方のない部分はある。住吉大社の場合も、住吉津の近傍という制約がある。しかし、生駒山が聖なる山であるのなら、東側にも、この山を神体山とする神社があってもよさそうだが、菅見の限りでは、そのような古社は存在しない。ただ、東大寺二月堂の舞台からは、大仏殿の屋根越しに生駒山が正面に見えるので、この山を意識しての配置であったのだろうとは思う。
 また、稲荷山は東山三十六峰の南端にあり、北側以外は開けている。そして、三輪山の南側には、初瀬川の渓谷に沿って平坦部がある。のみならず、すでに紹介した桜井市出雲が、まさしく、この三輪山の南側なのだが、同地の十二柱神社は、武烈天皇の宮であった泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)だったとされる。したがって、この王権の地に神社が設けられていても、何の不思議もない。
 もっとも、初瀬川沿いの平坦部は狭小で、山を仰ぎ見るのに、距離が取れないという問題がある。このため、この平坦部を往還している近鉄大阪線の沿線には、昔から、三輪明神と書かれた看板が、三輪山に向かって矢印を向けているが、これは、奈良盆地に入ってからであり、山間部では、三輪山の全容を見ることはできない。しかし、三輪山を仰ぎ見て拝むという行為だけならば、西側に限る必要はない。北西側でも、北東側でも、いくらでも平坦部はあるからである。
 
 写真は、和歌山県新宮市神倉神社のゴトビキ岩(磐座)。
 


愛宕(28):出雲(8)2014/12/06 [21時59分35秒]
 陶邑のあった和泉国一宮は、大鳥大社と呼ばれることも多い大鳥神社である。この神社は、大鳥造りという神殿を持つことで有名だが、この造りは、大社造りの影響下に出現した、あるいは、原型とみなされるものである。そして、この大社造りの大社とは、出雲大社のことであるが、これらの造りに共通するのは、妻入りだということである。屋根をつける場合、一番単純なのは、本を伏せたような形状で、これを切妻と呼ぶが、その屋根の三角形の側から入るのを妻入りと呼ぶ。これに対し、伊勢神宮をはじめとして、神社の大多数は、平入りと呼ばれる方形の側から入る形式である。つまり、大鳥神社は、陶邑のあった大鳥郡にあり、他のほとんどの神社と異なる、出雲大社に似た造りを持っているのである。
 もっとも、大鳥神社の近辺には、出雲という地名はなく、祭神も大鳥氏の祖神とヤマトタケルである。ただ、この大鳥氏の祖神というのは、1896年に内務省の指示により、それまでのヤマトタケルから変更されたものであるが、何という神かは分からない。ただ、祭祀を行っていた大鳥氏の祖はアマノコヤネノミコト(天児屋命)なので、この神かもしれない。また、ヤマトタケルのほうも、死後、白鳥になって飛来したということに由来するが、大鳥という名から付与されたものだともいわれる。そして、このヤマトタケルは、1961年に復活したものである。このうち、アマノコヤネは、アマテラスの岩屋隠れの際に鏡を差し出した神とされるので、天孫系であるが、本当にこの神を祭っていたかどうかは分からない。
 摂津国一宮の住吉大社も、大鳥造りと同じく妻入りの住吉造りの神社として知られるが、この造りは、大鳥造りの神殿が方形であるのに対して、長方形である点が異なるだけである。したがって、こちらも、出雲大社と何らかの関係があったと思われる。もっとも、住吉大社の祭神は、住吉三神と呼ばれる底、中、表(うわ)筒男(つつのお)と息長足(おきながたらし)姫である。前者はイザナギの子であり、後者は神功皇后と同一視されている神である。つまり、明らかに天孫系の神々であり、出雲系ではない。また、付近に出雲を想起するような地名もない。ただ、この神社の向きが興味深い。住吉大社の本殿は、西向きに建っているのである。
 明治政府は、廃仏毀釈を行って仏教を排斥したのはよく知られているが、神道の側にも様々な指導を行った。先の、大鳥神社の祭神の変更はその一例であるが、2礼2拍1礼という参拝の仕方もそうである。現在では、神社の拝殿あたりに、「正式な」神社の拝み方として図つきで掲げられていることがあって、その通りに実践されている人も多い。しかし、出雲大社や宇佐神宮等では4拍が正式とされているし、伊勢神宮においても、現在では神官以外はしないものらしいが、八開手(やひらで)という8拍のものが本来であった。また、どこへ行っても、神殿の中の祭り物や作法は、似たようなものが多いが、これも、政府が一定の方式を定めたからである。しかも、神職に就くには、国学院や皇学館というような養成機関を経るのが普通だと思うが、これらは、戦前は国立であり、当然、国家が決めた作法以外は教えなかったのである。このため、これを外れた作法は間違いとされるが、それは、明治以降の話である。たとえば、現在では神饌と呼ばれる神に供える食物は、調理や加工を行わない素材そのままのものが主流であるが、かつてはそうではなかった。また、諏訪大社の御頭祭では、現在は剥製で代用するが、鹿の頭を奉納するという野性味あふれる神事を行っている。他にも、猪の頭を奉納する神社もあり、各地には、そのような政府の指導にもかかわらず、まだ、いろいろな神事が遺っているが、かつては、もっと多種多様なやり方があったのである。
 そして、この指導は、建物にも及んでおり、その中に、南向きに建てるというものがあった。もちろん、すぐに建て替えられるようなものではないので、機会があれば、そうせよということだが、このため、建て替えに際して南向きに直した神社は多い。南向きの神社が多いのはこのせいであるが、言い換えれば、それまでの神社は様々な方向を向いていたということになる。また、南向き以外には、東向きの神社も多いが、南向きに建て替える敷地がない場合等は、この方向が推奨されたようである。このため、家庭にある神棚も南向きが正しく、できない場合は東向きにと書くサイトもあるが、これはそう歴史があるものではない。ただ、これは、日本古来のものではない。「周易」の「聖人南面而聴天下(聖人は南面して天下を聴く)」に由来するからである。
 「天子は南面す」というのは、この言葉から生まれたもので、皇帝、日本の場合、天皇は、南を向くのが正しいとされた。このため、平城京、平安京の建設にあたっては、天皇の座は南向きとなり、これが中心となっている。今でも、京都市に右京区、左京区があるが、右京が西で、左京が東に位置するので、現在の北向きの地図では、左右が逆になってしまう。右近の橘、左近の桜も同様であるが、これも天皇が南面するということを踏まえないと分かりにくい。右大臣、左大臣というのもそうである。
 仏教においてもそうである。東大寺、法隆寺をはじめとして、南大門というものはあるが、南以外の方角の大門というのは、あまり聞かない。もちろん、北大門も、東大門も、西大門もある寺院はあり、寺院によっては北東大門などというようなものまであるのにである。これは、密教では、山岳宗教の影響で、山間部に建てられることが多くて配置を制約され、その後の仏教では、西方浄土ということが唱えられた関係で、西方を重視したため、南向きにあまり重きを置いていないが、南都六宗では南向きに本尊を置くからである。そして、この考えは、神社にも影響を与え、南向きに社殿を建てることが多くなった。しかし、ほとんどの神社が南向き、東向きに建っている中で、少数ながら北向きの神社も存在する。そして、その中には、鹿島神宮、吉備津神社、厳島神社、宗像大社等、名だたる神社も多く、創建が古いものも多い。
 もっとも、現存する日本最古の本殿、拝殿を持つ京都の宇治上(うじがみ)神社は南西を向いている。したがって、南向きといえないこともない。また、奈良県天理市にある石上(いそのかみ)神宮拝殿も古いが、南を向いている。ただ、ともに平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて建設されたとされるので、明治云々はあるのだろうが、南向きというのは、平安時代後期以前においては、一つの規範として存在していた可能性はある。しかし、住吉大社以外にも、大神神社、枚岡神社、恩智神社、伏見稲荷大社等、西向きの神社が関西には多い。そして、その多くが奈良時代以前の創建である。したがって、中国から「天子は南面す」という概念が入る以前は、神社は西向きが普通だったのではないかと思うぐらいである。
 
 写真は、石上神宮拝殿。
  


愛宕(27):出雲(7)2014/11/26 [22時42分33秒]
 この安濃津を壊滅させたのは、大方の予想の通り、地震である。「十余年以来」とあるが、この「宗長日記」の記載より24年前、1498年の明応地震により、安濃津は壊滅している。この地震は、浜名湖が海と繋がったことで有名であるが、試算によると、伊勢湾にも高さ10mに達する津波が押し寄せたという。もっとも、これが、その津波によるものか、地面が隆起して港湾機能が失われたのかは、よく分からない。ただ、前回述べた安濃津柳山遺跡にも、その後約300年間の地層からは、人の住んだ形跡が見つかっておらず、津興(つおき)村、津の発生した土地という名称が、大字として残されているのみである。
 戦争中、まさしく、その遺跡の出土した場所にあった女学校に通っていた義母によると、付近は一面の葦原であったという。実際、明治時代の記録を調べてみると、この辺りは、スイカの生産地として有名で、関西に出荷されていた。そして、当時の地図を見ると、伊勢へと伸びる街道の両脇こそ家が蝟集しているが、それ以外には何もない。海に近く、砂地だったので、稲作ができなかったのである。そして、現在は住宅が立ち並んでいるが、つい最近まで、街道沿いは別として、好んで人の住むような場所ではなかったのである。
 しかし、この地震以前においては、この地こそ、伊勢平氏の財力の根幹であった。本来、伊勢平氏は、天皇の末裔とはいえ、単なる地方の有力者でしかなく、中央においては重視されていなかった。それが、清盛は、白河法皇の落胤であったという伝説が生じるほど、急激に台頭し、ついには「平家にあらずんば人にあらず」というような栄耀栄華を極めることになる。そして、その発端は忠盛の財力にあった。忠盛は、得長寿院の千体観音を鳥羽上皇に寄進することにより、昇殿への道を切り拓いたのである。しかし、その出発点は、この安濃津から得られる収益によったのである。つまり、常滑焼を都に送る拠点としてである。
 熊野灘で、中世の常滑焼の甕が底引き網にかかったことがある。これを見ると、安濃津に集積された伊勢瓶子は、陸路ではなく、海路を使ったものと思われる。つまり、紀伊半島を迂回して、大阪から淀川を遡上して都に運んだということである。もちろん、陸路を使ったほうが近いわけだが、トラックなどなかった時代、たとえ、牛馬を使用したとしても、鈴鹿峠を越えるのは、非常な困難を伴う。それよりも、大回りではあっても、海路をたどるほうが楽であった。陶器は重いからである。
 もっとも、古代においては、道路は計画的に建設されており、6-12mほどの幅員の直線道路が全国各地に建設されている。そして、その遺構からは轍(わだち)の跡が見つかっており、牛車なのか、馬車なのか、あるいは人力なのかは不明なものの、車が使用されていたとみられている。ただ、紀貫之は、国司としての任期を終えて土佐から都に戻る際のことを「土左日記」に書き残しているが、2ヶ月近くかかった旅のほとんどで舟を使用している。国司という重要な地位にある人物の移動に舟が使用されたということは、当時の海上交通が、陸上交通と同等程度には安全でないとありえないことである。また、国司の移動ということは、大量の家財道具の移動も伴ったと思われるが、その点でも、陸上輸送よりは楽であったはずである。
 同様に、陶邑で作られた須恵器も、陸上輸送には重すぎるので、舟運を利用したはずである。その場合、港から河内湾を通り、さらに、大和川を遡るというのが自然である。つまり、陶邑であったとしても、川の反対側には出雲のある桜井があり、三輪があったのである。そして、このことを如実に表しているのが、土師氏の本拠地が、現在の大阪府藤井寺市であったということである。
 現在、近鉄南大阪線には、藤井寺と道明寺の両駅の間に土師ノ里駅がある。ここが、その名の通りに土師氏の本拠地であったとすれば、大和川と石川の合流点のすぐ近くである。そして、この付近の大和川の流れは穏やかであるが、これより上流、亀の背の部分は、そうではない。車を駐められなかったので、写真は撮っていないが、川の中には岩も多く、その部分では白波も立つ場所である。舟運が不可能なほどではないが、それなりの技量が必要な場所である。したがって、ここまで運ばれてきた積荷は、舟を替える必要があるだろうし、積換えに必要な人夫を雇う必要もあったと思う。そして、この地を土師氏が抑えていたということは、それらを管理していたのは彼等であり、この国の大動脈を抑えていたということになる。
 聖徳太子が建てたとされる寺に四天王寺と法隆寺がある。いうまでもなく、前者は大阪天王寺にあり、後者は奈良県斑鳩町にある。もっとも、四天王寺が最初に造立されたのは玉造であるが、どちらにしろ、上町台地の基部である。そして、既述のように、ここには住吉津があった。中国との接点であったこの港に近い場所に創建することは、情報をいち早く捕まえられる利点があったはずである。また、斑鳩は大和川と龍田川の合流点にある。つまり、大和川を通じて、斑鳩と四天王寺は結ばれていたのである。このことは、大和川が、この時点でも交通路として機能していたことを意味する。前回述べたような湖水域の減少はあっただろうが、都が京都に遷り、淀川が重要な輸送路になるまで、この川の存在は大きかったのである。
 
 写真は若草山から金剛、生駒山系を撮影したもの。中央部、山と山が重なっているあたりが亀の背。
 


愛宕(27):出雲(7)2014/11/21 [19時28分06秒]
 安濃津というのは、現在の三重県津市である。安濃(あのう)郡の津、つまり、港を意味するわけだが、この名は、1889年に、この地に市制が敷かれた際に津市となって消滅した。しかし、これより先、72年に廃藩置県によって生まれた県を合併した際には、この地に県庁を置いた関係で、安濃津県と呼ばれることになった。もっとも、この安濃津県は、1872年、三重郡四日市町に県庁を置いたために、郡名をとって三重県となり、1年も経たないうちに安濃津に県庁は戻ったものの、県名は三重県のままであり、76年、現在の伊勢市である度会(わたらい)郡山田岩淵町に県庁がおかれていた度会県と合併した際も変わらなかった。
 このため、安濃津という名はあまり知られていないが、室町時代の「廻船式目」に、三津七湊の一つとして、博多津、堺津とともに安濃津が挙げられている。また、中国、明代の兵備書「武備志」に、坊津、花旭塔(博多)津とともに、日本三津として登場する洞津も安濃津のこととされる。洞は穴であり、安濃と音が似るからであるが、現在の津市は、県庁所在地ではあっても、一介の地方都市でしかない。実際、2006年の大合併にも関わらず、人口は四日市の31万より少ない28万人であり、合併以前では16万人しかなく、四日市どころか、鈴鹿市にも抜かれて県下第3位であり、日本の県庁所在地としては最小の人口しかなかった。
 港も、港口部に幕末に建設された砲台跡があって、それなりに重要視された港であったようには思われるが、現在では単なる漁港である。造船所やヨット・ハーバーもあるが、貨物船が荷役できるような岸壁もない。一応、四日市に次ぐ、県下第2の港とされるが、それは隣接する松阪港と併せて津松阪港となっているからであり、統計上だけのものである。したがって、「伊勢音頭」に唄われた「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」の津も、参宮で賑わった頃の、しかも、港としてではなく、宿場町としての話であって、現在の津市にそのような賑わいを求めることはできない。ただ、飯尾宗祇の弟子で、「急がば回れ」という諺のもとになった連歌師の宗長は、1522年に安濃津を通過した際に、「此の津、十余年前以来荒野となりて、四五千間の家堂塔あとのみ」と「宗長日記」に記している。この港は、十数年前から荒野となり、4、5千軒はあった家や堂塔は、跡だけが残っているというのである。
 研究によっても異なるが、当時の日本の人口は1000万程度である。今の十分の一以下なのだが、都市化が進んでいなかったことを考えると、千軒の家であっても、充分に大きな町である。実際、広島県福山市から出土した草戸千軒は、鎌倉時代から室町時代までの300年間の遺跡で、当時の大規模集落として有名である。したがって、数千軒の家が立ち並んでいたというのは、宗長の文学的修辞でなければ、日本有数の都市であったということになる。したがって、日本三津の一つというのは、誇張でも何でもないということになるが、「武備志」には、洞津を「山城と相近く」と紹介している。もちろん、これは坊津や博多津のある九州よりも近いという意味であろうが、それならば、なぜ、住吉津なり、難波津が登場しないのかと思う。中国が、日本の西方に位置する以上、こちらのほうが山城には近いと思われるからである。しかも、この本が書かれた明代には、安濃津は、すでに「荒野」になっていたのである。そこで、洞津は安濃津のことではないという論議が登場するわけだが、発掘調査の結果を考えると、そうではないはずである。
 坊津は、奈良時代に鑑真が渡来した地として知られるが、日明貿易の拠点であった。これに対して、博多は日宋貿易の拠点である。しかも、この地に、袖の湊と呼ばれる、日本初の人口港を築いたのは清盛であるとされる。もっとも、袖の湊というのは想像の産物にすぎないとする意見もあるが、清盛が日宋貿易により巨利を得たのは事実であり、その拠点が博多だったのも事実である。しかし、日宋貿易に最初に着眼したのは、忠盛である。もともと、遣唐使の廃絶以来、日中間に正式な国交はなかったが、中国製品や知識を求める声は強く、彼は知行地であった肥前国神崎荘を通じて、私貿易に介入したのである。そして、清盛に至って、伊勢の銀を輸出するようになり、1173年には正式に国交を開いている。
 この伊勢の銀というのは、現在の三重、滋賀県境にある藤原岳近郊から産出するものかもしれない。もっとも、この銀鉱の最盛期は江戸時代であり、この時代に稼働していたかどうかは分からないが、810年に採掘を始めたとする記録がある。ただし、これは口伝であり、実際には、戦国時代からではないかといわれている。したがって、これは、伊勢に集められた銀を意味するものかもしれないが、どちらにしろ、安濃津から運び出された可能性が高い。つまり、日本三津のうち2つまでが平氏の関係であったことになる。と同時に、南京に首都を置く南宋にとって、もっとも近い日本の港は坊津であり、最重要の交易港が博多、そして、その博多には、安濃津から交易品である銀が運び込まれたということになる。これが、この3港が重視された原因であると思われる。
 かつて、ヨーロッパで作られた世界地図には、Hiwami(石見)の名があった。この世界地図がどれくらいの大きさか知らないが、家庭で壁にかける世界地図程度のものであったとしたならば、このような地方名が載るというのは考えにくい。にもかかわらず、この名が載っているのは、銀山という言葉も載せられているように、石見銀山があるからである。かつて、日本の銀は世界の産出量の3分の1を占め、その大半がこの銀山から出ていたことからも分かるように、当時のヨーロッパの人々にとって、日本は、まず、銀の生産地であった。したがって、その一大鉱山の名を記さないわけにはいかなったのである。同様に、中国人にとって、重要視される日本の港は、この三津であり、難波も住吉も関係がなかったのである。
 ただ、この「国交回復」と同じ1173年に開かれた大輪田泊、現在の神戸港付近の名が、「武備志」にはない。この港は、京都近くの港で交易をしたいという清盛の希望で開かれたにもかかわらずである。したがって、「武備志」のこの部分は、大輪田泊開港以前の知識により書かれていることになる。もし、この港のことを知っているのなら、掲載しないわけはないし、安濃津を「山城と相近く」と記す必要もないからである。これは、「武備志」は全部で240巻もあり、作者の茅元儀は、祖父の残したのと、自身が集めた膨大な書籍から抜粋しているからである。そして、この部分について、彼が参照したものは、宋代の本ではなかったかもしれないが、その頃の知識しか書いてないものであったのだろう。
 中華という言葉の示す通り、中国は自国を世界の中心と考え、周辺を夷国とする考えが伝統的にある。したがって、日本のことなどどうでもよかったので、各種倭人伝を見ても、その記述は、先行する正史に書き足していく程度であり、それほどの内容はない。にもかかわらず、「武備志」に日本の港のことまで記されたのは、時が明末であり、倭寇という形で、日本の脅威が叫ばれていた時代であったからである。しかし、先行する書物には日本のことなどほとんど記されていない。そういう中で、茅元儀が見出したのは、宋代の知識に基づくものだけだったのであろう。でなければ、すでに「荒野」になっていた安濃津のことが記されているわけがないからである。しかし、このことは、宋代における安濃津の状況を窺ううえでは、貴重な史料となる。宋代、安濃津は、坊津、博多津と比肩する重要な港湾であり、より都に近い大輪田泊が建設されるまでは、山城、つまり平安京に近い港として認識されていたのである。
 
 写真は、津刑務所の旧正門。安濃津という名が残っているものは何かと考えると、他に思いつかなかったので、このように物騒なものになったのだが、写真にある安濃津監獄という名称は、1922年に現在の名に変わるまでのものである。当然、安濃津時代の創設かと思ったが、津と改名後の1903年に、津既決監獄署から安濃津監獄に改名されている。門自体は、1916年に現在地に移設された際に新築されたもので、94年に改装工事を受けた際にこの部分だけが残されている。
 


愛宕(26):出雲(6)2014/11/12 [20時33分04秒]
 「平家物語」の冒頭に、「伊勢瓶子(へいじ)はすがめなりけり」という言葉がある。これは、平清盛の父、忠盛が、武家でありながら昇殿を許され、これに反感を抱いた貴族たちが囃し立てた戯れ歌である。忠盛は斜視で、現在では差別用語になるかもしれないが、当時、これを眇(すがめ)と呼んでいた。これと、酢甕とをかけたのである。したがって、昇殿してきたところを「伊勢平氏は眇(すがめ)なりけり」と囃し立て、何をと言われたら、いや、いや、伊勢瓶子は、酢甕、酢を入れる甕であるという意味でと答えようというのである。さらに、酢は、酒から作るものであるから、酒ほどの品位はないとか、匂いが鼻に突くというような意味合いも持つので、二重の侮蔑である。また、すがめを素甕と解する考えもある。この場合は、釉薬もかけてない粗末な品という意味になるので、やはり、侮辱である。
 瓶子というのは、丸い肩が張った、短い頸を持つ容器である。「平家物語」では、鹿ヶ谷で平家打倒の密談が行われた際、狩衣に引っかかって倒れた瓶子を見て、「平氏たはれ候ひぬ」、平氏が倒れたと喜んだと記している。そして、「くびをとるにしかず」と瓶子の頸を折ったとある。ということは、この瓶子には頸があったわけであるので、通常の瓶子と考えてよい。これに対して、冒頭の話では、瓶子は甕とある。そして、甕には頸がない。もちろん、この伊勢瓶子の伊勢が、「伊勢では」と考えれば、かの国では、瓶子を酢甕に使用しているという意味になるので問題はない。しかし、公家が、地方の習俗にまで関心を持っていたのだろうかと思う。もちろん、「難波の葦は伊勢の浜荻」などという言葉もあり、地方の言葉の違いに関心を持った人もいるとは思う。ただ、この言葉は「菟玖波集」に収められた「草の名も所によりて変わるなり難波の葦は伊勢の浜荻」に由来しており、この連歌集は南北朝の時代のものである。また、中央貴族とはいえ、国司という制度があり、各国に赴任することになっていたのは事実であり、地方のことに精通していた貴族がいても不思議はない。ただ、この当時は、受領を派遣して、本人は都に留まるという形態が普通である。このことから考えると、この伊勢は、「伊勢では」の意味ではなく、「伊勢の」の意味である。つまり、伊勢産の瓶子は、都では酢甕に使用されていたのである。
 しかし、そうなると、伊勢には窯業があったはずである。ところが、この時代、目立った窯は伊勢にはない。たしかに、四日市の万古(ばんこ)焼は、現在、全国の土鍋の生産の大半を占め、蚊遣豚でも有名であるが、これは江戸時代に始まっている。また、津の阿漕(あこぎ)焼は、万古焼から派生したものである。あと、伊賀焼というものがあり、中世に始まったとされるが、これは、その名の通り、伊賀の焼物であって、伊勢のものではない。もちろん、すでに廃絶した焼物があるのかもしれないが、菅見の限りでは、そこまで古いものは存在していない。これに対し、隣接する愛知県は、昔から窯業が盛んな土地である。中でも、瀬戸物という言い方が陶器全般を指すように、愛知県瀬戸の瀬戸焼が有名であるが、これは、鎌倉時代に始まっている。したがって、忠盛の時代、より重要だったのは同県常滑(とこなめ)市の常滑焼である。平安時代末期に始まった、猿投(さなげ)焼の流れをくむこの窯は、中世の窯跡が数千基にも及ぶほどの隆盛を極めていたからである。そして、この窯を有名にしたのは、大型の甕や壺である。
 現在、常滑は中部国際空港の所在地としても知られているが、知多半島中央部西岸、つまり、伊勢国の対岸に位置する。そして、その間の伊勢湾は、日本では、それなりに大きな湾ではあるが、泳いで渡った人がいる。津の大名、藤堂家で教授された観海流の初代家元山田省助がその人で、常滑まで泳ぎ、味噌を買って戻ってきたと伝えられている。実際、晴れた日には、海岸から対岸はよく見え、泳ぎ渡るのも不可能ではないと思われる。そのような状況なので、両岸を繋ぐ舟運があっても不思議はないが、三重県津市柳山津興(つおき)遺跡からは、中世の陶器が大量に出土している。そして、そのほとんどは、山茶椀と呼ばれるものだが、愛知県で焼かれたものと推定されており、上記の写真のように、高さ1mにも達する大型の甕も出ている。もっとも、これらが、酢を入れるために使われたかどうかは定かではない。たしかに、半田市のミツカンをはじめとして、愛知県には酢の生産工場は多いが、江戸時代以前がどうであったかが分かっていないからである。ただ、この焼物が酢を運ぶ甕として使用された可能性はあると思う。常滑焼は、灰釉と呼ばれる釉薬を使用することで有名であり、素甕ではないからである。
 津市産品(うぶすな)には、忠盛塚と称する塚がある。そして、ここは忠盛出生の地であると書かれているが、これは伝説の域を出ないようである。というのは、伊勢平氏の郎党の苗字を調べていくと、三重県北部の地名が多く、中部にある津はあまり関係はないからである。したがって、塚が、県の指定文化財になっているのは、さしたる根拠もなく、伝説だけで、この地を伊勢平氏発祥の地にしてしまったようである。このため、県や市の解説は、断定を避けた微妙な解説になっていて興味深いのだが、忠盛より先の伊勢平氏である平貞衡や、その子の貞清は、安濃津(あのつ)三郎を名乗っている。
 


愛宕(25):出雲(5)2014/10/21 [17時11分03秒]
 もっとも、オオタタネヒコは、「日本書紀」では、大田田根子(おおたたねこ)と、少し違う名前で記されているが、見つかった場所も茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)となっている。これは、大阪府大鳥郡の東陶器村、西陶器村、現在の堺市中区と南区と推定されているが、ここは、泉北ニュータウンを建設した際に、陶邑窯跡群と呼ばれる5世紀から約500年間にわたる600から1000基にも及ぶ窯跡が出土した場所である。そして、堺市中区には見野山という地名があり、同じく中区の陶器北は、かつては見野と呼ばれていた。また、大島郡は和泉国に属するが、この国は757年に河内国から分国したものであるので、美努がこちらであっても不思議ではない。
 ところで、「垂仁紀」によると、天皇の叔父が死亡した際に、その墓に近習の者を生きたまま埋めたが、その泣き喚く声が昼夜を問わず聞こえたとある。このため、殉死の風習を改めるようにしたのだが、その5年後、皇后の死に際して、野見宿祢が焼物で人馬をこしらえることを奏上した。これが埴輪であるが、その際、「喚上出雲国之土部壱佰人(出雲国の土部壱佰人を喚[め]し上げて)」と「日本書紀」にあり、出雲から埴輪を作る職人100人を呼んだとなっている。そして、その功績により土師臣(はじのおみ)を与えられているので、オオタタネヒコ(オオタタネコ)の見つかった土地として、陶邑が選ばれたのは、この関係ではないかと思われる。つまり、出雲には、陶器製造の特殊技術を持った人々がおり、オオナムチの子孫が見つかった場所として、陶邑はふさわしい場所と考えられたというわけである。
 ただ、この説には、問題が一つある。土部が作っていた考えられる土師器というのは、弥生式土器の流れを汲む、素焼きのものであり、埴輪もその一種である。ところが、陶邑窯跡群は、須恵器の遺蹟なのである。この須恵器は、朝鮮半島から渡来したものと考えられているが、もっと温度の高い窯で焼かれた硬質のものである。中間的な色合いのものもあるが、色も基本は青灰色で、土師器が赤色をしているのと、明瞭に異なる。実際、土師氏は、その後、古墳の造営、葬送儀礼を司ったが、窯業からは手を引いたように見える。土師器は平安時代まで作られたが、品質が須恵器より落ちるからである。ただ、三輪山周辺の祭祀遺蹟からは74点の須恵器が出土しているが、これらの多くは、陶邑窯跡群で作られたものと判明している。したがって、この両者を結びつける別の何かがあるはずである。
 御野県主神社の境内には、玉串川の堤防の跡が残っているが、現在、5mほどの川幅しかないこの川は、往時には200mもあった。これは河川改修の結果である。というのは、この川は、西方を平行して流れる長瀬川とともに、本来、大和川の本流であり、非常な暴れ川として知られていたからである。もともと、大和川は、奈良盆地に入るまでの山間部では初瀬川と呼ばれており、佐保、曽我、葛城、高田、龍田、富雄川等と合流して水流を増やした後、二上山と信貴山の間、つまり、生駒、金剛山系の間の亀の瀬で急に川幅が狭くなって大阪府に入ってくる。このため、大雨の際には急流となりやすいが、大阪平野での川筋は蛇行していた。また、淀川の合流部では淀川の流れのほうが強く、大和川の水は入ることができずに滞留しやすかったため、流れは容易に溢れ出した。その上、流入する土砂が多く、大阪平野では天井川になりやすかったことが、被害を拡大していた。
 このため、1704年に50年越しの訴えが稔って、大和川の付け替えが実現した。亀の瀬の西、石川と合流点の先に新しい川筋を造って、北に向かっていたものを堺方面に流そうというのである。しかし、この壮大な計画は、わずか8ヶ月で完成した。困難だったのは浅香山の付近だけで、これを迂回する以外は、平坦な地を突き進んだからである。しかも、地面を掘るのではなく、堤を造っていったからである。そして、干上がった玉串、長瀬川の川底は新たに耕作地となったが、その流路を農業用水として再利用したのが、現在の両川である。また、この結果、広大な耕作地が新たに開発されたわけだが、同時に新たな問題が生じた。この新川も天井川であり、一旦、溢れ出すと、北側の広大な低地を洪水に巻き込んでしまうことになったからである。と同時に、堺の港が土砂に埋まってしまって、港湾機能が失われたのである。
 もっとも、古代において重要だったのは、難波津であった。現在の大阪城付近、より具体的には、大阪市中央区の高麗橋付近にあったと推定されるこの港は、中国等との国際港であると同時に、国内各地からの物資の集積所であり、都への交通の拠点であった。しかし、ここから都までには、もう一つ港があった。草香津である。ただし、この港は、現在の大阪府枚方市日下町あたりにあったとされる。生駒山の西麓である。どうして、このような所に港があったのかというと、この付近まで海が迫っていたからである。つまり、6000年前の縄文海進により、海面は、現在より数メートル高く、場所によっては百メートルに達した場合もあったからである。このため、大阪湾は、東方に河内湾と称される入海を持っていた。その後、淀川と大和川から流れ込む土砂により、湾は湖となり4-5世紀頃には草香江と呼ばれたが、古墳時代に難波堀江と呼ばれる運河を造った結果、再び瀬戸内海とつながった。
 この堀江の途中の潟湖、上町台地の先端部に造られたのが難波津であるが、ここと台地の根元付近にあった住吉津は、海から直接船をつけることができたが、河内湾、もしくは、草香江は水深が浅かったはずで、草香津までは積換えが必要であった。また、流入する土砂により草香江の水面が少なくなり、難波潟と呼ばれるようになり、都が北方に移動するとともに、淀川のほうが重要になってくるのだが、それまでは、草香津は重要な港であった。そして、このあたりから玉串川(大和川)を南に遡り、さらには内陸部まで、舟運が行われていた。つまり、美努村は大和川を通じて三輪とつながっており、その双方の近傍に出雲の拠点があるというのは、偶然ではないはずである。

