レーサーシリーズアイコン

 「レーサー」 by ささき画伯  (注:この絵は無料素材ではありません)

レーサー
レース No. レジコード
愛称
代表的パイロット
開催期間1913〜1914, 1919〜1931(1924, 1928, 1930) はキャンセル
開催場所イタリア、イギリス、アメリカ
競技要綱水上機のみによって競われる洋上レース。一周約 50Km、ほぼ三角形のコースを 394Km(1913〜1920 は 270Km)周回。

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Schump(2003/2/9更新)
No.19
ドペルデュサン・モノコック型競速水上機(1913)Deperdussin Monocoque
モーリス=プレヴォーMaurice Prevost
 ルイ=ベシュローの設計になる一連のモノコック構造単葉機のひとつ。ベースとなったのは史上初の200km/h突破で有名なF.1型ではなく、1912年型の複座機である。エンジンはF.1と同じグノム回転式空冷複列14気筒160馬力に換装され、コース完走のために前席をつぶして燃料タンクを増設している。  1913年の第1回シュナイダー杯では、モーリス=プレヴォーの操縦により、全行程280kmを平均速度73.63km/h(ゴールライン不通過による追加周回を含む)で飛んで初代優勝機となった。 ページのトップへ戻る
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Schump(2003/2/9更新)
No.3
ソッピース・タブロイド競速水上機(1914)Sopwith Tabloid
ハワード・ピクトンHoward Pixton
 1913年に試作された複座高速偵察機(生産型は単座)を原型に水上機化したレーサー。当初は単フロート式であったが、滑走時に転覆したため、双フロートに作り直された。1914年のシュナイダー杯では、エンジンにトラブルを抱えながらも全行程300kmを平均速度139km/hで翔破し、優勝を飾った。  この性能に注目した英国海軍は、本機の横操縦を撓み翼式から補助翼式に改め、エンジンを強化する等した「シュナイダー」「ベイビー」両水上戦闘機を採用している。 ページのトップへ戻る
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Schump(2003/8/16更新)
G-EAKI
ソッピース・シュナイダー競速水上機(1919)Sopwith Schneider
ハリー=ホーカーHarry Hawker
第一次大戦期間の中断後初のシュナイダー杯に出場したイギリス機。大戦末期に試作された「スナッパー」戦闘機をレーサー仕様にしたもの。エンジンはコスモス・ジュピター(450馬力)を搭載。大径スピナーに続く円筒形の胴体からシリンダーヘッドだけを出すという空気抵抗削減策をとった。本戦では濃霧のため飛行を断念し(大会自体が周回ポイントの管理不十分から不成立)、翌年には陸上機に改造されてしまったため、その真価を発揮することはなかった。なお、改造後の1923年、不時着事故により登録抹消されている。ページのトップへ戻る
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Schump(2003/8/16更新)
No.14G-EBAH
スーパーマリン・シーライオンII競速飛行艇(1922)Supermarine Sea Lion II
アンリ=ビアードHenri C. Biard
 軍の制式採用を目指して試行錯誤を繰り返していたスーパーマリン社が、ネイピア社やシェル石油、ゼネラル汽船海運といった企業から資金、技術、チーム運営各方面にわたる協力を得て、1922年シュナイダー杯での必勝を期して開発した機体。WW1前のカーチス飛行艇の流れを汲む艇体に当時最強とされたネイピア・ライオンW型12気筒(450hp)を組み合わせた機体は、戦闘機としての使用にも堪えるほどの強度と操縦性を与えられた。ちなみに、本機の設計にはレジナルド=ミッチェルが参加している。  レースではアンリ=ビアードの操縦により、全行程370.77kmを平均速度234.571km/hで飛び、イタリア勢(サヴォイアS.51、マッキM.17)を押さえて優勝した。 ページのトップへ戻る
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えりゅ(2003/2/6更新)
No.7
ライト F2W-2Wright F2W-2
ライト社の試作エンジン「トーネード(もちろん後の R-2160 とは無関係)」液冷 V12 780hp を搭載したレーサーで、「Tornado Experimental」の略で TX とも呼ばれた。海軍は予算処理の都合上「戦闘機」の型番 F2W を与えたが、もちろん戦闘能力など皆無の純粋なレーサーであり、燃料さえレースに必要なギリギリの容量(30分)しか搭載できない機体である。この極端に切り詰めた設計が裏目に出て、F2W 一号機は 1923 年ピューリッツァー・レースにおいて3位でゴールラインを切った直後に燃料切れとなり不時着全損してしまった。二号機は 1924 年シュナイダー杯に向けて燃料増積などの改造を施し、水上機仕様となって F2W-2 と呼ばれたが、切り詰めすぎた機体に大きなフロートを付けた結果は致命的な安定性不足となり、初飛行時に着水に失敗して転覆大破してしまった。ページのトップへ戻る
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Schump(2002/11/16更新)
ショート=ブリストゥ「クルセイダー」競速水上機(1927)Short Crusader
1925年、ブリストル社のロイ=フェデンは、航空省に新作空冷エンジン「マーキュリー」を売り込み、1927年のシュナイダー杯ヴェネツィア大会用に同エンジン3基の契約を取りつけた。これを受けてW.A.ブリストウ大佐の企画をもとにショート社が製作したのが本機である。木製モノコックの胴体に蝶の羽根のような形状の木製主翼を組み合わせた平滑かつ空力的に洗練された機体である。タウネンドリング発明前のこととて、機首から突出する各シリンダーには、自転車競技用のヘルメットのような形状のカバーをかぶせて空気抵抗を削減している。レース仕様エンジンの完成の遅れからくる性能不足のため、英国チームの予備機扱いでヴェネツィア入りしたが、開梱再組立て直後の飛行において、補助翼リンケージ逆組みというミスのせいで操縦不能に陥り、クラッシュした。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.3A.7054
カーチス R3C-2Curtiss R3C-2
ジミー・ドゥーリトルJimmy Doolittle
米陸軍は海軍が 1923 年に開発した R2C レーサーに目を付け発展型を発注、D-12 を 600hp にチューンアップした V-1400 エンジンと若干大型化した垂直尾翼を搭載して完成した機体が R3C である。同じ機体でも車輪を付けた時は R3C-1、フロートを付けた時は R3C-2 と呼ばれた。No.3 は 1925 年シュナイダー杯優勝を飾った機体である。アイコンはスミソニアン博物館に展示されている姿を再現したが、ドゥーリトルと共に写った R3C-2 はもっと明るい色に見え、機番号も記入されておらず、尾橇も付いたままになっている。 ページのトップへ戻る
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Schump(2003/8/16更新)
スーパーマリン S.4Supermarine S.4
アンリ=ビアード(速度記録時)
かのレジナルド=ミッチェルが、1923年シュナイダー杯出場機シーライオンIIIに続き主務者を務めた機体。木製モノコックの滑らかな胴体に当時としては驚異的に薄い完全片持式の主翼を採用することで、ネイピア・ライオンVII 液冷 W12 680hp の出力を最大に引き出そうとした。国内テストで水上機速度記録364.924km/hを記録し、勇躍米バルチモアに乗り込んだが、耐航性テスト飛行中の急旋回時に空力中心変動に対する主翼の捻り強度不足から墜落してしまった。アイコンは、比較的良い状態の写真が残っている社内テスト時の状態。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/2/14更新)
No.7MM.49
マッキ M.33Macchi M.33
ジョバンニ・ブリガンティGiovanni De Briganti
M.7, M.19, M.17 と続くマッキ競速飛行艇の最終進化形。合板モノコック製の流麗な艇体に肩翼式の主翼を付け、やぐら状の支柱でカーチス D-12 液冷 V12 500hp を搭載している。ラジエターはナセル後部側面左右に振り分けて装備。極度に洗練された設計だが着水状態で主翼・尾翼と水面の間隔が殆ど無く、離着水には技量と度胸が必要だと思われる。1925 年シュナイダー杯ではジョバンニ・ブリガンティの操縦で三位に入賞した。なお、本機は宮崎駿氏の「紅の豚」に登場するサボイア S.21 の発想元だと言われている。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/2/14更新)
No.5MM.76
マッキ M.39Macchi M.39
マリオ・ベルナルディMario De Bernardi
1926 年シュナイダー杯に向けてマッキが製作した機体。M.33 の飛行艇型から一転して水上機型となり、エンジンも輸入品のカーチス D-12 から国産のフィアット AS.2 液冷 V12 800hp となっている。小気味良く引き締まった形態と鮮烈な赤の塗装は、躍進時代を迎えたイタリア航空産業界の活気を体現しているようだ。レースには 74〜76 の三機が出場し、マリオ・ベルナルディの駆る MM.76 No.5 が見事優勝を勝ち取った。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/2/14更新)
No.7MM.81
マッキ M.52Macchi M.52
アウトロ・フェラーリンArturo Ferrarin
マッキ M.39 の発展型である。M.39 に比べ翼幅が約 30cm 短縮され、延長された機首に新鋭フィアット AS.3 液冷 V12 1000hp を搭載している。1927 年地元ベネティアでのレース開催にイタリア・チームも大いに気合を入れて臨んだと思われるが、結果は出場三機ともエンジントラブルで脱落。面前でイギリス・チームのスーパーマリン S.5 に一位・二位を奪われた屈辱にイタリア国民は激怒、町角ではフィアットの社旗や社長の似顔絵が燃やされたという。MM.81 No.7 は数々の飛行記録に輝くイタリア航空界の英雄、アウトロ・フェラーリン大尉の出場機。 ページのトップへ戻る
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ささき(2003/3/16更新)
No.4N.220
スーパーマリン S.5Supermarine S.5
S.N ウェブスターS.N Webster
レジナルド・ミッチェル技師は 1925 年に低翼単葉レーサーの第一弾 S.4 を設計、テスト飛行では 365Km/h を記録したものの、レース当日に主翼フラッターを起こし墜落してしまった。これに懲りたミッチェルが徹底した改設計を施し送り出した機体が S.5 である。エンジンは当時完成の域に達したネイピア・ライオン VIIB 875 hp、1927 年のレースではフィアット AS.3 エンジンのトラブルに悩むイタリア勢を尻目に N.220 号と N.219 号が一・二位を独占、英国人の意気をいやが上にも盛り上げた。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/2/14更新)
No.10MM.105
マッキ M.67Macchi M.67
Remo Cadringher
M.39 系レーサーの最終形態。M.52 より更に延長された機首に三翅プロペラを付けたイソタ・フォラスキーニ液冷 W 型 18 気筒 1800hp を搭載、翼面・機首下面に加え胴体側面・フロート前支柱・フロート上面にも表面冷却器が装着され、重量増加に対応して主翼面積も拡大されている。1929 年のレースに備え 103〜105 の三機が用意されたが、1927 年の苦い教訓にちなんで M.52 の改良型 M.52R(エンジンをフィアット AS.5 に換装、翼幅を約 1m 短縮)も加えて万全を期した。果たせるかな新鋭イソタ・エンジンはトラブル続出、中央シリンダの排気がコクピットに流入して中毒事故まで起こし一機墜落・二機リタイヤの惨状で、バックアップの M.52R が二位に入賞し辛うじてイタリアの面目を保った。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/3/16更新)
No.2N.247
スーパーマリン S.6Supermarine S.6
H.R.D ワグホーンH.R.D Waghorn
S.5 の成功に自信を付けたミッチェル技師が、ロールスロイスの新鋭「R」V12 1920hp をベースに開発した機体。機体のラインは S.5 と共通しているが一回り大きく、トルク対策のため右側のフロートが左より 30cm ほど長いのが特徴。1929 年のレースはクラッシュ・リタイヤが続出、出場表明 11 機中実参加 6 機・完遂 3 機というデスマッチの様相を呈したが、S.6 は二位のマッキ M52R・三位の S.5 を押さえて優勝を飾り、設計者ミッチェルとロールスロイス・エンジンの名声は世界に響き渡った。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/2/14更新)
サボイア・マルケッティ S.65Savoia-Marchetti M.65
ダール・モーリンDal Molin
1929 年のレースに向けて製作された機体。イギリス勢に対して劣るエンジン出力の不利を挽回するため、中央胴体にイソタ・フォラスキーニ液冷 V12 1050hp 二基をタンデム串型で搭載するビーム双胴(フロートも強度を受け持つので四胴?)形態を採用した。テーパーのない矩形の主翼は全幅 10m もあり、上下面とも表面冷却に使用されている。巨大なエンジンに挟まれたコクピットは狭くて熱く、しかも後部エンジンが回っている限り脱出は不可能、不時着に失敗すればエンジンに挟まれてペッチャンコという危険極まりない機体である。パイロットには最も小柄という理由でダール・モーリンが任命されたが、テスト飛行中に S.65 は空中分解してパイロットと共に失われてしまった。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/2/14更新)
ピアッジオ Pc.7Piaggio Pc.7
1929 年のレースに向けて製作された、シュナイダー杯史上だけでなく水上機史上においても飛び抜けて異形の機体。細長いカヌー状の水密胴体に三本(機首二本+尾部一本)の水上スキーを備え、イソタ・フォラスキーニ液冷 V12 970hp エンジンは延長軸とクラッチで機首のプロペラと尾部のスクリューを駆動し、クラッチを切ったときプロペラは水平位置に固定するよう工夫されていた。滑走時はまずスクリュー推進で約 200Km/h まで加速、水上スキーが効いて機体と水面の距離が充分開いたところでクラッチを切り替えプロペラ推進に転換、そのまま離水するという手筈だった。125〜127 まで三機が製作されたらしいが、970hp のフルパワー運転中にクラッチを切り替える機構がどうしても上手く働かず、遂に一度も空を飛ぶことなく計画は放棄されてしまった。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
S-1595
スーパーマリン S.6BSupermarine S.6B
ジョン・ブースマンLt. John N.Boothman
1931 年、イタリア・フランスの欠場とイギリスの予算不足により開催が危ぶまれた最後のシュナイダー杯において、篤志家ヒューストン女史の寄付金によって唯一の出場を果たし、9 月 13 日に平均速度 547.297Km/h のシュナイダー公式最高記録を残してレース完遂、大英帝国にシュナイダー杯永久保持の栄冠をもたらした機体。なお、本機はのちにスピットファイヤを生むレジナルド・ミッチェル技師の快心作である。エンジンはロールスロイス「R」V12 気筒 2350hp、最高速度 625Km/h。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/12更新)
MM.181
マッキ MC.72Macchi MC.72
フランシスコ・アジェロFrancesco Agello
1933 年 10 月 23 日に 709.2Km/h のレシプロ最高速度記録を樹立した機体。フィアット AS.6 24 気筒双子エンジン 3000hp で二重反転プロペラを回す。もともとシュナイダー杯レーサーとして作られたが、資金と時間の不足でシュナイダーには間に合わなかった。177〜181 まで5機作られたが、181 以外の機体は片っ端から燃えたり墜ちたりで失われている。ページのトップへ戻る
開催期間1930〜1939, 1946〜1949
開催場所アメリカ、オハイオ州クリーヴランド
競技要綱一周 10(1946 年以降は 30)マイル、ほぼ四角形のコースを 200(1938 年以降は 300)マイル周回するパイロン・レース。1931 年以降は全参加機が一斉に離陸する「レースホース・システム」を採用。

