米 陸/空軍機アイコン1

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Schump(2005/10/27更新)
ボーイング P-26 ピーシューター(Peashooter)
 当時最新の『モノメイル』単発高速郵便機(1930)の技術を軍用機にも応用すべく開発された米国初の全金属製単葉戦闘機。大恐慌後の緊縮財政下での計画だったため、試作時にはボーイング社の自社開発に陸軍からエンジン、プロペラ、計器等を貸し出す体裁がとられた。
 胴体・翼ともに全面的に沈頭鋲を採用した全金属製モノコック/応力外皮構造であるが、速度性能重視の薄翼に強度をもたせるため、片持式主翼・引込脚とはせず、胴体と主脚固定部から張線で主翼を支える方式となった。飛行試験においては着陸速度の速さや急降下時の加速過大、地上姿勢での前方視界の悪さなどが指摘されたものの、高速と強固な構造は高く評価され、陸軍戦闘機戦力の近代化に必要な機材だとして制式採用された。量産機数は、米陸軍向けP-26A〜Cが136機と輸出型モデル281が12機。
 生産当初から本格的単葉戦闘機(P-35・P-36)の実用化までのつなぎと位置付けられたこともあり、同社製主力戦闘機P-12の後継機となるほどの数が配備されることはなく、また、米軍機としては事実上実戦に参加することはなかったが、フィリピンや中国国民党政府に供与された機体が対日戦で陸攻の迎撃等に活躍しており、グアテマラでは1950年代前半まで現役にあったとされるなど、実用性の高い機体であった。
 アイコンは、第20追撃航空群所属機。第95追撃航空群から移譲された機材なので、尾翼に「95」の数字が残されている。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/29更新)
カーチス P-36A ホーク(Hawk)
低翼単葉、全金属モノコック構造、完全引き込み脚、R-1830 二重星型 14 気筒 1050hp エンジンなど、カーチスが 1935 年当時の先進技術を結集して製作した戦闘機。米陸軍で約 200 機が使用され、輸出型(Hawk75 または Mohawk と呼ばれる)を含めると合計約 1000 機が生産された当時のベストセラー。P-36A は 177 機作られた米軍向け主力生産型で、真珠湾では日本軍を迎撃し戦果を挙げてもいる。最高速度 500Km/h、武装は機首に 12.7mm と 7.62mm 機銃を各1挺。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/29更新)
カーチス YP-37
P-36 をベースに新鋭アリソン V-1710-11 液冷 V12 気筒エンジン(排気タービン付き) 1150hp を搭載した高々度高速戦闘機。排気タービン搭載のため機首が延長され、更に防火壁後方の胴体内にラジエターを埋め込んだためコクピットが著しく後退し、地上視界・前下方向視界は最悪となった。高度 6000m で速度 547Km/h を記録したものの、戦闘機としては問題が多く試作に終わった。武装は機首に 12.7mm と 7.62mm 機銃を各1挺、生産機数は XP-37 1 機+YP-37 13 機。ページのトップへ戻る
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ささき(2006/01/17更新)
ロッキード P-38G ライトニング(Lightning)
 400mph(643Km/h)を超える高々度高速戦闘機 Model608 として自社開発され、1937 年に次世代戦闘機を求める陸軍に提出され採用された機体。排気タービンつきアリソン V-1710 エンジンを双ブームの独特な胴体に搭載、左右のプロペラは外回りに逆回転する。1939 年に初飛行した XP-38 は高度 2 万フィート(6096m) で目標を上回る 413mph(665Km/h)の速度を発揮、同時期に試作されていたベル XP-39 を差し置いて高速戦闘機の本命となった。欧州戦線では 1942 年秋から実戦に参加し、独特の外形のためドイツ軍から Gabelschwanz Teufel(尻尾の割れた悪魔)の渾名を頂戴した。
 G 型は初期ライトニングの主要生産型(偵察型 F-5A を含め 1082 機)。J 型以降との違いはスピナー下部の「アゴ」が無いことで、機首下面の小型インテイクはオイルクーラー、インタークーラーは主翼前縁を利用した表面冷却となっている。E, F, G, H 型はエンジンや艤装品が若干異なるだけで、外形的な違いは殆どない。アリソン V-1710-51/55 液冷 V 型 12 気筒 1325hp x 2、最高速度 643Km/h、航続距離 2816Km(増槽使用)、武装 12.7mm 機銃 x 4 + 20mm 機銃 x 1、爆弾最大 500Kg x 2。ページのトップへ戻る
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ささき(2006/01/17更新)
ロッキード P-38J ライトニング(Lightning)
 H 型までの初期型ライトニングは吸気冷却能力が不足し、カタログ通りのエンジン出力が出せない問題があった。J 型は吸気レイアウトを全面的に改定したモデルで、スピナー直下に「アゴ」上のインテイクを設けオイルクーラー・インタークーラーが配置されている。エンジンは H 型と同じ 1710-89/91 であるが、吸気冷却効率改良によるパワー向上は有害抵抗増加を上回り、J 型はシリーズ中最高速のモデルとなった。また遷音速時の操縦困難対策であるダイブ・リカバリー・フラップが装備され、生産型の途中(J-25 モデル)からはジェット機なみの油圧エルロンブーストも導入、300mph(480K/mh)を超える高速域では米軍機中最高のロール性能を有した。
 左右逆転プロペラに加え、これら各種の小道具を持った P-38 は他のレシプロ戦闘機と異質な運動性を持ち、相手の得意領域に引き込まれなければ大したことはないが、一旦そうなると殆ど手も足も出ず翻弄されるという、対戦する枢軸機にとっては厄介な特性を持っていた。太平洋戦線では当初日本機相手に巴戦を挑んで被害を重ね「ペロハチ」「メザシ」などの渾名で呼ばれたが、米軍側が機材の特性差を覚え一撃離脱に徹するようになると日本側の被害は急増した。Richard "Dick" Bong(40 機), Thomas McGuire(38 機)など太平洋戦線の米陸軍トップエースの愛機として活躍したほか、山本長官機を待ち伏せ撃墜したのも P-38(F/G 型)であり、日本人にとっては B-29, F6F とならび忘れがたい機種となっている。