 写真は信貴山頂から見た金剛山地で、奥から金剛山(1125m)、葛城山(959m)、岩橋山(659m)、二上山雄岳(517m)である。なお、亀の背は二上山の手前に見える山嶺の手前に位置するが、ここからは見えない。
 


出雲(4)2014/10/05 [18時26分11秒]
 現在連載中の愛宕ですが、段々と愛宕というよりは、出雲とすべきものになってきました。そこで、愛宕(21)を出雲(1)として、以後の番号を改めたいと思っております。したがって、今回のタイトルは出雲(4)となっていますが、そのような事情ですので、御寛恕戴ければ幸いです。なお、愛宕の連載は、出雲の連載が終わってから再開したい思いますので、今後とも御愛読戴ければと思っております(もっとも、このようなものを御読み戴ける方がどれだけおられるかというと、いささか疑問なのですが)。

 興味深いのは、オオタタネヒコの見つかったとされる場所である。オオナムチは、自分の子孫であるこの人物に祭祀させれば、災害が収まると告げたので、探したところ河内国美努(みの)村で見つかったと「古事記」にある。この美怒は河内国若江郡三野と推定されるが、「延喜式」には、「御野県主神社(みのあがたぬし)、二座」というのがあるとされる。これは、現在の大阪府八尾市上之島(かみのしま)町にある御野県主神社であると考えられているが、この地は、かつての河内郡上之島村であり、若江郡ではない。ただ、上之島村は、明治期に他村と合併して三野郷村となっており、これは、同村を含む河内郡玉串荘の一部を、中世に、三野郷と呼んだからのようである。また、河内郡は若江郡と隣接しており、両郡と他の郡と併せて中河内郡となったように、その関係は深かったようである。したがって、郡境が変わった可能性もあるが、神社の位置が変わったとか、比定地が違っていたとかいう理由も考えられるので、そのあたりは定かではない。
 ところで、この神社の祭神は、角凝魂(つぬこりむすひ)、天湯川田奈(あまゆかわたな)とされるが、これは美努連の祖とされる。うち、前者については記紀に登場しないが、その子孫とされる後者は、クグイを出雲で捕まえた人物である。もっとも、これは、「日本書紀」でそうなっているのであって、「古事記」では、山辺大鷹(鷹は[帝+鳥])という別人の名が書かれている上に、紀伊、播磨、因幡、但馬、近江、美濃、尾張、信濃と追い続けて、ついに越国で網を使って捕まえたとなっている。越国は、後に分割されて越後、越中、能登、加賀、越前国となっているので、現在の福井県から新潟県に至るどこかとなる。
 このクグイは、記紀ともに鵠という漢字を当てている。「燕雀安知鴻鵠之志哉(燕雀いずくんぞ、鴻鵠の志を知らんや)」の鵠であり、神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)の鵠である。そして、鵠は白鳥のことである。前者にある、鴻鵠の鴻はオオハクチョウ、鵠はコハクチョウを指すとされるので、燕や雀のような小さい鳥に、白鳥のような大きな鳥の志は分からないということになる。また、鵠沼は、白鳥の飛来する沼がたくさんあったのが由来とされる。現在、関東地方では茨城、千葉、埼玉県あたりまではコハクチョウの飛来地があるようなので、かつてはもう少し南下していたのかもしれない。もちろん、「古事記」にある地名のほとんどは飛来地であり、大和あたりに迷い込んでくるというのも、ありえない話ではない。実際、九州で視認されているので、紀伊というのも不思議ではないのだが、これは、誰かの勢力圏を表すものかもしれない。
 鵠は、告と鳥でできているが、告は、もちろん、告げるの意である。そして、科白、独白、自白、敬白、白状、告白といった熟語の示すように、白は言うという意味を持っている。そして、古代、鳥は、ヤマトタケルが、死後、白鳥になって飛んで行ったという話が示すように、魂を運ぶものとされていた。したがって、この鳥は、ホムツワケの魂である。ただ、この時点で、彼は死んでいないので、言語能力としてもよいが、これが飛来したので、皇子は物を言い、飛び去ると、また、話さなくなったということになる。そして、それを捕獲したことにより、言語能力を取り戻したということであろう。したがって、この鳥は白鳥でないといけないのだが、と同時に、鵠という漢字を使用することにより、このことを強調しているのであろう。記紀ともに、この字を使っているのはここだけであり、他では白鳥と書かれているからである。
 この東方の越国で捕まえられた白鳥が、逆に、「日本書紀」では、西方に位置する出雲になったのは、鳥が酉だからである。つまり、十二支は方位を表すにも用いられるが、酉は西の正位に配当されるからである。また、白も西に配当される。このような考えは中国の五行に基づくものだが、五行が特に重視されたのは天武天皇の時代である。天皇自身が天文遁甲に通じており、これは、(事実はともかくとして)諸葛亮孔明が使ったとされることでも名高い道教の秘術である。しかるに、この天皇は、「日本書紀」の編纂を命じた人物である。そして、「古事記」で活躍した人物の中で、すでに廃絶した氏族の名が、当時、勢力を持っていた氏族に代えられているのは、よく知られた話である。
 もっとも、「古事記」も、天武の命により編纂されたものである。ただ、この書は稗田阿礼が誦習していた古記録を太安万侶が筆記したものであり、前述のように廃絶した氏族の名を記している。そして、「日本書紀」の完成より8年早いことを考えると、編纂の参考に供する目的で編纂されたものであろう。しかし、この本は、平安時代中期まで存在すら知られていなかった。また、現存する最古の写本も南北朝期のものである。そして、本居宣長が「古事記伝」を書くまでは、一般には知られていなかった。このため、「古事記」偽書説が登場するのだが、当時の日本語にあって、その後消え失せた日本語の発音の違いによって漢字を使い分けており、これは、「日本書紀」、「万葉集」等、当時の本等にしか残されていないものである。また、これら2書では使い分けられていない部分も遺されており、先行する文献であろうといわれている。そして、この使い分けのことが分かったのは、江戸時代であり、一般に知られるようになったのは、大正時代になってからである。したがって、「ホツマワケ」、「先代旧事本記」等の名で知られる書は、これができていないために、偽書となる。
 また、「続日本紀」等にある太安万侶の表記は安麻呂で、万ではなく、麻である点も問題視されていた。しかし、1979年に茶畑の中から見つかった彼の墓に収められた墓誌に、太安万侶とあったことから、むしろ、「古事記」のほうが正しいとなり、この書が当時のものであることが確定された。したがって、「古事記」が、越国でクグイを捕まえたとしているほうが古い伝承であり、「日本書紀」はこれを改めたものと考えるべきである。しかし、なぜ、「日本書紀」は、これを出雲に改めたのだろうか。しかも、「一書では但馬」とはあっても、越国の名はない。また、「古事記」には但馬の名はあるが、出雲の名はない。したがって、「古事記」は参照されなかったか、あえて、無視したかである。うち、前者については、ありえない。「古事記」も「日本書紀」も、天武の命令によって編纂されているからである。それを、国家の威信をかけてつくられた「日本書紀」が一顧だにしないというのは、おかしなことだからである。
 したがって、「日本書紀」は、「古事記」を参考にして書いたものだろうが、都合のいいように改竄されたと考えるほうがよい。しかし、この本が知れ渡ってしまうと、いろいろな部分が違っていることが分かってしまう。我々の氏族の活躍が、なぜ、削除されたのかと問題視する者も出てくるであろう。場合によっては、忠誠を誓えないという話になってくる。つまり、「古事記」は、非常に扱いが難しい本なのである。平安時代中期まで、その存在が知られなかったのも当然である。
 このことから考えると、クグイを捕まえに行った者の名前が天湯川田奈となったのは、この人物を顕彰したかったからである。そして、これが出雲に変わったのは、この人物が、出雲と関係があったからである。したがって、これが後世の付会でなければ、この神社のある場所が美怒村である蓋然性は高い。そして、この御野県主神社と、隣の東大阪市にある枚岡神社は、わずか数qしか離れていない。つまり、この付近は、三輪氏の祖地というだけでなく、出雲族の拠点でもあったのである。そして、枚岡神社の所在地が出雲井であるのは、このことを抜きにして考えてはいけないはずである。

 写真は彦根城内堀で飼育されている白鳥。
 


愛宕(23)2014/09/19 [12時36分04秒]
 もっとも、荒ぶるのはスサノオだけではない。伊勢神宮内宮にも、正宮とは別に荒祭宮という境内別宮があり、アマテラスの荒霊を祭っている。外宮も、やはり境内別宮の多賀宮(高宮)が、豊受姫の荒霊を祭っており、どちらも正宮と同格の扱いを受けている。遷宮も正宮と一緒である。そして、このような扱いを受けているのは、数多くある伊勢神宮の別宮の中でも、ここだけである。また、境内外の別宮である滝原宮は、アマテラスの和霊と荒霊の両方を祭るとされる。阪神タイガースが、毎年、優勝祈願を行うことでも知られる兵庫県西宮市の広田神社のように、アマテラスの荒魂を主祭神とする神社もある。
 しかし、荒ぶるといえばオオナムチである。大物主、大国主と同一視されるこの神は、スサノオの子とも、末裔とも伝えられるが、稲葉の白兎を助け、出雲を治めたことで知られる。国譲り神話では、「邪神」とされるが、高天原から派遣された神々を何度も手なずけ、最終的に、武甕槌、経津主に迫られた際にも、平和裡に対応した。にもかかわらず、あるいは、それゆえにかもしれないが、崇神天皇の時代、天変地異を起こし、疫病が蔓延させているのである。そして、これは私がやっていることなので、私を祭れば収まると夢告している。また、次の垂仁天皇の時代には、その皇子、本牟都和気(ほむつわけ)が30歳になっても物言わないのは、出雲大神の祟りであるとなっている。つまり、オオナムチの祟りである。
 もっとも、オオナムチの二面性については、出雲側からと、朝廷側から見た時とで、大いに異なるのは当然で、単なる見方の問題ともいえる。出雲側から見れば善神であっても、朝廷側からは邪神となりうるからである。ただ、朝廷側は、オオナムチの祟りを恐れ、前者の場合は、夢告に従った。後者の場合は、ホムツワケがクグイを見て「是何物耶(是は何物や)」と言ったので、あの鳥を捕まえてこいと天皇が命令したところ、出雲(一書では但馬)で捕獲し、さらに、皇子が出雲を訪問したところ、話せるようになったので、出雲の神殿を立派にしたとある。つまり、出雲の勝利なのだが、この出雲は、大和朝廷に国を譲れと強要され、それに従った国である。征服された国である。にも関わらず、朝廷は屈服している。それどころか、宮中に、オオナムチを祭っていたことすらある。
 これも崇神天皇の時代であるが、アマテラスと倭大国魂(やまとおおくにのみたま)を宮殿大殿で祭っていたが、天皇がその神威の強さを恐れたとある。大殿は居室の意であるから、寝所である。同床共殿というが、天皇は神とともに休んでいたのである。この直前、百姓が勝手に土地を離れたり、背いたりしたという記述があることを考えると、これが、この2神の祟りと考えたのだろう。このため、この2神を宮殿の外に出すことになった。この時、アマテラスは、豊鍬入姫(とよすきいりびめ)、後には倭姫により、大和の笠縫(かさぬい)を起点として各地を転々として、最終的に伊勢の五十鈴川のほとりに落ち着いたが、これが伊勢神宮である。
 一方、倭大国魂は、渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に預けられたが、髪が落ち、体が痩せて祭祀できなくなったとある。そこで、大倭直の祖である長尾市宿祢(ながおいちのすくね)が代わったとある。現在は、戦艦大和の艦内神社の勧請先であることでも知られる、奈良県桜井市の大和(おおやまと)神社で祭られているが、「大倭神社注進状」によると、この倭大国魂は、オオナムチの荒霊だという。また、オオナムチの別名に大国魂大神というのがあり、同一神であろうといわれている。つまり、戦艦大和は出雲の主神を祭っていたのである。
 それはともかくとして、オオナムチは出雲の神なのに、朝廷で祭られていたわけである。これは、この神が、天皇をも屈服させる力を持つ強大な神であったということを意味する。そして、その力とは、災害が起こしたり、人の会話能力を奪ったりする力であった。つまり、祟るわけであるが、その力は、同時に、これを祭祀する者のものでもある。つまり、出雲のものである。より具体的には、三輪氏である。オオナムチの夢告の直後の記事、意富多多泥古(おおたたねひこ)をして大物主神を祭ることになるのだが、三輪氏はその子孫となっているからである。そして、夢告にしたがって建てられたのが、大神神社である。
 
 写真は大神神社の大鳥居越しに見た三輪山で、前回の写真は、書き忘れていたが、枚岡神社の撫で鹿。
 


愛宕(22)2014/09/04 [21時29分51秒]
 もう一つ、気になる出雲がある。大阪府東大阪市の出雲井である。地名に出雲がついているからではない。ここに、枚岡(ひらおか)神社があるからである。もっとも、枚岡神社は、中臣氏の祖社である。中臣氏と藤原氏の祖神である春日大社の天児屋根(あめのこやね)は、ここから勧請されたので、元春日という異名を持つ。つまり、出雲系ではない。したがって、出雲井というのは、単なる偶然であるのかもしれない。また、江戸時代に出雲井村が河内郡にあり、1889年に同郡額田、豊浦村と合併して枚岡村になったことは確認できるが、その以前がどうであったかは分からない。
 にもかかわらず、この地名が気になるのは、この枚岡神社が河内国の一宮だからである。そして、出雲神社は丹波国の、賀茂神社は山城国の、大神神社は大和国の一宮である。もちろん、一宮は、中世に定められたものであり、古代においては存在しなかった。しかし、一宮は、その地域の最も社格の高い神社に与えられており、神社の大小は関係ない。実際、伊勢国一宮は、鈴鹿市の都波岐(つばき)神社とされるが、拝殿は鉄筋コンクリート造であり、本殿も大きなものではない。二宮とされる多度大社のほうが、ずっと立派であるし、名も知られている。国府に近いとかいうような選定理由もあるのだろうが、それよりも社格が大切なのである。つまり、古代から続いているということが重視される。その意味では、これら、一宮と称される神社は、充分な資格があるが、そのすべてに、出雲の影が見え隠れするのは、どうしてだろうか。
 この出雲井は、境内摂社である若宮社の横にある井戸の名である。そして、出雲井は出雲の井であり、出雲は、普通名詞であるという考え方もできる。たとえば、字義通りに、雲の出る井戸というふうに考えるのである。しかし、下賀茂神社に出雲井於神社があり、出雲大社の境外摂社に出雲井社があるということを考えると、そうではなく、何らかのつながりがあると考えざるを得ない。そして、前者の祭神はスサノオであり、後者のそれは岐(ふなど)神であるが、枚岡神社の天神地祇社という摂社に祭られている神の一覧を見ていくと、スサノオの名がある。また、一言主の名もあるが、この神は、大国主の子、事代主と混同され、同一視されることの多い神である。ただ、勧請先の春日大社には、もとは興福寺にあったものだそうだが、一言主は祭られている。しかし、スサノオはそうではないので、ここではスサノオだけを注目したい。
 もちろん、スサノオを祭る神社は多い。したがって、この神が祭られているというのは、そう不思議ではない。しかし、この神社の4祭神は天津神ばかりである。うち、武甕槌(たけみかづち)と経津主(ふつぬし)の2神は、大国主に出雲国を譲れと迫った神である。その2神と、出雲の神であるスサノオを、同時に祭るだろうか。しかも、これは、明治期に近在の神社を合祀した際に祭られたものではなく、境内各地の末社を集めて天神地祇社としたとあるので、昔から祭られていたということになる。
 もっとも、本来の枚岡神社の祭神は、天児屋根とその配偶神だけである。本来、中臣氏の祖は、この神だったからである。しかし、春日大社が遠く東方の香取、鹿島神宮から武甕槌、経津主を勧請したことにより、778年から枚岡神社でも祭るようになった。そして、天児屋根は、アマテラスが天岩戸に隠れた際に登場する神なので、スサノオと相容れない神ではない。スサノオは、アマテラスの弟であり、天児屋根はアマテラスに従っていたのだから、一緒に祭られていても不思議はないからである。しかし、武甕槌、経津主が勧請されてから、スサノオが祭られるということは考えにくい。したがって、紛れ込んだのでなければ、このスサノオは、勧請以前から祭られていたとしないと話が合わない。
 では、このスサノオを祭っていたのは誰かというと、出雲井に名を遺す人々、すなわち、出雲の人々であろう。もし、そういう人々がいなければ、天児屋根とアマテラスの関係があっても、スサノオは祭られないはずだからである。もっとも、アマテラスは、この神社に祭られてはいないが、天神地祇社には、素盞鳴命社と官者殿社が合祀されており、前者にはスサノオ、後者にはスサノオの荒霊(あらたま)が祭られている。そして、荒霊が祭られているということは、その神が荒ぶる、つまり、祟ることを恐れたということである。
 スサノオは二面性を持っている。イザナギから海を治めよと言われて子供のように泣きじゃくり、高天原で暴れ回り、ヤマタノオロチを退治するというような荒々しい面もあるが、「八雲立つ出雲八重垣妻籠(つまごめ)に八重垣作るその八重垣を」という日本初の和歌を詠み、体毛を抜いて木に変え、アマテラスと誓約(うけい)して潔白を証明するというような面も持っている。これは、様々な神話がスサノオに集まったために起きたとも考えられているが、古代の人々にとっては、スサノオは慈神であると同時に、荒ぶる神でもあった。このため、神が荒ぶることのないように、荒霊を別に祭ったのである。
 


愛宕(21)2014/08/19 [20時46分21秒]
 「徒然草」に「丹波に出雲と云ふ処あり」という段がある。聖海上人が出雲神社に参った際に、狛犬が背中合わせに置いてあるのを見て、珍しいことだと感涙にむせんだが、神官はまた子供がいたずらをしてと、元に戻したという話である。そして、いかにも、兼好が喜びそうなこの話は、神社に狛犬が置かれたことが分かる初期の例であり、当時の狛犬は、子供が動かせるほどに軽量なものであったということが分かるという意味で興味深い。これは、狛犬が、もともと御簾(みす)や几帳が風でめくれ上がるのを防ぐための重しだったからであるが、問題は、出雲神社そのものである。
 この出雲神社は、「丹波に」とあるように、現在の京都府亀岡市にある丹波国一宮で、戦後、出雲大神宮と改名した出雲神社のことである。なぜ、京都なのに出雲神社なのかというと、出雲大社は、ここから移転したからだと社伝にあるそうだ。実際、「丹波国風土記」には、そのように記載されているそうだが、この逸文は、社伝にのみにあるようで、他では存在を確認されていない。したがって、一般的には、出雲大社の神霊を勧請したものと解されているが、この神社は元出雲の名で知られる。また、江戸時代まで、出雲神社というと、この神社を指していた。出雲大社は杵築(きづき)大社と呼ばれていたからである。
 しかし、丹波の地に出雲神社があるというのは、出雲系の人々が、この地に勢力を持っていたということである。そして、この神社と元愛宕は、同じ亀岡市千歳町内、つまり、1955年の合併までは南桑田郡千歳村にともにあり、その距離は2、3qほどしか離れていない(1889年に7ヶ村合併により千歳村が成立した際には、出雲神社は千歳村にあったが、愛宕神社は国分村にあったが)。また、両社ともに大国主を祭っているが、この神は、スサノオの子であるとか、子孫であるとなっているが、出雲大社の主神であり、出雲と非常に関係が深い。したがって、愛宕、元愛宕が、イザナミを単独で祭っているというのは、何らかの形で出雲と関係があるからではないかと思う。
 そうした時に、思いつくのが、京都の出雲路である。京都御所の北側、賀茂川が下賀茂神社の南で高野川と合流するまでの西岸にある地名である。この名は、「和名類聚抄」に登場する愛宕(おたぎ)郡出雲郷に由来すると考えられているが、もっと古い、神亀3(726)年の山背(山城)国愛宕郡出雲郷の雲上里と雲下里の計帳の断簡が残っている。この雲上里、雲下里というのは、上、下出雲郷のことと考えられており、計帳というのは租税台帳である。そして、これが残っているのは、裏紙に使われたからである。
 東大寺は大量の写経を行ったが、そのためには大量の紙が必要であった。しかし、当時、紙は貴重品であったため、各官衙から廃棄された大量の文書を集め、その裏に写経した結果、奈良時代の戸籍等の原簿が残される結果となったのである。実際、奈良時代の古文書のほとんどが正倉院文書なのだが、この計帳は、その中の一つで、雲上里で12人、雲下里で18人の下級官吏の名が書かれている。そして、うち、1人を除く全員が出雲臣氏であった。また、出雲臣氏に隷属していた出雲部という名も出てくる。つまり、平安京の造営以前、この地は、出雲系の人々の一大拠点だったわけだが、奈良時代末期にはこの地に進出してきた加茂氏に勢力を奪われたようで、出雲郷は蓼倉(たでくら)郷と名前を変えている。
 そのような中で、奈良時代前期に建立されたと考えられている彼等の氏寺の上出雲寺は、平安時代後期には荒廃したが、その鎮護社(出雲社)だったのが、現在の上御霊神社である。また、最澄が、下出雲路で制作したとされる毘沙門天像を祭った山科区の毘沙門堂の号は、護法山出雲寺という。このように、彼等の遺構が幾つか、京都市内に遺されているのだが、その中でも注目すべきは、出雲井於(いのへ)神社である。
 比良木(ひいらぎ)社とも呼ばれるこの神社は、下賀茂神社の境内摂社になっている。もとは別の場所にあり、雲下里の人々によって祀られていた。これに対して、雲上里の人々が信仰していたのが、左京区上高野の出雲高野神社である。この神社は、1915年に崇道(すどう)神社に合祀されているが、前者の祭神はスサノオで、後者のそれは不明とするものもあるが、一説に玉依(たまより)姫であるという。スサノオについては説明は不要だろうが、出雲大社の祭神だった時期があるぐらいで、出雲とは関係が深い。
 玉依姫については、「霊の依り代」を意味することから巫女を意味する語とされ、記紀等に何人か登場するが、その中に、大物主と結婚した活玉依比売(いくたまよりひめ)がいる。もっとも、「山城国風土記」逸文には、川上から流れてきた丹塗矢を飾っておいたところ懐妊して、賀茂別雷命(かもわいかづちのみこと)、つまり、上賀茂神社の祭神を産んだ玉依比売の名が載っているので、この祭神は、この人物を指すとも考えられる。しかし、この賀茂神社の縁起の話は、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)と大物主の物語とほぼ同一であり、賀茂氏が後から来たことを考えると、勢夜陀多良比売と大物主の話から作りだされた可能性が高い。そして、大物主は、大国主と同一視されている。
 また、奈良県桜井市にも出雲という地名が残っているが、こちらは、どの程度遡れるものかは分からなかった。ただ、ここの十二柱神社には、野見宿禰(のみのすくね)の墓とされる五輪塔が残っている。これは、近傍にあったものを移したものだが、この相撲の祖とされる人物の出身地は出雲である。また、この地は、三輪山の南麓にあたるが、この山の西麓にある大神(おおみわ)神社の祭神も大物主である。したがって、この地に出雲の地名が残っているのは、そう奇妙なことではない。
 
 写真は下御霊神社の狛犬(上御霊神社の狛犬より、ずっと可愛いので…)
 


愛宕(20)2014/08/15 [17時21分41秒]
 (9)で述べたように、愛宕神社の主祭神はイザナミである。また、元愛宕も、大国主、火産霊(ほむすび)神、つまり、カグツチとともにイザナミが祭られているが、インターネットで確認した同社の社頭案内板によると、3神の中央にイザナミの名が掲げられている。つまり、主祭神である。ところで、このイザナミは、いうまでもなく、イザナギの妹であり、妻であり、黄泉国の王である。つまり、日本の国土を産んだ神であり、日本神話の始まりの中心をなす神であるが、この神を単独で祭っている神社は、意外と少ない。これに対して、イザナギを単独で祭るイザナギ(伊邪那岐、伊弉諾)神社は、奈良や大阪等に何ヶ社かあるが、多くは、延喜式神名帳に載せられた式内社であり、その歴史は古い。
 うち、淡路国一宮の伊弉諾神宮は、イザナミもあわせ祭るが、これは、その伊弉諾という名から考えても、イザナギが本来の祭神である。だとすると、イザナミはイザナギの配偶者だからという理由で、後に付与された可能性が高い。もっとも、神社側は当初からイザナミをも祭っていたとしているが、だとしても、中心となる神は、イザナギであろうし、「延喜式」には「淡路伊佐奈岐神社一座」とあるのだから、イザナギのみを祭っていたと考えるべきである。
 滋賀の多賀大社も同様である。この神社は、スサノオが根の堅州国に去った後、「伊耶那岐大神者坐淡海(おうみ)之多賀也(伊耶那岐大神者淡海の多賀に坐す也)」と「古事記」にあることに由来する。イザナギは淡海の多賀に安住したというのである。ところが、「日本書紀」では、同じ部分が「是以構幽宮(かくりのみや)於淡路之洲(是を以て幽宮を淡路の洲に構う)」となっている。つまり、イザナギの安住の地が、こちらでは淡路となっているのである。そして、前者に基づいたものが多賀大社であり、後者によるものが伊弉諾神宮となる。
 もっとも、「古事記」の「淡海」は、「淡道(淡路)」の誤写ではないかといわれている。「古事記」では、近江は近淡海(ちかつおうみ)と書くのが通例だからである。ただ、その縁起からいっても、両社は同一の性格のものであり、イザナギ単独でないとおかしい。イザナギの幽宮であるのなら、当然、イザナミと別れてからだからである。にもかかわらず、多賀大社にイザナミが祭られているのは、伊弉諾神宮と同一の理由であろう。
 伊勢神宮別宮の月読宮内の伊佐奈弥宮、埼玉の三峯神社、茨城の筑波山神社等にもイザナミが祭られているが、単独で祭られているわけではない。これらは、すべてイザナギとともに祭られており、夫婦神として祭祀されている。他にも、イザナギが祭られている所は幾つかあるが、茨城県の常陸国総社宮のように単独で祭られている場合を除くて、概ね、イザナミとの夫婦神として祭られている。しかも、総社宮の場合は、本来の主祭神はオオナムチであったのが、大国主に替わったようなので、イザナギが本来の祭神であったかどうかも疑わしい。おそらく、イザナギの名を冠する神社以外に、イザナギのみを主祭神とする所は少ないのではないかと思う、
 一方、イザナミを主祭神とする神社はというと、出雲に比婆山(ひばやま)久米神社、熊野に花窟(はなのいわや)神社がある。ただ、この両社は、記紀でイザナミの墓所とされたところで、単独で祭られるのも当然である。これに対して、出雲の神魂(かみかもす)神社の場合は、イザナギも祭っているが、これは、本来の姿ではなく、中世以降のものであり、それまではイザナミだけであったとされる。また、出雲国一宮である熊野神社にも伊邪那美神社があり、その名の通り、イザナミを祭っている。この他、同国二宮である佐太神社もイザナギとともにではあるが、イザナミを祭っている。もっとも、佐太神社の場合は、中世に比婆山からイザナミを分霊したそうなので、古来のものではないだろうが、イザナミを祭る神社は、出雲に多い。そして、このことから、イザナミは出雲系の神ではないかといわれている。しかし、愛宕にしろ、元愛宕にしろ、所在地は京都府であり、出雲ではない。他に、イザナミを単独で祭る神社は、福岡市の飯盛神社ぐらいであるが、この神社は延喜式に掲載されていないので、余計である。