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ささき (2003/8/23更新)
No.27 A-7147
カーチス XF6C-6 Curtiss XF6C-6
アーサー・ページ Capt. Authur Page
米海軍戦闘機 F6C-3 を改造したレーサーが XF6C-6 である。エンジンは 700hp のカーチス・コンカラーに換装され、主翼はパラソル単葉となり、機首下面のラジエターに代えて翼面冷却器が装着された。コクピットも開口部を縮小した半埋め込み式に改造されているが、これが思わぬ悲劇を招くことになる。XF6C-6 はアーサー・ページ大佐の操縦で 1930 年の第一回トンプソン杯に出場したが、エンジンから漏れた一酸化炭素が通風の悪いコクピットに充満して大佐は意識喪失、機体は裏返しに地面に突っ込み大佐とともに失われた。 ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.4 NR77V
ジービー・モデルZ GeeBee Model Z(1931)
ローウェイ・ベイルス Lowell Bayles
1931 年のトンプソン杯に向けて作られた機体。535hp の R-985 ワスプ Jr を可能な限りコンパクトな機体に搭載し、目標通り 31 年のトンプソン杯を制することに成功した。しかし、その年の暮れに 750hp のワスプ Sr に換装して最高速度記録に挑戦したとき、飛行中に燃料タンクのキャップが外れる事故により墜落し失われた。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.11 NR2100
ジービー R-1 GeeBee R-1
ジミー・ドゥーリトル Jimmy Doolittle
グランヴィル兄弟を代表するレーサー。ズン胴な胴体は平面形では当時流行の紡錘形をなしており、機首には R-1344 ワスプ Sr. 740hp が鎮座している。1932 年にジミー・ドゥーリトルの操縦で速度記録 475.24Km/h 達成、トンプソン杯で優勝などの栄光を掴んだが、翌年大陸横断レースへの挑戦時に離陸事故を起こして失われた。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.11 NR2100
ジービー R-1 GeeBee R-1(1932)
同上 
短い生涯の間に何度も形を変えた R-1、これは 1932 年初飛行時のもの。風防と同じ高さにまで垂直尾翼を切りつめているが、深刻な方向安定性不良のため上部を延長した。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.11 NR2100
ジービー R-1 GeeBee R-1(1933)
初飛行時と最後のパイロット:ラッセル=ボードマン 
1933 年シーズン仕様の R-1。エンジンをより大型の R-1690 ホーネットに換装、強くなったプロペラ反力に抗するために方向舵を増積した。尾輪も方向舵に埋め込まれて空気抵抗を削減しているページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.54 NX11049
ジービー・モデルY GeeBee Model Y
ボブ・ホール Robert "Bob" Hall
1931 年に作られた複座のスポーツ機。一般の民間機市場に売り出すことを目標にした機体であるが、レース機として使う時は前席にカバーを被せ単座仕様にすることも可能だった。「Z」や「R」の活躍でジービーの名声を上げ、こういったスポーツ機をじゃんじゃん売ってウハウハ儲けるのが狙い…だったらしい。設計者ボブ・ホールは 1931 年のトンプソン杯に自ら操縦桿を握って出場したが、成績は 4 位と振るわなかった。しかも会社の狙いと裏腹に注文はさっぱりで、試作2機しか作られなかった。アイコンは 450hp ワスプ・ジュニアを装備した一号機。胴体側面にカラスのマークが入っているが、由来は不明。 ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/29更新)
No.6 NR211
ブルドッグ Bulldog
ボブ・ホール Robert "Bob" Hall
グランヴィル兄弟と袂を分ったボブ・ホール(のちのグラマン主任テストパイロット)が 1932 年に製作したガル翼の単葉レーサー。R-1344 ワスプ Sr. 740hp を搭載したが、キャブレター吸気口の設計に欠陥があってエンジンのフルパワーが出せない問題があったと言われる。トンプソン杯6位・ベンディックス杯はリタイヤとふるわず、一期限りで解体されてしまった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2003/2/6更新)
No.33 NR255Y
ミス・ロサンジェルス BROWN B-2 Miss LosAngeles
ロイ・マイナー Roy Minor
1934 年、出来たばかりのメナスコ C6S エンジンの高性能を宣伝すべくエンジン設計者アル・メナスコと飛行機設計者ローレンス・ブラウンが共同で作り上げた軽レーサー。34 年はトンプソン2位を始めとして各所のレースで活躍したが、その後は転売歴を重ねつつレースに参加するもエンジントラブルや機体の老朽化もあって成績は低迷。38 年には引き込み脚に改造されたが重量増加もあって性能は殆ど変らず、固定脚に戻された翌 39 年のグレーブ・レース中に旋回失速を起こし墜落、パイロットとともに失われてしまった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/23更新)
No.44 NR278V
ウェデル・ウィリアムス 44 Wedell Williams Model 44
ウェデル・ウィリアムス Wedell Williams
鋼管羽布張り、ワイヤー支持の単葉固定脚の機体に大馬力の星型エンジンを搭載したレーサー。Model 44 の名前はガンマニアだったウェデルが、当時の新製品「44 マグナム」にちなんで命名したもので、コブ付きカウリングはライト R-1344 ワスプを搭載した後期の姿。No.44 は設計者ウェデル自身の操縦でベンディックス杯に参加し 1932 年に二位、1933 年に優勝を記録した機体だが、1934 年のレースで墜落しパイロットのダグラス・デイビスと共に失われてしまった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/1更新)
No.70 NX261Y
ファイヤークラッカー Firecracker
トニー・リーバー Tony LeVier
キース・ライダー(Keith Rider) R-4 をベースにチューンアップした機体。アメリカ最強の空冷直列エンジン・メナスコ C6S-4 を改造してメタノール系燃料に対応、最高出力は 500hp を超えたという(リッター当たり 56hp、マーリン 1500hp に匹敵!)。38年に着陸事故で破損したが再生し、39年のトンプソン杯ではラスコー・ターナーの駆る「メテオ(ツイン・ワスプ 1200hp 搭載)」に続く2位と健闘した。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/1更新)
No.22 NX264Y
ジャックラビット Jackrabbit
アール・オートマン Earl Ortman
ファイヤークラッカーと同じ R-4 ベースのレーサー。1938 年ナショナル・エアレースには著名なオートマンによってグレーブ杯(Greve Trophy)に出場し4位に入賞した。トンプソン杯には出場していない模様。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/1更新)
No.18 NX96Y
エイトボール Eightball
ジョー・ジャコブソン Joe Jacobson
全木製で軽量化と表面抵抗削減を狙ったキース・ライダー R-6 ベースのレーサー。ナンバー横に描かれたビリヤードの第8ボールのマークが印象的。38年のトンプソン杯に出場したが、6位と振るわなかった。現在、チノの博物館にFirecrackerと共に展示されている。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/2更新)
No.52 NX92Y
クロスビー CR-4 Crosby CR-4
ハリー・クロスビー Harry Crosby
クロスビー自ら開発した軽レーサー。風洞実験によって定められた形状、全金属製構造、沈頭鋲による平滑な表面仕上げ、新鋭メナスコ S6S-4 エンジンなど軽レーサーとしては手が込んだ設計である。トンプソン杯においてはエンジン不調に泣かされ、38 年は排気漏れでリタイヤ、39 年は4位という成績だった。クロスビーはこれを戦闘機化した CI P-5 を軍部に提案したが、採用には至らなかった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/2更新)
No.5 NX93Y
 グーン Goon
アート・チェスター Art Chester
設計者/エンジン技術者/パイロットの能力を兼ね備えたチェスターが、新鋭メナスコ C6S-4 の能力を最大限に発揮することを目標に製作した軽レーサー。フランス製ラチエ可変ピッチプロペラを装着、エンジンも薄型ピストンリング換装・クランクバランサー装備などのチューニングを行ったが、いささか「やり過ぎ」で耐久性不足となった。38、39年のトンプソン杯に出場し、特に39年のレースでは Firecracker と熱戦を繰り広げたが、結局は両レースともリタイヤに終わっている。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/2更新)
No.2 NR3688
 ウィットマン・ボンゾ Wittman Bonzo
スティーブ・ウィットマン Steve Wittman
1920年代のシュナイダー杯やピュリツァー杯で活躍したカーチスD-12エンジン(液冷V12、450馬力級)が旧式化し、中古品が100ドル程度(400馬力級のメナスコ空冷6気筒が3200ドルくらい)で手に入るようになったのに目をつけたウィットマンが、最高の費用対効果を狙って作った機体。 35年のトンプソンで2位に入った初代(翌年クラッシュ)と37〜39年のトンプソンに出場した(5位、3位、5位)再生機がある。アイコンは脚をバネ鋼板の1枚板に単純化した再生機。エンジンのVバンク間に無理矢理押し込んだラジエターの容量不足のため、周回レースでは全開飛行を持続できず、公式戦での優勝こそ1回しか記録しなかったが、それなりに賞金を稼ぎ、充分に元をとった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/3更新)
No.11 NX94Y
 ミスター・スムージィ Pearson-Williams PW-1 Mr.Smoothie
リー・ウィリアムズ Lee Williams
1938 年トンプソン杯に向けロドニー・ニモ(Rodney Nimmo)によって設計されたレーサー。アリソンの 16 気筒(?) 1000hp エンジンを搭載する予定だったが、入手が間に合わず、カーチス・コンカラー液冷 V12 825hp を搭載した。1938 年トンプソンではテスト飛行中に着陸脚を破損、応急修理したもののタイヤのロックピンを入れ忘れるという痛恨のミスでレース本戦でタイヤが外れ離陸不能となりリタイヤした。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/3更新)
No.100 C4606909
コードロン C.460 Caudron C.460
 Michel Detroyat
マルセル=リファールの設計になる一連のドイッチェ杯エアレース向け小型レーサーのなかで最も活躍した機体。固定脚型のC.450とともに1934年にデビューした。当初は油圧システムの熟成不足から固定脚機として運用され、同年のドイッチェ杯は3位にとどまったが、引込脚化してクリスマスに陸上機速度記録(505.848km/h)を樹立、その後も35、36年のドイッチェ杯連覇、36年のトンプソン杯優勝と数々の記録を残した。 木製モノコックの胴体と木製合板張りの片持式主翼は平滑に磨き上げられ、機首側面パネルと一体化したオイルクーラーともども当時最高の空力性能を誇った。さらに、離着陸時の揚力を補って翼面積の削減を可能にするフラップ、可変ピッチプロペラ・引込脚といったアメリカ製レーサーから見れば夢のような先進的装備を備えていた。各アクチュエーターの作動が空気圧式なのは、信頼性もさることながら、飛行前に充填しておくことで機載ポンプを省略して軽量化を実現するためである。ルノー空冷倒立6気筒エンジン(8リッター)も、倍の排気量を持つワスプJr.とほぼ同出力を発揮する、生粋のレーシングエンジンである。こうした豪華さのため、トンプソン優勝時には「親方トリコロール疑惑」が持ち上がったが、実際にはコードロンとルノーが「ヘボいアメリカ機相手に確実に賞金を稼ぐ」ため参戦したものである。 アイコンはトンプソン杯で優勝した3号機。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.3 NR14215
 キース・ライダー R-3 Keith Raider R-3
アール・オートマン Earl Ortman
もともとキース・ライダーが 1934 年のマックロバートソン競技に備えて設計した長距離レーサーだったが、大会直前に離陸事故を起こして出場できずじまい。その後 R-3 はレースパイロットのアール・オートマンとダグラスのジャック・ブロンバーグ(Jack Bromberg)、ハル・マーコックス(Hal Marcoux)らに買い取られ、当初 400hp ワスプ・ジュニアが 35 年に 550hp のワスプ S1D1、37 年には 825hp のツイン・ワスプ・ジュニアに換装される大改造を受けた。原形からかけ離れた為、オリジナルの R-3 とは別にマーコックス・ブロンバーグ(Marcoux-Bromberg)レーサーと呼ばれることもある。成績はトンプソン杯で 1936〜1938 年に 2 位、39 年に 3 位、ベンディクス杯では 37 年に 2 位という大活躍で、戦前エアレースを代表する一機である。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.29 NR263Y
 メテオ RT-14 Meteor(Pesco Special)
ラスコー・ターナー Roscoe Turner
戦前エアレース界を代表するレースパイロットのラスコー・ターナーが自ら設計、シカゴのマティ・レイヤード(Matty Laird)らによって製作され、1936 年に完成した中翼単葉のレーサー。当時最新鋭の R-1830 ツイン・ワスプ 1200hp を搭載、固定脚ながら最高速度 550Km/h 以上を誇る高性能機である。1937 年のトンプソン杯初参加時は3位だったが、1938〜1939 年は圧倒的な強さで連続優勝を飾った。ページのトップへ戻る
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悪の火星人(2005/10/27更新)
No.29 NR263Y
 メテオ RT-14 Meteor(Miss Champion)
ラスコー・ターナー Roscoe Turner
「メテオ・レーサー」は 1937 年 "Ring Free Meteor" 1938 年 "Pesco Special" そして 1939 年 "Miss Champion" と、その年のスポンサーに応じて名前を変えた。「ミス・チャンピオン」は 1939 年戦前最後のトンプソン杯で優勝を飾ったときの塗装であり、スミソニアンに現存する実機、および 2003 年に完成した飛行可能な複製機もこの塗装である。ページのトップへ戻る
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  (2005/6/12更新)
No.28 NX62995
タッカー・スペシャル Tucker Special
チャーリー・タッカー Charlie Tucker
戦闘機乗り上がりのレースパイロット、チャーリー・タッカーが 1946 年トンプソン杯の為に用意した機体で、両翼端を約 2m づつ切断した過激な姿で話題を呼んだ。しかし幾ら何でもこれは「やり過ぎ」で、離着陸は危険この上なく、レースでも旋回時に失う速度と高度のハンディキャップは大きく、しかも 1946 年のレース時には翼端切断時に損傷した主翼タンクから漏れたガソリンが主脚駆動機構に入り込んで引き込み不良を起こしリタイヤしてしまった。翌 47 年にはアルコール燃料の実験中にエンジンを焼損。その後は転売を重ねる内に飛行状態を失い、やがてスクラップとしてタッカー・スペシャルは寿命を終えた。ページのトップへ戻る
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  (2005/6/12更新)
No.84 NX92848
コブラII CobraII
テックス・ジョンソン Alvin "Tex" Johnson
ベル社のテストパイロット、テックス・ジョンソンらによって作られたレーサー。P-39 に P-63 のエンジンとプロペラを付け、翼端を切断し、胴体下にオイルクーラー吸気口が増設されている。1947 年のトンプソン杯で(おそらくコブラ・ファミリー唯一の)優勝を果たした機体。一度引退したあと 1968 年に再生プロジェクトが始動したが、初飛行で墜落しパイロットのマイク・キャロル(Mike Carroll)ともども失なわれてしまった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/19更新)
No.7 N4845N
ビギン Beguine
ビル・オドム Bill Odom
腹部ラジエターを取り去り、翼端にポッド式ラジエターを新設(オイルクーラーは右ポッドに同居)した野心的なパイロンレーサー。パイロットのビル・オドムは長距離飛行記録で著名だったがパイロンレースの経験は浅く、1949 年トンプソン杯初出場で「ビギン」は操縦不能となり墜落、民家を直撃し主婦と子供を巻き添えにする大惨事を起こした。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/6/12更新)
No.57 N5588N
グッドイヤー F2G-1 
ロバート・オグリガード Robert Odegaard
シリアルナンバー 88458 で、F2G-1 量産 5 号機にあたる。元々クック・クリーランドが予備機として購入した機体だったが、ベン・マクリーンに転売され 1949 年のトンプソン杯に出場し 3 位に入賞した。レース引退後は転売を重ねながら飛行状態を失っていったが、1996 年にロバート・オグリガードによって復元され、飛行状態を維持する数少ない F2G の一機となった。カウリング上の延長吸気ダクトは時期によって形状が異なるが、アイコンは復元後の状態。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/6/12更新)
No.94 N5590N
グッドイヤー XF2G-1 
クック・クリーランド Cook Cleland
「ミスター F2G」ことクック・クリーランドの愛機で、シリアルナンバー 14693 は試作型 XF2G-1 の 3 号機。カウリング上に延長吸気ダクトが追加され、原型 F2G が抱えていた吸気ストールの問題を解決している。1947 年トンプソン杯は 2 位、48 年はリタイア、49 年には優勝を飾ったが、引退後は野晒しで放置されスクラップ同然の状態となり、1955 年に焼却処分されてしまった。アイコンは翼端を切って境界層板を付けた 1949 年の状態。ページのトップへ戻る
開催期間1931〜1939, 1946〜1949
開催場所アメリカ
競技要綱トンプソン杯と対をなす北米大陸横断レース。西回り・東回りともに行われたが、代表的なのはカリフォルニア州バーバンクからオハイオ州クリーヴランドまでの 2042 マイル(3286Km)。

