民間船アイコン解説協力:舞沙Pさん.
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日本

(2003/3/12更新)
(2003/7/10更新)
貨客船「ぶゑのすあいれす丸」
大阪商船の南米航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手により、さんとす丸の拡大改良型。南米航路はシンガポール経由喜望峰周りで総航程1万2千海里余に及び、熱帯地方を2ヶ月近く航海するものであったが、この級の登場より神戸-サントス間の所要日数を46日まで短縮した。なお、この記録はあるぜんちな丸級によって35日にまで短縮される。

竣工:1929.10
総トン数:9,626t
垂線間長/幅/深さ:140/18.9/12m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:6,000BHP
速力:17.1kt
旅客定員:1等60/3等1,076
同型船:りおでじゃねろ丸

戦争中、ぶゑのすあいれす丸は陸軍病院船として、りおでじゃねろ丸は海軍特設潜水母艦(略称りお丸)としてそれぞれ徴用され、共に戦没しています。

(2003/3/22更新)
(2003/7/13更新)
貨客船「高砂丸」
大阪商船の台湾航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手による。それまで主として外国からの購入船が就航していた神戸−基隆線に投入された2隻目の新型船。
太平洋戦争中は海軍病院船として活躍し、戦後まで残存。終戦後は引揚船として使用された後、'56解体。

竣工:1937.4
総トン数:9,315t
垂線間長/幅/深さ:140/18.5/11.6m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:8,500SHP
速力:20.2kt
旅客定員:1等45/2等214/3等820

(2003/3/4更新)
(2003/3/9更新)

(2003/7/10更新)
貨客船「あるぜんちな丸」(後の空母海鷹)
大阪商船の南米航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手により、舷弧と梁矢を大部分廃止したことで有名。優秀船舶建造助成施設により建造された、特設航空母艦予定船。

総トン数:12,755t
垂線間長/幅/深さ:155/21/12.6m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:16,500BHP
速力:21kt
旅客定員:1等101/特3等130/3等670
同型船:ぶら志゛る丸

あるぜんちな丸
1939/5:竣工
 以後南米航路に就航。後、世界情勢の悪化により大連航路に就航。
1942/5:海軍に徴用。
1942/12:海軍省に売却。1年の工期を費やして空母海鷹に改装。
1945/7:触雷及び米艦上機の攻撃により着底。戦後解体。

ぶら志゛る丸
1939/12:竣工
 以後南米航路に就航。後、世界情勢の悪化により大連航路に就航。
1941/9:海軍に徴用。
1942/8:トラック島沖で米潜水艦の雷撃により沈没。

(2003/3/12更新)
(2003/7/13更新)
貨客船「さんとす丸」(後の満珠丸)
大阪商船の南米航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手により、主機に内燃機関を搭載した本邦初の大型貨客船。また、初めて新造時より自動操舵装置を搭載した級でもある。3番船もんてびでお丸の主機は初の国産舶用大型ディーゼル(三菱ズルツァー)。

太平洋戦争時、特設潜水母艦として使用(開戦時、第6艦隊第2潜水戦隊旗艦)41年満珠丸Manju Maruと改名43年3月15日特設運送艦44年11月25日、バシー海峡でアメリカ潜水艦(SS403)アテュールAtuleの発射した魚雷を受けて沈没。
 2番船、らぷらた丸は1926年4月20日竣工41年干珠丸 Kanju Maru と改名45年1月12日、サイゴン港内で空襲により沈没。
 3番船、もんてびでお丸は1926年8月14日竣工42年7月1日、フィリピン、ルソン島北西端沖でアメリカ潜水艦(SS187)スタージョンSturgeonの発射した魚雷を受けて沈没。

竣工:1925.12
総トン数:7,267t
垂線間長/幅/深さ:130/16.9/10.9m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:4,600BHP
速力:15.8kt
旅客定員:1等38/特3等102/3等666
同型船:らぷらた丸(後の干珠丸)、もんてびでお丸

さんとす丸級裏話・その1
 3番船もんてびでお丸の主機は苦心の末に完成させた初の国産舶用大型ディーゼル。造船所の試運転台で一号機の試運転が成功し、「回った回った」と喜んで所長に報告したところ、「回るよう出来ている機械が回るのは当たり前」とたしなめられたとか。
 さらにその後関係者一同で宴会に繰り出してしまい、船体設計者の和辻博士が造船所に現れたときには誰もいなかった、という2段オチがついている。

さんとす丸級裏話・その2
 ある時、メキシコ湾で採れる海老を日本まで輸送できないか、という話が大阪商船に持ち込まれた。よろしい、やってみようということで新造船さんとす丸3隻に-12℃の冷凍室が備え付けられ、成功を収めた。
 今度は逆に日本のトンボ鮪を缶詰(シーチキン)の原料として輸出しよう、ということになり、これも成功した。
 すると、日本のミカンを南米に輸出したいという者が現われ、冷凍室を冷蔵室に改造して試験的に輸送することになった。一部は痛んでしまったものの、入港の翌日には市場に並んでいたと言う。
 よし、2回目からはと意気込んだところ、ミカンの売れ行きが悪く、ミカン輸送は中止されてしまった。

(2003/3/22更新)
貨客船吉林(きつりん)丸級
大阪商船の大連航路貨客船。設計は和辻春樹氏。

大阪商船の大阪−大連間を結ぶ大連航路は明治38年1月(日露戦争中)に開設され、日本と大陸を、シベリア鉄道を通じて欧州を結ぶ大動脈として輸送量は増加の一途をたどります。昭和12年(1937)には吉林丸級を含めて使用船舶10隻(5,000t〜7,000t級)月25航海の定期航路に成長していました。
主要貨物として往路は野菜・青果、酒類と工業製品、復路は豆かす、豆類、飼料と銑鉄でしたが、昭和10年前後にみかんを年間3万トン近く輸出しているのが目を引きます。

やがて大陸の戦火が拡大すると徴用によって使用船舶は一時期減少しますが、南米などの遠洋航路から撤退してきた船舶で再び活気を取り戻します。しかし、開戦と共に再び大規模な徴用が始まり、開戦翌年の昭和17年(1942)には航路そのものが船舶運営会に移管され、3年後の終戦によって名実共に消滅することになります。

竣工:1935.1
総トン数:6,783t
垂線間長/幅/深さ:128/17.1/10.2m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:7,800SHP(軸馬力)
速力:18.6kt
旅客定員:1等44/2等141/3等751
同型船:熱河丸

熱河丸は昭和18年11月中国大陸沿岸で潜水艦の雷撃により沈没、吉林丸は昭和20年5月に瀬戸内海で触雷沈没、戦後解体されています。

(2003/3/22更新)
貨客船音戸丸級(改装前)
大阪商船の瀬戸内海航路貨客船。設計は和辻春樹氏の手による。主機に初めてディーゼルを採用した。

戦時中は中国の沿岸航路に就航し、終戦以後消息不明。

竣工:1923.11
総トン数:688t
垂線間長/幅/深さ:52/8.5/5.5m
機関・軸数:ディーゼル1基1軸
出力:915BHP
速力:12.4kt
旅客定員:2等89/3等329
同型船:三原丸、早鞆丸

(2003/3/22更新)
貨客船音戸丸級(改装後)
日本初のディーゼル船ということを示すため、煙突を廃止して排気管のみとしたものの、ファンネルマークをつける場所に困り、周囲に櫓を組んでつけることになった。
しかし、違和感は如何ともしがたく、遂にダミーファンネルに交換してしまった。同型2隻は最初からこの姿で竣工している。

瀬戸内海航路は大阪から下関まで、途中瀬戸内海を蛇行しつつ20余の港に寄港し、5日間をかけて結ぶものでした。ちなみに急行便というものもあり、こちらは寄港地をいくつか省いて、なんと所要日数を20%も短縮して4日で結んでいました。

(2003/6/26更新)
貨客船「ばいかる丸」
大阪商船の大連航路貨客船。大阪商船初のタービン船で、電気溶接を大幅に取り入れたことでも有名。
竣工:1921.9
総トン数:5,243t
垂線間長/幅/深さ:122/15.3/9.2m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:5,500SHP
速力:17.3kt
旅客定員:1等92/2等150/3等568

建造にあたっては進水までの船体工事を三菱神戸で、以後の艤装を三菱長崎で行っており、最新技術である電気溶接を採用した背景があると考えられる。
竣工後は大連航路に就航していたが、支那事変の勃発と共に陸軍病院船となり、太平洋戦争開戦後は国際赤十字病院船として活躍している。この間の昭和14年には、各海運会社の近海航路を集約して発足した国策会社の東亜海運に売却されている。
その後、昭和20年5月に大分姫島沖で触雷し大破座礁、放棄されたまま終戦を迎えた。後に浮揚はされたもののしばらく尼崎で係船されており、この間海技専門学院(後の海技大学校)分教場となっていた。

しかし、終戦時すでに船齢24歳の老嬢は、ここから新たな道を歩み始める。

昭和24年になって極洋捕鯨が購入、貨客船時代の上部構造物ほとんどを撤去し、機関室を船尾に移設して余剰品であった旧海軍の22号ディーゼル2基を搭載、解剖甲板と鯨体を引き揚げるスリップウェイ設置などの大工事を経て、翌25年小笠原捕鯨のための近海捕鯨母船に改装完成。さらに昭和26年には南氷洋マッコウ捕鯨に従事するため船内工場拡張、これに伴う解剖甲板の一層嵩上げ、燃料タンク増設、耐氷構造とするための補強工事を行う。以後、北洋捕鯨など各種母船事業に従事。
昭和30年には新造母船の登場により冷凍工船への改造が行われ、船名を「極星丸」と改めて南氷洋捕鯨などに従事、昭和42年に捕鯨枠の削減に伴う不稼動船となって売却解体される。この時実に船齢46歳で、ここまで船容の変化した例も珍しい。

(2003/9/6更新)
貨客船畿内丸級
大阪商船のニューヨーク航路貨物船。

日本が不況に沈んでいた昭和初期、大阪商船が社運を賭して北米航路に投入した高速貨物船。各国船が集中することによる過剰船腹で運賃は低く据え置かれ、慢性的赤字を抱える同航路に対し、資本金に匹敵する資金を投入して同型船6隻、後に準同型船2隻が建造された。

このクラスの就航によってニューヨーク急航線が開設され、従来45日を要した横浜−ニューヨーク間をわずか28日にまで短縮した。生糸等の高価貨物は大陸横断鉄道に積み替えを要することなくパナマ運河経由で西海岸まで運搬され、航路の収益は大幅に改善された。
これに続けとばかり、北米航路には続々と優秀な日本船が投入され、あたかも大西洋で繰り広げられていたブルーリボン競争を彷彿とさせる様相を呈し、英米船を圧倒することになった。
なお、これら優秀船の中には、ほとんど無名の貨物船にあってかろうじて耳にすることのある神川丸などが含まれる。

船舶としての特徴は、冷凍貨物室、生糸運搬用のシルクルーム、油運搬用のディープタンクに加え、強力な揚貨機とデリックブームの多数配置などが挙げられるが、最も特筆すべき点はこの優秀船が2年の間に6隻投入されたことであり(後さらに2隻追加)、このクラス全体を輸送システムとして見た場合の完成度に注目すべきであろう。
この輸送システムは近代日本海運において一つの革命であり、その先駆者として歴史に名を残すべき名船であった畿内丸とその姉妹も、やがて太平洋を覆う戦雲の中に姿を消していくことになる。

竣工:1930.6
総トン数:8,357t
垂線間長/幅/深さ:135.6/18.4/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:7,200BHP
速力:18.32kt

同型船:東海丸,山陽丸,北陸丸,南海丸,北海丸
準同型船:関東丸,関西丸

(2002/10/3更新)
貨客船長良丸級
日本郵船が第一次船舶改善助成施設の適用を受けて建造した高速貨物船。同型船の船名がすべてNを頭文字とするところから、N型と呼ばれる。
1930(昭和5)年の大阪商船に続き、翌31年に国際汽船、翌々32年には川崎汽船と三井物産が北米航路に参入し、就航船舶の高速化が進むと、日本郵船も大阪商船とこれら新興勢力に対抗するべくこのクラスを投入した。