 写真は奈良県天理市の伊射奈岐神社参道。
 


愛宕(19)2014/08/01 [12時45分34秒]
 では、日本人が仏像以外に像を造らなかったのかというと、そのようなことはない。たとえば、土偶や埴輪というものがある。しかし、土偶は縄文時代、埴輪は古墳時代にしか制作されていない。また、「魏志倭人伝」には、卑弥呼が「鬼道に事(つか)え」たとはあるが、像を祭ったとは書かれていない。考古学のほうでは、性器を象ったものが出土しているようだが、前述の土偶や埴輪を除くと、人物像は出ていないようである。
 天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすび)、神産巣日(かみむすび)の3神について、「古事記」は、「独神成坐而隠身也(独り神となりまして、隠身なりき)」とある。この隠身を隠れると解するのと、籠ると解するの2説があるのだが、仮に前者と考えると、姿を見せなかったということになる。また、「万葉集」にも「かけまくもゆゆしきかも言はまくもあやにかしこき」という柿本人麻呂の長歌があるが、これは、神のことである。つまり、神は、心にかけるのもゆゆしく、申し上げるのも実に畏れ多いという存在なのである。古代のユダヤ教で、神の名は口にするものではないという考えから、その正確な名は口伝のみに伝わっているという話を想起させるのだが、神は人前に姿を現さないというのが古代の信仰であったということになる。
 山や岩、さらには樹木や鏡のような人工物が信仰の対象となったのは、このことが大きかったのだと思う。これらのものは、神の依代(よりしろ)であり、神の下るものであったとされたのである。このため、仏教が伝わった最初においては、仏像崇拝は奇異の目で見られ、ついには、蕃神として難波の堀江に流された。しかし、仏教の信仰が盛んになるにしたがって、逆に、神道の側で像を造るようになった。
 763(天平宝字7)年、三重県桑名郡多度町(現在は桑名市)の多度大社の神は、仏教に帰依した。この年、私度僧満願が神社の東にあった井戸の傍の道場で、阿弥陀仏を祭ったところ、人を介して、「我多度神也吾経久劫作重罪業受神道報今冀永為離神身欲帰依三宝(我は多度神也。吾久劫を経て重罪業を作[な]し、神道の報を受く。今、冀[こいねがわく]は永[とわ]に神身を離れ、三宝に帰依せんと欲す)」という願いを受けた。多度神が現れ、神であることに疲れたので、仏教に帰依したいと告げたのである。このため、満願は神域の樹木を伐って神像を造り、多度大菩薩として祭ったとある。この像は現存しないが、「多度神宮寺伽藍縁起資財帳」という、801(延暦20)年に書かれた文書には、「神御像」という言葉で記録に残されている。これが、神像の記録上の最初とされる。現存するものの中では、奈良薬師寺の休岡(やすみがおか)八幡宮の神像や、京都松尾大社のそれが最古といわれるが、いずれも9世紀のものである。つまり、平安時代にはそのような像が造られていたということになるが、これは、その歴史から考えても、信仰の対象である。
 その中に、天狗の像を入れるというのは、飛躍のしすぎだといわれそうだが、大分県豊後高田市の長安寺に興味深いものがある。1970年に国の重要文化財に指定された木造太郎天である。像内に大治5(1130)年3月18日の造立銘のあるこの像は、太郎天という名称の示すように、天狗であるという。この太郎天という名称は他では聞かないが、愛宕山に棲むとされる天狗の名は太郎坊である。そして、この太郎坊は、日本一の大天狗とされ、富士山や滋賀県東近江市の阿賀神社にも祀られているが、その本来の地は、愛宕である。
 この寺のある国東半島は、修験道を中心とした独自の宗教が残っていることで有名だが、僻遠の地に往古の文化が遺っているというのはよくあることなので、かつての天狗信仰の名残であったとも考えられる。したがって、平安時代後期に造られた像が本当に天狗像であるのなら、もっと以前、都にもあった可能性がある。そして、その一つが、この愛宕山の天狗像であったのではないかと思うが、長安寺のこの像が信仰の対象であるように、当然、愛宕山でも、信仰の対象として設置されたということになる。しかし、だとしたら、なぜ、天狗は信仰の対象となりえたのだろうかと思う。
 天狗も、一つ目小僧や河童も似たようなものだと思う。どちらも、人が考え出した妖怪である。しかし、その扱いは大きく違う。鞍馬寺や、東京の高尾山には天狗信仰がある。秋葉神社などもそうである。これに対して、検索をかけると、一つ目地蔵というようなものはあるが、一つ目小僧自体を信仰したというような話は聞かない。河童を祀った神社や寺はあるが、あまり一般的ではない。その違いはどこにあるのだろうと思う。
 一説に、天狗は山の神が変化したものだという。一般に、山の神は女性と考えられており、その点、天狗と似つかわしくないのだが、妖怪というのは、本来は神であったものが、化け物に転じていったというのは、民俗学の主流となる考えである。記紀に描かれた神々が崇敬の中心になっていくのにしたがって、地方の神々はその地位を奪われ、畏怖よりも恐怖の対象として描かれていくようになったという考えである。そういう中で、もとが山の神であったがゆえに、信仰の対象となりえたというのである。
 しかし、それでいくと、一つ目小僧や河童も、もとは神であったはずである。にもかかわらず、天狗が崇敬を集め、これらがそうではないというのは、どうも納得がいかない。ただ、天狗のように妖怪変化の類であるはずなのに、同様に祀られているものもいる。鬼である。そして、共通するのは、ともに妖怪変化中の強者であるということである。本来は、鬼も抜きんでて強大な力を持った神であったが、神話から外れていった結果、信仰の対象から外れ、荒ぶる神から化け物になったのかもしれない。
 「古事談」に、頼長が愛宕を選んだ理由として、「古神祇の官幣に預からざる」社に呪詛すれば願いが叶うと聞いたからとある。もちろん、(2)で述べたように、阿当護神に従五位上や従四位下を授けたという記載はあるが、これは亀岡市の愛宕神社のことである。つまり、愛宕山の神そのものに神階は授けられていない。したがって、「古神祇の官幣に預からざる」社という条件には合致する。そして、官幣に預からなかった理由として、そこに祀られていたものが、記紀の神話の系統から外れたものであったからと考えると、この説はより信憑性があるように思う。

 写真は休岡八幡宮。
 


愛宕(18)2014/06/23 [22時42分49秒]
 この天狗像が、「呪詛」に際して、別に持ち込まれたものかどうかは、「台記」に欠落部分があるために、不明である。ただ、愛宕山に天狗像があるのを知らなかったという頼長の言葉を信じるならば、以前からあったもののようにも思う。もっとも、当時の公家の日記というのは、有職故実を子孫に伝え、儀式の次第を間違わぬようにするという側面もある。また、宮廷等から、儀式の次第を確かめるため等の理由で提出を求められることもある。したがって、日記だからと言って、読むのが書いた本人だけとは限らない。このため、犯人は別にいるという主張を伝えるために、事実を歪曲した可能性を否定することはできない。
 ただ、法皇が愛宕山に人を派遣したところ、「既に其の釘有り」だったというのだから、釘を打たれた天狗像はそのまま放置されていたのであろう。しかし、近衛天皇はすでに死亡しており、「呪詛」は完成していたのだから、放置しておく必要性はない。人里を離れた山中であるとはいえ、現に僧が住んでいるのだから、発見され、犯人探しが行われる可能性があるからである。そのことから考えると、この像は、そう簡単に動かせるようなものではなかったか、簡単に発見できないようなもの、つまり、そのあたりの木の洞にでも隠しておけるぐらいに小さかったものかのどちらかということになる。
 しかし、人が派遣されて、すぐに発見されているということを考えると、後者の可能性は低い。それよりも、像は比較的大きなものであり、たとえ、僧が釘を打ってあるのを見つけたとしても、関わり合いになりたくなかったのだと考えれば辻褄は合う。だいたい、僧が何年も前の来訪者を覚えていたのは、それだけ訪ねてくる人が少ないからであり、見聞きしても連絡しようがなかったほどに、交通の途絶した地であったからとも考えられる。だとすれば、「呪詛」のためだけに、わざわざ運んで行ったり、現地で作成したというのは考えにくく、以前からそこにあったと考えたほうが筋は通る。
 そして、その推測が当たっているとしたならば、愛宕山には天狗信仰があったということになる。単に、深山に天狗が棲んでいると考えられたというだけだったら、それは妖怪でしかない。しかし、天狗の像を造るというのは、そこにある材料を使って作像したとしても、それなりの労力は必要だからである。つまり、多少の労力を払ってでも、それを山に置こうとするのは、信仰がなくてはできない。
 近年、大江山に鬼のモニュメントが造られ、鳥取県境港には妖怪が林立する道路ができたように、妖怪の類を像にした所がないわけではない。しかし、これらは、観光のため、集客のために設置されたものである。これに対して、平安時代末期というこの時代に、そういう考えはない。たとえば、熊野詣では、この頃に始まっているが、藤原定家の「熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)」等を読んでいると、当時の旅は苦難の連続でしかない。にもかかわらず、後世、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるように、たくさんの人々が熊野を目指したのは、信仰のためである。
 もっとも、後鳥羽院の熊野御幸は28回にも及んでいる。先代の後白河院の34回にはかなわないもの、あまりにも多数である。そして、これを信仰心のためだけと考えるのは、躊躇いがないでもない。また、定家の場合は、院のために働けば、出世も考えられるという打算の産物である。しかし、これが物見遊山のためであるかというと、それもまた違う。たとえば、定家の記録によれば、10月(今の暦だと11月)だというのに、夜明け前から水垢離をしている。観光のために、そのような寒い時期に、水を浴びるとは、到底思えない。
 また、物見遊山の物見は見物の意味であるが、遊山は修行を終えた僧が、他の寺、つまり、他の山で修業をするという意味であった。そして、そのような意味の言葉を転用しなければならなかったほどに、楽しみとしての旅はこの時代には存在しなかった。実際、旅というのは、公用で出かけるものであったので、旅館のような便利なものが発達したのは、近世のことである。西国三十三ヶ所なども平安時代に始まるようだが、これも信仰のためである。
 旅がそうであるのなら、造像もそうである。実際、平安時代の彫刻物を見ていると、そのほとんどが仏像である。もちろん、邪鬼像というようなものもあるが、そのほとんどが四天王や仁王等に踏みつけられているものである。つまり、仏教の偉大さを示すために踏みつけられているのだが、そのような中に、奈良興福寺に灯籠を担いだ一対の邪鬼の像がある。天灯鬼と龍灯鬼という名で知られるこの像は、須弥壇の前に置かれ、仏像を照らしていたようにも思えるのだが、実は違う。
 というのは、健保3(1215)年に造られたという書付があったとされるこの邪鬼は、明治時代には破損しており、たんなる部品でしかなかった。それを、森川杜園という希代の職人が、組み合わせると鬼になることに気付いた。しかし、彼は、この像を組み立てただけでなく、新たに灯籠を付け加えたのである。もっとも、このことをもって彼を非難するには当たらない。当時は、原型そのままに修復することを重んじるような時代ではなかったからである。しかも、彼は仏像を修理する部材として、これを受け取ったのである。もし、この人物が、これを鬼だと見抜き、それを組み立てるということを行わなかったならば、他の仏像を修理するために使われ、現在、国宝に指定されているこの像は存在しえなかったのかもしれないのである。
 それはともかくとして、この邪鬼は、何を担いでいたかは不明であるが、おそらくは灯籠ではなかったと思われる。というのは、この像は享保2(1717)年に西金堂が燃えた際に助け出されたようだからである。つまり、西金堂の仏像群の中にあったものであり、その役回りは、踏みつけにされていなかったら、仏像の支えであったのではないかと思う。
 また、寺院の屋根に鴟尾(しび)というものが飾られるが、これは火災除けの呪符である。そして、これは社寺にしか見られなかったものだから、広い意味で信仰の一部である。

 写真は東大寺中門の持国天像に踏みつけられている邪鬼。
 


愛宕(17)2014/06/06 [23時44分29秒]
 京都に住んでいた頃、何となく、烏丸(からすま)通りがかつての朱雀大路であると思っていた。御所の近傍にある一番広い通りだったからである。それが、本当は千本通りだと知って、少し裏切られたような気分になった。この通りには古書店があった関係で、何度か通ったが、特に道幅が広いわけでもなく、何の変哲もない通りだったからである。
 念のために書いておくと、朱雀大路は、平安京の中心線を南北に連なる通りである。北端の大内裏朱雀門と南端の羅城門の3.5kmを繋いでいるが、幅は84mもあり、通りというより細長い広場のような空間である。羅城門から入った旅人は、その広大な空間に驚き、その人の数に驚嘆し、はるかに望む宮城の壮麗さに感嘆したはずである。そのような仕掛けを持った大通りが、千数百年の歴史を経たとはいえ、どこにでもある通りになっているとは思えなかったのである。しかし、他でも書いたが、山陰本線(嵯峨野線)の丹波口=二条駅間の南北に伸びる線路、そして、そこから伸びる千本通りこそがかつての朱雀通りであり、二条=円町駅間で西方に線路が曲がる北側が、かつての大内裏であり、聚楽第である。しかし、そこへ行っても何もない。住宅地が広がっている以外には、碑があるばかりである。
 もっとも、羅城門は816(弘仁7)年の大風で倒壊、再建されたものの980(天元3)年の暴風で破壊されてから修理されることもなく放置されたままであった。したがって、芥川龍之介の「羅生門」は1467(応仁元)年の応仁の乱で荒れ果てた京都が舞台でなく、「この平安朝の下人のSentimentalismeに影響した」の一節が示すように、平安時代中期から後期の、2度目の倒壊により放置された羅城門での出来事である。確かに、よく読んでみると、「この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った」とはあっても、戦乱という言葉はない。
 また、内裏も、羅城門の2度目の倒壊の前、960(天徳4)年に焼失しており、その後再建されたものの、院政期には、天皇が外戚の邸宅に居住するようになった。これを平安京の里坊にあるという理由で里内裏というが、このため、天皇の居所は転々と替わっており、よく、平安京の街路図に示されている大内裏があったのは、平安時代中期までである。現在の京都御所は、平清盛の片腕として活躍し文章生蔵人雑色という低い身分から権大納言に至った藤原邦綱の邸宅だったものであるが、これは本来の平安京の北東隅にある。その東端はかつての東京極通り(現在の寺町通り)であり、北辺の一部は一条通りの北側、つまり、域外にはみ出している。にもかかわらず、住んでいて、そう違和感がなかったのは、現在の京都が平安京創建の時代に比べると、全体に東に中心に移動しているからである。たとえば、河原町通りなどは、寺町通りの東にあるのだから、洛外であるが、現在は京都で最大の繁華街である。また、その東側、当然、平安京の外になる鴨川は、かつては死体捨て場だったのに、散策を楽しむ人が多く、さらにその東側の東山近辺は、清水寺、八坂神社等の寺社仏閣が立ち並び、観光客がひっきりなしに通る。
 これは、近代の京都の輪郭を決定づけたのが、御土居だったからだという説がある。1591(天正19)年に豊臣秀吉が建設させた御土居は、東は鴨川、西は紙屋川を堀の代わりとして、鷹ヶ峰から九条付近まで京都の町を南北に長く囲っていた土塁である。そして、古くは西堀河とも呼ばれた紙屋川は、北野天満宮付近で天神川と名を変えるが、その付近から御土居は川を離れるため、平安京の西側は、その外側になる。もっとも、なぜ、秀吉が御土居を建設させたかは定説がないようだが、仮に、京都の防衛のためであったとすると、平安京西部は、その必要性のない土地ということになる。
 壬生(みぶ)というと、新撰組を思い浮かべる方も多いかと思うが、京都市南西部に位置するこの地は、壬生菜と呼ばれる京野菜の産地でもある。そして、壬生菜はミズナの1品種であり、水菜という名からも分かるように、湿潤な土地を好む。つまり、この壬生の付近は、住宅地ではなく、農地であったのだが、このことは1918年に下京区(1929以降は中京区)に編入されるまで、京都市ではなく、朱雀野村の一部であったことでも分かる。また、壬生という地名自体も水生から来ているという。壬は「みずのえ」とも読み、十干の一つであり、水の兄を意味するからであるが、この付近は低湿地である。
 1935年の6月の集中豪雨による京都の大洪水の際には、大規模な浸水域は、紙屋川を含めた桂川近辺、つまり、南西部であった。にもかかわらず、この洪水が鴨川洪水とも呼ばれるのは、被害の半分が東部のこの流域であったからである。そして、浸水面積に対する被害の大小を考えると、この時点においても、桂川周辺は市街地ではなかったということになる。また、2013年にも、桂川が溢れ、嵐山等で被害が出たが、京都市南西部は何度も水害に遭っている。治水技術が向上したはずの明治以降ですら、数次の洪水が発生して被害が生じているのだから、平安時代の土木技術では、抜本的な解決はできなかったと思う。
 このことを端的に表しているのは、慶滋保胤(よししげのやすたね)が書いた「池亭記」という本である。その冒頭に「予二十余年以来、歴見東西二京、西京人家漸稀、殆幾幽墟矣。人者有去無来、屋者有壊無造(予二十余年以来東西二京を歴見するに、西京は人家漸く稀にして、殆[ほとほと]幽墟に幾[ちか]し。人は去ること有りて来たることなし、屋[いえ]は壊るること有りて造ることなし)」とある。平安京の南東部どころか、西京全体が幽墟と化していたのである。しかも、彼がこの本を書いたのは982(天元5)年であり、平安中期である。つまり、遷都から200年経っていない時期のことである。
 したがって、西京のさらに西方に位置する嵯峨野だとか嵐山だとかいう観光地も、頼長の時代には単なる原野だったのだろうと思う。鎌倉から室町にかけて多くの寺院が建てられたのも、そこが空いていたからであったのだろう。そして、この地が繁栄するのは、戦国時代末期になって、豪商角倉了以が保津川を開削して、この付近が水運の中心地になるまで待たねばならなかった。したがって、平安末期の頼長の時代ともなると、京の西部は荒れ果て、愛宕山などは人跡稀な深山と考えられていたはずなのである。
 つまり、愛宕山こそ、天狗の棲まう場所と信じられても、何の不思議はなかったのである。
 
 写真は大内裏跡付近で西方にカーヴする嵯峨野線の線路。
 


愛宕(16)2014/06/02 [20時01分29秒]
 愛宕山が歴史に登場するのは、(1)に述べたように860年であり、これは、白雲寺「中興」の100年近く後のことである。これに対し、愛宕山の天狗に関する最古の記録は、さらに300年近く後の平安末期で、(5)でも触れた左大臣藤原頼長の日記「台記(たいき)」の久寿2(1155)年8月27日の条に「為咀朕打釘於愛宕護山天公像目(朕を詛[のろ]わん為に釘を愛宕護山の天公像の目に打つ)」とあるのがそれである。
 ここで朕とあるのは、その1ヶ月ほど前に、弱冠17歳で死亡した近衛天皇のことである。その霊が、口寄せによって語ったとされるところでは、自分を呪うために、愛宕山の天公像の目に釘を打った者がいたという。その結果、自分は目を患い、死に至ったというのであるが、「台記」には(鳥羽)法皇がこの話を聞き、「使人見件像既有其釘(人をして件の像を見せ使むに、既に其の釘有り)」という記述が続いている。人を遣わして像を見させたところ、たしかに釘を打たれていたというのである。このあと、「即召愛宕護山住僧問之僧申云五六年之前有夜中(即ち愛宕護山に住む僧を召して之を問う。僧、申すに云五六年之前の夜中に有りと云う)」と続くのだが、その後の7字ほどが残っていない。虫にでも食われたのだろうと思うが、愛宕山に居住する僧を召しだして聞いたところ、5、6年前の夜中にそのようなことをしていった者がいたということであろう。
 この時、頼長は服喪中で、家にいたが、その犯人として頼長と父忠実が取り沙汰されていることを知り、「余唯知愛宕護山天公飛行未知愛宕護山有天公像(余、唯、愛宕護山の天公の飛行するを知るも、未だ愛宕護山に天公像の有るを知らず)」と釈明を述べている。自分は、愛宕山の天公が飛行するのは知っているが、愛宕山に天公の像があるのは知らなかったのだから、それは濡れ衣であるというのである。しかし、その後の1212-5年に書かれた「古事談」では、「藤原頼長、愛太子竹明神四所権現に呪咀の事」という題名が示すように、近衛天皇の病死の原因は、頼長が呪詛したからとなっている。そして、頼長は、これが原因で失脚し翌年の保元の乱で矢傷がもとで死亡する。
 もっとも、呪詛が事実であったかどうかはどうでもよいので、本筋に戻るが、この天公の公の呉音は「く」であるので、「てんこう」ではなく、「てんぐ」と読むべきものである。したがって、これは、天狗のことであり、この山に天狗が棲んでいるのは、この当時、既定の事実とされていたことになる。また、その天狗は飛行するものであったと認識されていたことも分かる。
 もちろん、「台記」の記述のように、愛宕山にあったのは、天狗の像だけである。しかし、そこに、そのようなものが置かれたのは、愛宕山に天狗がいると信じられていたからである。「平家物語」には、「愛宕護高雄の山も昔は堂舎軒をきしりたりしかども、一夜の中に荒れにしかば今は天狗の棲となりたり」とある。愛宕や高雄の山は、昔は、堂舎が、軒を触れ合わんばかりに建っていたものだが、一夜にして荒れ果てて、今は天狗の棲みかとなっているというのだから、山が荒れて、魑魅魍魎の類が棲むようになったと認識されていたのかもしれない。
 実際、先述の「源氏物語」では、天狗は木霊と対で考えられていた。したがって、木霊が深山に棲むものであるのなら、天狗もまたそう考えられていたはずである。「台記」の記述でも、5、6年前の夜中に天狗像の目に釘を打った者がいると証言しているのは、愛宕山に住む僧である。その2、3年後に近衛は眼病を患い、さらに2年経って死に至ったとされるわけだが、このことを知っていたのは、呪詛した本人を除けば、この僧だけである。つまり、都の人は誰も知らなかった山中の出来事である。
 また、「古事談」で頼長が呪詛したとされる「四所権現」は、愛宕山の奥の院にあった。一部で、清滝から登る表参道の途中にあった火燧(ひうち)権現、1879(明治12)年に燧神社として移されたのがそれであると書いてあるが、実際は、戦国時代末期の1552(天文21)年に、西麓の樒原(しきみがはら)に移され、現在は四所神社となっているものであろう。したがって、「愛太子竹明神」の「竹」も岳のことかとも思うが、どちらにしろ、山の中である。しかし、愛宕山は、京都の市街地のどこからでも遠望できる山である。また、京都市内でもっとも高い山であるといっても、清滝から数時間で登れる山である。これが鞍馬というのなら分かるが、愛宕は、深山幽谷というには、遠い存在であるように思う。
 


res:写真について2014/05/18 [23時02分51秒]
 いや、もう、お恥ずかしい限りであります。考えてみれば、専修学生に選ばれるような人が、写真担当という戦闘配置とはあまり関係のない部署にいるというほうがおかしな話であります。
 


写真について山本留吉2014/05/16 [19時11分09秒]
撮影者の推測について興味深く読ませていただきました。
私も古写真の類を細々と集めていますが、構図やピント等素人とは思えませんし、昭和5年の演習時に写真師が撮影したものを細岡さんから貰ったのかもしれませんね。
同じ骨董店に古鷹から撮影した艦隊の写真もあったのですが、望遠のないカメラで撮られていたため、かなり小さかったので購入は見送ったのですが、あちらも買って於けばよかったです。


御提供戴いた写真について(追記)2014/05/15 [12時41分29秒]
 その後、写真集を見直しておりましたら、合戦準備の写真と同一のものが掲載されておりました。ただ、写真説明には「昭和5年度大演習中の10月20日頃の赤軍第3艦隊第7戦隊旗艦の古鷹」とあり、古鷹という推定は当たっていたようですが、日付が異なります。したがって、翌年1月18日というのは、細岡宗光という人から贈呈された日付と考えたほうがよさそうです。
 どうも、リサーチが甘かったようで申し訳なく思っておりますが、あれだけ鮮明な写真というのは珍しく、御提供戴いたことを重ねて御礼申し上げます。
 
 写真はヤマアラシ。
 


御提供戴いた写真について2014/05/13 [12時52分39秒]
 細岡という苗字は、日本中で1000人ほどがおられるそうで、とりわけて珍しいというほうではありませんが、それほどありふれたものでもないようです。したがって、この年代、細岡宗光という名の方が何人もいたとは考えにくく、同一人物である可能性は高いと思います。しかし、兵学校には16歳から19歳までという年齢制限があり、1931年の時点での修業年限は3年8ヶ月(翌年から4年間)ですので、それから艦艇に配備されたと考えると、卒業の10年前には10歳前後となり、写真撮影が不可能ではないとしても、いかにも不自然です。しかも、海兵20期というと1893年、明治中期の卒業ですので、到底ありえないということになります。
 そこで、こちらのほうでも検索してみると、この方は専修学生の第20期となっており、上記の一般的な生徒、正しくは将校生徒というようですが、とは、異なる制度の卒業生だということが分かりました。これは、下士官兵に将校への道を開くため、1920年に制定されたもので、兵曹長、一等兵曹の中で優秀な者を将校生徒に准じた教育を受けさせるというものです。そして、この課程を卒業したものは、特務士官として任用されることになっています。
 たまたま、私の父親は、陸軍のほうですが、兵曹長で敗戦を迎えております。1937年に二等兵として徴兵され、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍曹という階級を順次進んできたのだと思いますが、そこに至るまでに8年間かかっています。そして、これが戦時だったということを考えると、平時においてはもっと進級に時間がかかったのではないかと思われます。また、兵曹長、一等兵曹になってすぐにこの制度を利用できたとは思えませんので、この当時は、10年以上の兵役経験者でないと専修学生にはなれなかったのではないかと思います。実際、善行章の4、5本ぐらいつけた下士官が専修学生に選ばれたという記述があり、善行章は3年に1本ずつ増えていくのですから、12ないし15年間の軍隊生活を経験した人物でないと入校は無理だったようです。
 また、新兵のうちに、艦橋から見下ろす形で写真を撮影するなどということは、旧日本海軍では考えにくい話ですので、撮影者がこの人であるのなら、撮影時、下士官ぐらいにはなっていたと考えるべきでしょう。そうした時、この人物が10年後に専修学生として兵学校を卒業していたとするのなら、撮影当時、兵役10年近い古参兵であったはずで、条件は合致します。
 しかし、出港時は、通常、総員配置です。実際、写真でも、出港作業を行っている者以外は、甲板上に整列しており、登舷礼の準備を行っています。にもかかわらず、撮影者はそれには参加せず、艦橋上、それも中央部の特等席から撮影しています。また、合戦準備時は、当然、戦闘配置でしょうが、無人であるべきはずの艦首から撮影しています。古参兵であったとしても、そのようなことが可能なのでしょうか。
 私の父親は写真が趣味だったようで、中国で撮影した兵隊時代のものが写真帳として残っております。しかし、それは外出時等に撮影したもので、軍務についている時のものはなかったように思います。海軍の場合でも、撮影された写真の多くは休憩時のものです。もちろん、戦闘時の写真も含めて、総員配置時に艦艇から撮影されたものは数多く残っておりますが、そのほとんどが報道班員や士官(軍医等が多いようです)によるもので、下士官兵によるものは少ないはずです。にもかかわらず、下士官が撮影していたということは、撮影者が総員配置の対象外であったか、写真撮影を任務としていたかということになると思います。
 前者で考えるのならば、他艦からの乗艦者ということも考えられますが、1月ですと前年12月に艦隊編制がなされてすぐで、人事異動の季節でもなく、少し難しいと思います。ただ、煙突の1本線(若干、細いようにも思いますが)から考えると、この艦は1番艦であり、旗艦である可能性が高いと思います。したがって、戦隊司令部付の下士官だったのかもしれません。もっとも、艦隊編制時の戦隊旗艦は青葉で、そこから変更されたかどうかまでは分かりませんでしたので、確定はできません。また、司令部付であるならば、戦闘配置時には艦橋にいると思われるので、艦首から撮影できるのかという疑問が生じます。
 となると、可能性としては、後者です。たとえば、飛行科には偵察員がおり、写真撮影を任務とした者がいたからです。そして、このクラスは、最初の航空機搭載巡洋艦です(ただ、この前年に滑走台を撤去し翌年以降に射出機を搭載したという記述があるので、この年に飛行科があったかどうかは不明です)。飛行科以外にもそのような任務についていた者がいたのかもしれません。そして、そのように考えていった時、構図の撮り方、焦点の合わし方等が素人のものとは思えないということに気づきます。
 というのは、当時の写真機というのは、重く、扱いが面倒なもので、きちんとした撮影には年季が必要だからです。もちろん、全自動でありませんし、フィルムですので、私のように数打ちゃ当たる式の撮影ができるわけでもありません。にもかかわらず、海は凪いでいるようですが、揺れる艦上からこのような写真が撮影できているのです。
 もっとも、当時の軍艦写真の中にはプロのカメラマンが撮影したものがあり、そのような写真は、除隊記念等でよく購入されています。しかし、そうなると撮影日が手書きされているというのが不思議です。また、写真のような総員配置がかかるような状況時に、平時といえ、民間の撮影者が乗艦していたとは思えません。
 市販されている艦艇の写真集を見ていると、焦点があっていない、粒子が粗い、構図がなっていない(この場合、ほとんどがトリミングをすることにより原画の欠点を隠していますが)というようなものでも収録されています。これは、そうでもしないと写真が集まらないからですが、今回、
御提供戴いた写真には、そのような欠点がほとんどありません。ただ、合戦準備の写真で空が大きく写っていましたので、若干、トリミングしましたが、おそらく揚錨機の手前が混雑しており、主砲全体を入れたかったためにわざとそうしたものと思われます。にもかかわらず、砲口が切れているということは、これ以上下がることができず、かといって、写真機を横に向けることができなかったということになります。そして、このことは、縦型の写真機を三脚で使用したということであり、ある程度の写真の腕前のある人物が、高級機によって撮影したということになります。
 そして、写真機が非常に高価だったこの時代、そのような高級機を所有していたというのは、士官等でも限られます。それを下士官が有していたということは、よほどの素封家の出でない限りありえません。それよりは、艦、もしくは戦隊に装備されていた写真機を使用したと考えたほうが自然です。つまり、上司の命令により撮影されたものであり、細岡宗光という人物が撮影を担当していた考えないと辻褄が合いません。そして、同艦にゆかりの人物に、手許のフィルムから古参兵の特権を利用して、私的に焼き増しをして渡したのではないかと思われます。
 以上、推論を重ねてみましたが、確かなことは、本人の履歴がはっきりしない以上、憶測以外の何者でもありませんが、楽しんで戴ければ幸いです。

 なお、その後、古鷹と加古の艦影識別を調べてみたところ、前檣部の桁の間隔や煙突のパイプの配置が異なっていることが分かり、この艦影は古鷹のものであることが確認できましたので、御報告申し上げます。
 
 前回の写真はセグロジャッカルでしたが、今回は同じく東山動物園のオオアリクイ。
 


古鷹でしたか山本留吉2014/05/12 [21時03分23秒]
ちなみに撮影日は昭和6年1月18日、
撮影者?は細岡宗光氏との記載があり、ネットで調べてみると海兵20期(昭和16年)に同名の方がいらっしゃるようです。10年もあいているのでこれは同一人物かは不明ですが。