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ささき(2003/2/9更新)
No.400 NR12048
スーパーソリューション Laird Super Solution
ジミー・ドゥーリトル Jimmy Doolittle
シカゴの飛行機設計家マティ・ライヤード(Matty Laird)が設計した機体で、1930 年に登場した「LC-DW-300 ソリューション」の発展型。前作に比べるとカウリング、主脚支柱及びスパッツ、主翼支柱などに空力洗練が施されており、チューンアップした P&W ワスプ Jr 535hp を搭載している(前作は 470hp)。1931 年ベンディックス杯においてジミー・ドゥーリトルの操縦で優勝したが、二冠同時制覇を目指すドゥーリトルの野望も虚しく、トンプソン杯ではピストンを焼損してリタイヤした。 ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.7 NR2101
ジービー R-2 GeeBee R-2(1932)
リー・ゲールバック Lee Gehlbach
ベンディックス杯大陸横断レースを目標に R-1 と同時製作された機体。エンジンはノーマル仕様 450hp のワスプ Jr で燃料搭載量も多い。1932 年にはベンディックス4位、トンプソン5位と健闘した。翌 1933 年に R-1 から譲り受けたワスプ Sr に換装したが、着陸事故を起こして失われた。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.40 NR273Y
 ミスター・マリガン Haward DGA-6 Mr.Mulligan
ハロルド・ニューマン Harold Newmann
一見すると遊覧機のように優雅な 4 人乗りの高翼単葉機であるが、その実 1935 年のベンディクス杯に向けて作られた長距離レーサーである。ベンディクスでは強豪ラスコー・ターナーを 23.5 秒の僅差で破って優勝、余勢を駆ってトンプソン杯にまで出場した。前年優勝機の最高速度は 480Km/h、せいぜい 400Km/h が背一杯の DGA-6 に勝機はないと思われていたが、強豪がエンジントラブルで次々に脱落しなんと優勝してしまった。戦前・戦後を通じてトンプソン・ベンディクス同時優勝はこれが唯一の例である。ページのトップへ戻る
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  (2005/6/12更新)
No.30 NX63231
フライング・レッド・ホース Flying Red Horse
チャーリー・タッカー Charlie Tucker
チャーリー・タッカーが 1946 年ベンディクス杯の為に用意した機体で、「空飛ぶ赤馬」はスポンサーとなったモービル石油のトレードマークにちなんだもの。両翼端を約 60cm づつ切断し 624 リッター入りのチップタンクを装着してある。46 年ベンディクスでは P-51/P-38 勢を相手に回し、 29 機エントリー 17 機完遂中 7 位と健闘。No.28 が壊れた 47 年以降はパイロンレーサーに転向し、48 年はリタイヤ・49 年には 5 位の成績を残している。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/19更新)
No.46 NX1204
なし
ポール・マンツ Paul Mantz
伝説的レースパイロット、ポール・マンツの愛機。1948 年に北米大陸横断ベンディックス・レースに優勝、三年連続優勝(1946, 1947 年は姉妹機の No.60 NX1202)をもたらした。コクピット後部側面窓を埋めてあり、垂直尾翼にヒレを追加してあるのが特徴。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/19更新)
No.13 NX28388
なし
ジャクリーン・コクラン Jacqueline Cocharan
著名な女流レースパイロット「ジャッキー」ことジャクリーン・コクランの P-51B 長距離レーサー、1946 年の北米大陸ベンディックス・レースで2位。ウェットウィング(インテグラルタンク)改造されていないので、大容量増槽を下げている。 ページのトップへ戻る
開催期間1934/10/20〜10/30
開催場所イギリス〜オーストラリア
競技要綱オーストラリアの実業家マクファーソン・ロバートソンがメルボルン創立 100 周年を記念して開催。ロンドンからメルボルンまで地球を半周する 11300 マイル(18186Km)の長距離レースで、10 日間のレース期間中に最短到着時間を争う「スピード部門」と、最短実飛行時間を争う「ハンディキャップ部門」の2部門で賞金総額 15000 ポンドを賭けて行われた。