しかし、「結果的にN型は性能の面では畿内丸型をなお若干下回った」(日本郵船百年史)という。

竣工:1934.8
総トン数:7,142t
垂線間長/幅/深さ:136/19/10.5m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:6,700BHP
速力:18.58kt
同型船:能登丸,那古丸,能代丸,鳴門丸,野島丸

(2003/10/19更新)
貨客船照国丸級
日本郵船の欧州航路貨客船。当時同航路に就航していた老朽船の代替として建造され、後にこのクラスに対抗するためシャルンホルスト級が建造された。

室内の装飾は、前後して建造された浅間丸3姉妹が欧州のデザイナーによるものであるのに対し、日本式となっており趣を異にしている。これを含めて各等級の旅客定員構成を比べてみると、当時の各航路がどのような役割を果たしていたかが理解できよう。
なお、浅間丸の船価は1,127万4,000円、照国丸のそれは617万7,000円であった。

第二次世界大戦勃発直後の昭和14年(1939)11月、照国丸はロンドンへの航海途上、英国東岸ハリッチ沖で触雷、乗組員177名と乗客28名は全員救助されたものの遂に沈没してしまった。
靖国丸は昭和15年に欧州航路が休航となった後、海軍に徴用されて特設潜水母艦、運送船を経て昭和19年(1944)1月、米潜の雷撃により沈没している。

竣工:1930.5
総トン数:11,931t
垂線間長/幅/深さ:154/20/11.3m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:10,000BHP
速力:17.8kt

(2003/12/26更新)
(2003/12/31更新)
貨客船氷川丸(1930)
日本郵船のシアトル航路貨客船。
ネームシップは秩父丸と同じ横浜船渠で建造され、同船より1月半ほど遅れて竣工している。もっとも、船価は秩父丸の1,193万円に対して655万円と半値に近かった。船価がほぼ等しい照国丸と船容を比べると、航路の違いによる差異が分かって興味深い。

しかしてその経歴はコレスポンドの浅間丸級、照国丸級他に比べて群を抜いて波乱万丈に富んだものであり、詳細は市販の書籍に譲ることとするが、彼女が終戦直後日本最大の船舶として登録されていた時期があったということが、いかに激動の時代を生き抜いてきたかという事実を示していると思われる。

彼女は今でもその姿を見られる日の丸船隊最後の一隻として、横浜港に錨を下ろしている。しかし、戦火の中に消えた2隻の妹のことにまで思いを馳せる人は少ない。日枝丸は昭和18年(1943)11月米潜の雷撃により、平安丸は翌19年2月のトラック大空襲で沈没している。

竣工:1930.4
総トン数:11,622t
垂線間長/幅/深さ:155/20/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:11,000BHP
速力:18.0kt
旅客定員:1等72/2等69/3等186
同型船:日枝丸,平安丸

(2003/12/26更新)
(2003/12/31更新)
貨客船平洋丸
日本郵船の南米航路貨客船。当時同航路に就航していた安洋丸('13竣工)が老朽化で補助資格を失う為、代船として建造された。船価は450万円。
郵商協調により、南米航路に関しては大阪商船が米東岸航路、日本郵船は西岸航路にそれぞれ配船していた。後に照国丸級の靖国丸、氷川丸級の日枝丸も同航路に配船されている。

なお、当初福洋丸と命名されていたが、建造中に改められて平洋丸となった。昭和18年(1943)1月、米潜の雷撃により沈没。

竣工:1930.3
総トン数:9,816t
垂線間長/幅/深さ:140/18.3/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:7,500BHP
速力:16.7kt
旅客定員:1等42/2等80/3等500

(2004/3/20更新)
貨客船報国丸級(1940)
大阪商船のアフリカ航路貨客船。

(2004/4/11更新)
貨客船報国丸級 日の丸塗装
大阪商船のアフリカ航路貨客船。もっとも、本級のうち実際にアフリカ航路に就航したのはネームシップの報国丸のみであり、それも1航海の後大連航路に転配さることになる。姉妹船の愛国丸、護国丸はついに就航することなく終わった。海軍に徴用された後の報国丸、愛国丸の仮装巡洋艦としての活躍は有名である。なお、末妹の予定船名は興国丸であったが、建造中に改められている。

報国丸は昭和17年(1942)11月に仮装巡洋艦として英輸送船団を攻撃中、護衛艦艇の反撃を受けて沈没。愛国丸は昭和19年(1944)2月のトラック大空襲で、護国丸は同年11月に五島列島沖で米潜の雷撃を受け、それぞれ沈没している。

竣工:1940.6
総トン数:10,439t
垂線間長/幅/深さ:150/20.2/12.4m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:13,000BHP
速力:21.1kt
旅客定員:1等48/特3等48/3等304
同型船:愛国丸、護国丸

(2004/4/11更新)
客船天洋丸(1905)
東洋汽船の北米航路客船。

(2003/10/28更新)
客船浅間丸
日本郵船のサンフランシスコ航路客船。天洋丸からおよそ20年の空白を経て建造された、日本が誇る豪華客船。東洋汽船との合併によって同航路を引き継いだ日本郵船が、威信を賭けて建造した”優秀船”。その意気込みは違うことなく、日の丸船隊のフラグシップとして”太平洋の女王”の称号を贈られている。
同クラスの経歴に関しては関連書籍も数多く、詳しくは割愛するが、中でも長姉は3姉妹のうちで最も波乱万丈と言える生涯を送っており、その顛末は「狂気の海」 内藤初穂著 中央公論社刊(文庫版題「太平洋の女王 浅間丸」)に詳しく収められている。

しかし、浅間丸の主機は輸入によるものであり(龍田丸は国内ライセンス生産)、その他航海用計器、通信機器、補機類、果ては内装設備に至るまで輸入品といった有様で、世界一流品の展覧会といった様相を呈していたという。

最後に、エピソードを一つ。
浅間丸級の建造が決定し、英国の船会社にサービスを学ぶため乗組員を派遣した時の話。ある時、
「お前のところはたいそうな騒ぎだが、一体何トンの船を建造するんだ」
と聞かれたものがいた。胸を張って「一万六千トンだ」と答えると、相手は首を傾げて曰く、
「そんな小さな船、うちの会社にはないなぁ」

竣工:1929.9
総トン数:16,947t
垂線間長/幅/深さ:171/22/13m
機関・軸数:ディーゼル4基4軸
出力:16,000BHP
速力:20.7kt
同型船:龍田丸

(2003/10/28更新)
客船浅間丸 旧塗装+日の丸
昭和15年(1930)2月の第55次航海の途中から7月の第58次まで、半年に満たない期間はこの姿でした。55次航では有名(?)な”浅間丸事件”が発生しており、その余波とも言えます。
アイコンでは表現できてませんが、船橋の屋上と後部甲板上にも日の丸が描かれています。

戦雲西より湧き立ちて、太平洋上波高し。つまりは対空・対潜の味方識別標識というわけです。

(2003/10/28更新)
客船浅間丸 新塗装
昭和15(1940)年、第59次航より実施された新塗装。

(2003/11/13更新)
客船浅間丸 交換船塗装
'42 6/25横浜出港〜7/22ロレンソ・マルケス(東アフリカ、現マプート)着。7/26同地出港〜8/19横浜着。

(2003/4/15更新)
(2003/7/10更新)
客船秩父丸 (後の鎌倉丸)
日本郵船のサンフランシスコ航路客船。戦前の日本における最大の客船。
秩父丸は浅間丸級客船の第3船で、唯一の横浜船渠(ドック)での建造船です。実は、同船は川崎造船所で建造される予定でしたが、折からの金融恐慌により経営状態が悪化したことにより、1927年8月9日、横浜船渠に発注されたものでした。しかし、同社はそのような巨船を建造した実績もなく、危ぶむ声もあったのですが、翌28年2月6日には起工に漕ぎつけ、29年5月8日、無事に進水させたのです。その陰には、社運を賭して二十数名もの人員を欧州に派遣した努力がありました。また、主機は姉妹船がズルザー・ディーゼルを採用したのに対してスウェーデン、コペンハーゲンのB・W社製を採用(主機と推進軸が半数の2基2軸)、この結果、二本煙突の僚船に対して一本煙突の軽快な姿となりました。
1938年7月6日、秩父丸は太平洋横断100回の記録を姉妹船に先駆けて達成しましたが、39年1月18日、ヘボン式ローマ字の使用が認められなかったことが原因で鎌倉丸と改名されます。Titibu-Maruの船名表記をChichibu-Maruに再変更した時期もありましたが、逓信省がこれを認めなかったのが原因と言われます。しかし、大正天皇の第2皇子である秩父宮に対して不敬であるとされたという説も囁かれております。ともあれ、船名の由来となった秩父神社の御神霊に代わって鎌倉宮の御神霊が奉安され、同船は10年間慣れ親しんだ名前を捨てることになったわけです。
1941年8月17日、海軍が徴用しましたが、42年、一旦徴用を解除され抑留者交換船としてポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケス(現、モザンビークの首都マプート)でオーストラリアに抑留されていた在留邦人と上海から輸送したイギリス人を交換、10月15には海軍に再度徴用されます。その後、同船は高速を利して、単独航海を行いますが、最期の時も単独航行でした。1943年4月15日、神戸を出港した鎌倉丸は女性150名を含む海軍軍人等約2500名を乗せて27日午前5時20分、マニラを出港、ボルネオ南部のバリックパパンへ向かいます。しかし、翌28日午前2時頃、フィリピン、パナイ島ナソ岬西方沖でアメリカ潜水艦(SS211)ガジョンの発射した魚雷2本を受けて右舷に傾斜、船首を上に棒立ちになったままわずか5分間で沈没したのです。このため、生存者は辛うじて海中より救い出した救命艇2隻と伝馬船1隻に分乗、3日間に渡って漂流することになります。
43年2月に龍田丸、同4月に鎌倉丸、そして最後の浅間丸も44年11月に戦没して姿を消してしまいます。太平洋の海の女王と言われた3隻の哀しい末路でした。
なお、船名は時の逓信大臣安達謙蔵の「あたち」から浅間丸、龍田丸、秩父丸となったと言う説もありますが、真偽は不明です。

竣工:1930.10
総トン数:17,498t
垂線間長/幅/深さ:171/22.6/13.0m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:15,500BHP
速力:20.7kt
旅客定員:1等243/2等95/3等500

(2003/10/28更新)
客船鎌倉丸(旧秩父丸)新塗装
浅間丸と同じく、この状態を示す写真が残っています。旧塗装+日の丸は確認できず。

(2003/4/15更新)
(2003/7/10更新)
客船鎌倉丸 交換船塗装
'42.8〜10:日本と米英間で抑留民間人の交換を行う輸送に従事

(2003/7/10更新)
(2003/7/13更新)
客船新田丸級
日本郵船の欧州航路貨客船。独NDLが同航路に投入したシャルンホルスト級三姉妹の対抗として建造されたが、欧州はすでに戦雲暗く、処女航海から北米航路に配転となった。戦雲はやがて彼女達を照らす光をも遮り、日米開戦を控えて末妹の春日丸は客船として竣工することなく特設航空母艦に改装されている。
なお、三姉妹の頭文字を取るとNYKとなり、日本郵船株式会社の綴りとなっている。

竣工:1940.3
総トン数:17,150t
垂線間長/幅/深さ:168/22.5/12.4m
機関・軸数:タービン2基2軸
出力:25,200SHP
速力:22.5kt
旅客定員:1等115/2等100/3等70
同型船:八幡丸、春日丸

(2006/3/23更新)
貨客船三池丸(1941)
 日本郵船のシアトル航路用貨客船。

 昭和5年(1930)、日本郵船はシアトル航路に新造船氷川丸級3隻を投入し、主として北米への旅客と生糸の輸送を担っていた本航路の船質は飛躍的に改善された。しかし、直前に発生した世界恐慌に加え、同年大阪商船がニューヨーク航路に投入した高速貨物船畿内丸級に生糸の輸送が移転し、さらに自社のサンフランシスコ航路に投入した浅間丸級3隻と、バンクーバー航路のカナディアン・パシフィック(CPL)のエンプレス級シリーズに押されて旅客輸送でも苦境に立たされることとなった。
 そこで、氷川丸級のうち2隻を使用船舶の老朽化が目立つ南米航路に転用し、シアトル航路には新たに新造船を投入することが決定された。
-***-
 昭和11年(1936)、大阪商船はオーストラリア航路に新造高速貨物船かんべら丸級(6,500t/17kt)2隻を投入し、門司−ブリスベーン間の所要日数を半減させて11日とした。日本郵船の同航路の就航船舶は、欧州航路への照国丸級就航によって配転された8,000t級の老朽貨客船3隻であり、その代替が急務となっていた。