山本留吉様2014/05/11 [21時41分07秒]
 貴重な写真をありがとうございます。
 艦名のほうはともかく、写真からその艦名を推定するのは得意ではないのですが、単装砲塔で、艦橋の形状から考えると古鷹級だろうとは思います。そして、マントレットが装着された主砲塔や高角砲の射撃訓練等を見ておりますと、艦隊配備の艦と思われます。そこで、この年の艦隊編制を見ますと、古鷹は青葉とともに第2艦隊第5戦隊を編制しておりますが、加古は艦隊に編入されていません。したがって、これは古鷹の艦影だろうと思うのですが、非常に興味深いものがあります。ありがとうございます。
 


昭和6年1月撮影の写真山本留吉2014/05/11 [09時15分04秒]
旅先で以下の写真3枚を入手しました。
裏書には撮影は昭和6年1月、タイトル、写真を呉れた人の名前が欠いてありましたが、艦名等の記載はなしです。

http://kahuetaisyourouman.web.fc2.com/s6−1.jpg
合戦準備
http://kahuetaisyourouman.web.fc2.com/s6−2.jpg
出航用意
http://kahuetaisyourouman.web.fc2.com/s6−3.jpg
対空戦闘


愛宕(15)2014/05/03 [13時40分07秒]
 もっとも、「今昔物語」が、真言宗を敵役にしたものばかりであるかというと、そうとは限らない。たとえば、巻11に収められた「弘法大師渡宋伝真言教帰来語(弘法大師宋に渡り真言の教えを伝えて帰り来る語)第九」という物語は、空海小伝ともいうべき内容で、その偉大さを褒め称えている。しかも、この話は、最澄や円仁の同種の話よりも前に置かれており、たまたま、天狗に関わる話の部分が、天台側から出ただけとも考えられる。しかし、巻14に「弘法大師挑修円(しゅえん)僧都語(弘法大師修円僧都に挑みたる語)第四十」という話は、空海が修円僧都と呪詛合戦をしあったというものである。
 一応、この話は、最終的に空海が修円に勝利していることになっている。しかし、空海を褒め称えるものであるとも思えない。空海が、自らを死んだことにして、相手が油断したところを呪詛して相手を殺したというような内容だからである。しかも、その発端は、天皇の前で、修円が加持祈祷により栗を煮ようとしたのを、空海が邪魔したことにある。さらに、文中には「互ヒニ死ネ死ネト呪詛シケリ」と、子供同士の喧嘩ならいざ知らず、高僧同士の争いとはとても思えない記述が出てくる。
 この修円は、興福寺の別当、つまり、法相宗の高僧である。そして、当時、最澄、空海と並び称された学僧であった。密教に理解があったようで、比叡山根本中堂の落慶に際して、堂達(どうだつ)という重要な役割を占めた。また、最澄から灌頂も受けている。したがって、天台宗との関係も良好のはずであるだが、この話での修円は、殺される側であり、空海を呪詛する立場である。いい役回りとも思えないし、さりとて、空海を褒め称えるためにそのような役回りにしたわけでもなさそうである。
 この話が事実ではないことは、両者の没年を見ればわかる。修円のほうが、3ヶ月であるが、空海より後に没しているからである。また、2人とも高僧ではあるが、そのようなことのできる超能力者ではないだろう。だいたい、陰陽道ならともかく、仏教のほうで、呪詛で人を殺すなどというような話は、他に聞いたことがない。
 では、なぜ、修円だったのかということになる。架空の人物ならばともかく、実在の人物だから、余計である。しかし、そのあたりは修円の人生をもう少し見ていくと、答えが出てくる。というのは、その後、修円は空海と親しくなり、自らの整備した室生寺に真言宗を持ち込んでいるからである。このため、この寺は法相・天台共学の寺から、真言を加えた3宗兼学の寺となり、ずっと後世になるが、江戸時代には法相宗から真言宗の寺に移っている(現在も真言宗)。つまり、修円の晩年において、彼を敵対視する理由は、空海や真言宗の側にはない。しかし、天台宗の側には、真言宗に走った、しかも、法相宗の僧侶であるという2重の理由があるのである。
 つまり、「今昔物語」というのは、天台系の寺院、おそらくは、比叡山に伝わった話をもとに作られたものだったのだろう。そして、その目的は、当然、天台宗の優位性を示すためのものであったと思う。というのは、「今昔物語」をはじめとする仏教説話集というのは、本来、僧侶の講話の種本として書かれたものと思われるからである。南都六宗のように国家がパトロンであり、僧侶が修行だけをしていればよい時代ならともかく、天台宗の広まっていった時代には、南都六宗だけでなく、真言宗に対しても自らの優位性を示す必要があった。そして、それには信者の数や、どれだけの有力者が信仰していたかにかかってくる。
 その信者を獲得するためには、その効能を喧伝するのが一番であり、そのためには講話というものが重要であり、以下に人をひきつけるかというのが問題である。しかし、話のうまい人物というのは、それほどはいない。そこに、講話の種本というものが必要になってくる理由がある。日本最古の仏教説話集である「霊異記」は、薬師寺の僧景戒という人物の手によるものだが、その完成は平安時代初期の822年であり、もしかすると、これも種本であったのかもしれない。薬師寺は法相宗の本山であるが、この頃には、南都六宗といえども安閑とできない状況下にあったからである。

 写真は宇治川越しに見た愛宕山(手前は京都府宇治市の宇治橋とJR奈良線)。
 


愛宕(14)2014/04/22 [22時49分57秒]
 この時代、旧来の仏教に飽き足らぬ僧達は、山岳に籠って修行していた。最澄や空海はその代表である。そして、彼等は、やはり、旧来の仏教に飽きたらなかった桓武に見いだされ、遣唐使となって、中国から天台宗と真言宗を日本に伝えたわけだから、日本の仏教改革は山岳から始まったとも言える。そして、その後も、この両宗は山中の寺で修行を行ってきた。延暦寺や金剛峯寺という寺号よりも、比叡山、高野山という山号のほうが知られるようになったのは、そのせいであろう。
 もっとも、この山号というのは、中国で同名の寺院を区別するために使われだしたのが最初であったという。したがって、比叡山、高野山というのも、所在地を表すだけのものだったのかもしれない。実際、延暦寺、金剛峯寺と呼ばれる前は比叡山寺、高野山寺だったのだから、その可能性はある。ただ、その後、建立された日本の寺の多くが山号を持っているのはどうしてだろうか。そして、その中には、東寺の八幡山、東本願寺の大谷山、西本願寺の龍谷山のように、平地にあるにも関わらず、山号のついている寺も多い。寺というものが、山で修行するものであるという意識の流れの中にあると考えたほうがよいように思う。
 また、山岳仏教というと、修験道であるが、これが、天台宗、真言宗と密接な関係を持っていたのは当然である。実際、時代は下がるのだが、江戸時代から、明治政府によって禁じられるまで、天台宗本山派、真言宗当山派という形で両宗が修験道を管轄していた。しかし、仏教といえば南都六宗だった時代、人々にとって、彼等の姿は奇異に映ったのではないかと思う。そして、その姿が、やがて、天狗という形をとっていったと考えても、飛躍しすぎとは思えない。
 しかし、天狗が、愛宕山に住むとされたのは、それだけが原因ではないはずである。そうした時に、是害坊の話も含めて、今昔物語の天狗譚で、天狗を打ち倒すのは、比叡山の僧ばかりだというのは、非常に興味深い。比叡山が天台宗の総本山である以上、これは、天狗が同宗の敵であることを表しているからである。もっとも、愛宕山白雲寺が何宗の寺であったかというと、実は分からない。中世の記録では天台宗と天台・真言両義の宿坊があったとあるだけである。ただ、この山に籠った真済が空海の高弟であったので、平安時代においては真言の聖地であったと考えられる。そして、当時、天台宗と競争する立場にあったのは、この真言宗である。
 天台も真言も密教である。日本への伝来は天台が先で、最澄が部分的に学んできたものを、桓武をはじめとする人々に、熱狂的に受け入れられた。もっとも、最澄としては、自らが心血を注いだ天台教学ではなく、ある意味、そのついでに学んできた密教のほうが受け入れられたのは、想定外のことであったと思う。その後、空海が、より完備した密教の体系を学んで帰国し、嵯峨帝をはじめとする当時の宮廷に大きな影響力を及ぼしたのは、さらなる衝撃であったと思われる。ただ、その初期において、最澄と空海の仲はよく、最澄は空海に弟子入りをして密教を学んだぐらいである。しかし、やがて、その関係は壊れ、2人は競争相手になっていく。
 天台宗が退勢を挽回したのは、847年である。最澄の死後25年たったこの年、円仁が、10年近い入唐生活を終えて帰国したのである。これにより、天台宗は最新の密教体系を手に入れ、ようやく、真言宗と対抗できるようになるのだが、それまでの同宗は、旗色が悪かった。多くの人々が求めていたのは救いであり、難しい教学よりも、加持祈祷のように、目に見えるものを好んだからである。しかも、真言宗は即身成仏を唱え、生きながらでも、修行により、仏となり、輪廻を解脱しうるとしたのである。後に、天台宗もこの教義を自己のものとして唱えていくのだが、当初においてはそうではなかった。そして、この教義は、当時においては革新的なものとして受け止められ、熱狂的に広がっていたのである。
 このような状況の中で、最澄はひたすら戦い続けた。求道者であったから、当然のことであったのかもしれないが、南都六宗、特に法相宗と論争を行い、比叡山に自らの戒壇を作ろうとして、大騒動になっている。少し時代が下がるが、南都北嶺という言葉は、しばしば、この両者の抗争を表している。奈良(南都)の興福寺と、比叡山(北嶺)延暦寺は、相互に争い、自らの言い分を通すために、興福寺が春日大社の神木を、延暦寺は日吉大社の神輿(みこし)を京に運んで、朝廷に強訴したからである。興福寺は、藤原氏の氏寺であるとともに、法相宗の大本山であり、東大寺を除く奈良の大寺の別当を兼ねていた。対する延暦寺は、天台宗の総本山であり、宮廷に対して大きな影響力を持っていた。したがって、御幣を怖れずに書くのなら、天台宗は戦う仏教でもあった。
 これに対して、空海は無用な争いを避けた。空海自身は、真言宗を天台宗、南都六宗の上位に置くという考えを持っていたから、これは奇妙な気もするのだが、慎重に立ち回って敵をつくらなかったのである。それどころか、810年頃、彼は東大寺別当に任じられ、21年には、東大寺の塔頭として、真言院という真言宗の道場を建立している。それでいて、南都側の顰蹙をかったというような話はなく、現在でも、東大寺の僧が亡くなっても、葬儀は真言宗の寺で行っているぐらいで、両者の関係は非常に良い。しかし、このことは、天台宗の側からすると面白くはなかったと思う。このあたりが、真済が大天狗に擬せられた原因ではないかと思う。
 したがって、「今昔物語」にそのような話が載っているということは、この本が、比叡山、もしくは、その関連の場所で書かれたか、そういう所で書かれたものを参照しているということになる。少なくとも、天狗に関する話は、真言宗の僧侶を悪役にして、それを懲罰する側が天台の僧であるという構図があるからである。

 写真は東大寺にて


愛宕(13)2014/03/06 [12時45分38秒]
 この日羅房は、愛宕山に住む大天狗である。なぜ、愛宕山だったかというと、ここが寺であったからである。しかし、愛宕といえば、愛宕神社ではないかと言われそうだが、それは明治以降のことである。明治の神仏分離、廃仏毀釈以前においては、愛宕山は白雲寺という寺であった。しかも、この白雲寺の起源は古く、大宝年間(701-4)に役小角(えんのおづぬ)と泰澄が開いたとされる。
 もっとも、この両名は修験道関係の寺院では、よく知られた存在であり、開いたとされる寺院は非常に多い。ところが、泰澄は白山信仰の開祖として有名だが、中央の記録には一切出てこない。つまり、ある意味、伝説上の人物である。一方、役小角については、「続日本紀」をはじめ、各種書物に登場はする。しかし、この人物が修験道の祖であるという通説には、疑問がある。というのは、「続日本紀」に、小角は、「外従五位下韓国(からくに)連(むらじ)広足(ひろたり)」の師であるとなっているからである。
 この広足は、760年に成立した「藤氏家伝」という、藤原氏の初期の歴史を描いた本の中に、「呪禁(じゅごん)は余仁軍(よにぐん)、韓国連広足等に有り(呪禁有余仁軍、韓国連広足等)」と出てくる。また、「僧尼令集解」の「凡そ僧尼の相の吉凶を卜する条(凡僧尼卜相吉凶条)」の中に、「古記に云わく、持呪は経の呪を謂う也。道術の符禁にして、道士の法を謂う也。今、辛国(からくに)連、是を行う(古記云持呪謂経之呪也道術符禁謂道士法也今辛国連行是)」とある辛国連もこの人物であるとされる。そして、広足は732年に典薬頭(くすりのかみ)という典薬寮(くすりのつかさ)の長官になっているが、この役所は呪禁師を統括していた。広足が呪禁師であり、出世して典薬頭となったと考えるべきであろう。
 しかし、この呪禁師は、「道術の符禁にして、道士の法を謂う也」とあるように、道教の呪文を用いる人のことである。そして、広足の師が小角である以上、小角も呪禁師と考えるべきである。つまり、小角は、道教の人であり、仏教との関係は薄い。にもかかわらず、彼が修験道の祖とされるのは、「霊異記」に、優婆塞(うばそく)、つまり、私度僧と呼ばれる、国家の許可を得ずに僧侶になった人物として描かれているからであり、術を駆使したからである。したがって、一説に822年とされる、「霊異記」の書かれた時代ならいざ知らず、その在世中に、仏教寺院を建立するということはありえないということになる。そして、小角が開祖でないのなら、泰澄の名も権威づけに採用された可能性が高い。
 その上、この2人の開基であるというのは、江戸時代の書物になってはじめて登場することである。もちろん、古縁起によるとなっているが、そこに引用されている「白雲寺縁起」の現物は残っていない。もちろん、廃仏毀釈の嵐の中で、愛宕神社は多くの古文書をなくしたというから、残っていないのは不思議ではないが、後世に作られたものである可能性はある。したがって、781年に僧慶俊(きょうしゅん)、和気(わけ)清麻呂によって中興されたとあるのが、実は白雲寺の創建だったのかもしれない。
 もっとも、創建が781年であったとしても、94年の平安遷都より10年以上前である。そして、これより古い京都の寺は少ない。現存するものでいえば、広隆寺や法観寺(八坂寺)と珍皇寺ぐらいだと思う。そのような時代、平城京や長岡京からはそれほど遠くはないといえ、このような地の、しかも、山中に開くというのは、やや奇妙な話ではある。
 和気清麻呂は、宇佐八幡宮神託事件で失脚後道鏡の死により復位し、平安遷都に際してはその中心となって活躍した人物であるが、弱小貴族の出である。しかも、733年、現在の岡山県和気町、かつての備前国藤野郡に生まれた地方貴族であった。したがって、藤原氏が重要官僚のほとんどを抑えていた時代にあっては、かような活躍を見せる機会もなかったはずであるが、桓武天皇が、出自を気にせずに人材を登用した結果、彼にも機会が回ってきたのである。
 ただ、清麻呂は播磨、豊前の国司であり、美作、備前両国の国造ではあったが、平安京のある山城(当時は山背)国との関係はないように思える。しかし、長岡京の遷都が捗らない中で、新都をこの地にするように、桓武に勧めたのが彼であることを考えると、この地に何らかの縁があったと思われる。そして、その縁というのが、白雲寺であったとしても不思議はない。
 また、最澄を、十禅師と呼ばれる、宮中で天皇の安穏を祈る役職に推薦したのは、清麻呂である。もちろん、この最澄の十禅師就任は797年であり、平安遷都の後である。したがって、遷都後に知り合ったとしても不思議はない。しかし、彼は93年以降、造営大夫として新京の建設に邁進しており、多忙を極めていたはずである。したがって、もし、清麻呂が白雲寺の開祖であり、この地に関係を持っていたとのならと、思う。最澄は85年、比叡山に登り、その3年後には、一乗止観院という寺を建てているからである(この寺は、最澄の死後に延暦寺と)改名し、現在は根本中道と呼ばれている)。そして、比叡山と愛宕山は、平安京を挟んで並び立っている。指呼の間とまでは言えないが、その距離は近く、相互に行き来があっても不思議はない。
 一方、慶俊は延暦年間(782-806)に没したとされる。したがって、白雲寺を開いたのは、晩年のこととなる。彼は、渡来系の葛井(藤井)氏の生まれで、大安寺に属していたが、法華寺の大鎮となり、さらには、律師に任ぜられたが、失脚した。これは、藤原仲麻呂と関係が深ったからだといわれるが、道鏡の失脚とともに復権し、律師に任ぜられている。つまり、道鏡の時代に失脚し、その失脚とともに復活したという点では、清麻呂と同じである。この点が、白雲寺の開祖とされた原因であろうと思うが、実際にそうであったのかもしれない。

 写真は、京都市内から見た比叡山。

Takeahero様
 ありがとうございます。
 


とんでも御座いませんTakeahero2014/03/06 [06時16分42秒]
>hushさん

 とんでも御座いません。
 考え方はヒトそれぞれ。あくまで御紹介しただけで、押し売りではありませんから・・・
 売れても、あっしには何の得もありませんし(笑)。


古書2014/03/04 [23時47分11秒]
桜と錨様
 わざわざのお出まし感謝申し上げます。
 どなたか知りませんが、1人入札されているようです。おそらく、期限一杯のところで、申し込まれる人が出てくるのでしょうが、釣り上げる方がいないとよろしいですが。

Takeahero様
 古書としては、3冊目がやや珍しいようですが、それほどの稀覯本でもないので、ま、適正な価格ではないかと思います。
 個人的には、こういうオークションで古書のことに詳しくない方が妙に値段を釣り上げてしまうので、業界のほうは嬉しいでしょうが、購入する側としては、古書の値段が上がってしまわないかと心配です。
 せっかくの御案内でありますが、そういうわけで、こういうオークションには批判的なほうでもあり、参加はしないと思いますので、御了解戴ければ幸いです。
 
 写真は津市結城神社で撮影した雪中に咲く白梅。

 なお、しばらく、休業するかもしれません。その時は、返事もできないと思いますので、お許しください。
 


いえいえTakeahero2014/03/03 [21時08分03秒]
>桜と錨様
 初めまして。貴官のサイトは時折ROMっていましたが、カキコはした事ないんです。
 某別○氏に対する評価が自分と同じなので(苦笑)。
 あんなテキトーな本で印税稼げるとは羨ましい限りですねぇ。

 あの出品者さん、先週までは海軍、海自関係の古い本を結構出してらしたんですが、売れちゃったみたいです・・・。


安ければ桜と錨2014/03/03 [14時53分34秒]
何か呼ばれたようですので(^_^;

御用新聞社のですか・・・・このまま吊り上がらなければ考えてもいいかもですね。


愛宕(12)2014/03/02 [10時52分08秒]
 是害坊(ぜがいぼう)という天狗がいる。震旦、つまり、中国の天狗である。中国にも天狗がいるのかと思われそうだが、前回、述べたように、もともと、天狗という言葉は中国生まれである。したがって、いても不思議はないのだが、この天狗は、日本にやってきて、自らの強さを吹聴したので、日本の天狗が喜んで、僧侶に戦いを挑ませた。しかし、簡単にやられてしまい、日本の天狗達に呆れられながらも、その治療を受け、別れの歌会を行った後に母国に戻るという話が伝わっている。
 この話は、「今昔物語」にある「震旦天狗智羅永寿(ちらようじゅ)渡此朝語(震旦の天狗智羅永寿、此の朝に渡れる語)」という物語と、ほぼ同一で、天狗の名を改めたものである。このうち、一般的に知られているのは謡曲で、是界、善界、是我意と、流派によって漢字の表記は異なるものの、「ぜがい」と呼ばれる。もちろん、是害坊の是害と同じなのだが、天狗を表すのには、大癋見(おおべしみ)という能面を使う。もっとも、これは、目を見開き、口をへの字に結んだ異形の面であるが、鼻が高いわけでもないし、赤ら顔でもない。そして、興味深いのは、この大癋見に対して小癋見と呼ばれる面があることで、こちらは鬼等に使う。つまり、天狗は鬼の一種であり、大癋見と大の文字がついているところをみると、その上級なものと捉えられていたのかもしれない。
 一方、この物語は絵物語にもなっている。現存する最古のものは1308年の奥書を持つものから54年に転写されたもので、他の系統と思われる残闕本がある。したがって、謡曲より古いと思われるが、そこに、実に不思議な姿の天狗が描かれている。
 (1) http://dbs.humi.keio.ac.jp/naraehon/ehon/detail_m.asp?Frame=False&id=KL040&Volume=1&page=1
 (2) http://www.sen-oku.or.jp/collection/col04/002.html
 一見して分かるように、そこに描かれているのは烏天狗ではないし、今日、我々が一般的に想像する天狗像とも異なっている。図を見てもらうほうが早いと思うが、猛禽と思われる鳥から、人間の体が突き出た姿なのである。(1)の天狗は羽根を背負っているだけだが、(2)のほうは、鳥の脚の代わりに、人間の体が突き出た姿で表現されている。もっとも、(1)の一部のように、鼻が高く描かれてものもあるが、(2)のほうは、鳥の頭そのままである。つまり、当時の人々の天狗像は、そのようなものであったということになる。実際、鳥山石燕という江戸時代の画家が1776年に描いた「画図百鬼夜行」に収められた天狗の図(3)は、明らかにこの系統のものである。そして、(10)で紹介した「源平盛衰記」の「鳶は天狗の乗物也」という言葉を考えると、鳶に乗って空を翔け巡るものとなっていったのかもしれない。
 (3) http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/SekienTengu.jpg
 もっとも、(2)には、尾羽に3本の縞模様が見える天狗が描かれている。これは鳶の特徴ではなく、オオタカかハイタカのそれである。したがって、最初から鳶だったのが変容したのか、猛禽だったのが鳶に限定されていったのだろうが、奥山に住む猛禽に似た妖怪変化というのが、共通する理解だったと思われる。そして、興味深いのは、その中に僧衣をまとったものがあるということである。
 是害坊が僧侶に化けて日本の僧を狙おうとする場面があるので、この天狗が僧衣をまとっていても、不思議はない。しかし、日羅房という日本の天狗が、高下駄を履き、僧衣をまとっているのは、この筋書きからでは理解できない。したがって、他の日本の天狗のほとんどが裸形であり、中には鳥の脚のままのものもいることを考えると、高位の天狗は僧形であったとも考えられる。そして、そこから発展して、前回の写真に示したような烏天狗が出てきたのだろう。
 このあたりは、密教が導入され、曼荼羅に描かれた星と関連付けられたからだといわれる。さらに、山岳宗教と密接に付会されたことから、その修行者の中で、死後に魔界に転生したものとして、天狗が再認識されるようになった。真済が天狗になったとされたのも、彼が高雄山で12年間籠り続けた山岳修行者でもあったことが大きいのではないかと思う。

 写真は二見浦にて。

Takeahero様
 ご紹介ありがとうございます。
 


こんなの見つけましたTakeahero2014/03/02 [10時04分57秒]
お久しぶりです。
ヤフオクでこんなの見つけました。

ttp://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e144256868?u=hironaoshi

hushさんなら興味あるのでは、と。

桜と錨さん向きかな?


愛宕(11)2014/02/24 [21時13分08秒]
 天狗は「日本書紀」に登場する。舒明9(637)年2月1日の条に「大いなる星、東より西に流る。便(すなわ)ち音有りて雷に似たり。時の人の曰はく、流星の音なりといふ。亦は曰く、地雷(つちのいかづち)なりといふ。是に僧旻(みん)僧(ほうし)曰はく、流星に非ず。是天狗なり。其の吠ゆる声雷音に似たるのみと(大星従東流西便有音似雷時人曰流星之音亦曰地雷於是僧旻僧曰非流星是天狗也其吠声似雷耳)」とあるのが、それである。大きな星が東から西へ流れた。雷に似た音がしたので、流星であるとか、地雷であるとかいう人もいた。そのような中で、旻法師は、これは天狗で、その吠える声が雷に似ているだけと言ったというのである。
 うち、地雷というのは落雷のことであるらしい。また、雷鳴に似た声とあるように、天狗は、文字通り、天の狗(いぬ)である。世界最古の地理書といわれる中国の「山海経(せんがいきょう)」という本には、犬よりも猫に似た動物の図が載せられているが、その正体は、大気圏内で爆発した火球や隕石である。したがって、流星というのは間違いではない。しかし、それは今日的視点である。旻という、この僧が天狗だと断じたということが重要なのである。というのは、この旻が、遣唐使として、24年間、かの地で学んできた、当時、最高の知識人だったからである。
 旻は、僧とあるように、その中心は仏教であったろうが、易学も学んだ。と同時に、天文をも学んだようである。ただし、単なる天文ではなく、蝕や、彗星等の天文異変から、吉凶を判断した陰陽道中の天文道である。というのは、その翌々年には、「長星西北見ゆ、時に旻師曰はく、彗星也、見れば則ち飢す(長星見西北時旻師曰彗星也見則飢之)」と、西北の空に見えた彗星に対して、飢饉を予言しているからである。また、650年に白い雉が献上された際には、その瑞祥であることを説明したため、大化は白雉と改元されている。つまり、彼の言葉は非常な重みをもって受け止められているのだが、そのすべてが「日本書紀」に記されているわけではない。そういう中で、この言葉が載せられたのは、この年の蝦夷の叛乱の予言だと考えられたからであろう。というのは、天狗は、中国では凶星として恐れられていたからである。
 ただ、その後、天狗の名は日本では途絶えるのだが、平安時代中期になって復活する。もっとも早いのは、「宇津保物語」に登場するもので、天皇が北野へ行った際に、はるかな山の中から琴の音がするのを聞き、「かくはるかな山に、誰れかものの音調べて遊びゐたらん、天ぐのするにこそあらめ」とあるのが、それである。「このような深山で誰が弾いているのだろうか、天狗であろうか」というのだから、天狗は深山に住むものと考えられていたことになる。
 また、「源氏物語、夢浮橋」には、浮舟が横川の僧都に助けられた際の様子に、「てんくこだまなどのやうの物、あさむき率てたてまつりけるにや」とある。「天狗、木霊(こだま)のようなものが、(浮舟を)たぶらかして連れ去った」というのだから、これも、天狗が深山の住人と考えられていたことになる。天狗が木霊と並び称せられているからであるが、このことは、同時に、木霊が狐狸妖怪と同様のものと考えられていたことを意味する。「源氏物語、手習」に「鬼か神か狐か木霊か」とあるからである。「あさむき率てたてまつりけるにやとなん」と推測されたのも当然である。
 その後が、前述の「今昔物語」となる。この本には天狗の話が幾つか載っているが、注目すべきは、前回述べた「染殿后為天宮被嬈乱」で、天宮と題名にありながら、登場するのは鬼である。しかも、文中に「此ノ鬼、人ニ託テ云ク」とあり、他人に憑依しないと人語を話せないのだから、これは、死霊である。したがって、当時の天狗というのは、そのような類のものであっとなる。しかし、ここから直ちに、現在、我々が想像するような、鼻の高い赤ら顔の天狗像に移っていくわけではない。というのは、そのような天狗は、室町時代後期の絵師狩野元信が、鞍馬山のものとして描いたのが最初だとされるからである。これ以前においては、上記の写真のような、烏天狗と呼ばれるものが普通であるが、実は、もう一つ前の段階がある。