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ささき(2003/1/27更新)
No.34 G-ACSS
デ・ハビランド・コメット De Haviland DH.88 Comet
C.W.A Scott Campbell.T.Black
マックロバートソン競技の為に設計された機体で、イギリス人いわく「世界で最も美しいレーサー機」。デハビランドお得意の全木製モノコック構造で、二名の乗員に合わせて胴体を絞り込み、コクピット位置を後退させて胴体中央に大容量燃料タンクを置いた。一見水冷に見えるカウリングだが、エンジンは空冷倒立直列 6 気筒のジプシー・シックス 230hp である。最高速度 381Km/h、航続距離 4700Km。真紅の「グロブナー・ハウス(GROSVNOR HOUSE)」号はスピード部門での優勝機。ページのトップへ戻る
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(2003/8/18更新)
No.44 PH-AJU
ダグラス DC-2 Dougras DC-2
K.D. Parmentier J.J.Moll B.Prins C.Van.Brugee
DC-2 は言わずと知れた傑作機 DC-3 の前身だが、21 席の DC-3 より一回り小さく 14 席で、エンジンはライト・サイクロン 700hp。「Uiver(こうのとり)」の愛称を持つこの機体はオランダ航空(KLM)の所有機で、実際に 3 名の乗客を乗せてレースに参加し、一着のデハビランド・コメットに遅れること約 20 時間で総合2位、ハンディキャップ部門で1位の好成績を上げた。ページのトップへ戻る
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(2003/9/27更新)
No.5 NR257Y
ボーイング 247D Boeing 247D
Roscoe Turner Clyde Pangborn Reeder Nchols
ラスコー・ターナーは 1934 年に完成したばかりの 247D 試作機をボーイングから借り受けてマックロバートソン競技に出場した。機首に描かれた「57」のロゴはスポンサーであるハインツ(Heinz)の商標で、後部胴体側面には別のスポンサーである「WARNER BROS.COMET」のロゴが記されている。92 時間 55 分のタイムで総合3位と健闘したが、ライバルの DC-2 Uiver には 11 時間 45 分の差を付けられてしまった。Uiver がハンディキャップ部門の1位を選択したため、スピード部門では繰り上がって2位に入賞している。機体はボーイングに戻されユナイテッド航空で旅客機として活躍、現在スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.77 NR14307
ジービー Q.E.D GeeBee Model R-6C Q.E.D
ジャクリーン・コクラン Jacqueline Cocharan ウェス・スミス Wes Smith  リー・ゲールバック Lee Gehlbach
マックロバートソン競技の為に製作された長距離レーサーで、ジービー一族の中では異例の大型機(全長 8.3m)である。エンジンは P&W ホーネット 675hp、Q.E.D とはラテン語で「解は証明された(Quod Erat Demonstratum)」の意味。34 年 9 月のベンディクス杯にはリー・ゲールバックの操縦で参加したが飛行中にカウリング留金が外れるという事故があり、応急修理してレースは完遂したが〆切を過ぎて失格。10 月のマックロバートソン競技には女流レースパイロットのジャクリーン・コクランと航法士ウェス・スミスが搭乗して参加したが、機体各所に不調が相次ぎ初日にロンドン−ブカレストを飛んだところでリタイヤ。35〜38 年にかけて何度もレース出場を試みるものの、その都度エンジントラブルで出場を果たせず。38 年に Q.E.D はメキシコの飛行家フランシスコ・サラビアに転売されたが、翌 39 年に離陸事故を起こしてフランシスコは死亡。皮肉なことに、Q.E.D はジービー一族にまつわる「殺人機」の伝説を証明してしまった。アイコンは「ラッキーストライク・グリーン」に塗られ、No.77 を付けた 34 年ベンディクス参加時の姿。なお事故機は修復され、今もメキシコの航空博物館に展示されているという。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
NC13761
ノースロップ・ガンマ 2G Northrop Gamma 2G
ジャクリーン・コクラン Jacqueline Cocharan
マックロバートソン競技に備え、ノースロップがジャクリーン・コクランの為に用意した機体。ノースロップお家芸の全金属低翼単葉で、固定脚ながら当時としては抜群に洗練された機体だった。エンジンは液冷 705hp のカーチス・コンカラーで、高々度巡航に備えて特製の一段一速過給器を備えていた。コクランは「慣らし」を兼ねて 34 年 9 月のベンディクス杯にもエントリーしていたが、レース二日前に過給器が壊れて不時着。機体は半壊してしまい、ロバートソン競技にも間に合わなかった(コクランは代機ジービー Q.E.D で参加)。のちにハワード・ヒューズに転売されライト・サイクロン空冷 R-1820 に換装、36 年に北米大陸横断飛行の新記録を樹立した。 ページのトップへ戻る
開催期間1964〜1970
開催場所アメリカ
競技要綱1964 年、リノレースに呼応して始まった北米大陸横断レース。東海岸から出発し、リノを到着地とする。代表的なウィスコンシン州ミルウォーキー〜ネヴァダ州リノのコースで 1667 マイル(2683Km)。