 日本郵船はこの2つの航路に投入する新造船を可能な限り共通の設計として、設計及び建造費の低減を図った。シアトル航路向け三池丸級2隻(三池丸,三島丸)とオーストラリア航路向け安芸丸級2隻(安芸丸,阿波丸)の建造はすべて三菱長崎造船所が担当することとなり、それぞれ順に760,761,770,771という建造番号が割り振られた。契約船価はそれぞれ第1船が803万円、834万円である。1番船の起工は昭和15年(1940)2月となった。

 氷川丸級の建造から10年を経て、旅客設備の上部/中央部への集中化、船室1室辺り船客数の低減などの居住性向上が図られている。1等が廃止されているのは、来るべき東京オリンピック(昭和16年予定)の開催に向けて建造が進められていたサンフランシスコ航路の橿原丸級との差別化を図るためであろうと思われる。
 三池丸級と安芸丸級の差異は、各等級の定員、冷房設備の能力、開放デッキの有無など就航予定航路の違いによる船客設備の差程度で、船体及び機関の主要部はまったく同一である。唯一数値の相違するのは型幅であるが、図面を見ると舷弧(シーア)や船尾のカットアップ(水線下形状)が違うことからみて、両級の船型が大幅に異なることが分かるが、あえてそうした理由は不明である。

 しかし、戦雲は次第にその色を濃くしていく。三池丸級のネームシップ、760番船三池丸は翌昭和16年9月にどうにか竣工させたものの、同年11月、770番船(予定船名:安芸丸)を建造中の第三船台が軍用指定となって、建造準備中であった同船は解体されてしまう。ところがこの安芸丸という名前は生き残り、建造中だった761番船(予定船名:三島丸)に与えられることになる。
ここで建造番号が振り替えられており、同じく建造中だった771番船(予定船名:阿波丸)は770番船に変更され、771番が欠番とされてしまった。輪をかけてややこしいことになっているが、なぜこのような措置が取られたのかは分からない。

 そして12月8日の開戦を迎え、建造中の安芸丸(旧三島丸)と阿波丸は、貨物搭載量の増加と旅客設備の減少を目的とした改設計が行われた。よって本来の安芸丸級は遂に1隻も竣工することなく、その姿は幻となって歴史の闇へと消えていった。

 竣工した3隻も予定の航路に就航することは一度たりとてなく、三池丸が昭和19年(1944)4月潜水艦の雷撃を受けて沈没、安芸丸も同年7月同じく雷撃により失われた。
 最後の―日本最後の優秀船―阿波丸も、翌昭和20年4月雷撃により沈没している。この件に関する詳細な記述は関連書籍に譲ることとする。

竣工:1941.9
総トン数:11,738t/三池丸,114,00t/安芸丸,11,250t/阿波丸
垂線間長/幅/深さ:153/20.0(20.2)/12.6m ※括弧内阿波丸機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:14,000BHP
速力:20.6kt
旅客定員:ツーリスト(2等)100/3等136(三池丸)
     ツーリスト37(安芸丸/阿波丸)同型船:下記

・三池丸級(シアトル航路)
760番船(予定船名:三池丸)→竣工(三池丸級「三池丸」)
761番船(予定船名:三島丸)→船名変更→竣工(戦時改設計三池丸級「安芸丸」)

・安芸丸級(オーストラリア航路)
770番船(予定船名:安芸丸)→771番船に変更・建造中止
771番船(予定船名:阿波丸)→770番船に変更→竣工(戦時改設計安芸丸級「阿波丸」)

(2006/3/25更新)
貨客船安芸丸級(未成)
 建造中止/戦時改設計により幻となった、オーストラリア航路用安芸丸級の推定図。

 シアトル航路用の三池丸に比して輸送人員が大幅に増え、大型化された上部構造物と救命艇の増加、開放された舷側通路、緩やかな舷弧、船体後半部が肥えた船型など、より客船としての性格が強くなっている。
 すなわち、三池丸級が他に就航船舶の多い北米航路において、主に平民旅行者・移民を廉価な運賃で輸送することに主眼をおいた性格付けがなされているのに対し、安芸丸級はオーストラリア航路を担う主要船舶として富裕旅行者・政府高官から移民まで幅広い層の輸送を目的としていることが伺える。

竣工:---
総トン数:12,000t
垂線間長/幅/深さ:153/20.2/12.6m
機関・軸数:ディーゼル2基2軸
出力:14,000BHP
速力:20kt
旅客定員:1等97/特3等30/3等110/臨時旅客100
同型船(予定):安芸丸,阿波丸

(2006/3/25更新)
(2006/6/14更新)
貨物船安芸丸(1942)
 三池丸級を改設計し、貨物搭載量の増加と旅客設備の減少を図ったもの。

 本来の三池丸の設計に対して、資材節約と建造期間短縮の為上部構造物が1層(遊歩甲板)減らされ、旅客定員はツーリスト37名と大幅に減少している。なお、載貨重量は約16%増加して10,550tとなっている。

竣工:1942.9

(2006/3/25更新)
(2006/6/14更新)
貨物船阿波丸(1943)
 安芸丸級(未成)を改設計し、貨物搭載量の増加と旅客設備の減少を図ったもの。

 安芸丸級2番船という本来の設計に対して、資材節約と建造期間短縮の為上部構造物が三池丸と同等のものとされ、同じく1層減らされてツーリスト37名となっている。これによって客船としての性格が強かった為三池丸に比して小さかった当初の載貨重量は、改設計された三池丸級と同等までに引き上げられた。
 しかし、設計変更が決定した時期の関係からか船型は三池丸とは異なり、安芸丸(未成)のものとなっているようだ。また、上部構造物も甲板の開放部分が大きいなど、オーストラリア航路用の安芸丸(未成)の面影が随所に見られる。あるいは、戦勝後(!)に復活するであろう同航路へ就航させる予定であったのかもしれない。

竣工:1943.3

(2003/7/30更新)
油槽船「東亜丸」
第一次船舶改善助成施設適用の油槽船第一号。戦時には給油艦として用いられることが前提になっており、それまでの油槽船に比して高速を発揮できる。「海軍型タンカー」などと呼ばれることもある。

竣工:1934.4
総トン数:10,052t
垂線間長/幅/深さ:152/19.8/11.3m
機関・軸数:ディーゼル1基1軸
出力:8,611BHP
速力:18.4kt

(2003/8/5更新)
油槽船「極東丸」
東亜丸級の2番船。所属は飯野商事(後の飯野海運)。

竣工:1934.4
以下要目は東亜丸に準ずる

(2003/8/5更新)
油槽船「かりほるにあ丸」
昭和19年(1944)、フィリピンのキャビテにて撃沈された油槽船極東丸を浮揚して日本に回航し、'46/12より復旧修理・船体延伸を行なった。

新生なったかりほるにあ丸は、船体中央を切断して6m延長し、油槽を2個新設しており、油槽容積は16,100m^3から17,300m^3に増大した。
なお、元の船体は鋲接構造であるが、この延伸部分は溶接構造であったという。

改装完成:1947.9
総トン数:10,500t
垂線間長/幅/深さ:158/19.8/11.3m
機関・軸数:ディーゼル1基1軸
出力:8,000BHP
速力:17kt(定格)

(2003/8/5更新)
近海捕鯨母船「ばいかる丸」
「近海」となっているのは、「南氷洋」に改装前の状態だからです。

(2008/2/7更新)
捕鯨母船 第二図南丸(1937)
大阪鉄工所桜島造船所で建造された、日本水産の捕鯨母船。ノルウェーから購入した図南丸に続く、日水2隻目にして初の国産母船である。
 建造にあたってはイギリスの捕鯨母船Svend Foynの設計図を購入、これに範を取った。船体の線図は同じであるが、工場甲板下に甲板を一層増設して船内容積の増大を図っている。この措置はノルウェーの造船技術者と協議の結果であると言われているが、これが為、船体寸法は大洋捕鯨の日新丸とほぼ同じであるが総トン数は1,500t余り大きく、結果第二図南丸は戦前日本最大の商船として君臨することとなった。
 なお、安部川河畔に位置する桜島工場における進水では、多数の鎖を引きずらせることによって、この巨船が進水台から滑り降りる行き足を止め、なおかつ川と平行に方向転換して対岸に乗り上げないように意が払われた。
 第二図南丸は昭和13,14,15年度の南氷洋捕鯨に出漁し、漁閑期は北米から海軍用重油の輸送に従事した。世界情勢の悪化に伴い、昭和16年度の出漁が中止となるや同年11月に海軍に徴用され、パラオでの敵前上陸訓練を経て、開戦直後のミンダナオ島ダバオへの上陸作戦に参加している。
 その後は昭和19年(1944)8月22日東シナ海において潜水艦の雷撃により沈没するまで、本土南方間の輸送に従事していた。
 遅れること一年、竣工成った第三図南丸は14,15年度の出漁の後、同様に海軍に徴用されて開戦劈頭のボルネオ島攻略作戦に参加し、その搭載量を生かして1隻で陸軍1個連隊の輸送を行った。なお、この作戦で被爆中破の損害を受けているが、これは第三図南丸の壮絶な戦歴の発端に過ぎなかった。
 他の捕鯨母船と同じく本土南方間の輸送に従事していた第三図南丸は、まず昭和17年(1942)10月、ニューアイルランド島カビエン泊地沖で潜水艦の雷撃により左舷後部に被弾、沈没は免れたものの機関室が浸水して航行不能となった。排水作業と応急修理の後トラック島に曳航され、工作艦明石の応援を受けて1ヵ月後に修理を完了、内地向けの石油を積み取るべくシンガポールに向けて出港している。
 翌昭和18年7月、再びトラック島西方海上で潜水艦の雷撃を受けた。この敵潜はTinosaで、発射雷数実に15本、命中13本うち起爆1本、過早爆発1本、不発11本であった。第三図南丸は再び左舷後部に被弾、機関室に浸水して航行不能となったものの、不発魚雷10本を水線下舷側に刺したまま、軽巡五十鈴に曳航されてトラック島にたどり着いた。
 今度は修理に4ヶ月を要し、その後内地に回航されている。
 そして翌昭和19年2月17日、第三図南丸が再びトラック島に入港したその日は、トラック大空襲当日でもあった。翌18日も空襲は続き、軍艦以外ではタンカー5隻5万2千トン、貨物船11隻4万6千トン、貨客船9隻4万9千トン、特設艦船9隻5万3千トンが撃沈された。隻数の割にタンカーの被害総トン数が大きいのは、もちろん第三図南丸が失われた為である。
 この空襲で三度機関室に浸水、徐々に進む沈下から船体を守る為浅瀬に曳航されて、20日遂に着底した。後に油槽内の油が抜き取られたことにより、第三図南丸は完全に転覆してしまったという。
 戦い終わって昭和25年(1950)、戦後再開された南氷洋捕鯨の戦力を増強する為、日本水産はGHQに第三図南丸の浮揚修理を申請した。紆余曲折の末浮揚に成功、日本に回航されてきた船体は鉄屑そのものであったという。
 以後6ヶ月の間に4,000t近くの鋼材を新品と交換し、レシプロ機関に替えて4,000SHPの蒸気タービン2基を搭載、主缶も新しい水管缶4基に更新、舵も2枚に変更して第三図南丸の改装は終了した。船尾が軽くなった為、トリムを調整する為最前部の1番油槽は清水槽として使用されることになったという。総トン数は19,308tとなっている。
 新たに図南丸の名を与えられた新生母船は以後14回の南氷洋捕鯨、4回の北洋捕鯨に出漁した後、昭和46年(1971)捕鯨枠の減少により不可動船となって解体され、32年の生涯を終えている。
第二図南丸/第三図南丸
竣工:1937/8/1938/9
総トン数:19,425t/19,210t
油槽容積21,354m^3
垂線間長/幅/深さ:163/22.5/17.3m
機関・軸数:三連成蒸気レシプロ2基2軸
出力:7,000IHP
速力:14kt