 写真は、これも秋葉山円通寺で撮影した瓦
 


愛宕(10)2014/02/11 [23時46分57秒]
 1177年6月3日の安元の大火は、当時の平安京の3分の1を焼き尽くした大火で、当時、二条南、西洞院西の閑院にあった大極殿も焼失し、二度と再建されることはなかった。そして、翌年4月13日に発生した治承の大火で、都は更なる被害をこうむるのだが、この治承の大火について、「清獬眼抄(せいかいがんしょう)」という当時の検非違使(けびいし)の日誌に「世人号次郎焼亡之。太郎ハ去年四月廿八日至干大極殿焼亡云云」と記録されている。「世人は次郎焼亡と之を号(なづ)く。太郎は去年四月廿八日に大極殿を焼亡するに至ると云云」というのだから、世の人々は、この治承の大火を次郎焼亡と呼んでおり、それは、太郎が去年4月28日に大極殿を焼亡させたからということになる。つまり、前回は太郎がやったのだから、今回は次郎の所業であるというわけだろうが、安元の大火の起きた6月3日は、旧暦では4月28日に当たるので、人々は、この安元の大火を太郎焼亡と呼んだということになる。
 太郎は、もちろん、長男という意味である。ただ、この当時、八幡太郎義家が有名だが、武家の名というのが普通である。貴族の場合、通い婚であり、出生の順より、後ろ盾となる女性の家の格のほうが重要であったからである。したがって、この名は、貴族の名にはそぐわないが、本邦における初例は、嵯峨天皇の皇子の幼名にあるという。この天皇は、桓武の第2皇子で、日本初の勅撰漢詩集「凌雲集」の編纂を命じたように、中国好きで知られている。このため、輩行と呼ばれる、中国で同世代の一族に順に名をつけた慣行によって、そうしたとされる。たしかに、天皇家は通い婚ではないし、長子相続が基本である。実際、第2皇子であった嵯峨が即位したのも、兄の平城天皇が病弱で、譲位したからであるが、六国史の中に、この幼名のことは登場しない。しかも、嵯峨の子である仁明天皇は第1皇子とするものと、第2皇子とするものがあるが、太郎とか、次郎というような幼名があるのなら、このような混乱は生じないはずである。したがって、この説の真偽は不明であるが、この太郎焼亡の太郎は、太郎坊という天狗のことだと分かっている。
 というのは、「源平盛衰記」に、「我朝に柿本の紀(きの)僧正と聞えしは、弘法大師の入室灑瓶(れいへい)の弟子、瑜伽(ゆが)灌頂(かんじょう)の補処、智徳秀一にして験徳無双聖たりき。大法慢を起して、日本第一の大天狗と成て候き。此を愛宕山の太郎坊と申也」と記されているからである。この愛宕山の太郎坊というのは、日本一の大天狗で、もとは弘法大師の高弟だった柿本紀僧正という人であったというのであるが、これは、(2)で記した真済のことである。15歳で空海の弟子となり、25歳という異例の若さで伝法阿闍梨(あじゃり)という高位に昇ったこの僧は、先述のように、高雄山に12年間も籠り続たことで知られる。そして、836年、遣唐使として派遣される途中、乗っていた船が難破、23日間の漂流の末に、30人ばかりの乗船者中、空海の甥ともいわれる真然とともに、南海の島民に救助されて帰国するという劇的な人生を送った。しかも、その間、「性霊集(しょうりょうしゅう)」という全10巻にも及ぶ空海の詩文集を編纂し、僧正に任ぜられても師空海にこの位を譲ろうと辞退、3度にわたる任命と辞退の末に朝廷側が折れて、空海に大僧正位を追贈することにより、ようやく引き受けたという有徳の人である。
 しかし、文徳天皇が急死した時には、真済は看病にあたっていたために、世間の非難を浴びて引退、3年後には死亡したとされている。このため、恨みをもって死んだとされたのかと思う。でなければ、このような伝説になる理由がないからであるが、大法慢というのは、重大な戒律違反を犯してということである。これは、死後、真済が、文徳天皇の女御で、清和天皇の母、染殿后(そめどののきさき)藤原明子(あきらけいこ)に一目惚れし、天狗になって現れたと「古事談」等に載っているので、この話を指すものであろう。ただ、「今昔物語」巻20の「本朝附仏法」には、天狗にまつわる話が集められているが、その中に、この「古事談」とほぼ同じ話が載っている。しかし、「染殿后為天宮被嬈乱語(染殿の后、天宮[てんぐ]の為に嬈乱[にょうらん]せらること)」という題のこの話は、后を襲ったのは、大和葛木(葛城)の金剛山の聖人となっている。
 (5)に記したように、「今昔物語」の成立は古く、1212年から5年とされる「古事談」の成立より約100年前であるが、室町時代まで存在を知られていなかった。したがって、「今昔物語」の類話の登場人物が変容したものを採録したか、筆者が代えたのだろう。そして、その理由としては、真言、天台両宗の確執あたりが原因かもしれない。というのは、この天狗を退治したのが比叡山無動寺の相応和尚となっているからである。そして、文徳天皇の皇位継承選びの際に、真済は、天台宗の恵亮(えりょう)と争ったという話があるからである。もっとも、これは「平家物語」では相撲、「蘇我物語」では競馬で争ったとあるので、伝説の域を越えない話ではある。また、「源平盛衰記」の記事も、治承2(1178)年、後白河法皇と住吉大明神との会話となっているので、まったくの創作というしかない。もっとも、日本一の大天狗とするのなら、これぐらいの有徳の人でないと話にならないだろうが、その大天狗、太郎坊が京都の町を焼いたという話が、同じ「源平盛衰記」に載っている。
 大炊御門(おおいのみかど)堀川に住む、よく当たると評判の盲人の占い師が、安元の大火の火元が樋口富小路(ひのくちとみのこうじ)と聞いて、「富小路といへば、鳶は天狗の乗物也、少路は歩道也、天狗は愛宕山に住ば、天狗のしわざにて、巽(たつみ)の樋口より乾(いぬい)の愛宕を指て、筋違さまに焼ぬと覚ゆ」と答えたというものである。樋口(ひのくち)が富小路というが、富は鳶であり、天狗の乗物であり、小路は通路である。したがって、天狗が南東の巽の方角から、北西の乾にある住処(すみか)の愛宕を目指して飛行しながら、燃やしていったというのである。この話と、先の愛宕山の太郎坊と重ねあわすと、太郎焼亡とは、この天狗が引き起こしたものと世の人々に考えられたということになる。そして、次郎は、琵琶湖西岸の比良山に住む天狗の名であるが、太郎という名の示すように、愛宕山の天狗は、日本第一のものとして認識されている。つまり、太郎焼亡の太郎は、太郎坊という天狗、それも日本一の大天狗のことであり、その上、この天狗は、愛宕山に住んでいたということになる。しかも、この太郎坊は、平安京の3分の1を焼き尽くした大天狗であり、愛宕といえば火伏せという図式から大きく逸脱しているし、火の神カグツチと天狗ではあまりにも印象が異なる。

 なお、「源平盛衰記」では、愛宕という漢字表記がなされている。「源平盛衰記」は、「平家物語」と相前後して成立したという人も、南北朝期の成立だという研究家もいるが、「太平記」よりは古い。したがって、愛宕という表記の初出が「太平記」だというのはおかしいと思われる方がおられるかもしれない。しかし、これは内閣文庫蔵慶長古活字本により1910年に刊行された国民文庫版によっているからである。学生時代の専門が上代文学だった関係で、このあたりの書誌学的な情報に疎いのだが、「源平盛衰記」は、この慶長年間の古活字本が、現存する中では、もっとも古いようなのである。したがって、ここで愛宕と書かれているものの本来の表記は愛(阿)当護だった可能性はある。ただ、活字本しか残っていないので、本来の表記がどうであったか分からないのである。
 
 写真は名古屋市の秋葉山円通寺にて
 


愛宕(9)2014/02/04 [22時18分53秒]
 以上のように(この掲示板の場合は、以下のようにかもしれないが)、愛宕山では、火打石が産出しない。にもかかわらず、このような話が出てきたのは、この山が火伏せ、つまり、防火の神として有名だからであろう。そして、これは、この山に、火に対する信仰があったと考えたからであろう。しかし、火伏せの神として考えると、火打石は変である。火事が出たときに、火打石なり、マッチなり、ライターなりを持ってくる人はいないからである(油田火災のような大規模火災の場合は、爆風で消すという方法はある。しかし、これは、もちろん、別である)。当然、火伏せとして考えられるのは水である。
 もっとも、これは、愛宕神社に火の神が祭られていないという意味ではない。「古事記」で加具土、「日本書紀」で軻遇突智と表記される、カグツチと呼ばれる火の神が、この神社には祭られている。ただ、この神は、誕生時に母のイザナミを焼き殺したので、イザナギが腹を立てて叩き斬ったとされる神である。しかも、この神は端の御前と呼ばれる本殿には祭られていない。本殿に祭られているのはイザナミ等の5柱であり、カグツチは、若宮と呼ばれる別の神殿に祭られているのである。
 この若宮というのは、本来の祭神の子にあたる神が祭られている場合の神殿に名づけられることが多い。そして、カグツチはイザナミの子であるので、若宮に祭られること自体は何の不思議もない。しかし、これから考えると、愛宕神社ではそれぞれの神に順位はないとされているようだが、主祭神はイザナミとすべきである。
 したがって、一部に愛宕神社の主祭神はカグツチとの記述もあるが、これは間違いである。ただし、そうと思われるほどに、愛宕山というと火伏せであり、火の神という印象が浸透している。したがって、若宮のほうが、本来の本殿であったという考え方もできそうであるが、このカグツチは、雷神、破無(はむしorはむ)神に挟まれて、迦倶槌命という名で祭られているので、ありえないわけではない。
 というのは、この雷神、破無神は、(2)で述べたように「日本三代実録」に「授丹波国阿当護山無位雷神。破無神並従五位下」とある、その神だからである。先述のように、愛(阿)当護神を別とすると、この2神は平安時代初期の愛宕神社に祭られていたことが確認できる数少ない神である。その2神とともに祭られているということは、カグツチが最初から祭られていたという推測は可能である。
 もっとも、肝心のカグツチが「日本三代実録」には登場しないが、これは、この本に載せられた記事が神階に関するものだからである。神階は、基本的に地祇、つまり、各地の神社に祭られている国津神に与えられる。これは、功績のあった氏族に対し、その祭る神に神階を与えることによって、顕彰しようとしたものではないかと思われるが、この考えでいけば、天皇家の先祖とされる天津神に神階を与えても仕方がない。したがって、天津神であるカグツチに神階はなく、「日本三代実録」に登場しないのも当然なのであるが、問題はこの2神がどのような神であったかである。
 うち、破無神については何の神かは分からない。「はむ」とはハブと同根の語なので、蛇神だという説もあるが、大抵のところでは土の神であると書いてある。その理由を書いたものを見たことはないが、「はむ」は食べるの古語なので、そのあたりからきているのかもしれない。土は食糧生産の基本だからである。
 一方、雷というと、恐ろしいものとされる。実際、雷神というと、天満宮に祭られた菅原道真がそうであり、祟り神というような印象すらある。しかし、古代においてもそうであったわけではない。というのは、注連縄には紙を切った幣と呼ばれるものがつくが、あれは雷を表しているといわれるからである。横に張られた縄が雲であり、垂れている藁は雨と見るわけだが、正月用のそれには太陽を表す蜜柑がつく。つまり、注連縄は結界の意味で捉えられていることが多いが、本来は稲作のために必要不可欠な雨を呼ぶためのものであり、五穀豊穣のためのものであった。そこに雷は不要であるようにも思うが、稲妻の語が示すように、稲が稔るのは雷の作用によるものだと考えられていたのである。
 つまり、雷神も農業神である。ならば、両農業神に挟まれて火の神のカグツチが祭られていることになるが、これは奇妙な話である。もし、ここにカグツチの代わりに豊穣神であるとか、土の神、あるいは水の神が祭られるのなら分かる。もちろん、縄文時代には焼畑農業が行われており、古代から現在に至るまでこの農法は行われていた。しかし、日本は葦原瑞穂国の呼称の示すように、稲作が中心である。そこに、焼畑農法は関与しない。したがって、火の神が農業神とともに祭られるというのは、考えにくい。
 実際、愛宕神社本殿には稚産日命(わくむすひのかみ)、埴山姫命(はにやすひめのかみ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、豊受姫命(とようけひめのみこと)と、5柱の神が祭られているが、これらはすべて、イザナミの係累である。もし、カグツチの代わりにイザナミが祭られているのなら、イザナミは豊穣神でもあるので、違和感はないが、火の神を農業神の間に置くものだろうかとなる。したがって、若宮が本来の本殿であったという可能性は否定はしないが、この場合、雷神、破無神を祭るのが往古の姿であったはずである。
 ただ、元愛宕とも呼ばれる亀岡市の愛宕神社には、雷神、破無神ともに祭られていない。本殿に祭られているのは、火産霊(ほむすび)神、イザナミと大国主神である。このうち、火産霊は、カグツチの別名であるが、摂社の火防神社にも迦倶槌神の名で、この神は祭られている。しかし、雷、破無神は祭られていない。ということは、これらの神は、本来、元愛宕にいた神ではないということになるが、それでは、なぜ、「日本三代実録」に、これらの神の名が出てくるのかということになるが、これら2神は、元愛宕から眺められる神体山、つまり、愛宕山にいます神であったと考えれば、疑問は解ける。
 もっとも、この想定は、亀岡の愛宕神社が元愛宕であり、この神社の祭神が忘れられた結果、この神社に祭られていないということがなければである。しかし、元愛宕の比定地はここ以外に、京都市北部の鷹峯とする説もある。ただし、この説は「擁州府史」という江戸時代の本で、突然、出てくるものである。また、愛宕という文字が出てきた理由として、ここが愛宕郡であったからとしているので、疑問はある。
 また、祭神が変更されることもないわけではない。たとえば、中世の出雲大社の祭神はスサノオだったが、寛文年間の遷宮の際に、現在の大国主に変更されている。もっとも、平安時代の祭神は大国主であったのだから、復帰しただけともいえるのだが、現在の出雲大社本殿裏の素鵞社(そがのやしろ)にスサノオを祭っているように、その痕跡は残っているものである。ところが、元愛宕の場合は雷神も、破無神も祭られていない。このように考えていくと、雷、破無の2神は、もともと愛宕山に祭られていた可能性は高く、土地神のようなものになったのかもしれないが、カグツチは違う。
 「日本三代実録」には出てくるが、その後、どこかへ消えてしまった愛(阿)当護神を、カグツチのことだとすることもできるとも思う。ただ、この名は愛宕山全体を神とした時の名称であり、現在の愛宕神社そのものである。したがって、この名を受け継いだのが主祭神であるイザナミ、もしくは本殿に祭られている神が後身であるとするのなら分かるが、カグツチはそうではない。おそらく、カグツチは愛宕山が神体山として祭られ始めた当初からの神ではなく、後世、付け加えられた神である。つまり、雷神、破無神が祭られているのが本来であり、これらの神は農業神であるという想定が正しければ、当初の愛宕山には、火に対する信仰はなかったということになる。しかも、それどころか、この山が、火事の原因にされたこともあった。火伏せの神であるこの山がである。
 
 写真は二見浦にて
 


愛宕(8)2014/01/30 [12時42分56秒]
 火打石に使える石は、硬く、稜(りょう)と呼ばれる鋭い角がたくさんある石であればよい。したがって、水晶やアクアマリン、エメラルド等の貴石や半貴石でできた火打石というものも売られている。瑪瑙(めのう)や黒曜石も使われている。つまり、石器になるような石は、火打石にも使える。ただ、このような石はどこにでもあるというものではない。
 サヌカイトという石がある。叩くと金属的な澄んだ音を出すのでかんかん石とも呼ばれるが、割ると、ガラス質の鋭い縁が出現する。そして、縄ぐらいなら簡単に切れるぐらいの鋭さがある上に、黒曜石よりも簡単に割れるという特性がある。したがって、本四連絡橋建設にともなう遺跡発掘の中で見つかった数十万点に及ぶ石器とその破片の98%が、この石を材料にしていたというのも当然である。
 残りの2%の中には、黒曜石もあったが、その数は数十点のみである。黒曜石の産地が東日本に偏っているから当然なのだが、サヌカイトも西日本に偏している。九州にも黒曜石が産地があることを考えると、サヌカイトのほうが偏りが激しいかもしれない。実際、明治時代に来日したナウマン博士が持ち帰り、別のドイツ人が讃岐岩を意味するこの名をつけていることからも想像できるが、産地は地球上でも限られる。
 そして、このサヌカイトは、中世以降の奈良盆地で出土する火打石の大半を占める。ただし、讃岐石だからといって、香川産のものではない。香川県庄内半島と愛媛県の高輪半島との間の瀬戸内海の南側を燧(ひうち)灘というように、九州北部から紀伊半島にかけての瀬戸内沿岸で局所的に算出するからである。これは、瀬戸内海火山帯と呼ばれる約2000万年前から1400万年前の火山に由来するものである。もっとも、火山といっても、溶岩があるのでそう推定されるのだが、その東端近くに二上山(にじょうざん)という山がある。
 二上山は、「うつそみの人にある我や明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我が見む」という「万葉集」に収められた、大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌で有名だが、この山の北側に屯鶴峯(どんづるぼう)という不思議な名の岩山がある。ここがサヌカイトの産地である。そして、この山が、大阪府と奈良県の境に位置することから考えると、奈良盆地に火打石を供給していたのは、ここであろうという推測が成り立つ。ここより東に産出地はなく、その次の産地は四国だからである。
 古来、二上山は雄岳、雌岳という2つの峰の間に日が沈むことから、神聖視されてきた歴史がある。しかし、2つの峰の間に日が沈むというのは、見る場所によって変わるし、季節によっても異なる。むしろ、この山が神聖視されたのは、サヌカイトが採れたということもあるだろうが、その円錐状の山容によるものではないかと思う。日本最古の神社である大神(おおみわ)神社や、春日神社の神体の三輪山、三笠山、大和三山のうちの畝傍、耳成山、もっと新しくは富士山もそうだが、日本人が信仰する山には、この形状のものが多いからである。そして、二上山の場合、山容がこうなったのは火山であったからである。このため、火山性の岩石が多く、サヌカイトも安山岩と呼ばれる火山岩の一種である。
 ついでに書いておくと、安山岩は、安定した山の岩という意味ではない。英語でアンデサイトandesiteというように、南アメリカのアンデス山中で出る火山岩のことである。つまり、安山岩の安山とは、アンデス山脈の略称である。一方、アンデスというメロンの品種があるが、これは安心ですに由来するという。病害虫に強く、栽培しやすいことからの命名で、メロンは芯を食べないので、「しん」を抜いてアンデスになったそうである。
 与太話はともかくとして、京都付近で出土する火打石の多くはチャートであるが、これは堆積岩である。堆積岩というと、土砂が堆積してできたものという印象があるが、これは古代の生物が海底に堆積したものである。そして、たとえば、放散虫が代表であるが、これらは二酸化珪素でできた固い殻を持っており、これが海底に堆積し、水圧と自重により固まったものであるので、非常に硬い。実際、西ヨーロッパではドーヴァー海峡の両岸で採集されるチャートが、火打石として多く使用されており、フリントの名で呼ばれている。また、珪素を意味する英語のシリコンsiliconは、ラテン語で火打石を意味するsilexに由来するように、珪素でできたこの石が、ヨーロッパでは火打石の主流を占めていた。
 もっとも、京都付近で出土する火打石に使用されたチャートも、海底生物に由来するものだが、海岸で産出したものではなく、京都市北部の鞍馬山が産地である。ここは、海からは遠く、そのような石が出るようには考えにくいが、サンゴ、ウミユリ、フズリナ等の化石が出ているように、有史以前は海底にあった。ヒマラヤ山脈からも、海中生物の化石が発掘されるが、これは、インド亜大陸の北上にともなって、ユーラシア大陸との間で隆起した結果、世界最高峰であるこの山脈が生まれたからである。それの小規模なものが、京都市の北郊でも起きていたわけである。
 これに対して、愛宕山の属する丹波高地は、古生代から中生代にかけて形成された褶曲山地が准平原化した後、再隆起したものである。したがって、この高地は一般に平坦であり、火山性のものでも、海底から隆起したものでもない。もっとも、(1)や(3)で掲げた愛宕山の写真では、山頂部が丸く突き出ている。京都の民話では、愛宕山と背比べをして敗れた比叡山が腹を立てて殴った跡だというが、この頂上の平坦地に愛宕神社がある。そして、この朝日峯と呼ばれている突出部は、周囲が侵食された後に残った残丘である。
 したがって、周囲より硬い岩石でできているのかもしれないが、火打石に使えるほど硬い石が採れたとは思えない。鞍馬山とは、それほど距離がないので、不思議な感じがするが、山のでき方は千差万別であり、硬度7以上の硬さの石が採れるのは、特殊な造山活動の結果である。
 
 写真は二上山。
 


もうじき旧正月ですね2014/01/28 [22時45分36秒]
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。また、鄭重な御挨拶を賜り恐縮致しております。
 きちんと摩擦式で火を起こしているのですね。実際に火を起こしているところを見たことはございませんが、あれはなかなか楽しい見もののようですので、お子様が御覧になられたら、お喜びになられるでしょうね。

 前回、書き忘れましたが、グラインダーで鉄を削る場合は、可燃物を撤去しておくのは鉄則だそうですが、脇に溜まった鉄粉に引火することがあり、引火物という意識がないので、慌てるそうです。そういえば、ライターの発火石、これは鉄とセリウムの合金だそうなので発火鉄というべきなのかもしれませんが、これの粉を煙草に振りかけて喫うと、火花が散って綺麗です。鉄も形状が変わると、いろいろと性格が変わるようです。

 写真は鈴鹿市神戸(かんべ)の愛宕神社にて。
 


おくればせながら・・けーくん2014/01/28 [22時07分49秒]
あけましておめでとうございます。今年も貴HPの充実を祈願しています。
「愛宕」・・自分と息子の幼稚園の園名に由来する神社で年に1回火祭りが行われるニュースが流れます。その際、熾される火は棒とひもを組み合わせた道具を宮司が回転させて熾していました。


愛宕(7)2014/01/26 [12時20分13秒]
 愛宕山は、火打石の産地であるという。しかも、古代石器時代からの産地であり、新潟あたりまで交易圏が広がっていたという。しかし、愛宕山から火打石が採れるという話は、管見の限りでは、一部のホーム・ページと、その引き写しだけである。新潟あたりまでという記述には、具体性を感じるのだが、これは本当なのだろうかと思う。
 というのは、火打石を用いる打撃式発火具の出土は、古墳時代からであるとされるからである。石器時代の遺跡から出土するのは、火切板と火切棒と呼ばれる摩擦式発火具であり、古代の日本では、木の棒を錐状に回して発火させていたと考えられている。そして、この摩擦式発火具は、石器時代のみならず、江戸時代初期の遺跡からも、ごく少数ながら、出土している。また、摩擦式から打撃式に比重が移ったのは、出土品の調査等から、鎌倉時代であるとされている。実際、古式を残しているとされる伊勢神宮では、忌火(いみび)と呼ばれる神事に使う火を、この方法により発火させている。もっとも、伊勢神宮で現在使われているのは、棒を巻きつけた紐で回転させる舞錐(まいぎり)式だが、この方式の出土品は縄文時代の地層からは出てこない。200年ほど前に開発されたものといわれているので、江戸時代末期の発明品となる。
 文献上、火打石が登場する最初は「古事記」で、ヤマトタケルが敵に囲まれ、火をつけられた際に、叔母の倭姫から貰った袋の口を開けると、「火打有其裏(火打その裏に有りける)」となっている。この「火打」というのは、火打石のことだろうと思われるので、古代にこれがなかったわけではない。しかし、この後、ヤマトタケルは、この火打で迎え火を起こして剣で草を払うと続くのだから、剣が木製であったというのならともかく、石器時代の話ではない。ただ、火に囲まれたのなら、その火を採って点ければいいわけなのだから、悠長に袋を調べて、火打を取り出す必要性はない。したがって、この火打を使ってというのは、ある種の呪術性を含んだものであったのだろうと思う。
 ところで、時代劇等では、火打石同士を打ち合わせているが、あれでは火花は出ない。石同士を打ち合わせると、発光はする。しかし、この現象は、暗闇の中でのみ観測できる程度の弱いものである。これは、石の結晶格子が歪んで起こる圧電気によるもので、昔のガス器具では、この効果によって点火しているものが多いが、この場合、高圧放電ができる素材を選んでいる。石同士の衝突によって生じるものはわずかで、発火に至るほどのものは発生しない。
 では、火打石で火を起こすためには、何に打ち合わせればいいかというと、鉄である。飛び散った鉄粉が酸素と反応して燃焼するからである。このため、市販の火打石セットには、火打金と呼ばれる専用の金具がついている。もっとも、これは鍬でも鎌でもよいのだが、現代の台所に置いてあるようなステンレスの包丁では無理である。酸化クロムの皮膜がすぐにできて発火を防ぐからである。また、軟鉄でも発火しない。これは軟鉄が軟らかすぎて、鉄粉が飛ばないからである。したがって、硬さがあり、空気中の酸素と結びつきやすい炭素を比較的多く含む鋼鉄がよい。
 グラインダーで鉄を研磨すると火花が出るのも同様の理由である。また、花火の中には、各種金属の粉末が仕込まれており、これが、花火の様々な色の光を生んでいる。金属は、粉末になると酸化しやすくなり、酸化というのは、燃焼だからである。したがって、火打石ではなく、鋼鉄同士を打ち合わせてもよいのだが、たとえば一般的なナイフの硬度は5.5、鑢(やすり)でも7.5程度だから、7以上の硬さを持つ石を打ち合わせたほうが鉄粉は出やすく、効率はよい。火打石を使うのは、この理由によるが、燃えるのは、あくまでも鉄のほうである。したがって、まだ金属が使用されていない旧石器時代からの産地というのは、奇妙な話である。
 電光石火の石火というのは、火打石を鋼鉄に打ち合わせた時に出る火花のことである。そして、電光石火とはすばやいという意味であるように、石火は一瞬で消える。このため、この火花は550度から1100度程度の高温になるが、皮膚に落ちても火傷をするようなことはない。したがって、この火花から点火するには、何か、燃えやすいものに移す必要がある。実際、「養老律令」には兵士50人あたり、火鑽(ひきり)1具と熟艾(やいぐさ)1斤を用意することという規定がある。この火鑽というのは、摩擦式発火具のことであろうが、この方式であっても、燃えやすいものに用意しないと火種にはならない。そして、この熟艾というのは、艾(もぐさ)のことである。艾というのは、お灸(きゅう)に使用されるように、非常に燃えやすい、穏やかに燃えるという特徴がある。
 「百人一首」に「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」という歌がある。伊吹山は「さしも草」の産地(集散地であるとか、滋賀、岐阜県境の伊吹山ではなく、栃木県の山だという意見もある)であり、「言ふ」の掛詞であるが、この「さしも草」はヨモギのことである。したがって、この語は「燃ゆる、ひ(火)」の縁語である。もぐさの材料がヨモギだからであるが、ヨモギは、そのままでは艾にはならない。ヨモギの葉の裏の繊維を精製する必要があるからである。
 夏季に採った生育したヨモギの葉を、臼で搗(つ)き、篩(ふるい)にかけ、陰干しするというのがその工程だが、高級品になればなるほど、この工程を何度も繰り返す。そして、葉の裏の繊維しか使わないことからも分かるが、それで生産できるもぐさは微々たるものである。最高級品だと、100gのもぐさを生産するのに必要なヨモギの量は30kgに達する。つまり、全体の3%しか、もぐさにならない。しかし、このような知識を、古代石器時代から日本人が持っていたというのは、考えにくいのではないかと思う。
 また、もぐさ以外にも、火口(ほぐち)と呼ばれる火花を移して点火させる材料としては、おがくず等も使用されたが、おがくずを作るためには、鋸(のこぎり)が必要である。しかし、日本で鋸が登場するのは古墳時代であり、しかも、本格的に使われだしたのは鎌倉時代、製材用の縦挽き鋸が伝来したのは室町時代である(この2人挽きの大型縦挽き鋸を大鋸[おが]というが、これがおがくずの語源である)。鋸が金属製品であるから当然のことであるが、これも石器時代には利用できない。

 写真は伊吹山。
 


愛宕(6)2014/01/20 [22時24分08秒]
 「平家物語」は、数多くの異本を持つ。その中に、「源平盛衰記」という違う題名の本がある。これは、「平家物語」が琵琶法師の語りによって広まっていったので、語っていく中で、内容が加味されていった結果である。もちろん、(5)の「源氏物語」のところで述べたように、書き写していった結果、内容が変更されていったという要素もあるだろうが、書き写すより、語りの中で変更されていくほうが変動は激しい。語り手は、聴衆の反応を見ながら、面白くないところは切り捨て、興味をもたれた部分は拡大するものだからである。
 もっとも、「源平盛衰記」は、「平家物語」より先行するという研究者もいるし、最初から読者を想定して書かれた読み本で、語り手の台本ではないとする人もいる。したがって、上記はあくまでも一般論であるが、「源平盛衰記」は「平家物語」よりはるかに分量が多い。これは、いろいろな挿話を、本筋と関係があろうがなかろうが、どんどんと書き足していったからであるとされる。まるで、ここで駄文を連ねている誰かのような話なのだが、その結果、非常にまとまりに欠けるものになった。
 そして、「源平盛衰記」も、また、多くの異本を持つのだが、その中に「太平記」という、やはり、題名が異なる本がある。そして、この本が、前回、述べたように、「あたご」に愛宕という表記を初めて使用したとされる本である。しかし、誰が、いつ、どこで、そのように書いたかは分からない。ただ、その人は、都に「おたぎ」と読む愛宕があることを、知るすべもないような地方の人であったのかもしれない。そして、その結果として、愛宕護は愛宕に変化したと考えられる。
 「信長公記」には、「惟任(これとう)日向守、(中略)廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣」とある。惟任日向守とは明智光秀のことであり、亀山は京都府の亀岡市のことである。三重県亀山市と混同するため、この亀山は1869年に亀岡と改称されたからであるが、光秀はここの城主であった。そして、この1582年の参籠の直後に本能寺の織田信長を襲撃するのだが、この時、愛宕山で連歌を詠んだのは有名な話である。いわゆる「愛宕百韻」である。
 ところで、作者の太田牛一は、信長の側近として京の寺社との交渉を行っていたというから、都の事情にも明るかったはずである。にもかかわらず、愛宕と記しているのは、当時、この表記が一般的であったからとしか言いようがない。また、「愛宕百韻」の原本は寛政期に焼失しているが、京都大学、早稲田大学に残る写本を見る限りでは、愛宕と記されている。これが、原本も同じであったとするならば、愛宕山中でもこの表記を使っていたことになる。100句のうち、11句を詠んだ行祐が、場所を提供した愛宕西之坊威徳院の住職だったからである。
 では、愛宕護という表記がなくなったのかというと、そうでもない。たとえば、この「愛宕百韻」より30年ばかり前の1550年に大覚寺門跡義俊が長尾景虎(上杉謙信)に送った書状では、「愛宕護下坊申付」と書かれている。また、これより後、「義演准后日記」の1599年8月の条にも「明日愛宕護法師」とある。しかし、義俊は、関白近衛尚通(ひさみち)の子であり、大覚寺の僧である。また、義演は、左大臣二条晴良の子で、足利義昭の猶子にして、醍醐寺の僧である。ともに、高位の公卿の子弟であり、京都の有力寺院の高僧である。彼等にとって、愛宕護と書くのは、当然のことであった。愛宕と書くと、愛宕郡や愛宕郷のことになるからである。そして、この愛宕は、鳥辺野等と同じく葬送の場として都人の間に意識されていたから、愛宕山と混同されることはなかったのである。
 しかし、これらの存在を知らない者にとって、愛宕は、愛宕山、あるいは、それに関連する寺社信仰だけを意味する言葉であった。地名は、2字が基本であり、3字の愛宕護は奇妙な表記であっただけに余計である。したがって、室町時代に愛宕という表記が出てきてから、現在に至るまで、これが使われるようになるなったのは、必然であり、やがては、都の人達も使うようになったのである。
 