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  (2003/8/23更新)
No.8 N2869D
バーダル・スペシャル BARDAHL Special
チャック・ライフォード Chuck Lyford
1964 年のハロルド・クラブ大陸横断レースで二位入賞、その後パイロンレーサーとしてリノに出場した純白の P-51。ラジエターへの水散布冷却を最初に行った機体でもある。アイコンは大陸横断用にスカイレイダーの 567 リッター増槽を装備した状態。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/28更新)
No.14 N335
バーダルII BARDAHL II
エリス・ウェイナー Ellis D."E.D" Weiner
1965〜1968 年まで通算4回のハロルド・クラブ大陸横断レース優勝を果たした機体。ウェイナーは 1969 年のリノレースで姉妹機の No.49 N335J で飛行中に心臓発作を起こし、緊急着陸後病院に運ばれたが 10 日後に死去した。アイコンはキャノピーを改修しチェッカーの地色が白から黄に変更された 1967 年の状態。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/30更新)
No.87 N878M
シグナル・シーフューリー Signal Sea Fury
マイク・キャロル Mike Carroll
1967 年ハロルド・クラブ大陸横断レースにおいて、王者 E.D.ウェイナーの駆る P-51 バーダルIIを破り優勝した機体。エンジンはセントーラスのまま左右翼端を 1m ほどカット、小型水滴風防に換え、主翼はウェットウイング(インテグラルタンク)仕様に改造されている。キャロルは翌 68 年に再生コブラIIのテスト飛行中に悲劇の事故死、機体は転売され「ミス・メルセド(Miss Merced)」の名で現在もリノレースに出ている(ただし現在の機体は通常型キャノピーを装備し、エンジンは R-3350 に換装されている)。 ページのトップへ戻る
開催期間1964〜現在(2001 はキャンセル)
開催場所アメリカ、ネヴァダ州リノ
競技要綱一周約 8 マイル、ほぼ円形の多角形コースを周回(最高 8 周)するパイロン・レース。機種によりフォーミュラ1、バイプレーン、AT-6(1968〜)、スポーツ(1998〜)、アンリミテッドのクラスに分かれる。参加機は予選(Qualify)の結果により同クラス内でシルバー・ブロンズ・ゴールドの3クラスに分かれ、4日間の「ヒート」で各クラスの最高位が上にシフト、最終日のゴールド・クラス決勝で「最速」を競うルールを持つ。

