轟屋(0047)

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自己紹介
 

 轟 清   
      大正4年8月26日生

  昭和11年 第52期 普信練卒業

  乗艦配置

 昭和11年11月 潜水母艦「大鯨」信号員

 昭和12年10月 巡洋艦「鈴谷」(7戦隊)信号員

 昭和13年11月 上海特別陸戦隊 司令部付 信号員

 昭和14年02月 呉鎮第5特別陸戦隊 南京、九江、安慶、
        派遣隊 小隊長伝令 信号員

 昭和14年11月 巡洋艦「古鷹」(6戦隊)信号員

 昭和15年05月 巡洋艦「三隈」(7戦隊)信号員

 昭和15年11月 特潜母艦「千代田」信号員

 昭和18年02月 航空戦艦「伊勢」見張員

    叙勲
 
 勲7等瑞寶章 勲8等旭日章

    経歴

 私の初陣は「大鯨」が第22航空隊母艦となり、中支沿岸作戦に参加した時でした。
 その時初めて敵機(ノースロップ5機)の空襲を受け、これが戦争かと緊張したものでした。

 その後、太平洋戦争の開戦に伴い、ミッドウェイ、キスカ、南方方面、ガダルカナル島の各作戦、及び、比島沖海戦、北号作戦、音戸沖海戦に参加しました。

 さて、歳月を重ねるにつれて強く思い出されるのは、開戦の時、ハワイ、シドニー、マダガスカル島にて戦死した、岩佐中佐以下の特攻隊員たちの事です。
 彼らと一緒に遂行した訓練、悲惨な事故、その他色々な思い出は未だに忘れることは出来ない。

 皆様は、特潜訓練場所を御存知でしょうか、海軍基地以外に、愛媛県西宇和郡三机港を基地として伊予灘で行って居りました。
 当時、隊員は飛行搭乗員の服装をして居り、呉航空隊の兵隊棟で毎月一回の田舎まわりの芝居によろこんだものでした。
 ちなみに、岩佐中佐は私と同じ歳でした。

 当時、「千代田」信号員はわずか14名、よく各戦闘に従事出来たと思っています。

 昭和18年02月「千代田」を横須賀に回航後、「伊勢」転属となり柱島沖にて乗艦す。
 初めて見張員配置となりトップに就く。

   音戸沖海戦

 昭和20年7月24日
 午前30機、正午頃30機、午後多数の敵機の空襲により、命中5発、至近弾多数を受ける。
 直撃弾が上部機銃座を貫通し、艦橋右舷にて爆発。
 牟田口艦長以下、主計長等20名戦死する。

 7月28日
 0616頃より対空戦闘始まる。
 終日熾烈な空襲を受け、命中11発、至近弾多数のため、右15度に傾斜着底す。
 艦体亀裂のため重油流出、引火、猛火に包まれる。
 
 両日の戦死傷者、573名を数える、自らも負傷入院する。

   8月6日
 
 広島原爆投下を見る。
 同日退院。

   8月15日

 終戦。

   8月末日
 
 9年8ヶ月の青春をかけた、海軍を去る。

  航空戦艦「伊勢」
    トップ見張員 轟 清
             
 
 以上は、同年会「磯路会」会報に寄せた原稿を元にしました。 
 父は、1994年11月29日永眠いたしました、享年78歳 
                 次男 轟 貴信