(2008/2/7更新)
捕鯨母船 極洋丸(1938)
 神戸の川崎造船所で建造された、極洋捕鯨の捕鯨母船。同じ造船所で建造された大洋捕鯨(林兼商店、後の大洋漁業の系列)の日新丸、第二日新丸の設計図を購入して使用しており、舵が平衡式に改められたことと工場設備の違いの他は実質同型船である。
船価は船体680万円、工場設備130万円の計810万円で契約した後、変更が加えられて最終的には850万円となった。捕鯨母船の建造に際してはその大きな搭載量に海軍が注目しており、極洋丸を含めた各社計5隻の母船には建造助成が行われている。
昭和13年(1938)10月、初の南氷洋出漁に合わせて完成した極洋丸は神戸港を出港した。随伴する捕鯨船(キャッチャーボート)9隻も、それぞれこの出漁に合わせて各地の造船所で建造されたものであった。
この年を含めて、極洋丸の南氷洋捕鯨への出漁は世界情勢の悪化に伴い3回で終りを告げるが、後発の為もあってか、1船団あたりの鯨油の生産量は日本水産や大洋捕鯨に比べて若干劣っていたようだ。なお、この間漁閑期には北米原油の輸送に従事している。
開戦間近の昭和16年(1941)11月に海軍徴用船となり、往航は主としてパラオ、トラック、ラバウル間への軍需物資輸送、復航は南方原油の内地還送に従事していた。
昭和18年9月19日から21日にかけて、日本列島は台風26号の直撃を受けた。昭和9年の室戸台風に匹敵すると思われるこの超大型台風を避けて、南下の途上にあった門司発基隆行197船団に所属する8隻は、船団指揮官の命令で奄美大島の名瀬に避港していた。その8隻の中に、極洋丸の姿もあった。
極洋丸は激しい波浪と風により同19日23時48分浅瀬に座礁、船団に所属する他の船も何隻かが座礁する被害を受けた。
海軍救難隊による引き下ろし作業は戦時中ということもあって困難を極め、戦局の悪化した翌昭和19年9月に放棄が決定された。潜水艦の雷撃や航空機の銃爆撃によって破壊された船体は、戦後極洋が浮揚修理して再び南氷洋捕鯨へ出漁する計画があったものの、GHQの許可が下りず実現しなかった。
竣工:1938/10
総トン数:17,549t
油槽容積22,373m^3
垂線間長/幅/深さ:163/22.6/14.9m
機関・軸数:2サイクル複動ディーゼル1基1軸
出力:6,000BHP
速力:15kt
工場設備:ハートマンボイラー4基、クワナーボイラー8基、製油能力400t/日

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1A型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1B型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1C型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1D型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1E型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1F型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1K型」
鉱石船

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1TL型」
油槽船(大)

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1TM型」
油槽船(中)

(2003/3/13更新)
第1次戦時標準船「1TS型」
油槽船(小)

(2003/3/13更新)
第2次戦時標準船「2A型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第2次戦時標準船「2D型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第2次戦時標準船「2E型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第2次戦時標準船「2TE型」
油槽船

(2003/3/13更新)
第2次戦時標準船「2TL型」
油槽船(大)

(2003/3/13更新)
第2次戦時標準船「2TM型」
油槽船(中)

(2003/3/13更新)
第3次戦時標準船「3A型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第3次戦時標準船「3B型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第3次戦時標準船「3D型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第3次戦時標準船「3E型」
一般貨物船

(2003/3/13更新)
第3次戦時標準船「3TL型」
油槽船(大)

(2003/2/26更新)
名古屋の元観光客船 金鯱号

(2002/12/2更新)
(2003/3/6更新)
第十五日通丸
津国汽船 日通フェリー 第十五日通丸
高松-宇高間を結ぶ3大フェリー航路の一つ、日通フェリーの主力船3隻のうちの1隻。日通フェリーはトラック主体の輸送であり、旅客設備は簡素、運賃は片道乗用車2300円〜・大人350円
第十五日通丸の他第十三、十八日通丸を運用している、第八日通丸を代船として保有している。
第八、十一日通丸はほぼ同型で、第十三日通丸はそれを改造して大型化したもの、第十五日通丸はさらに大型化してあり、トラック搭載台数が増えている、第十八日通丸は新型船で、旅客設備もそれなりに完備している。
それぞれの船の建造が1960年から1990年まであり、それぞれの船ごとの差異が小さくは無い。
運用面では割と無茶をしており、瀬戸大橋建築以降航海速度を11.5ノットから13ノットにした(他2社も同様)、岸壁にそのまま突っ込んで着岸するために、船首に木の棒をバンパーとして付けている、物凄い水の抵抗になっていそうなのはご愛嬌。三社中もっとも漢らしい船である。

型幅13.9m
垂線間長58.0m
総トン数693.43トン
重量トン数352MT
航海速力11ノット
就航速度13ノット
最大速度14.8ノット
トラック30台旅客280名

(2003/8/10更新)
飛鳥
おなじみ我等がニッポンの最大客船飛鳥。世界の船とと比べると・・・・・なんとも悲しい。しかし、その風格は世界一!

(2006/3/17更新)
飛鳥II
 全長241m
 全幅29,6m
 総トン数 49、500t

 日本郵船が、それまで運用していた豪華客船「飛鳥」の後継として、同社保有の「クリスタル・ハーモニー」を日本仕様に改装した船。
 2006年2月26日に就航、同年3月5日には神戸港に寄港。
 翌3月6日朝には、「飛鳥II」の出航直前に「クイーン・エリザベスII」が神戸港に入港したため、短時間ながら世界を代表する2隻の客船が、互いの姿を垣間見ることとなった。

 私自身は、3/5の夕方にこれの現物が神戸港に入港していたことを偶然知り、その折に数枚写真を撮影したものから、即興で作成したものです。一応出品しますが、今後の改良はありえます。

(2003/9/26更新)
ぱしふぃっくびいなす
全長183.4m 全幅25m 総トン数26518t 運行会社:日本クルーズ客船
飛鳥と共に日本を代表する客船です。

(2004/2/9更新)
おりえんとびいなす
総トン数 22000t
全長 175m
全幅 24m
巡航速力 18.5ノット
乗客数 600人
乗務員 156人
就航年 1990年
所属会社 日本クルーズ客船
船籍 日本
ぱしふぃっくびいなす〜の姉妹船で一回り小さい船で格好も似ています。実際に見たとき見慣れていないと間違えてしまうかもしれません。しかし日本の客船はどうしても欧米諸国みたいなド迫力に欠けてしまいますね。

(2003/8/28更新)
にっぽん丸

(2003/10/13更新)
ふじ丸
全長167m 全幅24m 最大喫水6,6m 総トン数23,235t
就航年1989年 運行会社商船三井客船 船籍日本 乗客数600人 巡航速度21kt

(2003/10/28更新)
客船「はまゆう」(HAMAYUU)
船籍 日本国
就航年月日 1998年8月28日
国際トン数 16,187トン
国内トン数 7,747トン
全長 162m
幅 23.60m
喫水 5.60m
航海速力 18.00ノット
主機 ディーゼル 6000×2基
プロペラ 可変ピッチ
スタビライザー 一対
最大速力 20.49ノット
最大搭載人数 旅客・・・438名
船員・・・40名
合計・・・478名
積載能力 140TEU
商品車 25台
建造場所 三菱重工渇コ関造船所

(2003/11/13更新)
客船「銀河」(ウンハ)
全長135.5m
国際規格総トン数10,729t
国内規格総トン数5,561t
収容乗客数500名
搭乗乗用車数30台
搭乗貨物車数(2t)24台
搭乗貨物車数(16t)37台
速力20,5ノット

(2003/12/12更新)
かめりあ
全長166m
全幅 24m
総トン数 9707t
速力 20kt
乗客数 563名
就航年 1990年
所属会社 釜関フェリー・関釜フェリー

(2003/12/26更新)
さんふらわぁ2
全長185m

(2005/6/3更新)
はまなす
総トン数 16810t
全長 224.5m
航海速力 30.5ノット
乗客数 820人
車両積載台数 トラック158台 乗用車66台
就航年 2004年06月
所属会社 新日本海フェリー
船籍 日本
航路 北海道(小樽)〜京都(舞鶴)

(2005/6/3更新)
フェリー ひむか
総トン数 13600t
機関馬力 46200PS
全長 196m
型幅 27m
航海速力 25ノット
乗客数 350人
車両積載台数 トラック180台 乗用車100台
就航年 2004年3月24日
所属会社 マリンエキスプレス
船籍 日本
航路 大阪(貝塚)〜日向〜宮崎(※日向〜宮崎間は運休中)

本船の前身は「れいんぼうべる」(東日本フェリー 航路:室蘭〜直江津〜博多 1996年4月9日就航)

(2005/6/9更新)
おおさかエキスプレス
総トン数 11933t
機関馬力 19800馬力×2基
全長 170m
航海速力 25ノット
乗客数 690人
車両積載台数 トラック185台 乗用車85台
就航年 1997年7月28日
所属会社 マリンエキスプレス
船籍 日本
航路 大阪(大阪南港)〜宮崎(宮崎港)

(2005/6/3更新)
(2007/3/25更新)
さんふらわあ あいぼり
総トン数 9245t
機関馬力 13500馬力×2基
全長 153.0m
型幅 25.0m
航海速力 22.4ノット
乗客数 710人
車両積載台数 トラック100台 乗用車100台
就航年 1997年
所属会社 関西汽船
船籍 日本
航路 阪神(大阪・神戸)〜四国(今治・松山)〜中九州(大分・別府)

(2008/2/7更新)
フェリーくるしま(1987)
関西汽船の小倉〜松山航路の「フェリーくるしま」です(姉妹船は、フェリーはやとも2)
総トン数4273t 全長119m 全幅21m 機関出力11200PS 航海速力18ノット 
乗客定員756名 トラック73台 乗用車41台

(2008/2/7更新)
フェリーダイヤモンド(1986〜2007/12)
ダイヤモンドフェリー(現フェリーさんふらわあ)の「フェリーダイヤモンド」です
現存するダイヤモンドフェリーの3隻のなかで一番古い船です
総トン数9023t 全長150.87m 全幅25m 総機関馬力24000馬力 航海速力23ノット
乗客定員942名 トラック105台 乗用車50台 航路 神戸六甲〜今治〜大分

(2008/2/7更新)
スターダイヤモンド1991〜2008/1引退)
ダイヤモンドフェリー(現フェリーさんふらわあ)の「スターダイヤモンド」です
同型の「ブルーダイヤモンド」の姉妹船です。もう気づいてる人もいると思いますが、先日投稿した、「さんふらわあ こがね」と投稿はしていないですが、「さんふらわあ にしき」と構造は全くと言ってほど同じで、窓の位置が若干ちがうだけです
総トン数9463t 全長150.87m 全幅25m  総機関馬力25200馬力 航海速力23ノット
乗客定員942名 トラック105台 乗用車50台 この船の1等B室(1人部屋)は、かなりお勧めです。

(2008/2/7更新)
さんふらわあ こがね(1992)
関西汽船(現フェリーさんふらわあ)の さんふらわあ こがねです
総トン数9684t 全長150.87m 全幅25m 航海速力22.1ノット 馬力25200PS 
乗客定員942名 トラック100台 乗用車60台 区間 大阪〜神戸〜松山〜別府

(2005/9/13更新)
おれんじ7
国内総トン数 9917t
全長 156m
全幅 25.6m
最大出力 27000PS
速力 25.0ノット(最大)、22.5ノット(航海)
旅客 750人(通常)、958人(臨時)
車両積載台数 トラック122台 乗用車42台
就航年 1994年
会社 四国開発フェリー(オレンジフェリー)
航路 四国(新居浜港)〜四国(東予港)〜大阪(大阪南港):下り3便・上り1便