 写真は京都清滝川。
 


愛宕(5)2014/01/19 [15時21分40秒]
 (1)で、「源氏物語」に、愛宕と書いて「おたぎ」と読ます例があると書いたが、調べなおすと、手書き本は「おたきといふ所に」と、平仮名で書いてあった。もっとも、現行の「源氏物語」のすべてを紫式部が書いたわけではないので、そこが平仮名であったとしても、本来はどっちであったかは分からない。というのは、印刷という技術がなかった時代、書き写すしか方法がなかったからである。
 書き写すということは、間違いも生じるということである。したがって、1行、飛ばして書いてしまう場合もあるし、表記も変わる。他人が文章を書き加える場合もある。それどころか、あってもなくてもよいような短いエピソードを書き連ねた巻があり、これらの中には、紫式部が書いていない巻もあるといわれる。つまり、「源氏物語」は紫式部の作だが、今日、流布しているのは、他人が改作した後のものであり、源氏物語五十四帖というのも、どこまで彼女が書いたものか分からないのである。したがって、この手書き本に「おたき」とあったからといって、本来は愛宕だったという可能性がないでもない。
 ただ、「源氏物語」というのは、基本が平仮名で、漢字で書かれた部分は少ない。この当時、漢字は男性のものであり女性の使わないものとされたからである。したがって、「紫式部日記」に、日本紀の御局と渾名をつけられたと怒っているのも、女性なのに男の読む「日本書紀」なんかを読んでという意味の悪口だからである。なので、わざわざ愛宕と漢字で記していた可能性は低い。したがって、愛宕というのは、後世、誰かがつけた注釈をもとに、漢字になおした結果であると思う。引用をする場合は、刊本だけを頼りにしてはいけないと思った次第であるが、実は、「源氏物語」には、他に2ケ所、愛宕が出てくる。
 うち一つは、「横笛」の巻にある「をたきにす経せさせ給ふ(愛宕に誦経せさせたまふ)」で、もう一つは「東屋」の巻にある「あたこのひしりたに(愛宕の聖だに)」である。「桐壷」で「おたき」だったものが、「横笛」では「をたき」となっているが、先述のように、平安時代には「お」と「を」が混同されていたので、これは同じものとなる。したがって、3例の愛宕のうち、愛宕郷が2例、愛宕山が1例となる。
 また、これより先、975年頃に書かれた「蜻蛉日記」にも、「あたごになむ」とか「きみがむかしのあたごやま(君が昔の愛宕山)」と出てくる。こちらは「あたご」であるが、岩波文庫版によったので、本来の文にない濁点を補っていると思う。したがって、平安時代後期には「おたき」と「あたこ」という表記があったことは分かるが、愛宕という書き方をしていたかどうかは分からない。ただ、この当時、この2つの愛宕は、すでに別々の読み方をしていたことが分かる。
 では、この2つの愛宕が、ともに同じ文字を使うようになったのは、いつのことであったかということになるのだが、先述のように、「続日本紀」宝亀11(780)年4月26日条にある「山背(山城)国愛宕郡」が、愛宕郡の文字が登場する最初である。これに対し、愛宕山という表記のほうはいつかというと、「日本国語大辞典」は「太平記」を初出としている。「鞍馬の奥僧正谷にて愛宕高雄の天狗共が」という一文がそれであるが、この本は1370年頃に全40巻が完成したといわれる。したがって、時代区分でいうと室町時代前期ということになる。つまり、「続日本紀」に愛宕郡という表記が登場してから、約500年も後のことである。
 ただし、愛宕護と記した用例なら、もっと古い例が幾つかある。たとえば「今昔物語」には「愛宕護山聖人、被謀野猪語」という物語が載っている。また、藤原頼長の日記、「台記」の仁平3(1153)年9月23日条には、近衛天皇の死は自分が愛宕山で呪詛した結果であると言われているが、そうではないという記述があり、愛宕護と記している。もっとも、頼長が呪詛した結果であると断定した「古事談」には、「藤原頼長、愛太子竹明神四所権現に呪咀の事」という話があり、こちらは愛太子という表記を使用している。また、この愛太子という表記は、長久年間(1040-4年)に書かれた「大日本国法華験記」という本にも載っている。
 それはともかく、この愛宕護と記した中では、もっとも古いとされるのは「今昔物語」である。ただ、この本の成立年代には諸説がある。ただ、本文は残っていないが、目次に「源義家朝臣罰清原武衡等語」というのがあり、この話は後三年の役の時の話であろうと推定されている。この役は1087年に終了しており、それ以降の大事件にまつわる話が収録されていないので、成立はこのあたりだろうと見られている。
 また、この本には意識的欠文と呼ばれるものがある。後で作者が挿入しようと残したが、そのままになってしまった部分のことである。その中に年号が入るところがあり、それは、前後関係から考えて永久4(1116)年から保安3(1122)年のどれかである。したがって、成立は1122年以降なのであろうが、その存在が文献上で確認できるのは1449年だそうである。
 つまり、「太平記」よりずっと後なのだが、現存する最古の本である鈴鹿本と呼ばれるものの綴じ糸を、加速器質量分析計で炭素の同位体を計測したところ、11世紀前後1世紀、つまり、12世紀までのものであるという結果が出ている。したがって、1122年以降、1200年までに書かれたということになる。これが仮に、1122年であれば「台記」の記録に先立つ30年ということになるのだが、現在のところ、「台記」が愛宕護の登場する最初になるということになる。
 まとめると、愛宕山は、愛当護>阿当護>愛太子>愛宕護と表記が揺れてきており、室町時代になって愛宕という、愛宕郡と同じ表記になったということになる。


 写真は、虹を見ていたら小さな鷹が飛んできたので、慌てて撮影したもの。
 


愛宕(4)2014/01/10 [23時56分27秒]
 4種類の愛の音の中で、一番古くから使われていたのは、「あい」を別とすると、「え」である。「万葉集」等にいくつか例があるからだが、実は、愛は、万葉仮名では、すべて「え」と読まれている。この次が「あ」で、「続日本紀」天平宝字8(764)年9月18日条に「遣精兵数十人而入愛発関(精兵数十人を遣わして愛発関に入る)」とあるのが、それである。
 そして、最後が愛宕郡の「お」である。この愛宕郡が出てくる最初は、「続日本紀」宝亀11(780)年4月26日条にある「山背国愛宕郡」であるが、これだけでは、愛宕を何と読んだか分からない。したがって、読み方が分かるという意味では、前出の通り「和名類聚抄」にある「於多木(岐)」が最初となる。つまり、承平年間(931-8年)ということになるので、奈良時代からずっと下って、平安時代中期となる。
 もちろん、これは現存する文献上に現れる順番でしかないが、なぜ、「あ」ではなく、「え」が最初なのだろうか。これが、「あ」であるのなら、音韻変化上はスムーズに説明できるし、「続日本紀」と「和名類聚抄」の間に横たわる200年から300年という年数を考えると、「あ」から「お」に変化するだろうという気持ちになる。しかし、そうではないので、前回示した仮説は見直しが必要ということになる。
 もっとも、万葉仮名で、「え」という音に愛を当てる用例は、それほど多くはない。たとえば、「万葉集」ではたった1例、大伴旅人の歌に出てくる「龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしか青丹よし奈良の都に行きて来むため」の「今も得てしか」にあてた「伊麻勿愛弖之可)」だけである。
 ところで、この時代、日本語の「え」は、実は3種類ある。あ行のえ、や行のえ、そして、わ行のえである。うち、最後については「ゑ」と書かれることが多く、公式には戦後まで残っている。しかし、や行のえは、奈良時代後期から平安時代初期にかけてに消滅しており、いろは48文字には含まれていない。うち、愛の場合は、最後まで残ったあ行のえであるが、「万葉集」にはこの「え」という発音に、漢字をあてたのが40例ある。うち、その一番多いのが得で28例、ついで、衣の7例と、「万葉集」における万葉仮名の使用例を調査されたホーム・ページに出ている。その他は、榎が2例、役と依が1例ずつなので、圧倒的に、得、衣が使用されていることになる。
 では、「古事記」、「日本書紀」は、どうなのかというと、愛という文字は頻出する。しかし、それは漢文で書かれた地の部分である。歌謡や人名、地名等の固有名詞、それに語りの部分等で使われている万葉仮名では、ほとんどない。国生み神話の中で、イザナギ、イザナミが呼び合うところで、「古事記」は、「阿那迩夜志愛袁登古袁(あなにやしえをとこを) 」、「阿那迩夜志愛袁登賣袁(あなにやしえをとめを)」と記しているぐらいである。しかし、他には2首の歌謡に使われているだけである。「日本書紀」の10番歌の「愛瀰詩(えみし)」、126番歌の「愛倶流之衛(え苦しゑ)」である。
 このように、数は少ないものの、「古事記」、「日本書紀」や「万葉集」に登場する万葉仮名の愛が、すべて「え」と読むのは、やはり、愛に「え」という音があったからではないかと思う。呉音にも、漢音にも、愛という漢字に「え」という音がないのに、なぜ、そう思うかというと、英で「あ」や「あい」と読ます例があるからである。たとえば、三重県志摩半島の英虞(あご)湾や、現在は岡山国際サーキットとなっているT1サーキット英田(あいだ)がその例である。もちろん、これは、呉音でも、漢音でもないし、訓でもない。
 また、英以外にも、万葉仮名で、意を「お」、巷を「そ」と読ます等、呉音、漢音だけでは理解できない例がいくつかある。うち、意については、億、憶が「おく」と読むので、「い」ではなく、かつては「お」に近い発音だったのではないかと思われる。巷も、その字体の一部に含まれている巳の音は「し」であり、「そ」に近い。英も、本来が「あ」であったなら、音韻変化により、「えい」という音ができても不思議はない。
 


愛宕(3)2014/01/08 [22時27分16秒]
 しかし、だとすると、愛という漢字には、4種類もの音が存在したということになる。再確認すると、愛宕、愛発の「あ」、愛知、愛媛の「え」、愛宕郡の「お」と、愛敬、寵愛等の漢語で用いた場合の「あい」の4種類であるが、一つの漢字に、これだけ多くの音を持つというのは珍しい。万葉仮名の一覧を見ていても、同じ音にいくつもの漢字を当ててはいるが、一つの漢字の音は固定されているのが常だからである。
 これが、訓であれば、たとえば、生という漢字には、芝生の「ふ」、生憎の「あい」のように特殊なものを含めると、150通りもの読み方があるという。したがって、4種類程度で驚くことはない。しかし、愛の場合、「めでる、おしむ、いとしい、いつくしむ、かなしい」というように、数多くの訓はあるが、「おしむ」以外は、上記の音と重ならない。
 しかも、この「おしむ」は、「おたぎ」の「お」と重なるものの、古語では「をしむ」である。そして、愛宕郡は、「和名類聚抄」の「於多木(岐)」という表記から考えると、「おたき(ぎ)」である。於は平仮名、片仮名の「お」、「オ」の原型だからである。つまり、「お」は於の草書体、「オ」は於の方によるもので、「を」が遠の草書体、「ヲ」が乎の一部なので、これは別物である。
 もっとも、奈良時代には截然に区別されていた「お」と「を」は、平安時代には混同されており、両方とも「をWo」と発音されていたという。そして、これは平安時代初期にはすでに混同した例があるという。したがって、承平年間(931-8年)に編纂された「和名類聚抄」に載っているからといって、「於多木(岐)」は「をたぎ」ではなかったと言いきれない。ただ、この本は平安時代の音韻資料として重視されているにも関わらず、「お」と「を」を混同して載せているという話は聞いたことがない。このことから考えると、愛の「お」という読み方が、訓に由来するという可能性は低い。
 また、一つの漢字で、4種類の音を持つ漢字が、他にないわけではない。たとえば、行という文字は、呉音、漢音、唐音が「ぎょう、こう、あん」とすべて異なり、さらには、経行という熟語では「きんひん」という、特殊な読み方である。しかし、それは唐音という、近世中国の発音を含んでいる場合の話である。しかし、今、話題にしている時代は平安時代までであり、この時代では、行も、呉音と漢音の2種類しかない。にもかかわらず、この時代に、愛という字に4種類もの音があるというのは、珍しいを通り越して、不思議な話なのである(念のため書いておくと、愛という漢字に唐音はない)。
 そして、このように各種の音が生まれた理由としては、最初は「あ」と読まれていたのが変化していったというのが、説得力があるように思う。「あ」が最初であったのなら、「え」も、「お」も、音韻変化の中で自然と生まれてくるからである。しかし、「え」が出発点であるとすると、「お」は説明できても、「あ」は無理である。「お」の場合は、もっと難しい。そして、「あ」と読まれたのは、愛という漢字の二重母音をそう聞いたからであり、そこから「あい」という発音が出てきたと考えられる。したがって、愛宕は最初から「あたご」であり、「おたぎ」はその変形だったということになる。
 ただ、この説にも問題はある。
 


愛宕(2)2014/01/06 [21時41分57秒]
 愛宕山が文献に現れる最初は、「日本三代実録」である。この本は、「日本書紀」に始まる六国史の最後に現れる正史であるが、その貞観2(860)年2月25日条に「真済(しんぜい)入愛当護山高尾峰、不出十二年(「真済愛当護山高尾峰に入り、十二年出でず」)」とある。この真済というのは、空海の十大弟子の1人で、この記述は、その死亡記事中にある伝記の一節である。そして、この真済が12年間籠っていたという高尾(高雄)山は、愛宕山の隣にあり、その一峰と解せられていた以上、この愛当護山は愛宕山を指すというしかない。
 ここで注目すべきは、愛宕山が愛当護山と書かれていることである。そして、このことは、愛が「あ」と読まれていたことを示している。もっとも、「あいたご」と読まれていたという可能性も考えられるが、「日本三代実録」には、貞観6(864)年5月10日条に「授丹波国正六位上愛当護神従五位下」、貞観14(872)年11月29日条に「授丹波国(中略)従五位下阿当護神従五位上」、元慶3(879)年閏10月24日条に「授丹波国従五位上阿当護神従四位下」、元慶4(880)年4月29日条に「授丹波国阿当護山無位雷神。破無(はむし)神並従五位下」という記述もあって、愛当護と阿当護という2つの表記が使われている。
 これらは、愛宕山そのものではなく、祭られている神に授与された神階の記録である。また、すべてに丹波国とあるので、この愛(阿)当護は、京都の、つまり、山城国の愛宕山のことではなく、京都市と隣接するが、かつての丹波国に属する亀岡市の愛宕神社のことである。というのは、この神社は、三輪山のように、愛宕山を神体としていたようだが、大宝年間(701-4)、役小角と泰澄が愛宕山を開き、山自体に中心が移ったとされるからである(異説もある)。このため、愛宕山に対して、元愛宕と呼ばれており、「延喜式神名帳」にある丹波国桑田郡阿多古神社というのは、この神社のことだとされる。そして、最後の神階の記録にある阿当護山は、丹波の愛宕神社から見た愛宕山ということになる。この山は、先述のように、山城、丹波国境に位置するからである。
 それはともかく、愛宕山にしろ、愛宕神にしろ、その「あ」という音に愛と阿が使われており、阿は「あ」以外には読まない。もっとも、出雲阿国の場合は「お」と読むわけだが、この人は、安土桃山時代の人なので、考慮の外においてもよいと思う。したがって、愛当護山と阿当護山という表記は、この山が「あたご」と読まれており、愛が「あ」と読まれていた時代があったということを意味する。そして、この愛という字の「あ」という音がどこからもたらされたかというと、中国語の発音をそう聞いたからではないかと思う。
 というのは、中国語は単音節言語であり、表意文字である漢字も一字一音節だからである。だから、たとえば菊という植物は、「きく」という中国名そのままで日本で呼ばれているが(このため、菊という漢字には訓がない)、中国語では、最後の「く」は、日本語のようにkuと母音で終わるのではなく、子音のkで終わっていた。したがって、「き・く」と2音節ではなく、ただ一息にkikと発音されていたわけである。そして、母音が重なる場合は、二重母音が使われていた。愛の場合、平仮名で書くと「あぃ」と「い」の部分が小さくなる音である。これを、その「ぃ」を聞き落として、「あ」と日本人が聞いた可能性がある。しかし、一例だけでは心もとないので、他に例はないかと六国史を検索すると、愛発(あらち)というのがあった。
 大納言藤原愛発のように、人名になった例もあるが(この人の場合、「あらち」ではなく、「ちかなり、よしあきら」等の読み方をしていたという説もある)、通常、この言葉は愛発関を意味する。この関は、福井県敦賀市が比定地で、789年に相坂(逢坂)関に取って代わられたものの、鈴鹿、不破とともに三関と呼ばれた古代の要衝であった。そして、この関の近くにあったのが愛発山だが、この山は、これより先の「万葉集」に有乳山と書かれている。荒血などという物騒な表記も後世には出てくるが、有乳山という書き方は、愛発が「あらち」と読まないと出てこない発想である。したがって、この愛は「あ」という音でないといけない。発は「はつ」であり、「らち」と近い音だからである。
 
 写真は高雄山にて。
 


愛宕(1)2014/01/02 [22時36分09秒]
 愛宕は、難訓である。愛宕山も、軍艦愛宕も知らずに「あたご」と読める人がいるとは思えない。一応、愛は「あい」という音に「あ」という音を含むが、「あ」のみというのは一般的ではない。漢和辞典にも「あ」だけの音はない。もちろん、「あた」と読ますという考えも成り立つのだが、これだと余計に難しい。愛鷹のように「あし」と読ますほうが、「あい」という音に近いと思う。
 これが、宕になると、他で見たこともなく、音すら分からない。石という字を含むのだから「せき」だろうかと思って調べてみると、呉音で「どう」、漢音で「とう」と読むとある。しかし、もちろん、「たご」などという読み方はない。ただ、中国語ではTangであり、これが昔からの発音であるとするのなら、「たご」と日本人が聞いた可能性はあると思う。敦賀のところで述べたように、「ん」という発音が日本にはなかったからである。しかし、語尾のgは、当時の日本人には判別しえたので、Tangを「たご」と聞いただろうなとは思う。相模、相良、双六等の表記も、Sang、Sungという中国の音を「さが」、「すご」と聞いた結果であるが、これと同じである。
 したがって、問題は、やはり、愛であるが、愛宕にはもう一つの読み方がある。「おたぎ」である。これは1949年まで京都府にあった愛宕郡の読み方である。しかも、この読み方は、平安時代中期の辞書「和名類聚抄」に「於多木(岐)」と書かれているので、古くからある読み方である。その上、Wiktionaryというネット上の字書には、愛という漢字に、呉音の表外字として「お」という読み方があるとされている。だとすれば、愛宕は、本来、「おたき(ぎ)」と読まれていたのが、「あたご」と転じたのかもしれない。音が近いだけに、可能性はある。
 しかし、「お」が「あ」に変化するものだろうかと思う。音韻学では、母音は口を閉じる方向へ変化するとあるからである。つまり、口を大きく開く「あ」は、「お」に変わりうる。人は、少しでも労力を減らそうとして、口を開く大きさを小さくしようとするからである。したがって、「買う」は、関西では「こう」である(「あれ、こうてや」というふうに使う)。つまり、KauからKou、「あう」から「おう」への変化である。宕が「たご」と読まれるのも、「とうTou」が「たうTau」と読まれていたからである。しかし、反対に、「お」から「あ」というように、口を開く方向にはいかない。したがって、「あたご」が「おたぎ」に変わったというのなら分かるが、そうではないのだから、これは変である。
 その上、愛宕郡と愛宕山は、同じ京都市内だが、重なってはいない。愛宕郡は、現在の京都市北区(1955年までは上京区)、左京区にあった郡であるが、愛宕山は旧葛野(かどの)、北桑田郡境(これはかつての山城、丹波国境であった)、つまり、右京区にある。京都の地理に詳しくない人のために記しておくと、京都の市街地のほとんどが旧葛野郡となるが、愛宕郡はその東側から北側、市内東部を流れる鴨川や東山連峰付近から北山に至るあたりである。したがって、愛宕郡と葛野郡は接してはいるが、京都の東端から北部にあった「おたぎ」という名を、市街地を越えて反対側にある山の名の由来とするのは難しい。
 しかも、愛宕郡が鞍馬山を含む北山がその郡域にあるとしても、その由来となった愛宕郷は、そのような山間部にはない。「源氏物語」の桐壺の更衣の野辺送りのシーンに「愛宕といふ所に」とあるが、この愛宕は珍皇寺のことだと「都名所図会(1780年刊行)」にあるからである。そして、この愛宕は「おたぎ」と読むのが定説であるが、現在、この寺は東山区にある。つまり、かつての愛宕郡にはないのだが、平安末期から鎌倉初期の辞書である「伊呂波字類抄」等には、別名を愛宕寺としている。つまり、「おたぎ」というのは、本来、鴨川周辺を表す地名であったということになり、「源氏物語」の愛宕も、京都の東端にあったとなるが、愛宕山は、反対の西端である。また、明治時代、愛宕郡の役場は下鴨神社のある下鴨村に置かれていた。京都人にとって、「あたご」と「おたぎ」は、明確に別の場所であったはずである。
 もっとも、嵯峨野に愛宕念仏寺という寺があり、この愛宕は「おたぎ」と読む。そして、この寺のある嵯峨鳥居本というのは、愛宕山の参道の入口で、その一の鳥居があることに由来する。当然、旧葛野郡内である。したがって、先の「おたき(ぎ)」から「あたご」という説を補強するように思えるが、この寺は、大正時代にこの地に移ってくるまでは、六道珍皇寺の近くにあった。それどころか、愛宕寺は、六道珍皇寺とこの寺に分かれたといわれており、「おたぎ」と読むには当然なのである。
 また、Wiktionaryにそうあっても、手元の漢和辞典を見る限りでは、愛に「お」という読み方はない。愛宕を「おたぎ」と読むので、独自の判断で、Wiktionaryにそう記されたのではないかと思うが、各種字書に載っている読み方は、「え」である。すなわち、愛知(えち)だとか、愛媛の「え」である。そして、母音の音韻変化として「あ」>「え」>「い」>「う」というのがあるので、「あい」が「えい」になり、最後に「え」になったというのは、不思議ではないが、「お」というのは解せない。
 
Takeahero様
 こちらこそ。
 


謹賀新年Takeahero2014/01/01 [14時44分09秒]
 明けましておめでとうございます。
 旧年中は・・・(以下略)


忠と孝(2)2013/12/25 [22時28分37秒]
 朱子学は、鎌倉時代には日本に伝わったとされる。このため、いわゆる建武の中興は、朱子学に従ったものだと主張する向きもあるが、どうかなと思う。たしかに玄恵のように儒学に通じた人もいるが、少なくとも、鎌倉、南北朝、戦国期において、隆盛をきわめたということはない。また、「忠臣は二君に事えず」どころか、主君を裏切ったり、変えたりすることは当たり前のことであった。中でも、藤堂高虎は8度も主君を変えているが、家康はこの人を重用している。
 一生懸命の語源などを見ていても、それは思う。この語の語源は一「所」懸命であり、一所懸命の土地というように使う。つまり、命を懸けても守るべき一所、すなわち、土地である。だから、鎌倉幕府の御家人の名を見ていると、三浦、梶原、大庭というように、関東の地名が使われていることが多い。御浦郡、梶原郷、大庭御厨と、その由来は大小あるが、すべてその出所である。すなわち、父祖伝来の地である。そして、そういう人の中には、主君が国替えにより違う所へいくと、浪人になっても、その地に留まる人が出てくる。
 また、主君が死ぬと殉死する場合もあるが、忠心の現われでない場合も多かったという。殉死すると、忠義の者であるということで、次の君主から褒章としてさらなる土地が遺族に与えられるからである。当主が老人である場合、どうせ老い先が短いのならということになって、子孫のために美田を残そうとするのである。このため、主君が死亡した場合、殉死する者を指定する場合すらある。でないと、殉死者が相次いでしまって、褒章が大変なことになるからである。
 実際、藤堂高虎が自分が死んだ時に殉死したいと思う者を調べたところ、70名の多きになったという話がある。このため、家康から殉死するぐらいなら死んだつもりで奉公せよという書状をもらって、全員に諦めさせたという話がある。もちろん、そのすべてが褒章目当てであったかどうかは分からないし、高虎の生存中の話であるから、そもそも、本当にそうしようと思ったかどうかも分からない。ただ、すべてが高虎を慕ってのことかというと、それも分からないのである。
 安堵という言葉もそうである。堵は土偏がついているように、土地の囲いを意味する語であり、土地の所有権を有力者に保証してもらうというのが安堵の本来の意味であった。このため、安堵状を得るためには、平安時代後期には贈り物や奉公が必要だったが、武家の勃興とともに主従関係が基調になる。しかし、その土地を与えた者は、自分の君主とは限らなかったのである。
 むしろ、父祖から受け継いだ土地というもののほうが多かっただろうと思う。あるいは、自分が他人の土地を奪ったうえで、そこを安堵してもらうという場合もあっただろうと思う。もちろん、奪われた側も別人に安堵を求めるのだろうが、どちらの安堵状のほうが有効かというのは、書状の発行者同士の力関係であったりするわけだから、より有力者のものを手に入れようとするのではないかと思う。そうした時に、これを自分の君主のみに限ってしまうのはどうかと思う。
 もちろん、褒章として与えられるというものもあったと思う。しかし、安堵状が必要になるのは、土地が侵略された時か、相続した場合である。そのような時に、いかに有力な者から書状を貰えるかというのが、武士の論理であったと思う。つまり、まず、土地があり、そこには財産なり、家族なり、奉公する人々が付随してくるのだが、それから、それを守るための主従関係が発生してきたのである。
 これらは、封建制度と関係の強いものであるが、土地や財産を与え、守ってくれる限りはついていくが、それができないのなら、さよならであるという現実が見え隠れする。能楽の「鉢木」の佐野源左衛門常世なども、忠義の武士として描かれているが、実在の人物とは思われず、逆にそのようなことを喧伝されることのほうに目がいく。つまり、中世は乱世であり、この時代においては、精神的なものは無用の長物であったのである。したがって、孝も感じないが、忠もないように思う。そして、そういうものが出てくるのは、近世を待たなくてはいけないわけだが、歴史上の人物でいえば、藤原惺窩(せいか)がこの時代の人である。
 この藤原惺窩という人は、「新古今和歌集」や「百人一首」の撰者として有名な藤原定家の子孫であるが、嫡子ではなかったため、お家芸である歌道ではなく、儒学のほうへいった人である。彼は、陽明学も習ったようであるが、朱子学を深く学び、秀吉、家康にも講じた。そして、家康から仕官を命ぜられたが、これを断り、代わりに門弟を推挙した。これが林羅山である。
 羅山は、方広寺の鐘銘中に「国家安康」、「君臣豊楽」とあったことを問題視した際には、五山の僧と並んで見解を述べ、さらには「右僕射源朝臣家康」とあるのは、家康を射るという意味ではないかとした。これが豊臣家攻撃の口実であったことは、方広寺が現在に至るまで残っており、問題の鐘も鋳潰されずに残っていることでも確かであるが、家康のブレーンの一人に過ぎなかった羅山は、これで頭角を現し、次の秀忠から家光、家綱に仕え、武家諸法度等の撰定にも関わった(中心となったのは崇伝であるが)。そして、朱子学を幕府の学問とすることに成功するのだが、その中で、羅山は上下定分の理というものを唱えている。
 彼の「春鑑抄」には、「天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。上下差別あるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ」と書かれている。私などは、「山高きが故に貴からず」という言葉もあるのだがと、つい、思ってしまうのだが、これは身分制度の肯定である。そして、その身分制度の柱として忠という概念が出てきたのだろうと思うが、それが、いつ、誰によって唱えられだしたものかは、分からなかった。ただ、忠を、孝に優先するものとして出してきたのは、儒学者、特に、幕府の御用学問となった朱子学者であろうとは思っている。
 そして、そのようになったのは、時代の要請であろうと思う。動乱期においては、打ち破った相手の土地から褒美の所領を与えることもできるが、平和な時代においては、与える土地は君主の所領から削るしかないからである。しかし、たとえ将軍といえども所有する土地は有限なので、与える土地にも限度がある。そして、江戸時代は、そのような時代であった。
 このため、幕府は、藩主の死ぬと、その領地を返上させ、相続人に与えなおした。また、領地を増加させずに、石高だけを多くするということも行った。そして、このように与え直したりするのは、故人が忠であったから、もしくは、相続人の忠を期待するからとしたのである。つまり、土地という実利の代わりに、道徳をもって体制を維持したわけだが、その根底となったのは、儒学、それも日本化した朱子学だったのである。
 


忠と孝(1)2013/12/24 [22時43分35秒]
 本家、中国から見ると、日本の儒教や儒学というのは非常に奇妙なものらしい。日本では、忠のほうが、孝よりも優先されることが多いからである。中国では、何よりも孝が大切であり、忠は二の次、三の次である。それどころか、忠という言葉自体があまり出てこない。これが儒教以外ならば、たとえば「史記」に、「忠臣は二君に事(つか)えず」というような言葉も出てくるが、儒教は何といっても孝であり、忠が、孝よりも優先されるということはありえない。
 孝というのは、もちろん、親を大切にするということである。それ自体は自然な行為だと思うが、中国の「二十四孝」に登場する話の中には、常軌を逸するようなものが多い。冬季、親が魚を食べたいというので、氷上に裸で横たわって氷を溶かして魚を捕らえ、蚊帳がないので、裸になって蚊を引き付け、親が刺されないようにしたなどというのは序の口で、親を養う金がないので3歳児を埋めてしまおうなどという話すらある。しかし、中国人にとって、これは誇張されたものなのだとしても、理想的にはそこまでするものなのである。
 したがって、姨捨山の話などは、中国人にとっては、到底理解しがたい代物であろうし、主君の敵討ちのために自らを犠牲にするというのも同様であろう。特攻もまた同じである。残された親を誰が養うのだという話になるからである。つまり、日本と中国では、儒教の有様が随分と違う。そして、東アジア各国での儒教のあり方もまた、中国に近い。日本だけが、異なるのである。
 「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず」という、平重盛の思いは(もっとも、これは「日本外史」に登場するものなので、頼山陽の創作だと思うが)、したがって、中国人には理解できない。中国では、三度、諫言して主君が行いを改めないのなら、そのもとを去るべきとされるのに対して、三度、親に言っても聞き入れられなければ、泣いて親に従うべきとされたからである。したがって、服喪中であるにもかかわらず、出仕して罷免された大臣の話もある。忠よりも孝を優先するのが当然だからである。
 実際、儒教の祖、孔子は魯の大臣であったが、国政を見限って退去している。「論語」にも「危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠(危邦に入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見(あらわ)れ、道なければ則ち隠る)」とある。死んでも、国家に忠誠を尽くしてという考えはない。そのような孔子に対して、吉田松陰は腹を立てたという記述を読んだが、原典が分からないので、本当かどうかは知らない。ただし、これは、孔子が非戦主義者であり、平和愛好家であったという意味ではない。「史記」によると、魯に斉の使者が来た時に、相手の非礼に腹を立てて舞楽隊の手足を斬らせたとあるし、出兵も命じている。しかし、それは、彼の信じる秩序を守るためであり、それが崩壊した所には立ち入らないという意味である。
 もっとも、「論語」に、忠という文字が登場しないわけではない。たとえば、「夫子之道、忠恕而已矣(夫子の道は、忠恕のみ)」と「里仁篇」にある。夫子、つまり、孔子の教えは忠恕のみだというのだが、この忠を、忠義と捉えてはいけない。「礼記」、「祭儀篇」にある「忌日必哀、称諱如見親、祀之忠也(忌日は必ず哀しみ、諱を称すれば親を見るが如くするは、祀りの忠なり)」とあるからである。
 忠という文字は、中と心からなる。つまり、心の中であり、中心である。また、白川静によると、中は旗の形状で、心を支配するという意味だそうである。忠告、忠実の忠はこの意味である。一方、恕は、心の如くであるので、心の思うままにである。したがって、忠恕というのは真心であり、命日にはその名を呼んで親を思うのが忠恕とされるわけである。これは、明らかに君主に対する忠ではなく、親に対する忠である。親に対してその死を悲しむのは自然だが(もっとも、中国のそれは不自然なぐらいにまでに強烈ではあるが)、主君に対するものは人為だからである。
 しかし、これは国家経営上は、あまり得策ではない。国家よりも家族に大切にするのは当たり前の話だが、さりとて、親ばかりを大切にして、国政を省みない者ばかりでは、国が回っていかない場合も出てくる。しかし、漢の武帝以来、仏教や道教が隆盛を極めた時代もあるが、2000年の長きにわたって、儒教は中国の国教であった。また、官吏登用試験である科挙で出題されたのは、徹頭徹尾、儒学であった。そのような中で、国家に対する忠の度合いを高めたのが朱子学である。
 ただ、当初、朱子学は排斥された。しかし、次第に重用され、やがて、科挙の問題は朱子学に由来するものばかりとなった。やはり、国家に忠誠を誓うほうが、使いやすいからであろう。しかし、朱子学という名称であっても、もとが儒教であるから、孔子の立場から大きく逸脱することはできない。忠と孝を並べると、やはり、孝のほうが強かった。ただ、孝の色彩を薄め、忠を際立たせる方向にいっただけである。それが、日本に入ってくると、大きく変容する。
 