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  (2003/8/23更新)
 N51RH
オール・イエラー Ole Yeller
ボブ・フーバー Robert A."Bob" Hoover
黄色である以外は普通の P-51 だが、乗っている人間が普通ではない。エアショーの神様、パイロットの中のパイロットと呼ばれるボブ・フーバーかつての愛機である。長年にわたりリノレースでペースプレーン(編隊先導機)を勤めた機体で、現在はジョン・バグレーの操縦でレースに出ている。塗装はノースアメリカン・ロックウェル顧問だった頃のもので、胴体側面に Rockwell International のロゴが入っている。ページのトップへ戻る
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  (2003/8/23更新)
No.11 N991R
ミス・アメリカ Miss America
ハワード・キーフィー Howard "Howie" Keefe
何度かのオーナー変遷を経ながら、1969 年以来ほぼ毎年レース出場を続け常に上位入賞を果たす古豪。星条旗をあしらった派手な塗装はリノの風物詩。一見ノーマルだが機銃格納庫を利用した翼内増加タンク、翼幅短縮などの改造が施されている。2002 年に着陸事故で半壊したが、「Miss.A をリノに出すのはオーナーの義務」という現オーナー・ブラント・ハイジィの熱意によって早くも翌年には復活、シルバー戦を制して復帰を飾った。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/28更新)
No.6 N51VC
サムシン・エルス Sumthin' Else
ジョン・クロッカー John Crocker
1979 年にリノレース優勝。ダゴレッド・ストレガに匹敵するレーシング・ムスタングとして長らく活躍したが、1990 年頃に着陸事故で失われた。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/20更新)
No.5 NX7715C
レッド・バロン Red Baron
スティーブ・ヒントン Steve Hinton
P-51 にグリフォン二重反転を積んだ機体。1977, 1978 年とリノレース二年連続優勝、1979 年には 803.15Km/h のレシプロ公認速度記録を樹立し最速レーサーとして君臨したが、その年のリノレースで飛行中にエンジン停止事故を起こし損失。ヒントン氏は瀕死の重傷を負ったがのちに治癒し飛行に復帰。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/20更新)
No.38 N6WJ
プレシャス・メタル Precious Metal
ロン・ブカレリ Ron Buccarelli
現時点で残る唯一のグリフォン・ムスタング。1988 年のリノレース初登場時にエンジントラブルで不時着し損傷したものの、1995 年に現役復帰。グリフォンのシリンダヘッドと降流式キャブレターインテイクを格納するため、胴体が縦長になっているのが特徴。レースナンバー 38 は悲劇の最期を遂げたミス・アシュレイ II とゲリー・レビッツに捧げるオマージュだとも言う。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/9更新)
No.38 NX57LR
ミス・アシュレイII Miss Ashley II
ゲイリー・レビッツ Gary Lavitz
1991 年にレッドバロン再生計画として開発スタート、主翼と尾翼はリヤジェット機の後退翼(不時着損失したレーサー「ベンディッタ」の残骸を回収流用)を装備、インテイクは NACA 型の埋め込み式となっている。抵抗を極限まで減らすことでエンジン負担を減らしトラブル要因を排除、優勝できなくともコンスタントに上位入賞を果たすことを目標としていた。1997 年にリノレース初出場を果たすが、1999 年のレース中に空中分解事故を起こし、パイロットともども悲劇の最期を迎えてしまった…。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/9更新)
No.19 NX91KD
ヴェンデッタ Vendetta
ジョン・デリー John Dilley
1985 年に製作されたレーサーで、P-51 の胴体にリアジェット 23 型機の主翼・水平尾翼を装着してある。Learjet + Mustang ということで「Learstang」とも呼ばれた。Vendetta とは「仇討ち」の意味で、デリーはこの機体にかつてリノレースで惨敗した雪辱を賭けたらしい。しかし 1988 年にエンジン停止、不時着半壊し短命に終わった。残骸は回収され胴体はノーマル仕様として TF-51 に復元、主翼と尾翼はミスアシュレイIIに流用された。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/4更新)
No.5 NX7715C
ロト・フィニッシュ・スペシャル Roto-Finish Special
ギュンター・バルツ Gunther Balz
もともと Miss R.J と呼ばれたレーサーをバルツが 1971 年に買い受け大改修した機体。背の低いキャノピー、大型化したフィレット、先端の尖ったスピナーなどが特徴。無敵を誇ったコンクエスト1を 1972 年のレースで破り優勝、これに満足したバルツは翌年機体を売りに出し、これがレッドバロンに改造される事となった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/4更新)
No.69 NX79111
ジーニー Jeannie
デイブ・ゼィシェル Dave Zeuschel
1980 年に登場したレーサーで、徹底的な軽量化と空力改善が施されている。80 年・81 年の連続優勝を果たしたが、83 年に別オーナーに転売された後はパッとせず、84 年を最後に早くもレーサーを引退し転売の果てにフロリダの倉庫に仕舞い込まれてしまった。ページのトップへ戻る
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  (2003/8/23更新)
No.45 N35FF
リスキー・ビジネス Riskey Business
ビル・レインシルド Bill "Rhino" Reinschild
1988 年から登場した機体。外見上の特徴はカットダウン型と呼ばれる背の低い水滴風防や先端の尖ったスピナ、短縮してウィングレットを付けた翼端くらいしか見当たらないが、エンジンのチューニングには気合が入っている。優勝経験はないが長年にわたって上位を争い、レインシルドはその果敢なレーシングスタイルからRhino(サイ)の異名を取った。ページのトップへ戻る
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  (2003/8/23更新)
No.20 N151DM
リッジランナーIII Ridge Runner III
ダン・マーティン Dan "D.M" Martin
1974 年から登場した機体。外見および塗装は 336FG のジェームス・マクマホン少尉搭乗機を再現した Warbird仕様だが、カウリングの下には最強クラスのレーシングマーリンが詰まっている。82 年に不時着したあと 97 年にパワーアップして復帰、甲高い爆音を轟かせてカスタムレーサーに挑む姿でファンを沸かせたが、2000 年の決勝レースでエンジン破損。しばしブランクのあと復活、2005 年はレアベア + シーフューリー軍団を相手に唯一のムスタングとして決勝に出場したが、またしてもエンジントラブルでリタイヤしてしまった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/28更新)
No.84 N332
スティレットー Stiletto
アラン・プレストン Alan Pleston
1984 年にロサンゼルスの飛行博物館(Museum of Flying)で作られたレーサーで、Stiletto とは短剣の意味。ラジエターを主翼内に移設し腹部のラインを整形している。蒸気冷却式オイルクーラーがエンジン後方に設置されている為コクピットが後退しているが、その更に後方には同乗席があり副操縦席が付いている変わり種。84 年の初登場で優勝を掴んだがその後はパッとせず、92 年頃にレーサーを退役しノーマル仕様のムスタング(複座の TF-51)に戻された。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/20更新)
No.4 N5410V
ダゴ・レッド Dago Red
スキップ・ホルム Skip Holm
ストレガのライバル。1982 年の初出場で優勝して以来、常にトップを争いながらもストレガ・レアベアの後塵を配していたが、1998 年の優勝から「ツキ」を掴んだのか 2003 年までに5回連続優勝を果たし、予選で 500mph(800Km/h) オーバーのコースレコードも記録した。しかし 2004 年以降はエンジントラブルに祟られ不調が続いている。アイコンは 2000 年より前の、排気管後方に青い焔のマーキングが追加される以前の状態。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/20更新)
No.7 N71FT
ストレガ Strega
ビル・ディステファニー Bill "Tiger"Destefani
1983 年に登場した現代最速レーサーの一機で、Strega とはイタリア語で「魔女」の意味。リノレース・ゴールド通算優勝記録7回2位タイの記録を持つ。オーナー・パイロットのディステファニーは、その攻撃的なレーシングスタイルから「タイガー」の異名を取った。彼は 2000 年に一度引退を表明したが「あと一勝」の誘惑に勝てず何度も引退宣言を撤回してはリノに出場しており、最終決勝で猛烈な追い上げを見せ「もしや」と観客を沸かせたことも一度ではないのだが、結局エンジントラブルでリタイヤしている。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/20更新)
No.5 N551VC
ブードゥ Voodoo
ボブ・バットン Robert "Bob" Button
1997 年に登場した新しいレーサー。ストレガ・ダゴレッドに範を取った設計で、カーボン複合材を多用するなど技術的にはむしろ進んでいる。だが名前が悪いのか毎年のように事故・エンジントラブル・パイロンカットなどを起こし、いまだに優勝記録を持たない不運の機体。初期は純白だったが 1999 年にオーナーが変わってから紫とチェッカーの派手な塗装になり、2004 年からは水滴風防に戻された。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/21更新)
No.1 N1111L
コンクエスト1 Conquest1
ダリル・グリネマイヤー Darryl Greenmayer
1964 年の第一回リノレースで優勝するも規定違反で失格、しかし 1965〜1971 まで連続5回を含む総合6回の優勝を果たし、1969 年には 777.4Km/h のレシプロ公認速度記録を樹立している。機体のニックネームと塗装は数度の変遷を経ているが、アイコンは 1966 年頃の塗装(この頃は Smirnoff と呼ばれていたようだが)。小型のキャノピーとスカイレイダーから流用した大直径プロペラが特徴。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/21更新)
No.77 N777L
レア・ベア Rare Bear
ライル・シェルトン Lyle Shelton
1969 年にスクラップから再生された機体で、初期には No.70 Able Cat と呼ばれていた。R-2800 に換えて R-3350 を搭載しており、機首まわりの形状はオリジナルとだいぶ異なる。1989 年にレシプロ公認速度記録 850.2Km/h を樹立、1991 年にリノのコースレコード 775.1Km/h、リノレース総合優勝9回など輝かしい記録を持つ。 ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/6更新)
No.117 N42SF
バッド・アティチュード Bad Attitude
ビル・レインシルド Bill "Rhino" Rheinschild
レーシングムスタング No.45「リスキー・ビジネス」のオーナー、「Rhino Bill」ことレインシルドの2番機。ブロンズ・シルバーレースではかなりの強豪だった。エンジンを R-3350 に換装し、プロペラが右回り4翅である以外は普通のカナダ軍塗装。スピナーは白黒に塗り分けられていたが、2002 年は赤になった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/2更新)
No.8 NX20SF
ドレッドノート Dreadnought
ブライアン・サンダース Brian Sanders
複座練習機型のシーフューリー T.Mk20 に 28 気筒 R-4360 を搭載した機体。強大なトルクに対応するため垂直尾翼が延長され、右翼付け根にもオイルクーラーが増設されている。1983 年のリノレース初出場でいきなり優勝をかっさらい 86 年にも優勝。その後毎年連続出場しては常に上位入賞を果たし「故障知らずの強者」とまで呼ばれたが 95 年にとうとうエンジンを損傷して緊急着陸。しばらく故障頻発に悩まされていたが、2004 年頃から再び常連強豪として復活した模様。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/2更新)
No.15 NX4434P
フュリアス Furious
ロイド・ハミルトン Lloyd Hamilton
ドレッドノートと同じく R-4360 に換装したシーフューリーで、同じ 1983 年にデビューしている。しかし 83 年はエンジン破損でリタイヤ、84 年もシリンダヘッドを吹っ飛ばし、85 年はトップを取りながらパイロンカットのペナルティで4位転落とトラブル続き、86 年に2位を取るも 87 年は5位に転落とライバル・ドレッドノートとは対照的に不安定な成績に終始した。一度退役したあと転売されたが、2000 年に塗装を一新して再登場した。アイコンは特徴的なスピナーと延長尾翼を装備した 84 年の仕様。 ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/30更新)
No.10 NX85SF
クリティカル・マス Critical Mass
トム・ドゥエル Tom Dwelle
ドレッドノートと同じく T.20 からの改造だが、前席を潰して後席の位置にコクピットを移動してあり、後部胴体は何をどう弄ったのやら原形を留めないほど大改造されている。1987 年に登場した後はトラブルの連続、数度のオーナー変遷を経て 93 年に現オーナーのトム・ドゥエルに転売され、「クリティカル・マス(臨界質量)」と改名した後はリノの強豪常連として親しまれたが、2006 年にトム・ドゥエルはアンリミテッドからの引退を表明、本機も T.20 仕様に戻されると発表された。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/11/21更新)
No.232 NX232MB
セプテンバー・フューリー September Fury
マイク・ブラウン Michael "M.B" Brown
熱烈なエアレース・ファンのマイク・ブラウンがダゴレッド・ストレガ・レアベアを打倒するため製作したシーフューリ・ベースのレーサー。オイルクーラーはコクピット後方の蒸発冷却式、過給器インテイクをカウリング上面に装着することで主翼前縁をクリーンに整形している。エンジンはサンダース・ショップの手による R-3350 スペシャル + 4 翅ペラ。2000 年からレースエントリーしており、エンジントラブルさえ無ければ 450mph(724Km/h)台の成績で上位につけており、2006 年には悲願のゴールド優勝も果たした。90 年代を彩った強豪レーサーがオーナーの高齢化・機体の老朽化で次第に引退してゆくなか、最も将来を嘱望されるアンリミテッド・レーサーである。ページのトップへ戻る
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ささき (2005/6/12更新)
No.28 NX62822
ティプシー・ミス Tipsy Miss
ジョン・サンドバーグ John Sandberg
リノ時代には数少ない P-63 レーサーの一機。1969 年にジョン・サンドバーグによって製作され、メタノール燃料やギャレット製ターボ過給器装着、インテイク形状変更などの改造を重ねながら 1979 年頃までリノに出場した。真紅の機体と銀色のスピナーは鮮烈なカラースキームだが故障続出もあって肝心の成績はパッとせず、やがてミリタリー仕様に戻され博物館に転売されたが、1990 年に着陸事故を起こして失われた。 ページのトップへ戻る
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ささき (2005/6/12更新)
No.90 N9009
クレイジー・ホース Crazy Horse
ラリー・ヘヴンス Larry Havens
グロテスクなほど大改造された P-63 レーサーだが、もとはチャーリー・タッカーの No.30「フライング・レッド・ホース」だった機体である。翼端はバッサリ切断され、コクピットは徹底的に改造されて小型水滴キャノピーとなり、機首の機関砲庫に蒸発冷却式オイルクーラーを装備、過給器吸気経路を主翼付け根に移動して背中の突出インテイクを撤廃した。1971 年からリノに参加して将来を期待されたが、1972 年テスト飛行中に空中火災を起こし、パイロットは脱出したものの機体は海没して失われた。 ページのトップへ戻る
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ささき (2005/6/12更新)
No.21 N40A
ミスター・メネン Mr.Mennen
ミラ・スロヴァク Mira Slovak
第一回リノ優勝者ミラ・スロヴァクによって 1972 年リノレースの為に作られた珍しい P-39 レーサー、尾部にベントラル・フィンを付けているのが特徴。「Mr.Mennen」とはスポンサーの Mennen Inc. に因んだもの。しかし天候不順によってスロヴァクのリノ到着がレースエントリーの締め切りを過ぎてしまい、出場を拒否された為スポンサーは激怒して離れ、結局一度もレースに出ないうちに博物館に転売されてしまった。 ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/22更新)
No.13 N25Y
ホワイト・ライトニン White Lightnin
マーヴィン・ガードナー Marvin "Lefty" Gardner
1947 年頃のクリーヴランド・レースに出ていた機体をテキサス南部空軍博物館(CAF)が買い取り修復した機体。1964 年から 1995 年まで 30 年以上にわたってリノレースのトップ・コンテンダーであり、レースだけでなく単機でのエアロバティックを披露するなどリノを象徴する存在だった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/10/14更新)
No.62 N6129C
 F7F Tigercat
 ロバート・フォーブス Robert Forbes
軍からの払い下げ後に森林火災消火機として使われていた機体。1976 年のレースに塗装もナンバー「62」も消火機仕様のまま飛び入り参加したが、結局本戦には参加せずじまいだった。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/11/21更新)
No.1 NX806MB
ビッグ・ボスマン Big Bossman
マイク・ブラウン Michael "M.B" Brown
マイク・ブラウンが 2003 年からリノに持ち込んでいるグラマン F7F タイガーキャットで、「ホワイト・ライトニン」引退後は貴重な双発レーサーである。グロスブラックをぴかぴかに磨き上げた外観は迫力があるが、エンジンも機体も殆どノーマル仕様で、機首の機関砲口すら閉塞していない。主にブロンズクラスで飛んでいるが、特にジョン・バグレーの駆る「オール・イエラー」と性能が拮抗しているらしく、明るい黄色のスマートなムスタングが奏でるマーリンの高音と、真っ黒でコウモリのような F7F の腹に響く R-2800 双発のデッドヒートはリノの新しい名物となりつつある。 ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/2更新)
No.1 NX31518
スーパー・コルセア Super Corsair
スティーブ・ヒントン Steve Hinton
F2G ではなく F4U-1D に R-4360 を積んだ機体で、エンジン換装だけでなく主翼外板の金属化、キャノピー改装、翼端短縮、フィレット付加など空力改善が行われている。プレーンズ・オブ・フェーム博物館のジム・マロニー及びスティーブ・ヒントンの主導でチノの全力を挙げて製作され、1982 年にリノ初登場。85 年にヒントンの操縦で優勝したあと 90 年代まで常連レーサーとして親しまれたが、1994 年のフェニックス 500 レースで空中火災を起こし、パイロットのケビン・エルドリッジは脱出に成功したが機体は失われた。 ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/24更新)
No.86 N5943
チェックメイト Czech Mate
シャーマン・スムート Sherman Smoot
複座練習機 Yak-11 を単座化して R-2800 に換装した機体。1988 年にリノに初登場したときは無塗装の胴体に緑色の翼で No.101 ペレストロイカを名乗っていたが、1995 年頃にオーナーが変わり、巨大スピナーやレーシングキャノピーなどの改修を受けて No.86 チェックメイトに改名した。毎年エントリーしながらも故障に祟られていたが、2003 年はゴールドクラスでクリティカル・マスと死闘のすえ4位と健闘した。一回り以上も大きなシーフューリー軍団を相手に果敢チャレンジする姿にはファンも多く、リノのアナウンサーからは「巨人殺し(Giant Killer)」というニックネームも頂いている。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/24更新)
No.2 N18AW
マニヤック Maniyak
 