(2005/9/13更新)
おれんじ8
国内総トン数 9975t
全長 156m
全幅 25.6m
最大出力 27000PS
速力 25.0ノット(最大)、22.5ノット(航海)
旅客 750人(通常)、948人(臨時)
車両積載台数 トラック122台 乗用車42台
就航年 1999年
会社 四国開発フェリー(オレンジフェリー)
航路 四国(新居浜港)〜四国(東予港)〜大阪(大阪南港):上り3便・下り2便

(2008/2/7更新)
きたかみ(1989)
太平洋フェリーの「きたかみ」です
総トン数13,937t 全長192.5m 全幅27m 喫水 不明(公式ではないが6.8mらしい)
最大速力24.94ノット 最大出力28800馬力 乗客定員 792名 車両積載台数 乗用車150台 トラック 不明 航路 名古屋〜仙台〜苫小牧
豪華で有名な太平洋フェリーの最も高齢のふねです。船内には、大広間、展望室、カードルーム、大きなレストラン、軽食&バーコーナー、142名入れるホールなどがあり、インテリアもかなり良く、他社の豪華な船を主張する船(おれんじ7・8を除く)よりよっぽど豪華です。

(2008/2/7更新)
いしかり(1991)
太平洋フェリーの「いしかり」です
「いしかり」は、太平洋フェリーの船で、フェリーオブザイヤーで13年連続で1位を獲ったとても豪華なフェリーです。今は仙台から苫小牧までを運行しています

(2008/2/7更新)
きそ(2005)
「きそ」は太平洋フェリーの船で、先代の「きそ」と入れ代わりで去年就航したもので、去年のフェリーオブザイヤーで1位を獲得した豪華な船です
、総トン数 15,795t 全長 199.9m 全幅 27.0m 型深さ 18.8m  馬力 29,685ps 航海速力 23ノット
旅客定員 800名 大型車 174台   普通車 113台 2005年フェリーオブザイヤー1位受賞
スウェーデンの船舶専門出版社であるシップパックス社から「シップパックス賞」を受賞。豪華なクルーズフェリーの多い欧州勢を押えて、「きそ」の部屋、内装インテリアなどが評価され、受賞にいたったそうです。

(2003/8/28更新)
青函連絡船 十和田丸

(2003/8/28更新)
青函連絡船 八甲田丸

(2003/8/28更新)
青函連絡船 摩周丸

(2002/11/9更新)
起重機船 金剛
台船船体 全長85m 全幅38.8m 深さ6m
捲揚能力 ジブ傾斜角/定格荷重/揚程/張出距離
主捲 65-25°/2,050-280t/79.74-46.28m/29.73-69.25m
補捲 65-25°/200t/98.3-51.59m/37.4-80.73m

(2002/11/10更新)
起重機船 武蔵
台船船体 全長107m 全幅49m 深さ8m
捲揚能力 ジブ傾斜角/定格荷重/揚程/張出距離
No.1/3フック 66-35°/3,600-420t/102-64m/25.52-78.5m
No.2/4フック 66-35°/3,600-420t/108-66m/33.1-87m

(2002/11/9更新)
フローティングドッグ 大潮號
クレーンIHI 10.5t 2基
全長43m 全幅30m 渠内幅24m 全深さ18.5m 積載能力3200t

(2002/11/10更新)
沖合浮体式波力装置台船 マイティーホエール
海洋科学技術センターに納入された波力発電実験装置
波の高低差を利用した発電装置
全長50m 全幅30m 深さ12m

(2008/2/7更新)
地球深部探査船 ちきゅう
総トン数57,087t全長210m 全幅38m 満載喫水9.2m 深さ16.2m 船底からデリック上端までの高さ130m
最大速力12ノット 乗組員定員150名 推進装置 サイドスラスター 3470PS×船首部1 アジマススラスター 5710PS×船首部3 船尾部3
掘削データ デリック 高さ70.1メートル 幅18.3メートル 長さ21.9メートル 最大吊上荷重1,250トン
ドリルストリング長10000m 最大掘削水深2500m 掘削深度7500m
諸外国

(2003/8/21更新)
客船タイタニック
ハーランド・ウルフ・ベルファスト(アイルランド)造船所で1909年3月21日起工11年5月31日進水12年4月10日サザンプトン出港後ニュー・ヨークへ処女航海の最中、同14日夜、氷山と衝突して沈没。
機関は4連成レシプロ機関ですが、その排気でタービンを回す仕組みなので、スクリューは3つです。合計出力56000馬力は、ライバル、キュナード・ラインの客船ルシタニア(31550T)の72500馬力に次ぐものでありました。速力は23ノットが発揮できましたが、ルシタニアの26ノットには及びません。その分、内装の豪華さに金を費やしたようですが、あの悲劇的な最後がなければ北大西洋航路のマンモス・ライナーの1隻として一部の人だけが知っている船になったと思います。
全長 268
全幅 28,19m
総トン数 46328t

(2002/10/4更新)
客船オリンピック
タイタニックの姉妹船。見た目はタイタニックとほぼ同じなんですが、1等デッキに前から50m位防風壁が着いているのがタイタニック。着いていないのがオリンピックです。アイコンでも確認できるように工夫してみましたのでご確認下さい。

(2008/2/7更新)
ノルウェー客船ステラ・ポラリス(Stella・Polaris)
第一次大戦の復興も一段落、好景気の1920年代は多くの船会社にとってもビジネスを広げる絶好のチャンスでした。そこで従来、冬季に高速ライナーを用い温暖な気候を求める乗客のために実施されてきたカリブ海、地中海へのクルージング・サービスを通年に渡って供する専用客船が建造されることとなりました
ノルウェーの”ベルゲン・ライン”では1922年に小型客船”メテオール”を購入、クルーズに充て一定の成功ををさめてきました。そこで1925年より大きく豪華なクルーズ専用船を計画、それが”ステラ・ポラリス”です
入札によりスウェーデンのイェータ・ベルケン造船所に発注された本船は”メテオール”に似たロイヤル・ヨット(王室、元首用の専用船)風のクリッパーバウ、カウンタースタンを持つ古風なスタイルで帆船のようなバウ・スプリットまで備えていました。機関はその姿に似合わず最新式デンマークのB&Wのディーゼル機関(日本でも氷川丸などで採用)で、前後の2本のマストとバランスするように配置された高い煙突はダミーだったとされています
”メテオール”が3.600総トンで300名の定員だったのに比し本船では5.000総トンの船体に定員200名としより快適なサービスが期待できました。船室は大部分がシングルまたはツインで1等のみ、ダイニングは船客定員を超える214名分の広さが与えられました
建造は順調に進み、予定より1ヵ月あまり速い1927年2月に竣工、26日には140名の乗客を乗せてロンドンへの処女航海、その後は主に英国を起点とし夏季はフィヨルドクルーズ、冬季は地中海クルーズを実施、また年に一度の世界周航クルーズも実施しました
1929年の大恐慌は多くの船会社を閉鎖に追い込みましたが、幸いごく少数の旅客定員しか持たない本船に大きな影響は無く、順調に活動を続けました。1937年にはノルウェーの貨物船ノーベルとの衝突事故がありその際に折損した長いバウスプリットは以降元の長さに戻されることは無かったとされています
1939年9月第二次大戦が始まると運行は中止、翌4月のドイツ軍の侵攻により接収された本船はU-ボートの乗員の宿泊船として利用されました。大戦終了後ベルゲンラインに引き渡された本船はバウスプリットも無い姿ではありましたが機関の状況は良好で、自走してイェータ・ベルケン造船所に戻ることができました。復旧には新造時を上回る予算が必要でしたが工事は1947年に完了、8月には運行を再開しました。この際の工事では露天艦橋の密閉、ダンスホールの新設、プールの新設、安全規制による定員の削減(189名)などの工事も行われています
戦勝景気に沸くアメリカでは現在まで続くカリブ海クルーズブームが始まり”ステラ・ポラリス”はこの分野の嚆矢として活躍します。特に航空路の充実によりライナーからの転換を図る大形客船にたいしてそれらのサービスが画一的になりがちなのに対して少人数の船客に行き届いた豪華なサービスを提供する存在として人気を博しました。1951年10月に本船は故郷スウェーデンのクリッパーラインに移りましたがその高いサービスのレベルは保たれ、幾度かの小改造、座礁事故などを経ながら長くその人気を保ちました
しかし1974年より、安全基準が改正されたSOLAS条約が施工されることとなり老齢の”ステラ・ポラリス”に新たな改造を加えて運航すを続けることは困難になりクルーズ船としての本船の寿命は終わりを告げることとなりました
これに目をつけた国土計画(株)の社長であった西武グループの堤義明氏は、西伊豆リゾート開発を推進”ステラ・ポラリス”を$850.000の価格で買い取り伊豆箱根鉄道により作られる大規模リゾート施設の中心にすえ、西伊豆の西浦木負の地にてフローティング・ホテル”スカンジナビア”として1970年7月25日再出発させることとしました
しかし土地取得の失敗から水族館などの周辺施設の開業は頓挫、さらには一連の伊豆地方の地震もありバブル期の90年をピークに経営は低迷を続け1999年にはホテルは閉鎖、その後は結婚式場&レストランシップとして命脈を保ってきました。しかし2004年西武鉄道株不正保有事件により経営母体の伊豆箱根鉄道も混乱状態に陥り、業務内容の刷新を図るため2005年3月をもって全船閉鎖の憂目を見る事となりました
閉鎖後はスクラップとの観測も流れるなか結局は競売にかけられ2005年5月にバージン諸島周辺でのクルーズ事業を展開するランティBVI社が落札、クルーズ船としての再生が期待されました。が、船体の老朽化により曳航作業の目処が立たないなか話は立ち消え、2006年7月になりこんどはスウェーデンのペトロファーストAB社がストックホルムでホテル&レストランとして使用するため名乗りを上げ2006年8月31日改修工事が行われる上海へ出帆しました。が、その2日後の9月2日、漏水による傾斜がはなはだしく和歌山県串本港沖の70mの海底に没しました。その後ペトロファーストAB社が地元で知られる悪徳(?)不動産業者で本船に多額の保険金がかけられていたことなどが噂され、沈没原因に疑惑なしとは出来ない状況ではあります
アイコンは1969年11月、日本への回航中の”ステラ・ポラリス”です。ホテル・シップとしてはマスト、ファンネルが白く塗られていてその姿の方が馴染み深いかもしれません
主な要目 5.056総トン 全長130.4m(垂線間長118.8m) 全幅15.4m 吃水5.5m 出力5.200hp 航海速力15kt 乗客定員198名

(2005/8/3更新)
(2006/1/6更新)
イタリア客船「レックス」
イタリア唯一の50.000tライナーとして建造された本船は、同国に始めてのブルーリボンをもたらした船として著名です。

当時の客船の最高の名誉”ブルーリボン(北大西洋航路でのスピード記録)”は1907年より英モーレタニア、ルシタニア姉妹の独占が続いていましたが、1929年独ブレーメンが西行、東行ともに20余年ぶりに奪還、戦後混乱期を克服したドイツの復興を強く印象付けました
ムッソリーニはN,G,I社、ロイド・サバウド、コスリッチ・ラインの3つの船会社を整理統合、あらたな国策会社”イタリア・ライン”を作り商船隊の強化を図りました。
当初N,G,I社により計画されていた”レックス”は僚船”コンティ・ディ・サヴォイア(48.000t)とともに1932年に完成、エンジントラブルに悩まされながらも1933年8月、西航にて独ブレーメンの前月の記録を破る4日と13時間58分(ジブラルタル⇒ニューヨーク)、平均速力28.92ktで初めての栄冠をイタリアにもたらしました。
ドイツのブレーメンと同様、モダンな太い二本煙突を持つレックスは剛健な面持ちの前者に比べイタリアらしい優美さを備え。在来のカウンター型の船尾形状、強めのシェーアラインと相まって柔らかい表情を見せています。
内装はさすが美術の国イタリアだけあって英独の追随を許さず、のちに仏のノルマンディーの誕生まで僚船とともにもっとも豪華な船旅を提供する存在で、この二隻によるアメリカー地中海航路はアメリカ人のイタリアへの船旅の普及に貢献しました。