日進2013/12/20 [12時44分10秒]
 「君子之学必日新(君子の学は必ず日に新たなり)。日新者日進也(日に新たなる者は日に進むなり)」という語が、北宋の儒学者程頤(伊川)の語の中にあり、これを朱子学の祖朱熹等が先人の語をまとめた「近思録」という本に収録している。この「近思録」は、朱子学の教科書としてよく知られており、初代日進の前身が佐賀藩の船であり、同藩が弘道館という藩校を有していたことに鑑み、同書が艦名の出典とした。ただ、日進という語は程頤が発明したもので何でもなく、たとえば、「荀子」に「君子敬其在己者(君子はその己にあるものを敬して)、而不慕其在天者(その天にあるものを慕わず)。是以日進也(これをもって日に進むなり)」とある。荀子は紀元前の人であり、程頤から考えても千数百年も昔の人である。
 しかし、荀子も儒家の一員であるが、日蝕、月蝕や不時の風雨、怪星(流星or彗星等)は、単なる自然現象であると言い切る人である。もちろん、「子不語怪力乱神(子は怪力乱神を語らず)」と「論語」にあるのだから、このような態度は儒家として間違ってはいないのだろうと思うが、何だかなと思う。多分、当時の佐賀藩内でもあまり重んじられなかったのではないかと思う。これが、「荀子」を艦名の出典としなかった理由であるが、佐賀鍋島家で朱子学が盛んであったかというと、疑問はある。同家には、「葉隠」という本があるからである。
 「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉があまりに有名なので、同書は精神の書であると思われがちである。しかし、この本は処世のためのものである。たとえば、上司の誘いを上手に断る仕方とか、欠伸をこらえる方法というような記述のほうが多いからである。また、男色については、かなりの分量が割かれており、当時としてはありふれたこととはいえ、いささか驚かされる。だいたい、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という言葉の先には、「我人、生くる方が好きなり」という語もあって、死ぬことばかりを勧めているわけではない。犬死を戒めているのである。
 しかも、同書は、家内でも禁書であった。たとえば、同書は、浅野内匠頭が自刃後すぐに敵討ちをしなかったのは間違いだし、吉良上野介を討ち取った後に、すぐに切腹しなかったのはおかしいとする。相手が病死する可能性もあるのだから、主君の敵討ちはすぐにすべきであるし、それを果たした後はただちに殉死すべきだというのである。しかし、これは、吉良邸に討ち入った者達に死罪を命じた幕府の方針に反する。したがって、この本は、鍋島家では尊重されたものの、よそに出すものではなく、中身を覚えたら焼却するものとされている(このため、写本は残っているものの、原本はない)。
 にもかかわらず、同書は、同家では絶大な影響力を有していた。しかも、同書の考え方は藩学である朱子学と異なる部分があったのである。このためかどうかは知らないが、佐賀の出である大隈重信が「葉隠」などというのは時代遅れのものとしているし、弘道館の儒学者の中には眉を顰める者もいた。しかし、一般藩士にもっとも影響を与えたのは、朱子学よりも「鍋島論語」とも呼ばれた同書であったのである。
 したがって、「近思録」こそが日進の艦名の出典であると断じるのは、やや躊躇う部分はある。だいたい、日進というのは太陽の運行を意味する語でもあり、わざわざ漢籍に出所を求める必要があるのかという意見があっても、不思議はないと思うぐらいである。ただ、現在でも、新しい元号が出てくるたびに漢籍に出典を求めるのだから、この時代においては、そちらのほうが普通であったろうと思うばかりである。まして、当時の学習というものは素読であるので、意味が分からなくても文を覚えるというのが普通である。そして、そうした時、「近思録」は朱子学を学ぶものの必ず習うものであるから、そのあたりに由来を求めても、あながち、間違いはなかろうとは思っている。
 


猫ノ宮様2013/12/07 [22時12分23秒]
 いらっしゃいませ。
 「トゥーランドット」は、御存知のように、プッチーニの死後残されたスケッチをもとにアルファーノという人物が補作しておりますので、ベリオ補作ということは、最後の部分を新しく作り直したということなのでしょうね。
 もっとも、私はクラシックに造詣などがあろうはずはなく、今日も、滋賀へ行った車の中で、行きはブラームスの交響曲1番(なぜか、バーンスタイン、ヴィーン・フィル)、帰りは藤原義江を聴かされて、非常に眠い思いをしたような次第です。なもので、途中から伊藤久男の「イヨマンテの夜」に切り替えて、何とか帰り着いたぐらいで、やはり、山口百恵のほうがいいです(笑。
 赤坂のトゥーランドットについては、この曲のことで検索をかけている最中に何度か候補に挙がってきましたので、今でもやっているようです。やはり、中華料理ということでつけた名前でしょうが、ピンポンパンのほうが名前としてはいいように思います(汗。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。

たまにはオペラの話でも(補)
 あとで思い出したのだが、イタリアにジュゼッペ・ヴェルディという貨客船があって、後に近海郵船が購入して大和丸と改名している。なお、イタリアの駆逐艦にヴィヴァルディというのがあるが、これの正しい名前はウゴリーノ・ヴィヴァルディであり、音楽家のほうはアントニオなので、別人である。実際、この駆逐艦は、ナヴィガトリ(航海家)型と名づけられた嚮導駆逐艦の1隻であることからも分かるが、1291年にインド航路の探索に出かけて行方不明になったジェノヴァの航海家の名前である。


 シャーリー・マクレーンのほうの「ココ・シャネル」を観ていたら(つまり、オドレイ・トトゥの「ココ・アヴァン・シャネル」ではない)、軍艦が航行している記録映像が挿入されていた。5本煙突でミリタリー・マストなのでフランスのダントン級だろうと思うが、このクラスは前から見るとこのような感じになるのかと、妙に新鮮であった。どこかに元映像がアップされていないかなと思う。
 


トゥーランドット猫ノ宮2013/12/07 [21時01分05秒]
興味深い考察ですにゃー。
やぱしトゥーランドットと言えばまずプッチーニが出てきますにゃ。
少し前にプッチーニ/ベリオ補作のやつを聴きましたにゃ。

東京赤坂のサントリーホール前にトゥーランドットと言う中華料理屋がありましたけど、どうも移転してしまったみたいですにゃ。
こちらの名前も場所からしてオペラ由来ですかにゃー。


たまにはオペラの話でも(終)2013/12/06 [22時21分18秒]
 トゥーランドットは、オペラ以外にも、多くの劇がある。戦後になるが、不条理劇で有名なブレヒトが1953-4年に書いており、「ヴィルヘルム・テル」で有名なシラーが書いたものもある。プッチーニのオペラもゴッツィというヴェネツィアの劇作家が創作したものが原作になっている。しかし、これらのもとになったのは、さらに古く、ルイ14世の時代のフランスの東洋学者ペティ・ド・ラ・クロワが1710-2年に出版した「千一日物語Les Mille et un Jours」という本である。
 「千一夜物語」とタイトルが似ていることからも想像がつくが、これはアラビアの物語で、夜が昼になり、王が王女に代わるだけで、構成も似ている。訳出された年代も重なっている。ただ、この本は、途中が大いに抜けている上に、原本が失われている。したがって、これが彼の創作である可能性は拭いきれないが(もっとも、トゥーランドットと同系統の話は中東に残されている)、アンデルセンの「飛ぶトランク」の原話が収録されていたりしているように、影響力があった本であった。そして、いくつかある話の中では、トゥーランドットがもっとも有名なのであるが、これは45-82日の部分に収められている。
 ところで、その原題「カラフ王子と中国の王女の物語Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine」でもわかるが、トゥーランドット姫は中国人である。実際、プッチーニのオペラでは、紫禁城が舞台になっているが、トゥーランドットという名で、中国人を思い浮かべることは難しい。もちろん、アラジンも中国人という設定だったのだから、アラブ人にとって、これぐらいのことは不思議でもないのかもしれないが、現存するトゥーランドットと同系統の写本の中には、この名は登場しない。したがって、この名は、ペティ・ド・ラ・クロワの創作なのかもしれないが、トゥーランという名はペルシャ語の写本の中に登場する。ただし、人名ではなく、国名としてである。
 トゥーランは、今から約2500年の昔、中央アジアにあったとされる国である。テュルク(トルコ)と関連ある語とも考えられており、現在のトルキスタンあたりが比定地になっているようだが、近代ヨーロッパでは中央アジア全般を指す言葉であった。そして、トゥーランドットはペルシア語で「トゥーランの娘」を意味するイランの女性名、トゥーラーンドフトTurandokhtに由来すると考えられているが、中国からは遠い。ただ、アラブ人にとって、中国もトルキスタンもあまり関係はなく、ルイ14世の時代のフランスでも同様だったのだろう。
 しかし、プッチーニの時代には、中国は伝説の国ではなくなっている。したがって、これはゴッツィの原作にあったのかもしれないが、中国風の名前の人物が多く登場する。王に仕える若い娘はリューであり、大蔵大臣はピン、内大臣はパン、総料理長はポンである。この他にも、プー・ティン・パオという首切り役人も登場するが、興味深いのは狂言回し的に出てくる3人の大臣である。並べるとピン、ポン、パンとなり、1966年から88年までTVで放送された幼児番組の名になるからである。
 結局、小惑星の名の由来としてはプッチーニは関係ないが、艦名になる際には、その由来であると信じ込ませ、ワールド・カップやオリンピック、さらには東洋の小国のTV番組にも影響を与えたわけである。プッチーニ、恐るべしである。
 


たまにはオペラの話でも(2)2013/12/05 [12時45分09秒]
 プッチーニの最後のオペラとして、「トゥーランドット」は「トスカ」や「蝶々夫人」の次ぐらいには有名である(「ラ・ボエーム」や「マノン・レスコー」というのもあった)。特に、劇中で歌われる「誰も寝てはならぬNessun dorma」というアリアは、イタリアのテノール歌手パヴァロッティが1972年に録音したものが90年のワールド・カップ時にBBCが使用しため、その年のイギリスのシングル・チャートで週間2位になるという、クラシックでは異例のヒット曲になった。また、パヴァロッティの体調が思わしくなかったため録音が使われたというが、2006年のトリノ・オリンピックの開会式でも歌われた(そして、これが生前最後の公演となった)。フィギュア・スケートでも、「トゥーランドット」の曲を使うのが流行している。
 エピソードにもことかかない。たとえば、初演を担当したトスカニーニは、別人による死後の補作に大鉈を振るい、さらには、初演の途中で演奏を中止して、ここで巨匠は筆を絶ちましたと告げて幕を下ろさせた(翌日からは、通しで上演した)。また、この時に、ファシスト党歌の演奏をトスカニーニが拒否したため、オペラの初演時には恒例となっていたムッソリーニの臨席がなかったという話もある。したがって、トゥーランドットと聞いて、プッチーニを連想するのはきわめて自然なことなのである。
 しかし、アメリカはこの手の船に天文関係の名をつけており、このトゥーランドットというのも、小惑星530番の名なのである。ただし、トゥーランドットを含むドイツの天文学者ヴォルフが発見した小惑星には、アイーダ、パミーナ、ヴィオレッタ、フィデリオ、ゼンタ等のように、オペラに登場する人物名をつけられている(うち、「魔笛」に登場するパミーナは、トゥーランドットの姉妹艦AKA34の名となっているが、「魔笛」もモーツァルトの最後の歌劇である)。もっとも、これは、ヴォルフがオペラの愛好家であったことを指すものではない。当時は、小惑星の名の命名権は、発見者ではなく、軌道を計算したところにあったからであるが、このことは、トゥーランドットもオペラに由来する可能性が高く、プッチーニの歌劇が関係があるようにも思う。
 実際、英語版でも、日本語版でも、Wikipediaの小惑星トゥーランドットの名前の由来は、プッチーニのオペラからと書かれているし、アメリカの海軍艦艇の権威であるDictionary of American Naval Fighting Shipsでもそうなっている。しかし、この小惑星の発見は1904年である。これに対し、プッチーニのそれは1920年に制作が開始されており、先に述べたように、初演は死後であった。したがって、これであるはずがない(実は、自分のページのトゥーランドットの項目には、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」等に由来すると書いてあった)。
 では、他にトゥーランドットというオペラは存在するのかというと、プッチーニのも含めて12曲もある。そして、その中には、1809年に初演されたウェーバーのものがあるので、これが由来かもしれない。しかし、この曲も含めて、そのほとんどは、今日、忘れられており、当時、トゥーランドットという名で、誰のオペラを想起したのかという問いに答えることは難しい。ただ、プッチーニ以外の作品の中では言及されることの多いブゾーニの「トゥーランドット」は1917年のものなので、除外される。
 


たまにはオペラの話でも(1)2013/12/04 [12時35分17秒]
 トゥーランドットTurandotは、アメリカが第2大戦中に建造した揚陸貨物輸送艦の1隻で、AKA47という艦番号を持つ。この艦は1945年に竣工し戦争終結の前日に真珠湾に到着しているので、当然、実戦には参加していない。そして、復員輸送に従事後すぐに予備役に編入されたものの、電纜敷設修理艦(ARC3)イーアラスに改造された結果、多くの同型艦が解体されていく中で、比較的長期にわたって使用された。最終的に1985年に除籍され88年に自沈処分になるまで生き残ったのだが、格段、興味深い艦歴を有しているわけではない。ただ、その名には興味がある。イタリアの作曲家プッチーニのオペラに「トゥーランドット」というのがあるからである。
 イギリスの駆逐艦にシェークスピアがあり、フランスの装甲巡洋艦にヴィクトル・ユゴー、スペインの巡洋艦にセルバンテス、そして、イタリアの戦艦にダンテ・アリギエリやレオナルド・ダ・ヴィンチがある。これらの名は、いずれもそれぞれの国を代表する文豪や芸術家の名である。また、日本の艦艇名の由来を探るには、和歌をはじめとする古典の知識が欠かせない。しかし、音楽の分野は、あまり、艦名には採用されていない。
 タンゴとか、フォックストロットとかいうのはある。もっとも、ここで言っているのは、ソ連やロシアの潜水艦につけられたNATOコードではなく、第2次大戦時のイギリスの武装トローラーの名である。これは、ダンス型と称されているように、ルンバ、ポルカ、マズルカ等の踊りの名がつけられており、第1次大戦時にも、同種の名をつけたダンス型掃海艇があった。また、オーフュースという英語読みで示したギリシャ神話の音楽神オルフェウスや、同じく音楽神であるアポロのような付帯的なものはある。そして、拙サイトでは、ヴィーン、アウクスブルクやクリーヴランド等のところで、モーツァルトやセル等の名前を出している。しかし、これは単なる趣味で書いているわけで、艦名をつける上では、あまり関係はない。
 もっとも、民間船舶の場合は、この限りではない。シャリアピン・ステーキで有名なオペラ歌手フョードル・シャリアピンの名は、旧ソ連船舶公団の客船名にあったし、往年のテノール、レオニード・ソビノフの名もあった。また、現存のクルーズ客船の名を眺めてみると、小型とはいえ、イーゴリ・ストラヴィンスキー、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨハン・シュトラウス、ヨハネス・ブラームス等の名を見出すことができる(多分、アマデウスという客船もこの類であろう)。また、イタリアのMSCクルーズ社には、オペラだとか、ムジカ(音楽)、オーケストラ等の名がついた船がある。しかし、軍楽隊や軍歌というものがあっても、軍艦名と音楽は相性はよろしくない。したがって、トゥーランドットがプッチーニの歌劇に由来するのだとすれば、非常に興味深い例となる。
 


お気になさらず・・・Takeahero2013/11/04 [16時22分32秒]
 わざわざご報告なされずとも・・・
 ツッコミ入れずには居られないのは職業病ですんで(苦笑)。
 他人の粗探しが生業ってのも因果なものです・・・。


Takeahero様2013/11/04 [14時34分13秒]
 御指摘多謝。
 筑後、吉野のほうはきちんと坂東太郎となっておりますので、どうもその部分だけを直し損ねたようです。
 早速、修訂にかかったのですが、ついでに全面的に改訂しようと思ったら丸一日かかってもできませんでした。
 出来上がった部分だけアップしましたが、冒頭の第1、第2利根丸の部分がかなり怪しい記述のまま残っております。
 あまり遅くなってもいけませんので、御礼方々御報告申し上げます。
 今後ともよしなに。
 


御無沙汰しております。Takeahero2013/11/03 [01時38分47秒]
 いきなり不躾ながら、ツッコミをば。
 「利根」のページで、利根川を”関東太郎”と書かれておられますが、”坂東太郎”が通称ではないか、と。


シェル2013/10/24 [18時30分50秒]
 大瀬を更新しようとすると、その前身であるオランダ、ラ・コロナ社のタンカー、ヘノタも更新したくなるのだが、そこで気になるのが、このGenotaという船名の由来である。まず考えられるのは地名だが、Googleで地図検索を行ってもヒットしない。1字違いのGenovaならヒットするが、この都市のオランダ語名はGenuaであり、Genotaではない。したがって、地名である可能性は低い。
 ならばと思って、画像検索を行ったが、船影以外のほとんどが人物の写真である。しかし、その中に船名になりうるような人名があるのかどうかまでは分からない。そういう写真をクリックしてみて、変なサイトに飛んでしまうのも面倒だからである。ただ、一見したところでは、その中にモノクロ写真は含まれていないようである。もし、この船名が人物に由来するのなら、この船が戦前のものである以上、その由来になった人物の写真がカラーであることは少ない。もっとも、もっと古い人物であったなら、肖像画ということもありえるだろうが、そういうものもなさそうである。
 そこで、諦めたのだが、今回、もう一度調べてみたところ、その画像の中に巻貝が幾つかあったので、もしかしたらと思った。というのは、カタツムリという意味の名を持つ船があったからである。実際の船名はアカヴァスで、アカマイマイというカタツムリの一種なのだが、この船が印象に残っていたのである。そして、この船の所有者はイギリスのアングロ・サクソン石油なのだが、この会社はシェル石油の関連会社なのである。さらに、シェルは1907年に合併によりロイヤル・ダッチ・シェルとなるのだが、この合併相手はオランダの石油会社である。そして、ヘノタを保有していたラ・コロナ社もオランダの企業である。
 
 シェル石油の創業者、マーカス・サミュエルについては、かなり怪しい話が伝わっている。日本語版Wikipediaをはじめとする日本のネット上に流れている話を総合すると、彼は貧しいユダヤ人家庭に11人兄弟の10番目としてイギリスに生まれ、かなりひどい成績で高校を卒業するとともに18歳で3等切符を与えられて来日し、手元に5ポンドの金しかなかったので、三浦海岸で無人の小屋にもぐりこんで生活していた。その時、漁師が掘っている貝にヒントを得て、持ち帰った貝殻を細工した製品の販売で小さな骨董品屋を開き、その後、インドネシアの石油に目をつけて、世界最初のタンカーを建造したという。これが、シェル石油の始まりである。シェルは、その帆立貝のマークで知られるように、貝を意味する英語であり、彼が社名にそうつけたのは、この日本での出来事を忘れなかったからだという。
 この話のどこが怪しいかというと、無人の小屋に住んでである。西洋人がそのようなところに住んでいて、何の騒ぎにもならないほど、この国は開明的ではない。しかも、彼は1853年の生まれだから、18歳ということは1871年の来日である。つまり、明治4年であるが、この頃であれば、余計である。
 実際、同名の父親がマーカス・サミュエル商会をロンドンに開いたのは1834年で、彼の生まれる20年前である。そして、同商会は、ロンドンに寄港する船乗りから安く購入した貝を細工した製品を扱っており、デザイナーやクリーナー等40人もの女性従業員を雇っていた。
 来日直前、1863-6年の同商社の売上げ総額は6万ポンドに達しており、当時の1ポンドは、邦貨に直すと、現在の数万円なので、少なくとも10億円以上の商売をしていたことになる。もちろん、貝細工だけでそれだけの商売になるかというと疑問はあるのだが、実は、同商会はイギリスの工業品を世界に売り出す商社としても成功していたのだから、当然なのである。
 したがって、18歳といえ、彼はサミュエル商会の一員として、日本での商機の可能性を調査しに来たというべきである。実際、父親は来日直前の1870年に死亡しており、彼は兄弟とともに、同商会の経営の一翼をになっていた。だから、3等切符でというのも怪しいし、5ポンドしか所持金がなかったというのも変である。たとえ、もし本当に所持金が5ポンドだったとしても、先述のように、当時の1ポンドは現在の数万円に当たり、それなりの金額になる。したがって、5ポンド「だけ」という言い方は、誤解を招く。実際、彼はその2年後には、弟のサムとともに世界を一周している。
 また、高校でひどい成績を収めたというのも怪しい。小学校を卒業後、彼はブリュッセルで1年数ヶ月に渡ってユダヤ人学校で商業教育を受けた後、ロンドンで家業に携わっており、高校に通ったとは思えないからである。ただ、実務経験は豊かであり、能力はあった(もっとも1876年に日本支店を開いたのは弟のサムのほうであったが)。そして、その日本支店は、日清戦争で軍需品の輸送等に従事する等、その後の日本の歴史の中に数多く登場する。たとえば、日露戦争でユダヤ系の財閥が日本の国債を多数引き受けて戦争の遂行に協力したというのは有名だが、同商社もその中の一つである。また、日本海軍に石炭から石油への切り換えを進言した会社でもあった。
 
 もう一つ、サミュエルが世界最初のタンカーを建造してというのも、間違っている。世界最初のタンカーという名誉は1878年にノーベル兄弟が建造させたゾロアスターに与えられるはずだからである。このノーベル兄弟というのは、ダイナマイトやノーベル賞で有名なノーベルの兄弟だが、彼等はカスピ海でブッダだとかモハメドだとか名づけたタンカーを運航させていたのである(ブラノーベルと呼ばれた彼らの会社はロシア革命により国有化されて消滅した)。
 もっとも、サミュエルも、タンカーの歴史の中には登場する。彼は、スエズ運河を通過した最初のタンカーを所有していたからである。1880年代にサミュエルはロシアの石油に目をつけたのだが、それを東洋に運ぶためには、この運河を通るのが最短である。ところが、運河の運営会社は、その航行に難色を示した。当時の石油は、缶なり、樽なりに詰められて運ばれており、火災の危険が高かった。そのようなものが運河を通ることはまかりならないと判断されていたのである。
 このため、サミュエルは、どのような船ならば運河の通航を認めるのかという質問を行い、その回答に従った仕様によりミュレックス、コンチ、クラムの3隻のタンカーを建造した。このうちのミュレクスがスエズ運河を通過した最初のタンカーとなったわけである。1892年のことである。
 このことは、サミュエルに大きな利益を与えた。缶や樽に詰めるのは手間だが、液体だけに、船内のタンクに石油を移送するのは簡単だったからである。つまり、経路の短縮だけでなく、タンカー輸送とすることによって、積み込みにかかる手間を省くとともに、経済的な輸送を可能にしたのである。しかも、これらのタンカーは、洗浄装置を設けていたので、石油を輸送した帰りに別の積荷を運ぶことも可能だったのである。
 以後、同商会は多数のタンカーを建造する。そして、1907年にロイヤル・ダッチと合併した時、シェルは実に34隻ものタンカーを保有していた。ロイヤル・ダッチ側も20隻のタンカーを持っていたが、汽船はわずかに4隻で、残りはすべて帆船であった。これに対して、シェルの保有船は、すべてが汽船であったので、その差は隻数以上のものがあったはずであるが、その多くは最初の3隻と同じ命名基準を持っていた。すなわち、貝の名前である。サミュエルは、自らの家が貝細工から始まったことを忘れていなかったのである。
 調べてみると、ラ・コロナは、やはり、ロイヤル・ダッチ・シェルの関連会社であった。そして、Genotaも、日本ではフデナリイグチガイと呼ばれる貝の属名である。また、この会社の運航していた多くのタンカーも、同様に貝の属名に由来する名を持っている。したがって、この名は貝の属名の一つに由来すると断じてよさそうである。
 
 ところで、ロイヤル・ダッチ・シェルはオランダのロイヤル・ダッチとイギリスのシェルの両石油会社の合併によってできたという歴史的経緯もあって、イギリスにも姉妹船がいるのだが、その中にラパナという船がいる。
 ラパナは、第2次大戦時に、イギリス海軍が改造を行い、スウォードフィッシュ雷撃機4-5機を飛行甲板後部に係止できるようにした、いわゆるMAC(Merchant aircraft carrier)シップの第1船として有名である。そして、ラパナの姉妹船のほとんどは同様の改造を受けているので、日本に拿捕されずにイギリスへ渡ったのなら、ヘノタもそうなったかもしれない。
 なお、ラパナはアカニシという名で知られる貝の属名である。
 


ペリカン2013/10/07 [23時36分12秒]
 ペリカンは、本来、架空の存在であった。食べ物がなくなると、自分の胸をつつき、滴り落ちる血で雛を育てるという伝説の鳥のことであった。そして、この伝説のために、自己犠牲の象徴となり、キリスト教では慈悲のシンボルとされた。したがって、1577年から80年に、イギリスのフランシス・ドレークが世界一周航海に使用した船が、ペリカンという名を持っていたのは、それほど不思議なことではない。当時は、ペリカンという名で、我々が想起するあの巨大な餌袋を持つ鳥は、ヨーロッパでは知られていなかったのである。
 もっとも、この船は、航海中にゴールデン・ハインドと改名されており、そちらの名のほうで知られている。準備費用を出したハットンの紋章が金色の鹿だったからだが、慈悲とは程遠い船ではあった。ドレークは、この船を繰ってスペインの財宝船を襲い、当時のイギリスの国家予算を上回る金額をエリザベス女王にもたらしたからである。
 ところで、このペリカンという名は、イギリス海軍には、私掠船だった上記の船は別として、15代に渡って艦名に採用されている。もちろん、これはドレークにあやかった部分も大きいだろうが、艦名にふさわしい伝説を持った鳥であったからであろう。また、アメリカ海軍も3代を重ねているが、掃海艇という艦種が創設された際に、時の海軍次官だったフランクリン・D・ルーズヴェルトが鳥の名をつけよという命令を出しているので、これは実在の鳥のほうである。この人物は300種以上の鳥の標本を集めるコレクターであり、その従兄で、これも大統領だったセオドア・ルーズヴェルトは、政治家である前に専門書も出しているアマチュアの鳥類学者であった。そして、この従兄は1903年にフロリダ州にペリカン保護区を開設しているが、これは野鳥保護政策としては世界で最初のものであったのである。

 1878年、ドイツのギュンター・ワーグナーは、自身の紋章に使われていたペリカンを商標登録した。これが万年筆メーカーとして有名なペリカンの名の由来であるが、実は、この時点で、同社は万年筆を製造していない。当時、万年筆はあったが、アメリカのウォーターマンが毛細管現象を利用した実用的なものを開発したのは、その5年後の1883年だからである。それどころか、同社が万年筆の製造に乗り出したのは1929年と遅く、それまでの同社は、絵の具とインクの会社として知られていた。
 ワグナーの紋章は、一般的な3匹の雛と親鳥が描かれたものだが、登録商標とされたものには4匹の雛が描かれていた。この年、彼に4番目の子供が生まれたからである。そして、長らくこのデザインが踏襲されてきたのだが、1938年に創立100周年を記念して一新された。全体にデフォルメされたものになったこと、雛が2匹になったこと、そして、実在のほうのペリカンが図柄に登場したことが大きな変化である。親鳥が自分の胸をつついているものだったのが、雛鳥を見守るものになっており、場所も、巣の中から水面上に移っている。
 雛が2匹に変更された理由は分からないが(当主の子供が2人だったからというような理由かもしれないが)、実在のペリカンに交代したのは、親密性を狙ったものであろう。それまでのものは、ペリカンというイメージとは程遠い、鷲のような鳥であった。また、画材メーカーのものとしては、造形的にどうだろうかと思うようなものであったからであろう。そして、何よりも実在のペリカンを目に触れる機会が増えて、不思議に思う人が増えたのが契機ではなかったかと思う。古いペリカン社の写真の中には、ペットとして飼われていた4羽のペリカンが写っているからである。
 しかし、ペリカンというこの名が、現在、一般にその名で呼ばれている鳥に与えられたのは、実に面妖な話である。おそらくは、現生鳥類中最大とされるその巨大な嘴を見て思いついたのだろうが(胸に嘴を埋めて眠るからという説はあるが、実際のペリカンは首を後方に曲げ、背中に収めて寝る)、もちろん、自分の胸をつついて血を流したりはしない。それどころか、この鳥は雛同士が殺しあう習慣がある。一度に数個の卵を産むが、育つのは一匹だけである。まれに、複数匹が育つ場合もあるようだが、大抵は、先に生まれたものが他の兄弟を巣の外に放り出すのだ。また、食べてしまう場合もあるそうだ。親鳥のほうも、鳩や犬を食べたという例が報告されているようである。
 