1990 年頃に登場した機体で、Yak-11 に R-1830 を搭載している。登場当時は無塗装胴体に主翼と尾翼を朱色に塗って「Mr.Awful」を名乗っていたが、1994 年頃にオーナーが変わって「Maniyak」と改名しソビエトの冬季迷彩風になった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/17更新)
No.97 N134JK
ミスター・オウサム Mr Awesome
 
1988 年マット・ジャクソン(Matt Jackson)によって作られた機体で、Yak-11 に DC-7E から持ってきた R-3350 ターボ・コンパウンド 18 気筒 3700hp(原形 ASh-21 は7気筒 20.6 リッター 700〜800hp)を積んだ化物。後部胴体が延長されたが方向安定性不良は危険なレベルに達しており、88 年は予選止まり。翌 89 年にダリル・グリネマイヤーに転売され、方向安定性強化のため更に延長された後部胴体に T-33 ジェット練習機の尾部を丸々移植する大改造を受けた。しかし期待された 89 年のレースでは離陸直後に油圧を失いエンジン停止、不時着して半壊してしまった。再出場を目指して機体は残骸から再建され、何度か転売を重ねているがいまだレースには出ていない模様。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/2更新)
No.18 N39JR
ツナミ(津波) Tsunami
ジョン・サンドバーグ John Sandberg
一見 P-51 に似ているが、全くの新規設計機。1979 年にチノの大戦機再生集団「ファイタービルダーズ」の能力を結集したカスタムレーサーとして計画開始、7 年の歳月をかけ 86 年にリノ初登場。詰め込みすぎた設計に起因するトラブルに悩まされつつもストレガ・レアベアに食らいつき毎年2位・3位入賞、優勝も時間の問題と思われた矢先の 91 年、リノレースからミネソタへの帰還飛行中にフラップ誤動作による着陸事故を起こしパイロットのジョン・サンドバーグと共に失われてしまった。図は 89 年頃の塗装。 ページのトップへ戻る
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ささき(2002/10/2更新)
No.18 N39JR
ツナミ Tsunami(1991)
同上
毎年のように塗装を変えたツナミの、これが最後の装束。今までの銀+青のトリムから一変して胴体と主翼を朱色に塗り(主翼端は白)、後部胴体から垂直尾翼にかけて北斎版画を思わせる津波を描いた。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.21 N221BP
ポンド・レーサー Pond Racer
リック・ブリッカート Rick Brickert
リノレース制覇および速度新記録を目指した野心的レーサー。ロバート・ポンド(Robart J. "BOB" Pond)出資、バート・ルタン(Burt Rutan)設計。カーボン複合材を全面的に使用した超軽量の小型ボディに、チューンアップした自動車用エンジン(日産 VG-30 6気筒)を2基搭載した。双胴双発でコクピットは中央胴体(P-38 とは逆に主翼後縁から水平尾翼にまたがる)に設けられている。1991 年に初飛行したがエンジントラブルの連続、軽すぎる機体が後流に煽られてデッドヒートでも不利、93 年のレース中にとうとう片発停止を起こし墜落、パイロットともども失われてしまった。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.30 
アルキメデス Archimedes_T33
ジム・エバーハート 
ほぼストックのAT-6同士で争われる「AT-6クラス」にパイロット一家であるエバーハート家(他にP-51改「マーリンズ・マジック」を保有)から出場している機体。塗装こそ海軍風だが、ベースは陸軍型AT-6Dである。 2000年のリノでは、次男ジムの操縦でブロンズ5位の成績を修めている。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
No.21 
ミスティカル・パワー Mistikalpower
トム=カンパゥ 
「C-4エィヴィエーション」チームから参戦している強豪。エンジンのチューン(改造ではなく…)や機体表面の凹凸のパテ埋めはもとより、ホイール面への空力カバー装着、フレームの少ない平滑な風防・キャノピーへの換装等、改造度はかなり高い部類に入る。 リノでは、トム=カンパゥの操縦により、1999、2000両年はゴールド2位、2002年には優勝を飾っている。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/21更新)
 