第二次大戦下にあっては戦禍を避けるためポーラ港にて係船、イタリア降伏後はドイツの管理下にあり1944年9月トリエステ港の封鎖を企図したドイツ軍はレックスを港口付近に閉塞船として沈めようとしました。
この動きを察知した英軍は閉塞位置手前にてロケット弾攻撃を実施、1944年9月8日横転、着底しました。
戦後イタリアは本船の引き上げ修復を望みましたが、戦後の国境線の向こう側(ユーゴスラビア領海)であったため断念のちにユーゴ側によって解体されました。

戦後も多数の豪華客船を建造したイタリアですが50.000t級ライナーはついに建造されず(ラファエロ、ミケランジェロ姉妹46.000tが最大)レックスは最大最速のイタリアンライナーとなりました。

主な要目 51.062総トン 全長268.8m 全幅29.3m 航海速力28kt 乗客定員2.358名

(2003/5/28更新)
(2003/7/13更新)
客船 シャルンホルスト (Scharnhorst)
シャルンホルスト Scharnhorst
シャルンホルスト級3姉妹の長女。三女のグナイゼナウ(Gneisenau)は機関がギアードタービンとなっている他はほとんど外観に相違はなく、準同型船と言える。しかし、次女のポツダム(Potsdam)は要目こそ近似しているもののまったく別の船で、これは同船を建造中に2社の共同経営であった極東航路の航路権が、協定により単独経営に変更されたことによる。

長女の波乱に富んだ生涯は有名であるが、三女は'43に触雷沈没、次女は大戦を生き延びて英国に接収され、軍隊油槽船として'60まで使用された後、巡礼船となって'76に41年の生涯を閉じている。

竣工:1935.4
総トン数:18,184t
垂線間長/幅/深さ:190.7/22.6/12.5m
機関・軸数:ターボ・エレクトリック2軸
出力:32,400SHP
速力:23kt
旅客定員:1等149/2等144/3等281
同型船:グナイゼナウ (Gneisenau)

(2006/3/5更新)
フランス客船ノルマンディ
フランスに初めてブルーリボンをもたらした本船は世界初の80.000tライナーであり、初めて1.000ftを超える全長を持った船でもあり、そのモダンな外観、内装はライバルの英クイーン姉妹(クイーン・メリー、クイーン・エリザベス)を寄せ付けない、まさに”究極のライナー”と呼ぶに相応しいものでした。
1931年1月起工された本船は前年12月に起工された英国キュナードラインの70.000t級ライナー”534番船(後のクイーン・メリー)”を凌ぐ高速、大型の客船として建造され折からの大恐慌による資金難から工期が長引いた534番船より1年早い1935年5月、フレンチ・ラインに引き渡されました。
亡命ロシア人の技師Vladimir Yourkevitch により設計された本船は緩やかなクリッパー型の船首をもち続くタートルバック式の艦首甲板は艦橋まで滑らかに続き、錨索などの器材は全て甲板下に収納されスマートな外観を際立たせました。その3本の煙突は後方に行くに従い少しづつ高さが低められ、流線型のプロフィールを形成しています。
給排気用のベンチレーターなどもデッキ上には一切設けず煙突周囲のブルワークの中にまとめ乗客用のサンデッキは全通した広々としたものになっており2.3番煙突間にはテニス・コートが設けられました(30ktで疾走する公開中のプレイは見ものでしょうが)
メインラウンジは93m*14mの巨大なスペースをアール・デコ調の装飾でまとめ、8m近い高さの天井が150のテーブルに座る700名のゲスト達に船旅を忘れさせる効果を生みました。
当然本船は技術的にも革新的で、機関は大型客船として始めて採用された”ターボ・エレクトリック”方式を採用、高い操船性能と低い騒音を実現しました。
またブルーリボンホルダーとしてブレーメン(独)、レックス(伊)についでバルバス・バウを採用、高速時の造波抵抗の低減に勤めています(クイーン姉妹では船首部を切り上げたマイヤー型)
船尾形状はカウンター型でクルーザー型のクイーン姉妹にくらべスマートな外観となっていますが、これにより全長ではほぼ同じでありながら水線長では12m弱短くなっていて高速発揮には不利でした(一説には機関出力で25%不利)

1935年5月29日ルアーブルを出航、処女航海で早くも西航4日と3時間2分、平均29.98kt、続く東航では4日と3時間28分、平均30.31ktで共に新記録樹立の快挙を達成、処女航海後プロペラシャフトの振動対策としてブレードを3枚から4枚に交換、併せて後部デッキ上に大西洋の景色が楽しめるデッキラウンジを増設、その大きさは82.799総トンに達しました(クイーン姉妹はそれぞれ80.774t、82.997t)
一方、1936年7月、処女航海では霧に阻まれて新記録樹立はならなかったクイーン・メリーも8月の第六次航海で西航30.14kt続いて東航30.63ktを記録、この後も両船のライバル関係は続きノルマンディはさらに3度、クイーン・メリーも2度記録を更新、1938年8月のクイーン・メリーによる西航30.99kt、東航31.69ktが第二次世界大戦開始前の最後の記録となりました。
また1938年からは大西洋航路の閑期となる冬季の南米クルーズを実施、大型豪華客船のクルーズ事業投入の先鞭をつけました。

1939年8月31日、第139次航海での西航の後戦火を避けるためそのままニューヨーク港88番埠頭止め置かれやはり難を避けたクイーン・メリーと共に係船、1940年3月には完成したばかりのクイーン・エリザベスも加わり3隻の80.000tライナーが88〜90番埠頭に舷を並べる姿が数ヶ月に渡って見られました。
フランス降伏後は米国に抑留、1940年末にクイーン姉妹が軍隊輸送船として活動を開始した後も同地に留め置かれ(他に巨体を係留できる埠頭もなく)米国の参戦により1941年12月米海軍に引き渡され”ラファイエット”と改名、やはり軍隊輸送船となるべく改造工事に着手しました。
1942年2月9日不慣れな作業員の過失により火災が発生、船内に工事中有効な消火施設が備えられなかったこともあり火は燃え広がり消防艇の放水によりバランスを崩した船体は左舷に向けて横転転覆しました。
上構の大部分を撤去、重量軽減の上1943年10月には引き上げられましたがすでに十分な輸送船を持つ米海軍はさらに数年をかけて復旧する必要を感ぜず、空母への改造、ライナーとしての再生も検討されましたがいずれも費用に見合わず1946年10月、スクラップとして売却されました。
転覆の原因は本船の水密構造により放水した水が上構内にたまりバランスを崩したためといわれています。火災の際には当時米国にいた設計者のYourkevitchが協力を申し出ましたが、容れられなかったこともその原因の一つと伝えられています。

主な要目 79.280総トン 全長314.0m 全幅35.7m 計画出力160.000hp 航海速力29kt 乗客定員1.972名

(2002/9/6更新)
客船クイン・メリー
タイタニックと見間違えるほど?似ているように見えますが、81235総トンと約2倍の大きさを持っています。それどころか、1936年に竣工した際には、それまで同国最大の客船であったホワイト・スター・ラインのマジェスティックの1.5倍の巨大船であり、前年、竣工したフランス客船ノルマンディーの記録も更新していました。
しかし、この巨船の誕生はスムーズであったわけではありませんでした。キュナード・ラインの誇る北大西洋航路の大型客船モーレタニア、アキタニア、ベレンガリアの代船として1930年にジョン・ブラウン社クライドバンク造船所で起工された時にはヴィクトリアと言う船名を予定されていました。しかし、翌31年の大恐慌により工事は中断、イギリス政府の援助を受けて34年になってようやく工事を再開することができましたが、その時に受けた条件はライバル、ホワイト・スター・ラインの合併でした。このため、キュナード社の伝統的船名であるiaで終わる名でもなく、ホワイト・スターのicでもなく、国王ジョージ5世妃の名をつけたと言われます。ともあれ、同年9月26日、メリー女王自身により命名されて進水した同船は翌36年5月25日に竣工、北大西洋を最も早く横断した客船に与えられるブルー・リボンを7年振りにイギリスの手に奪回するのです。
翌1937年、フランスの客船ノルマンディーは同国の威信をかけて改装、世界最大の客船と言うタイトルを奪い返すとともに、スピード記録を更新します。これに対して翌38年にクィーン・メリーは平均速力31.7ノットと言う素晴しい快速を発揮して3日20時間42分で大西洋を横断してスピード記録をさらに更新します。この競争に終止符を打ったのは、皮肉にも戦争でした。この希代の名花は徴用され、オーストラリアのシドニーで軍隊輸送船に改装されます。その後、順次の改装により最大16683名を運べるようになり、その高速を利して活動します。
一般に、商船は最大速力と航海速力に大して差がなく、出港してから帰港するまで、大西洋航路なら3〜4日の間ずっと航海速力で走ることが出来ます。この点、最大速力を長時間維持することができない軍艦との大きな違いで、駆逐艦が35ノットで走れると言っても、3日間も維持することは不可能であり、途中で燃料が切れてしまいます。人員の収容力だけでなく、速力の点でも彼女(を含む大西洋航路客船)は優秀な兵員輸送船だったわけです。
カナダ兵、アメリカ兵を、多い時には一時に1個師団も乗せて兵員輸送に従事した同船は、1942年には巡洋艦を沈めておりますが、これは自国イギリスの防空巡洋艦キュラソーで、衝突事故により巡洋艦の乗員338名が死亡する大惨事となりました。戦後、この事故について、キュナード社と海軍の間で裁判となりましたが、海軍側が敗訴しております。これはその快速故に巡洋艦の後ろで之字運動をして追従しているうちに、追い越し損ねて「轢いてしまった」というものでありました。
戦後、同船は2本煙突の姉妹船クィーン・エリザベスとともに北大西洋航路に復帰しますが、航空機の登場とともに活躍の場を奪われ、1967年、ついに撤退します。14年間保持したスピード記録も1952年にアメリカのユナイテッド・ステーツに奪われてはおりましたが、その引退は注目の的となり、世界中から引き取り手が殺到しました。結局、アメリカ人が購入しカリフォルニア州ロング・ビーチでホテル・シップとなり、現在もその麗姿を浮かべております。