無視される虫達(承前)2013/09/21 [06時24分04秒]
 17年ゼミ、13年ゼミというので、17年に1度、13年に1度、大量に地上に現れるセミが1種ずつアメリカにいると思われそうだが、それは違う。17年ゼミは3種、13年ゼミは4種(2000年までは3種)がいるからである。もっとも、これらの種の区別はかなり難しいようだが、そうなると、今度は、17x13の221年に1度、これら7種のセミが一斉に鳴き出したらと、心配される方も出てこられるかとは思う。
 しかし、これは杞憂である。周期ゼミは、合衆国東部にしかいない上に、17年ゼミは北部に、13年ゼミは南部に集中しており、両者が重なって生息している地域は、ほとんどないからである。そして、17年ゼミは12の、13年ゼミは3つの年次集団に分かれており、それぞれの数種が一斉に鳴き出すのだが、この集団も地域性があって、重なる地域はない。つまり、ほとんど毎年、アメリカのどこかで周期ゼミが発生しているということになる。
 したがって、引越しを好む人の場合、2つの年次集団に連続して出遭うという場合も生じるし、一生涯、遭遇しないという人も出てくる。また、西部に住んでいる人の中には、周期ゼミを知らない人もいると思う。また、同国には100種ものセミが生息しているにもかかわらず、西海岸にはいないらしいので(気づかないだけかもしれない)、セミ自体を知らない人も多いのだろう。実際、ボブ・ディランは1970年にプリンストン大学で行われた卒業式で、名誉学位を授けられた際に17年ゼミに遭遇し、「セミの日」という曲を作っている。つまり、1941年に中西部のミネソタ州に生まれ、61年にニュー・ヨークに出てきたこのシンガー・ソング・ライターは、30歳になって初めて周期ゼミ(もしかするとセミそのもの)に出遭ったのではないかと思う。そして、興味深いことに、彼はセミの声をsweet melodyと称している。
 この頃、ボブ・ディランは、初期のようにプロテクト・ソングの歌い手ではなかったが、一筋縄ではいかない歌詞を書くことで有名であった。したがって、このsweet melodyを文字通りに解釈する必要はないであろう。歌詞の中に、ダコタのブラック・ヒルズthe black hills of Dakotaに逃げ出したとあるところを見ると、こんな儀式ばった世界を抜け出して、大自然の中に行きたかったのかもしれない。ブラック・ヒルズはカラミティ・ジェーンで有名な、アメリカ先住民の聖地だからである。
 しかし、初期にアメリカに移住した人々にとって、セミの声はsweet melodyどころではなかったはずである。彼等の多くの出身は、アルプス以北のヨーロッパであり、その多くはセミを知らなかったからである。彼等は、見知らぬ大量の虫の発生に驚き、大音量におののいたと思う。そして、彼等の中には、ピューリタンと呼ばれたプロテスタントの信者が多かったので、「聖書」に、その見知らぬ虫の名を求めた。これが、アメリカで、セミのことをシケイダではなく、ローカストlocustと呼ぶ理由である。実際、ボブ・ディランの「セミの日」の原題もDay of the Locustsなのである。
 ただ、このタイトルは1939年に書かれ、映画化もされたThe Day of the Locustという小説と重なるのだが、こちらは「イナゴの日」と訳されるように、ローカストは、イナゴだとか、バッタのたぐいを指す言葉である。つまり、アメリカ英語のローカストは、セミとイナゴの2種の昆虫を指す語となったのだが、もちろん、この2種は全然違う。「聖書」の中に登場するローカストは、地上の作物を食い荒らしてやまぬ災厄の象徴のような虫である。また、この語は、ラテン語で「跳ねるもの」を意味する語に由来するが、セミはそうではない。

 樹液を吸うので、セミは害虫であると思われがちである。特に、17年ゼミ、13年ゼミの場合は、比較的狭い地域に、1兆羽というとんでもない数のセミが一斉に羽化するので、木の周りには円形に抜殻が地面に敷き詰められ、樹肌が見えないほどにセミで覆い尽くされるのだそうだ。しかし、不思議なことに、それで木が枯れるということはほとんどないらしい。さすがに幼木だと枯れることもあるそうだが、大抵の木は大丈夫なのである。
 実際、ボブ・ディランがセミの声を聞いたのは、森の中だが、その森は17年ごとのセミの襲来に耐え続けているのである。もちろん、とんでもない数なので、道の両側がセミの死骸で埋まり、車に当たるセミでフロント・ガラスが汚れ、それがなかなか落ちないという実害はある。また、当然のことだが、騒音がひどい。見た目も悪い(日本のセミと違って、目が赤いので余計にそう思う)。
 日本では、もっと密度が低いので、たまに、果樹園にセミが大量発生し、実のつき具合が悪くなることがある。また、まれに、木と間違って、人にしがみつき、口吻を突き刺す粗忽者もいるようで、これはかなり痛いらしい。さらには、電線や光ケーブルに産卵して、これらを断線させたという被害報告もある。あと、南西諸島あたりにいるクサゼミの中には、サトウキビの樹液を吸うものがあって、これは害虫になっている。しかし、それだけである。17年ゼミ、13年ゼミのように周期的に大量発生しても、イナゴのように地表上のすべての植物を食い尽くさない。
 


無視される虫達(承前)2013/09/13 [23時18分07秒]
 しかし、セミという言葉があるのに、それが全然違う虫になるというのは、どう考えても面妖な話である。そこで、スペイン人にこのことを聞いてみたら、厳しいことを言うねと言われてしまった。彼の不確かな日本語の意味を考えてみると、どうやら、セミとキリギリスが違うのは知っているが、それは、スペイン人にとって、大したことではないというような意味合いのようである。
 そこで、日本語の達者なペルー人に聞いてみると、セミは、何て言うのでしたかと、逆に聞かれた。そこで、覚えたばかりの単語を使って、シガラcigarraですかと答えると(先のスペイン人はチチャラchicharraを使っていたが)、そうそうと言ってから、ペルーで20年間生活してきたが、見たことがないとの返答が戻ってきた(もう一人のペルー人も見たことがないそうだ)。そして、山間部に行けば見られるのかもしれないがと断ってから、日本に来て、初めてセミを見たという。確認はしなかったが、日本に来るまで、彼にとってのcigarraは、緑色の細長い虫で、長い触角を持っていたのかもしれない。
 後で、非常に日本語の達者なブラジル人に、シガラcigarraをシガロcigarroと言い間違えたら、スペイン人に、それはタバコの意味だと言われたと話すと、男性形がないのですねと言われた。つまり、普通、動物は雌雄で呼び名が違うが、スペイン語でもポルトガル語でも、その区別は、末尾にある。英語のcowとoxのように、雌雄で呼び名が違う場合もあるが、同じ言葉の最後がaであれば雌であり、oで終われば雄となる。ところが、cigarraの末尾のaをoに変えると、全然、違う意味になるということは、男性形がないということになるのだそうだ(chicharraもchicharroになると魚の名だそうで、後で調べたら、サバとかアジの仲間であった)。そして、雌雄を区別する必要のある場合は、雌のシガロ、雄のシガロという言い方になるそうである。
 雄を麒、雌を麟、あわせて麒麟だとか、雄を鳳、雌を凰、一緒にして鳳凰というように、中国でも雄と雌の区別はある。もちろん、架空の生物だけでなく、オシドリを意味する鴛鴦、カワセミの翡翠等も、先の漢字が雄で、後が雌である(虹霓という言い方もあって、虹も区別される)。また、漢字がきちんと表示されないと思うので、示すことはできないが、鯨もそうであり、桑や麻等の植物もそうであった。
 彫刻師が、ドイツから馬の置物の注文を受けたことがあった。どうやら、都市の記念品にする雛形にするようだが、納品を拒否された。そして、うちの市名は雄の馬を意味するので、きちんと分かるようにしてほしいと言われたそうである。そこで、立派な陽物をつけて再送したところ、大いに喜ばれたそうだ。また、子供の頃、クワガタムシやカブトムシの角や大きな顎を持つ雄は、クワガタやカブトであったが、雌はブタと呼ばれ、区別されていた。そして、双方には大きな違いがった。ブタを捕っても、たいして評価されなかったのである。
 つまり、雌雄の別は、子供にも大切であったわけだが、中国やヨーロッパのように、肉食文化の地域の場合、この度合いがもっと高いのではないかと思う。雌と雄では、その資産価値が大きく異なる場合もあるからである。ただし、これは、家畜のような、重要で、身近な生物の場合であり、そうでないものには関係はない。シガラに男性形がないというのは、つまりは、そういう意味である。セミという名前は知っていても、わざわざ形状を確認するほどのものではないのである。
 そして、これは、セミの生息する南ヨーロッパの人達にとっても、同じなのだろう。名前も形も知っていても、イソップの中で、これが「セミ」だと言われたら、それでよいのである。これは、カゲロウという虫が存在するのを知っていても、その実際の姿を知っている日本人が少ないのと同じなのだろうと思う(昆虫に関心がある人でも、ウスバカゲロウをカゲロウだと思っている人もいる)。そして、この両者に共通するのは、存在が希薄だということである。つまり、ヨーロッパのセミは、日本のように存在を「主張」しないのである。
 だから、蝉時雨などというのは、彼等には理解の外である。実際、セミの動画を観た西洋人が、日本のアニメで、バックで鳴いていたのはこれだったのかという感想を洩らしているのを読んだことがある。また、海外に日本の映画を輸出する場合、セミの声をカットすることも多いそうである。何が鳴いているのか理解できないし、これが象徴するものをを理解できる人も少ないからである。また、そもそも、彼等にとって、虫の声は騒音でしかない。日本人は虫の声を愛ずるなどと言えば、おかしなことを言うと思われるだけである。
 したがって、先ほどのペルー人などもそうだが、来日してから、セミというものに出遭い、驚く人は多い。いや、驚くというよりは、衝撃を受けたというほうが、正しいのかもしれない。虫の声を愛で、慣れているはずの日本人でも、あの大合唱は騒々しいのだから、彼等にしてみれば、騒音の塊が、突然、出現したようなものであろう。実際、日本のセミの声について、感想を求められた欧米人の中には、木ごと、バーナーで焼いてしまいたいという過激な意見を述べた方もおられる。それぐらい、日本のセミは、強烈な存在なのである。
 


無視される虫達2013/09/05 [12時57分03秒]
 「死刑だ」という発音と似ているので、セミを、英語でシケイダCicadaというと覚えておられる方も多いと思う(もっとも、アメリカ英語の発音だとシカーダになると思う)。しかし、この言葉は通じないかもしれない。英米では、この語はあまり馴染みがないからである。というのは、イギリスでは、セミを見ないし、声も聞かないからである。したがって、イギリスにはセミがいないと、断言する人も多い。しかも、イギリス人だけでなく、セミを見慣れている日本人ですら、そう断言するのである。しかし、イギリス海軍には、シカーラCicalaという河用砲艦がいて、この艦名はシケイダの別名であるように、セミがいないわけではない。ただ、イギリスには、ヤマチッチゼミという可愛らしい名のセミしかいない上に、これは体長が1cmほどしかなく、遠慮がちにしか鳴かない。
 チッチゼミのチッチは、ミンミンゼミと同じで、鳴声に由来する。ただ、これは日本に生息する種の鳴声である。そこで、イギリスではどのように鳴くのかと思って、動画サイトで探してみたところ、チッチというよりは、もう少し存在感のある鳥のような声である。ただ、これはチェコで採取された鳴声であり、このセミは地域差が激しいようなので、イギリスでもそのように鳴くのかどうかは分からない。また、マイクを通しているので、特徴が強調されている可能性もある上に、どれくらいの音量で鳴くのかも分からない。したがって、書かれていることだけを信用するしかないのだが、存在を主張するような騒々しさはなく、非常に地味に鳴くそうだ。
 また、このセミは、ユーラシア大陸の各地に生息しているが、日本には北海道だけにいるエゾチッチゼミというのがいるように、この種のセミは、寒さに対する耐性が強いようである。ヤマチッチゼミは、イングランドとフィンランドに生息する唯一のセミであると書いてあるからである。しかし、これは、ヨーロッパの他の国には、セミがたくさんいるという意味ではない。

 イソップ(アイソポス)に「アリとキリギリス」という寓話があるが、これは、最初は「アリとセミ」だった。もっとも、イソップが書いたものかどうかは分からないが、ギリシャで書かれたものの中には、セミではなく、コガネムシ、一般にフンコロガシと呼ばれるものらしいが、としたもある。ただ、一般的には「アリとセミ」であり、それが北方に伝播するにしたがって、「アリとキリギリス」に変わっていったという。というのは、セミが熱帯から亜熱帯にかけてに生息の中心がある虫で、アルプス以北には、ほとんどいないからである。
 このため、Wikipediaの「アリとキリギリス」の項の各国語版を見ると、キリギリスになっていたり、セミになっていたりで、非常に興味深い。中には、トルコ語版のように「アリと甲虫」になっているものもあり、原典のコガネムシとの関係を思わせるものも存在するが、地中海沿岸諸国は、概ねセミである。つまり、これらの地域では、セミが普通にいるし、夏になると鳴く。実際、プロヴァンスあたりでは、幸福の象徴であるとして、セミをかたどった置物が売られている。このあたりでは、ヴァカンスに人々が押し寄せるが、その頃にセミが鳴くからだそうだ。幸せな夏の想い出は、セミとともにというわけであろう。
 ただ、そのフランス語版Wikipediaも「アリとセミ」となってはいるが、掲載されているイラストはアリとキリギリスであり、セミの画像がない。しかも、そのイラストのキャプションは、Milo Winterが1919年に描いた「アリとセミ」となっており、本文のどこにも、セミがキリギリスに変わったとは書いてない。したがって、この画像を挿入した人物は、キリギリスをセミだと思ったということになる。しかし、そのようなことは、起こりえるのだろうかと思う。「アリとキリギリス」と書いてあって、セミの絵が描いてあったら、誰だっておかしいと思うはずである。
 しかも、この項の変遷をたどってみると、この画像がいつ挿入されたかは分からなかったが、2008年に書かれてから13年までに、実に多くの改訂がなされている。ということは、この矛盾に画像の挿入者が気づかなかったばかりか、その後の改訂者も、不思議に思わなかったということになる。その上、元画像を調べてみると、英語でThe Ant and the Grasshopperとなっている。grasshopperがセミでない以上、これをセミだと書くというのは、通常、考えられない。もしかすると、このセミを意味するフランス語、cigaleは、キリギリスを意味するのかと思って、この語で画像検索をしてみたが、出てくるのはセミの画像ばかりである。つまり、cigaleはセミであって、キリギリスではない。となると、残る理由は、フランス人は、セミがどのような形状をしているか知らない、である。

 しかし、セミに馴染みがないといっても、どのような形をしているか知らないなどということがありえるのだろうかと思って、「アリとセミ」を意味するフランス語La Cigale et la Fourmiで、画像検索をしてみた。すると、驚くべきことに、キリギリスばかりが出てくる。しかも、漫画か絵本だと思うが、この寓話の一節らしいフランス語が書かれているものも散見される。セミもいないわけではないが、腹部に黄色と黒の縞模様があったりして、それは蜂ではないのかと思うようなものである。しかし、この縞模様は、チッチゼミの特徴であり、あきらかに、この絵の作者は、フランス人がセミだと思っているのは、セミではないのだよという意識で書いている。しかし、これはきわめて少数の部類である。
 したがって、フランスの子供たちは、緑色の細長い虫で、長い触角を持っている虫を「セミ」と覚えるのだと考えるしかない。そして、大人になっても、その情報は訂正されずに終わるのだろう。ただし、フランスの場合、セミがたくさんいるわけではない。プロヴァンスにセミがいるといっても、ここは、フランスの地中海沿岸部を占めるだけの地域であって、六角形をした同国の南の一辺であるにすぎない。したがって、同州以外は、セミが一般的ではないであろうから、キリギリスとセミを混同しても不思議はないのだろうとは思う。しかし、同様のことがイタリア、スペイン、ポルトガル語版のWikipediaでも起きているというのはどうだろう。
 これらの各国はアルプス以南にある。したがって、セミがいる。だから、項目名が「アリとセミ」なのは当然なのだが、フランス語版と同じアリとキリギリスのイラストが掲げられ、この絵に「アリとセミ」というタイトルがついているのは、奇妙な話である。そして、それぞれの言葉で「アリとセミ」を画像検索しても、出てくるのは、ほとんどがキリギリスなのである。
 一応、イタリア語版では、ディズニーの映画では、セミの代わりにキリギリスが使われていると書いてあるが、これ以外の版では、このことを指摘したものはない。しかも、そのイタリア語版ですら、Milo Winterのイラストが使われており、それを直そうとした人がいない。つまり、「アリとセミ」の話は有名なのだろうが、その「セミ」というのは、セミがいる地中海沿岸諸国の人々にとっても、緑色の細長い虫で、長い触角を持っているのである。
 


蓮に構えて(承前)2013/09/01 [16時34分42秒]
 ハスを、Google翻訳で調べると、ヨーロッパの諸言語では、たいていはLotus、または、その変形となっている(もっとも、翻訳サイトの常として、これが正しいという保証はない)。つまり、ロートスは、スイレンからハスに、さらに変容したことになる。これは、スイレンの果実が1-2cmほど、種子にいたっては2-3mm程度の大きさしかない上に、水中にできるので、人目にあまり触れないからではないかと思う(種は時期が来ると浮き上がり、数日、水面を漂って拡散してから、水底に着底する)。つまり、ロートスの果実という神話に対しては、存在感が薄いのである。
 これに対して、ハスの種子は、カシのドングリほどの大きさはある。殻は固いが、甘みもある。また、漏斗状の果托は水上に突き出ていて、目立つ。花も大きい。その上、日本と中国、それにアメリカの先住民族ぐらいしか食べないようだが、蓮根に代表されるように、この植物は食べられる。しかも、根や実だけでなく、花も食べられるのである(実は、葉も、茎も、食べられるらしいが、おいしいかどうかは知らない)。ロートスの実ではなく、花を食べるという話も伝わっているだけに、スイレンよりもロートスという名にふさわしい。
 一方、スイレンを、同様に調べると、例外も多いのだが、大きく2系統に分かれる。うち一つは、学名と同じNymphaeaに由来するもので、これは、水の精、ニンフNymphに由来するラテン語である。そして、ニンフはギリシャ語のニュムペーNympheに由来する。つまり、ギリシャ語起源のラテン語となるのだが、このことは、この語が、かなり古い言い方であることを示している。実際、ラテン語の系統の言語を話すフランス、スペイン、ポルトガルやルーマニア等では、この系統の言葉が使われている(ルーマニアはスラヴと思われがちであるが、国名にローマを語源とする語を持つように、ラテン系である)。
 これに対して、もう一つのラテン語圏の大国、本家本元のイタリアでもninfeaが使われており、この系統の語だが、別にgiglio di acquaという言葉もある。これは、「水辺のユリ」という意味だが、英語のWater lily、オランダ語のwaterlelie、ロシア語のbodynay liliyводяная лилия、そして、ギリシャ語のNero KrivosΝερο κρινοσも、同じ意味である。このことは、この言葉が生まれてから、ヨーロッパ各地に伝わり、それぞれの国の言葉に訳されたということを示している。そして、この言葉が、これだけ拡がったのは、白いユリが聖母マリアの象徴だったからである。

 コロンブスがアメリカ大陸に渡った時の旗艦が、サンタ・マリアであったように、ヨーロッパでの彼女への信仰は篤い。実際、カソリックの教会にはマリアの肖像や像が満ち溢れ、彼女の顕彰歌であるアヴェ・マリアが歌われている。キリスト教ではなく、マリア教ではないかと思えるぐらいであるが、彼女を象徴するものとして、白いユリの花の需要も高かった。しかし、残念ながら、西ヨーロッパにはユリらしいユリがなかったので、手近の、らしい花がユリと呼ばれた。バルザックの小説でも知られる「谷間の百合」は、スズランのことであり(英語でもLily of the Valleyである)、ブルボン王家の百合の紋章がアイリスをデザインしたものであるのも、このためである(ちなみに、古くから栽培されていたニオイアイリスは白い花が咲く)。
 したがって、白い綺麗な花であれば、何でもユリだったのであるが、アイリスはともかく、スズランは、随分と小さいので、不思議に思われる方も多いと思う。しかし、ダ・ヴィンチにしろ、エル・グレコにしろ、「受胎告知」という絵に描かれたユリの花は、スズランほどではないにしても、随分と小さい。これらの絵で、天使ラファエルの持っている花がそれであるが、今日の立派なユリを見慣れた目には、貧相と言ってもよいぐらいである。そして、この傾向は、日本産のユリが導入されるまで、普通のことであったのである。
 スイレンを意味する語の中で、唯一つ、ドイツ語だけはSeerose、海のバラである。ただ、このSeeは、湖という意味もあるので、こちらも水辺のという意味であろう。そして、バラもまた聖母マリアに捧げられた花であった。これは、アヴェ・マリアを唱える時に使う数珠、ロザリオrosarioという言葉が、ロサーリウムrosariumというラテン語に由来し、これが「バラの花輪」を意味するということからも分かる。ドイツ語のRosaは、英語のroseと同じく、ラテン語に由来するバラを意味する語であったのである。したがって、これは水辺のユリと同工異曲の言葉なのだが、実は、ユリもバラも、本来はマリアに捧げられた花ではなかった。

 ボッティチェッリに「ヴィーナスの誕生」という絵がある。この絵には、西風の神ゼフィロスによって、貝殻に乗って岸辺に吹き寄せられるヴィーナスが描かれているが、その周囲には、花が降り注いでいる。原種のそれであるので、非常に小さな花であるが、これは、バラである。そして、他の花はない。また、岸辺で待ち構えている季節の神ホーライは、裸身のヴィーナスにマントを差し出しているが、これにもバラの花が描かれている。これは、バラがヴィーナスに捧げられた花だったからである。同様に、ユリはユノーに捧げられた花であった。これは、ユリが、ユノーの乳から生え出たという神話が端的に示している。
 しかし、宗教改革は、こういうギリシャ神話の世界を、異教のものとして抹殺してしまった。特に、キリスト教原理主義ともいうべき、フィレンツェのサヴォナローラのそれは、特に峻烈であった。贅沢品として、工芸品や美術品が広場に集められ、焼却されるという事態まで生じたのである。この時、ボッティチェッリの作品も多くが失われたが、そういう中で、「ヴィーナスの誕生」が生き残ったのは、フィレンツェを支配していていたメディチ家の権力が強かったからである。ボッティチェッリがメディチ家と親しく、この絵自体も、メディチ家の一員の愛人を祝福したものだったというのも大きかったのであろう。
 そういう中で、ギリシャ・ローマ神話の世界は、民俗の世界に移し替えられ、細々と命脈を保つ。ユリの花が、ヘラから聖母マリアに捧げられる花に変わったのは、その一つである。そして、この結果、教会にはユリの花が満ち溢れるのだが、日本では、教会は結婚式を連想するので、ユリの花が結婚の祝いに用いられる。これは、ヘラが、ローマ神話に入って、ユノーと呼ばれるようになると、結婚生活の守護神として崇敬を集めるようになったからであろう。そして、6月がユノーJunoにちなんで、たとえば英語だと、Juneと呼ばれるようになると、結婚シーズンの月となっていく。つまり、ジューン・ブライダルであるが、これは日本で実施するのは無理がある。いうまでもなく、梅雨時だからである。もっとも、ヨーロッパでは、ユリ、特に白いユリは、これも、教会の連想からだと思うが、葬式の花である。これは、花言葉が「純潔」であるために、イギリスあたりでは、結婚式の祝いに菊の花束が贈られることがあるのと、好一対である。
 それはともかくとして、ヨーロッパの人間がギリシャの文化に再開したのは、19世紀のことであった。1748年に発見されたポンペイの遺跡が、この頃には全貌を表してきており、古代のローマ人がギリシャ・ローマ神話の世界に親しんでいたことが分かってきたからである。そして、その世界観は、キリスト教一辺倒だったヨーロッパの人々に衝撃を与えた。しかし、この間、ヨーロッパの人々のほとんどが、そのようなものは異教徒のものだと信じて疑わなかったのである。もっとも、それでもカソリックの教会には、彼等がユリと呼ぶ花が、善男善女によって献じられ続けたのであろうとは思う。そして、その中にはスイレンもあったのかもしれない。

 名前の分布から考えて、古代に広まったスイレンの名はNymphaeaの系統だったと思う。もちろん、その前に、ヨーロッパにはスイレンが自生しているので、各地でつけられた名があったと思う。しかし、肉食を中心とするヨーロッパの人達は、植物に対する関心は薄い。したがって、聖母マリアに対する信仰とともに、水辺のユリという言葉が広がり、これに駆逐されていったのではないかと思う。ポーランド語のgrzel、チェコ語のleknin等は、そういう中で生き延びた、そういう伝播以前にあった古い名前なのではないかと思う。
 これに対して、ハスの名前にほとんど異同を認められないのは、この植物が、東方から伝えられた新来のものであったからであろう。そして、これが、ロートスがハスになった理由であろうと思う。何もかも忘れてしまうような不思議な作用を持つ実が、そのあたりの水辺に生えているスイレンでは形にならないからである。

 スペイン語でロータスはロトという。だから、宝籤のロト6というのは、そこからついたのかと思ったが、これは、普通に英語のlot、籤に由来するようである。「夢のかなう実」という意味で名づけたとしたのなら、洒落ていると思っていただけに、少し残念である。
 


蓮に構えて(承前)2013/08/25 [13時13分50秒]
 イギリスの自動車会社で、F1のチームとしても有名だったロータスについては、その由来がよく分からない(コルティナと7は例外とすると、エラン、エスプリ、エリーゼ、ヨーロッパと、この会社の市販車すべてが、Eで始まる名を持っている理由は、もっと分からない)。一応、創業者のコーリン・チャップマンが、後に妻となるヘイゼルというガール・フレンドを、蓮の花Lotus blossomと呼んでおり、これが社名の由来であろうという説明はなされている。しかし、チャップマンが、なぜ、そのように呼んでいたかは、不明である。このため、仏教思想に基づいて「夢のかなう実」として、蓮を社名に選んだのだという説明もなされているが、これは怪しい。というのは、彼が最初にロータスと名づけた車を完成させたのは1949年だからである。この時代のイギリスで、仏教はあまり一般的ではない。
 したがって、このロータスは、前述のロートスに由来すると考えたほうが実際的である。「夢のかなう実」ならば、ロートスのほうが近いし、これが実ではなく、花であっても、花を食べてという神話もあるからである。ただし、チャップマンは貴族階級の出ではない。ロンドン大学を出ているが、インターネットのなかったこの時代、そのような知識を得られたのかという疑問はある(周囲の者が知識を植えつけたという可能性は、当然、ありえる)。
 もちろん、彼の開発した技術は今日のF1の基礎になったものであり、モノコック・ボディやサイド・ラディエーターなどは、今日に至るまで使用されている。また、グランド・エフェクトという概念は、ロータスが初めて行ったものであるし、彼が持ち込んだスポンサー・シップは、今や、F1をはじめとするカー・レースになくてはならないものになっている(ロータスというとJPSの黒と金の塗装で知られるが、最初にイギリスのインペリアル・タバコのスポンサードを受けた時にはゴールド・リーフというブランドをイメージして赤と金と白に塗り分けられていた)。しかし、彼がすぐれた創造性を発揮したということと、そういう知識を持っていたかということとは、別の話である。蓮は、単に、彼が好きな花だっただけであるかもしれないし、恋人同士だけの隠語であったのかもしれないのである。
 ただ、この社名(車名)は、彼等に幸運をもたらしたように思う。F1で79勝を挙げ、1963、65年にはクラーク、68年にG・ヒル、70年にリント、72年にE・フィッテパルディ、78年にM・アンドレッティと5名6度のワールド・チャンピオンを輩出するとともに、1963、65、68、70、72-3、78年と7度のコンストラクターズ・タイトルを獲得し、68年にはインディ500にも優勝しているからである。もちろん、この素晴らしい成績は、幸運だけで手に入れられるものではないが、技術だけのものでもない。
 ただ、チャップマンの幸福の果実は80年代には食い尽くされたようで、82年の彼の死後、ロータスは急速に力を失っていく。その死の当日に、後にウィリアムズが採用して連勝を重ねる原因となるアクティヴ・サスペンションを、F1でテストしていたというエピソードに示されるように、技術力はあった。しかし、予算不足に苦しみ、後にワールド・チャンピオンになるセナ(85-7年)とハッキネン(91-2年)という2人のドライヴァーが在籍した時期もあったものの、94年には消滅した(87年の中島悟のF1デビューもロータスである)。一応、その翌年のシーズンはパシフィック・チーム・ロータスという名のチームが走っていたが、名ばかりであったし、このチームもその年限りであった。したがって、2010年にロータスの名が戻ってきたのは、慶賀すべきことだったのだろうが、翌年、もう一つのロータスが参戦してきたので、ややこしいことになった。英語のロータスには、蓮と睡蓮の2つの意味があるからといって、同じ名のチームが2つあるのは紛らわしい。
 チャップマンの死後、遺族はグループ・ロータス(ロータス・カーズ)という車の製造販売をする部門は売却したが、レーシング・チームとしてのチーム・ロータスは手元に残した。現在は、チーム・ロータスも売却されてチャップマン家のものではないが、この2つの流れは別々に存続していた。これが2つのロータスという名のF1チームが同時に存在しえた理由であるが、このため、両社はそれぞれにロータスの名は自分のものであるとして、法廷闘争まで行った。結局、先にロータスの名を使用した側がケーターハムという名を使用することで決着がついたが、現在、ロータスの名を使用しているルノーにしても、2012年以降はグループ・ロータスの支援は受けていない。ただ、ロータスという名前は2017年まで使用する権利があるそうだが、往年と似たカラーリングではあるものの、別物と考えてもよい。
 
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