デイトン・ライト RB-1 DaytonWright_RB-1
ハワード・レインハート Howard Rinehart
フランスで行われるゴードンベネット杯への参加を目的として開発されたレーサー。 前縁と後縁のキャンバーが変化可能な肩翼単葉の主翼。これに連動した引込式の主脚。埋込まれたコクピットと、1920年当時としては非常に進歩的な設計だった。 しかし、レース自体は1周でリタイヤという期待外れに終わった。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/26更新)
 
川西 K-2 Kawanishi K-2
 
現在に至るまで国産で純粋にレーサー機として開発されたのは、これが唯一というレアな機体。随分と早く1921年に完成したが、肝心のレースにはプロペラやエンジンの不調があって出場できなかった。コクピット前にある四角のものはラジエータ。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/1/27更新)
No.40 A.6978?
カーチス R3C-1 Curtiss R3C-1
 
シュナイダーレーサーとして有名なカーチス R3C はフロートと車輪の選択式で、陸上機として車輪を装着した時は R3C-1 と呼ばれた。No.40 は海軍が所有した機体で、ピューリッツァー賞レース時の塗装。色は白黒写真から「こんな感じだろう」と適当に想像したので間違っているかも知れない。なお R3C-1/2 は合計3機生産され、のちに一機がパッカード 2A-1500 700hp に換装した R3C-3、もう一機はカーチス V-1550 700hp に換装した R3C-4 に改造された。ページのトップへ戻る
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Schump(2009/7/11更新)
 
サヴォイアS.79CS(1937) Saboia S.79CS
クピーニ&パラディシ 
リンドバーグの壮挙から10周年を記念したニューヨーク〜パリ連絡飛行レースのために、かの傑作爆撃/雷撃機S.79を改造した長距離レーサー。初期量産型S.79K serie1の生産ラインから6機を抽出し、武装撤去(操縦席後方銃座、後部胴体下面ゴンドラ等廃止)、燃料容量増大(1800→7000リットル!)、100オクタン燃料対応エンジン装備、オイルクーラー増積、可変ピッチプロペラ更新、航法装置強化等にいたる大改造を施して製作された。 同レースは(おそらく安全上の理由で)中止されたが、代わりに開催されたイストル〜ダマスカス〜パリ連絡飛行レースに参加、1機がリタイアしたものの1、2、3、6、8位を占める大活躍を見せた。 翌年、さらに燃料タンク増設、無線増設、プロペラ換装等の改造を受けた3機が、ローマ〜ダカール〜リオデジャネイロの連絡飛行に成功、そのままブラジル軍籍に入り、1943年まで偵察、練習等の任務についた。 アイコンは、イストル〜ダマスカス〜パリ連絡飛行レース優勝機(クピーニ&パラディシ組乗機)。ページのトップへ戻る
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Schump(2003/10/25更新)
 
航研機(1937) 
藤田雄蔵(少佐) 高橋福次郎(曹長) 関根近吉(技手)
 正式には「東京帝大究所長距離」と呼ぶ。基礎学理研究に飽き足らない東大航研の斯波所長の企画により昭和7(1932)年に開発が始まった実験機。当初予定していた専用発動機の開発こそ断念し川崎ハ-9(BMW VI 液冷 V12ライセンス生産型)の改造型を搭載したものの、世界水準を抜く希薄燃焼システム、高揚抗比翼型、沈頭鋲を多用した超ジュラルミン製の機体構造、完全引込脚、自動操縦装置といった数多くの新機軸が採用されており、これらの実機試験用機材としての性格も強い。このため、陸軍からも操縦者や航空糧食を含めたバックアップを受けている。   昭和12(1937)年5月28日の初飛行後、各部の改修や実験を積み重ねた本機は、翌年5月13日から15日にかけて、藤田少佐(機長)、高橋曹長、関根技手の手により木更津〜銚子〜太田〜平塚を結ぶ周回コースを29周し、周回航続距離11651.011km、10000kmコース平均速度186.197km/hの世界記録を樹立した。   アイコンは、1937年12月ごろの状態。記録樹立時には胴体左側面の計測用マークは消されていた可能性が高い。   ページのトップへ戻る
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Schump(2003/10/21更新)
NR736W
ミス・ビードル Miss Veedol
クライド・パングボーン Clyde Pangborn  ヒュー・ハーンドン Hugh Herndon
 6人乗り旅客機スカイロケット(実はエンジン換装前の初期型ピ−スメイカーではないか?)をベースに、クライド=パングボーンとヒュー=ハーンドンが世界一周速度記録挑戦用にエンジン強化、燃料タンク増設等の改造を施した機体。出発直前に記録を樹立したロッキード・ヴェガの高速性能に航続距離の長さによる給油回数削減で対抗しようとしたが、航法ミスや悪天候による遅れのために記録飛行を断念、改めて朝日新聞社が懸賞金をかけていた太平洋無着陸横断に挑戦することにした。   日本滞在中に主脚投下装置や胴体着陸用機首下スキッドを追加された本機は、1931年10月4日、青森県三沢村(現三沢市)の淋代海岸を離陸、41時間13分・7982kmの大飛行の後ワシントン州ウエナッチ(Wenatchee, 現東ウエナッチ市)に着陸、みごと偉業を成し遂げた。   青森県立三沢航空科学博物館収蔵の復元機は全面オレンジレッドとなっているが、当時の写真を見るとカウリングは黒であったと思われるため、アイコンでは黒とした。 ページのトップへ戻る
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zono(2002/10/27更新)
D-INJR 
メッサーシュミット Bf109R Messerschmitt Bf109R (Me209V1)
フリッツ・ウェンデル  Fritz Wendel
その名前に反してほとんど独自設計に近い速度試験用の機体で、1939年4月26日に、この機体は最高速度755km/hというレシプロ機の(ということは、その当時は飛行機そのものの!)公認速度記録を打ち立てています。 しかしドイツはこのレース用の機体に武装を施して本物の戦闘機に仕立てようとしたのです。その改造を受けた機体(V-4型)は、試験はされたのですが、当然戦闘機としては使い物になるはずがありませんでした。ページのトップへ戻る
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Schump (2003/8/16更新)
JA7962
ロビンソンR22(1975) Robinson R22
青山満男 
「ヘリコプター版セスナ172」を目指して開発された軽レシプロヘリコプター。主な用途は練習機と自家用機だが、自重を同級エンジンのベル47B型の2/3に抑えたことで、取材、パトロール、農薬散布、漁場監視等にも使える搭載能力を持つ。また、操縦反応性や航続能力(ベル47Bの4倍!)の面でも優れた特性をもつ。 型式承認(1979.3)時までの予約注文350機、量産開始20年で3000機納入達成等、回転翼機としては空前の生産記録を打ち立て続けている。 アイコンは、ヘリコプターアクロチーム「アルファフライトチーム」のリーダー、青山満男の乗機(JA7962)。ページのトップへ戻る
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 人見 忍(2003/3/4更新)
NX258Y(?)
ヒューズ H-1B Hughes H-1B
ジム・ライト Jim Wright
 オリジナルの H-1 は 1935 年にハワード・ヒューズによって製作され、彼自身の操縦によって公認速度記録・大陸横断記録などを樹立した機体。だがヒューズの精神病が悪化したこともあって活躍は短期間にとどまり、ベンディクス・トンプソンなどの公式競技に出ないまま倉庫に仕舞い込まれてしまい、ヒューズの死後スミソニアン博物館に寄贈された。   H-1 レプリカはオレゴンのジム・ライトによって製作された機体で、実機を綿密に取材し忠実に再現したと言われている。2002 年 7 月 9 日に初飛行し、その年の 9 月 13 日にはリノレース会場で C-1 クラスの公認速度記録に挑戦、489.35Km/h の記録更新で「幻のレーサー」の高性能ぶりを実証したが、2003 年 8 月 4 日オシコシ航空祭からの帰路山地墜落事故を起こしジムと共に失われてしまった。合掌…。ページのトップへ戻る
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Schump(2004/8/2更新)
G-AFOK
ネイピア=ヘストンJ.5 速度記録機 Napier-Heston J.5
 
  ネイピア社のA.E.ハッグの発案により、開発中のセイバーエンジンの実力を示すために製作された機体。エンジン周り以外の機体のほとんどはプラスチック浸透木材や合板で作られており、塗装面を磨き上げて非常に平滑な表面を得ている。また、スピナーと一体化した前部胴体、主翼前縁に組み込まれた吸気口、尾部構造と一体して方向舵直前に排気するラジエターダクト等、空力的にも工夫が凝らされている。   第二次大戦の開戦により計画はいったん中止となったが、1号機(G-AFOK)が完成直前まできていたことから、セイバーエンジンのテストも兼ねて作業を再開、1940年6月12日に初飛行が行われた。しかし、エンジンの冷却不良によりあっけなく墜落大破、そのポテンシャルを発揮することなく終わった。 ページのトップへ戻る