全長311m、全幅36.2m

(2008/2/7更新)
ドイツ客船ヴィルヘルム・グストロフ
国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が政権に参加した1933年、首相に指名されたヒトラーは既存の(共産党に影響された)労働組合に制限を加える一方、NSDAP下に労働者を組織化するための様々な政策を取りました。その一つが歓喜力行団 (KdF)で、労働の対価としての福利厚生の充実、それによる生産性の向上(ひいてはNSDAPの安定)を目指しました
そのいくつかはWW2次大戦の勃発により果たされることはありませんでしたが(積立金による安価な自家用車、巨大保養施設)、観劇、コンサートなど実現されたものも少なくなく、その一つが労働者のためのクルーズ旅行でした
ドイッチェラント、ドレスデンなどの既存老朽客船の転用からからスタートしたKdfクルーズでしたが1938年待望の新造船が就役、それが”ヴィルヘルム・グストロフ”です
ブローム・ウント・フォスにより建造された1本煙突の本船は現代のクルーズ船にも通ずるモダンな外観で、白色の塗装と相まってドイツらしい硬質な印象を与えています。船室は全室に舷窓が設けられる舷側に配置され、2寝台、4寝台の違いが有るほかは1.2等のような区別はなく、全乗客が利用できる室内プールもあり(従来船プールの利用は1等船客に限られることが多い)そのサービス内装は豪華とは言いがたいもののシンプルかつ実用的で当時の一般労働者にとっては充分なものでした。機関は8気筒ディーゼルエンジン4基で9.500hpの2軸推進、速力はその用途により比較的遅く15.5ktでした
1937年5月に進水した本船は 1938年4月から夏季は主に北海、ノルウェー方面へ、冬季はポルトガル、イタリアへのクルーズを実施、それらは各国の船会社の1/3〜1/4の船賃で提供されました。1939年には姉妹船の”ロベルト・ライ”も完成、5月にはスペインからの義勇軍コンドル軍団凱旋輸送に参加しました。1939年9月大戦勃発によりKdfクルーズは中断、本船も病院船に改装され、ポーランド戦、ノルウエー戦での負傷兵の輸送に当たりました。1940年以降はUボート訓練学校の母艦としてゴーテンハーフェン(現グディニア)に繋留されました
1945年1月ソ連軍のドイツ本土進攻により東プロイセンは孤立、これを救うべくデーニッツ長官は海上脱出作戦”ハンニバル作戦”を発動、グストロフも5年ぶりに海上に出ることになりました。1月30日午後、脱出の第一陣とし定員の3倍を超える6.050名の乗員、避難民を載せてグストロフは母国に向けて出航しました。が、幾多の乗船を望む避難民を乗せたボートが船を取り巻き、ぺターゼン船長はそれらの避難民を収容するために停船、さらに多数の乗客を抱えることとなりました。午後8時過ぎ、護衛の小艦艇との衝突を防ぐために点けられた航海灯の明かりを哨戒中のソビエト潜水艦S13が捕捉、ほぼ1時間後の午後9時8分雷撃に適切な位置を占位、3本の魚雷が発射されました(1本は故障により発射できず)、1本目は艦首に、2本目は海軍婦人補助部隊の居室に充てられていた室内プールを粉砕、3本目は機関室に命中、これが致命傷となり左舷を下にして転覆沈没しました。乗員、乗客は護衛の小艦艇、及び脱出の第二陣で沈没現場を通りかかった重巡アドミラル・ヒッパーなどにより1.200名あまりが救助、犠牲者は当初乗船名簿に残っている6.050名という数字を基にして5.000〜6.000名とされ、史上空前の大惨事として各国で報道されました。が、戦後長らくグストロフ沈没事件の研究に取り組んだ同船乗り組みの下士官であったハインツ・シェーン氏の研究により現在では出航後乗せた避難民を含め10.582名が乗船、犠牲者の数は9.343名であったとされています
またこの作戦ではグストロフのほかにも客船シュトイペン、貨物船ゴヤ他が失われそれぞれ4.500名、6.666名の犠牲を出していますが200万を超える軍人、民間人を非占領地域に避難させることに成功、ドイツ海軍最大にして最後の成功を見た作戦でした
従来、一部富裕層を対象としたライナーの転用によるクルーズ運航は各国に見られましたが戦後の船旅の大衆化に先鞭をつけた本船は、その沈没による死者の数とともに歴史に刻まれています
アイコンはKdfクルーズ船当時のグストロフです。病院船時代は白色に赤ライン(煙突に赤十字)、沈没時は海軍の所属としてグレーの迷彩だったようです
主な要目 25.484総トン 全長208.5m 全幅23.5m 計画出力9.500hp 航海速力15.5kt 乗客定員1.463名

(2003/8/10更新)
レディアンスオブザシーズ
アメリカカリブ海に浮かぶ超大型ホテルと言ったところでしょうか。ロイヤルキャリビアンインターナショナル所属の船ではNo5?位の大型客船です。

(2003/8/10更新)
スーパースターレオ
アジアクルーズを中心に活躍中。

(2003/9/26更新)
スーパースターヴァーゴ
スーパースターレオの姉妹船です。ステータスはレオと全く一緒。船首部分に大きく開口部があるのがヴァーゴ。アイコンでは識別不能ですが実際に見れば一目瞭然です。

(2003/8/10更新)
ディズニー・ワンダー
おなじみディズニーワールドで活躍中の豪華客船ディズニー・ワンダー。他同型船ディズニー・マジック
総トン数 83000t
全長 294m  全幅 32,25m
喫水 7,7m 巡航速度 21,5ノット
就航年 1998年 船籍 バハマ

ディズニーワンダー。船体データ
運航会社 ディズニークルーズライン

(2003/8/10更新)
スーパースターサギタリアスII
全長313m
全幅35m
総トン数118000t
スタークルーズの新船です。

(2003/8/10更新)
シルヴァーエンジェル
全長295m

(2004/2/26更新)
クイーンエリザベスII世 初期型

(2004/2/26更新)
クイーンエリザベスII世 1972年時

(2004/3/4更新)
クイーンエリザベスII フォークランド紛争終了後

(2004/3/20更新)
クイーンエリザベスII(1983)

(2004/3/4更新)
クイーンエリザベスII 南海クルージング用船体白

(2004/2/22更新)




(2003/8/17更新)
クイーンエリザベスII
世界で一番格式の高い船として知られています。又、世界で一番有名かつ人気の高い船としても知られています。処女航海から35年たった今でもその気品あふれる風格は世界中の客船ファンたちにはたまらないものがある事でしょう。日本にもよく来航しました。

(2004/3/29更新)
クイーンエリザベスII 現行モデル
QE2独特の赤いファネルが太くなり、ペントハウスが増設、一等デッキ後方部にショッピングモール追加。煙突直下の通気候を白いカバーで船体と一体化されています。

(2003/8/28更新)
クイーン・メアリーII
クイーンエリザベスIIに変わって世界一周を航海するクイーンメアリーIIは、全長なんと345mもある超超大型客船です。アメリカの原子力空母よりデカイ!総トン数150、000t時代とともにだんだん大型化してきます。船体の形もちょっとクラシックなところがにくいですね。

(2003/8/28更新)
アイランド・プリンセス
全長290m
全幅36m
総トン数88,000t
2002年にデビューしたばかりの新船です。
同型船「コーラル・プリンセス」

(2003/8/28更新)
シーボーン・プライド
全長133.5m
全幅19m
総トン数10000t
小さい船ですが「ファイブスター」を獲得している格式の高い船です。

(2003/8/28更新)
サン・プリンセス
全長261m
全幅32m
総トン数77,000t
プリンセス・クルーズ
同型船に「シー・プリンセス」「ドーン・プリンセス」があります

(2003/11/13更新)
オセアナ
P&Oクルーズ中堅クラスの客船です。ステータスはサンプリンセスとほぼ同じ。船自体もサンプリンセスと姉妹船でありプリンセスクルーズもP&Oクルーズの傘下で運行しています。このシリーズの船はサンプリンセス、ドーンプリンセス、オーシャンプリンセス、シープリンセス、オセアナ、アドニアの6隻になります。オセアナとアドニアの2隻はP&Oクルーズ所属。ファンネル部がゴールドに輝いています。

(2003/8/28更新)
スター・プリンセス
全長290m
全幅36m
総トン数109,000t
プリンセスクルーズ最大の船です。
同型船で「グランド・プリンセス」「ゴールデン・プリンセス」計3隻があります。

(2004/12/28更新)
グランド・プリンセス
スター・プリンセスのリメイク版です。

(2003/8/28更新)
ダイヤモンド・プリンセス
全長290m
全幅37,5m
総トン数113,000t
プリンセスクルーズの最新鋭客船。
先日長崎の造船所で火災を出し就航が大幅に遅れましたが、同時進行で作っていた同型船の「サファイヤ・プリンセス」と名前を差し替えてデビューするそうです。

(2003/8/28更新)
リーガル・プリンセス
全長247m
全幅32m
総トン数70,000t
プリンセス・クルーズ
独特あるヘッド部はファンの間では人気の的。

(2003/8/28更新)
クリスタルハーモニー
クリスタルクルーズ所属。船の持ち主は日本郵船ですが、船籍はバハマ。事実上外国船になってしまいます。ある意味日本最大の客船。

全長241m
全幅29,6m
総トン数 49、500t
客船のランクを示す「ファイブスター」獲得の格式の高い船です。

(2003/8/28更新)
クリスタルシンフォニー
船体は「クリスタルハーモニー」と全く同じ。
ファンネル以外すべて書き直しの新造艦ですが、なんせ同じ船なのでこのサイズにしてしまうと全く見分けが付きません。客室、最上階部分、船体の窓の配置等微妙に違うのですが・・・・

(2003/9/8更新)
セブンシーズ・マリナー
全長204m
全幅27.4m
総トン数50000t
船会社 ラディソン・セブンシーズ
船籍 フランス
見た目小さいのですが意外と大きな船なんです。
すべての部屋がスイートルームと言うゴージャスさでその名を轟かせて来ました。非常に格式が高く一般の人では乗船できないでしょう。
乗客定員700人に対し乗務員が445人もいる。
たとえば飛鳥は592人に対し270人のクルー。クルー一人当たり乗客が2.19人
マリナーでは1.57人  それだけサービスが行き届きやすいと言うことです。世界一周してみたいですね。

(2003/9/8更新)
セブンシーズ・ナビゲーター
全長170.6m
全幅 24.6m
総トン数 33000t
船会社 ラディソン・セブンシーズ
船籍 フランス
こちらも小さそうで意外と大きな船です。
全長は飛鳥より20m強短く幅も同じくらいなのに、総トン数では4000t以上も大きい。こちらもマリナー同様全室スイート。乗客とクルーの割合も490人に対し325人のクルー。あくまで理想は乗客一人に対し一人のクルーであるのでそれに近ければ近いほどサービスが行き届きやすくなります。でも大抵の人は夫婦、家族、恋人同士etc・・・そこに一人のクルーがつければ十分な気はしますが(笑)

(2003/9/8更新)
セブンシーズ・ボイジャー
全長 204m
全幅 28.8m
総トン数 49000t
船会社 ラディソン・セブンシーズ
船籍 フランス
セブンシーズの新造船。ステータスはマリナーとほぼ同じ幅が若干大きくなっているが総トン数では同じくらいに抑えられている。2003年デビュー予定なのでそろそろ姿を現すのではないでしょうか。

(2003/10/19更新)
ミレニアム
全長294m
全幅 32m
総トン数 91000t
就航年 名前の通り2000年
乗客数 1950名
クルー 999名
運行会社 セレブリティークルーズ

(2003/12/12更新)
オリンピア ボイジャー

全長 179,9m
全幅 25,6m
総トン数 25,000t
船籍 ギリシャ
乗客数 840人
乗務員 360人
巡航速力 28ノット(約59km/h)

(2003/12/26更新)
ノルウェージャンスター
全長 294m
全幅 32m
総トン数 91000t
就航年 2001年
運行会社 ノルーウェージャンクルーズ
船籍 バハマ
乗客数 2240人
乗務員 1100人
巡航速力 25ノット(46,3km/h)

(2004/2/9更新)
エクスタシー
王者カーニバルクルーズラインの主力スーパーライナー級客船エクスタシーです。同型船に「センセーション」「パラダイス」「インスピレーション」「イレーション」「ファッシネーション」「イマジネーション」「ファンタジー」の7隻、計8隻の同型船です。
データ
全長:260,6m
全幅:31,4m
総トン数:70,367t
乗客数:2040人
乗務員:920人
巡航速力:21ノット
レーティング:3+
運行会社:カーニバルクルーズ

カーニバルクルーズは現在いおいて客船業界ではダントツの王者であり2位のロイヤルキャリビアンとベット数、総トン数でかなりの大差を付けているそうです。レーティングが3+と低くはないのですが、高くもない。カジュアルな遊び心をモットーとして運行しているので世界の「VIP」よりもわれわれ庶民をターゲットにしているのではないでしょうか。

(2004/2/9更新)
カーニバル・スピリット
カーニバル・スピリット
同型船:カーニバル・プライド、カーニバル・ミラクル、カーニバル・レジェンドの計4隻
それとカーニバル・クルーズの傘下にあるコスタ・クルーズにコスタ・アトランチカ、コスタ・メディタラニタの合計6隻。後船(コスタ・クルーズ)の2隻は色合いとファンネルが違うので改めて投稿します。今回は前船4隻と言う事で。

船名:カーニバル・スピリット
全長:294m
全幅:32、37m
総トン数:88,500t
就航年:2001年
乗客数:2124人
運行会社:カーニバル・クルーズ
レーティング:−

(2004/6/11更新)
カーニバルディスティニー
全長:272.2m 全幅:35.3m 総トン数:101,353t 船籍:バハマ 乗客数:2642人 乗務員数:1000人 巡航速力21ノット

(2004/6/11更新)
ボイジャー・オブ・ザ・シーズ
運行会社:ロイヤルキャリビアン・インターナショナル
全長:311m
全幅:48m
喫水:8,8m
総トン数:142,000t
就航年:1999年
船籍:リベリア
乗客数:3114人
乗務員:1181人
巡航速力:22ノット
カリブ海を中心に7〜14日クルーズをメインに運行しています。日本人のお客さんも多いそうで手軽にクルーズを楽しめる船の一つです。旅行会社によって違いますが14日間航空チケット込みで一人、30万〜40万程度で乗船可能なので昔みたいな非常に高い「遊び」では無くなりつつあるようです。船内設備も非常に充実しておりシアター、カジノは勿論4層ぶち抜けプロムナード、ショッピングモール、ロッククライミング、その他娯楽施設はほとんど完備されているようです。客室の8割が海に面したデッキ付き。最上部からの眺めは最高でしょうね。

(2004/9/1更新)
客船「オイローパ」
全長:198.6m
全幅:24m
総トン数:28.437t
運行会社:ハバック ロイド社
船籍:バハマ
乗客数:408人
乗務員:264人
レーティング:世界最高の5+

格付けランキング世界一の5スターにプラスを付けた「5+」事実上世界一気品のあるドイツの客船です。日本にも何度か来ています。

(2005/6/9更新)
ザ・ワールド
全長:196.4m
全幅:24m
総トン数:28,437t
運行会社:ザ・ワールド・オブ・レジデンシー
船籍:バハマ
スタイル:プレミアム
主にカリブ海・西大西洋・地中海

一隻丸ごとマンションになっています。部屋のオーナーは部屋を使用しない時、「船会社」に部屋を貸します。通常クルージングでは1航海ごとの契約になり、もちろん自分で使用してもOK。この場合部屋の管理費とサービス料が取られるらしい・・・
一部屋欲しいですね。

(2005/11/15更新)
インフィニティー

(2005/11/15更新)
オリアナ

(2005/11/15更新)
シルヴァーウィスパー

(2008/2/7更新)
SILVER SHADOW
SILVER SHADOWです
5/18に神戸に来たときの写真を見ていて書きたくなって書きました。飛鳥画伯さんの書いた、SilverWhisperの姉妹船
総トン数約28,000トン 全長182m 全幅24.8m 喫水6m 
乗客定員382名 乗組員数295人 客室数194室 7デッキ 巡航速力20.5ノット
SilverWhisperとスペックと形もほぼ同じです。

(2005/11/15更新)
スターテンダム

(2005/11/15更新)
ノルウェージャンウィンドウ

(2005/11/15更新)
パシフィック プリンセス
プリンセスクルーズの小型客船
小型といっても3万トンもあるんですがね^^;

(2005/11/15更新)
ラプソディオブザシーズ
ロイヤルカリビアンの客船
ボイジャーやレディアンスと同じ船会社です。

(2008/2/7更新)
AMADEA
運航会社 フェニックス・レイゼン
総トン数28856t 全長193m 全幅25m 喫水不明 機関出力不明 乗客定員600名 2006就航

(2008/2/7更新)
Freedom of the seas
Royal Caribbean Internationalのウルトラボイジャークラスの第1船で、今年(2006)の6月に就航した、世界最大の豪華客船です
総トン数158,000トン 全長338.9m 全幅56.1m 喫水8.5m 乗客定員4370名 乗組員数1360名
客室数1800室 層数15デッキ 巡航総力21.6ノット

(2005/6/13更新)
米スタンダード・フルーツ社“マサヤ”(Masaya)
完成時の要目
常備排水量:1.177総トン
95.8m*9.4m*6.3(満載状態)m
出力:1.500hp
速力:16kt

前身は米海軍平甲板型駆逐艦クレムソン級“デール”(DD-290 Dale)で1920年の就役後10年を経て1930年除籍後解体のため売却されましたが、ニューオーリンズのスタンダード・フルーツ社が僚艦3隻(Putnam.Worden.Osborne)とともに購入、改装の後中南米諸国からフルーツを運ぶ通称“バナナ・ボート”として就役、浅吃水の船体はより深く河川を遡ることが可能で、一般の貨物船より産地近くで積出が出来ました。
改装は主機関を撤去、機関室にディーゼル主機2基を搭載、缶室その他の空きスペースを船倉とし、1.000〜1.200tの貨物の搭載が可能でした。4本の煙突は撤去されましたが、ディーゼル機関と船倉の吸気のために多数のキセル型(カウルヘッド)ベンチレーターが追加されました。

座礁事故で失われた“タバスコ”(旧DD-288 Worden)を除く3隻は第二次大戦まで稼動、大戦の勃発とともに今度は陸軍軍用船として徴用、再就役しました。
最初の任務はコレヒドール島要塞の救援で、ニューオリンズでの改装を終えた3隻はパールハーバーに向かいましたが救援物資の積み込み中に要塞は陥落。
“マダガルパ”(旧DD-295 Osborne)は南太平洋で作戦中1942年6月27日にシドニーで火災事故により全損。
“マサヤ”はオーストラリア人のクルーにより島嶼間の輸送の任についていましたが、1943年3月28日ニューギニアにて日本軍の空爆により沈没。(1997年には一部の引き上げが行われています)
“テアパ”(旧DD-287 Putnam)のみが大戦を生き残り、1947年には米マコーミック社により再びバナナ・ボートとして活動しました。1955年に廃船となりましたが、273隻の“平甲板型”のうちの最後の一隻でした。

アイコンはバナナボート時代のマサヤです。

(2004/2/26更新)
コンテナ船「アトランティック・コンヴェイヤー」
姉妹船にアトランティック・コーズウェイ

(2008/2/7更新)
EMMA MAERSK(2006)
運航会社 MAESK LINE
総トン数170,794t 全長397m 全幅55.9m 11,000TEU積で世界最大のコンテナ船です
某国がこれに対抗して14000TEU積コンテナ船の建造計画しているらしいです!(笑)
補助艦艇規格

(2003/12/26更新)
さんふらわぁ2(補助艦艇規格)
全長185m

(2005/6/3更新)
クリッパーオデッセイ(補助艦艇規格)
総トン数 5218t
全長 103.6m
全幅 15.6m
喫水 4.6m
速力 14ノット
乗客数 128人
乗務員 72人
就航年 1998年
所属会社 Clipper Cruise Line
船籍 バハマ

本船の前身は「おせあにっくぐれいす」(1989年竣工 1997年に売却され今に至る)

(2005/3/17更新)
水上バス「ヒミコ」(補助艦艇規格)
全長:30.5m
全幅:8.0m
総トン数:114トン
運行会社:東京都観光汽船(株)
旅客定員:171名
連続最大出力:620PS
航海速力:12.0ノット(通常速力7〜8ノットを予定)

松本零士氏がプロデュースする、「ティアドロップ(涙滴)」をイメージ・コンセプトにデザインされた未来型水上バス。浅草〜お台場間を運航中。

(2005/3/25更新)
水上バス「アクアライナーなにわ」(補助艦艇規格)
全長:28.5m
全幅:4.9m
高さ2.3m
総トン数:35トン
運行会社:京阪グループ・大阪水上バス
旅客定員:108名

窓と天井がガラス張り。超薄型で、低い橋の下を満潮位時でも安全に航行するため、屋根部分がさらに30cm降下する工夫が施されている。大阪城〜天満橋〜淀屋橋〜OAP(大阪アメニティーパーク)を周遊中。

(2005/7/15更新)
捕鯨母船 日新丸(補助艦艇規格)
 捕鯨母船は遠洋捕鯨船団の文字通り母船であり、また、クジラの加工工場でもあります。
 キャッチャーボートが仕留めたクジラは、船尾のスロープから上甲板に引き上げられすぐに解体。 船内に降ろされ、船内加工工場で、加工・製油・塩蔵・冷蔵されます。

 戦後全盛期の捕鯨船団は、例えば
クジラ解体加工工場&船団母船である 母船×1、
クジラを探し出す 探鯨船×1、
クジラを捕まえる 捕鯨船×10、
仕留めたクジラを母船に運ぶ 曳鯨船×4、
解体したクジラを冷凍一時保存する 冷凍船×2、
船団への給油及び鯨油を輸送する タンカー×2、
船団と(お腹をすかせた)みんなが待っている港間をピストン輸送する 運搬船×5
などとなっていました。

 当時の漁業は 鯨に限らずいわゆる「根こそぎ漁」でした。
各社各国、競うように、手当たり次第に捕り尽くしてしまい、生態系を破壊してしまいました。
現在はそのへんが反省され「資源管理漁業」に変化しています。

 現代の調査捕鯨船団は
母船(鯨類捕獲調査船)×1、
海洋観測探鯨船(目視専門船)×1、
捕鯨船(調査兼取締船・目視採集船)×3、
トロール漁船(トロール調査船(クジラの餌を調査。))×1
と、なっています。

 日新丸は昭和62年(1987年)12月に竣工しました。船名は大洋漁業の歴代「日新丸」シリーズを引き継いでいます。共同船舶所属。
全長129.58m、全幅19.40m、総トン数7659トン、最大速力17.46ノット。
貨物船のような外観ですが、船尾のスロープが特徴です。

(2005/7/15更新)
捕鯨船(母船式) 第二勇新丸((補助艦艇規格)
 捕鯨船(キャッチャーボート)とは、クジラを見つけ出し 捕鯨砲の銛で仕留める船です。クジラを追いまわすため小回りが利きます。
 船首の高い位置の捕鯨砲、高い見張り塔、鯨の曳航作業のため一部乾舷が低いのが 変な船型を形作っています。 また、漁船のくせに魚槽はありません(当然)。
 母船式の捕鯨船は、遠洋にクジラを捕りに行くため船団を組み 他の船と連携してクジラを追い込みます。
 仕留めたクジラは目印のブイをつけ「浮鯨」して曳鯨船に引き渡すか(すぐに次のクジラを追いかけるため)、横抱きに曳航し捕鯨母船に引き渡します。

 第二勇新丸は平成14年(2002年)9月30日に竣工しました。共同船舶所属。
全長69.61m、全幅10.80m、総トン数747トン、最大速力19ノット弱、航海速力17ノット、航続距離11500海里。
 捕鯨砲はミンククジラクラス用の口径75mm。

(2005/7/15更新)
沿岸捕鯨船((補助艦艇規格)
 沿岸捕鯨とは、大掛かりな遠洋捕鯨と異なり 文字通り沿岸での鯨漁です。ミンククジラ等の小型鯨類が漁の対象です。

 船は だいたい総トン数50トン以下と小型で、小回りが利き クジラを追いかけるのに向いています。
 口径50mm位の捕鯨砲で仕留めたクジラは 船後部のスロープから甲板に引き上げ そのまま漁港へ帰港、漁港のクレーンで吊り上げ、鯨肉加工は陸地でする方式です。

 描いたのは全長19.97m、総トン数32トンのもの。

(2005/12/20更新)
尼崎汽船貨物船 赤城丸(補助艦艇規格)
砲艦”赤城”は1912年(明治45年)川崎弥太郎氏に売却された後、主機の換装など所定の改装の後貨物船”赤城丸”として瀬戸内海航路に就航しました。
改造は砲艦当時の2連成汽機2基(963hp)を3連成往復動汽機1基(390hp)に改め燃料消費を押さえたものと思われます。
1916年(大正5年)尼崎伊三郎氏に転売され尼崎汽船所有となり昭和26年頃まで就航していたといわれています。

本船の貨物船への改造時期ですが、改造時搭載された主機の製造が明治44年なので川崎弥太郎氏により45年頃改造されたとの説が有力ですが
弥太郎氏の川崎汽船の設立は大正8年で、同氏が所有していた時期に貨物船として就航していた確証はなく尼崎汽船所有時に改造された可能性もあります。
客船への改修後も衝角(ラム)が残されていたと言われています。
ただ危険度から考えて戦後までそのままだったとは思えませんが・・・

アイコンは世界の艦船掲載の尼崎汽船保有時の赤城丸の写真より作成、煙突は写真で見る限り”黒”の可能性が高いのですが
同汽船保有のその他の船、あるいはアイコンとしての見栄え考え”赤”としました。
またアイコンは軽貨状態ですので舷側の白線の下まで艦底色だったかもしれません・・・

主な要目
総トン数 699t 出力390hp 

(2005/7/25更新)
港湾曳船ボルティモア((補助艦艇規格)
ボルティモアは米国内に現存する最古の”スチームタグボート”で
1906年米メリーランド州ボルティモアで生まれた本船は
1963年までメリーランド港湾管理局により運営された後
ボルティモア博物館に譲渡、現在も港内ににて展示されています。

主な要目 81総トン 25.8m*5.7m*2.5m