 アリソン V-1710-89/91 液冷 V 型 12 気筒 1425hp x 2、最高速度 675Km/h、航続距離 3637Km(増槽使用)、武装 12.7mm 機銃 x 4 + 20mm 機銃 x 1、爆弾最大 800Kg x 2 または 5 インチロケット弾 x 10。アイコンはチノのプレーンズ・オブ・フェーム博物館が所有するシリアル 44-23314、民間登録 NX138AM の "Joltin' Josie" 号機。ページのトップへ戻る
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ささき(2006/02/02更新)
ロッキード P-38J Richard Bong 少佐機(42-103993 "Marge")
 40 機撃墜の米陸軍 No.1 エース、第五空軍 49 戦隊 9 中隊(9th FS/49th FG/5th AF)所属ディック・ボング少佐(Major Richard Ira "Dick" Bong)の愛機。高名なエースの損失による士気低下を懸念した軍は、1944 年にボング少佐の前線任務を解き、米国内でテストパイロット任務に就くことを命じた。しかし皮肉なことに、この人事が少佐の運命を決定づけることになってしまう。1945 年 8 月 6 日、テスト中のロッキード P-80 ジェット戦闘機は離陸直後のフレームアウトを起こして墜落、少佐は終戦を目前に殉職した。ページのトップへ戻る
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ささき(2006/02/02更新)
ロッキード P-38L Thomas McGuire 少佐機(44-24155 "Pudgy V")
38 機撃墜の米陸軍 No.2 エース、第五空軍 475 戦隊 431 中隊(475th FS/431st FG/5th AF)所属トミー・マクガイア少佐(Major Thomas Buchanan "Tommy" McGuire Jr)の愛機。マクガイア少佐は 1945 年 1 月 7 日、不調の No.131 Pudgy V に代えて No.112 号を借りフィリピン・ネグロス島での航空掃討作戦に出撃したが、低空の一式戦を相手に増槽を付けたまま空戦に突入するミスを犯して苦戦。乱戦に飛び込んだ四式戦が僚機の背後に回るのを見た少佐は、援護に入ろうと無理な旋回を試み、失速墜落して戦死した。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/6/12更新)
Bell P-39D エアラコブラ(Airacobra)
1937 年に米陸軍が応募した高々度戦術戦闘機案に対し、ベル社が自主開発していた「機関砲と排気タービンを備える重単発戦闘機」Model4 を応募した機体。しかし開発途上で軍は方針を変更し、排気タービンを外し低空用戦闘機として採用された。P-39 は頑丈で離着陸が容易とも評価されたが、短い航続距離・劣悪な高々度性能・凶悪なスピン特性など多くのパイロットからは嫌われたという。D 型は初期量産型で V-1710-35 1150hp, 最高速度 579Km/h, 航続距離 965Km。武装 M4 37mm 砲 x 1, 12.7mm 機銃 x 2(機首), 7.62mm 機銃 x 4(主翼)。生産数約 554 機(P-39 全体で 9584 機)。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/6/12更新)
Bell TP-39
P-39 の機首武装を撤廃し教官席を設けた複座練習機型。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/9/10更新)
Curtiss P-40C
1941 年の初期生産型で、フライング・タイガースの主力使用機体。機首形状がのちのタイプと大きく異なる。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
Curtiss P-40E
1942 年の中期主力生産型。機首武装を全廃し主翼に 12.7mm×6 を装備した。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
Curtiss P-40N
1943 年に登場した後期主力生産型。機体重量を大幅に軽量化した割に性能は大して向上しなかった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
Curtiss XP-40Q
1944 年に3機が試作された P-40 最後の改良型。二段過給エンジンを搭載、ラジエターを翼内埋め込みに改め、水滴風防を装備。最高速度 679Km/h を記録したが時既に遅く、量産されなかった。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
Curtiss TP-40
P-40N のコクピット後部に教官席を設けた複座練習機型。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/29更新)
カーチス XP-42
P-36 の性能向上案として1機だけ試作された機体。延長軸つきエンジンを搭載、カウリング前面を絞って大直径のスピナーを付け、カウリング下部の小さなインテイクから冷却気を取り込むことで空気抵抗削減を狙った。最高速度は 553Km/h に向上したもののエンジン過熱を解決できず、のち通常カウリングに戻された。武装は機首に 12.7mm と 7.62mm 機銃を各1挺を予定していたが、試作機には装備されていない。ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/11/3更新)
リパブリック P-47B
P-47Bはサンダ−ボルト シリ−ズの初の量産型でありますが、専ら国内で練習用として使用されたページのトップへ戻る
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和来名春(2002/11/3更新)
リパブリック P-47C
C型はB型を改良された結果B型より機首が伸びて全長が11mになってます。ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/11/3更新)
リパブリック P-47D
C型の改良型のD型はサンダ−ボルト シリ−ズの中では最も生産されたタイプであります。外観的にはD型には「レザ−バッグ風防型」「水滴風防型」垂直尾翼に背鰭を追加した「背鰭付き型」がありますが、これは、そのうちの「レザ−バッグ風防型」であります。ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/11/17更新)
リパブリック P-47D (水滴風防型)
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和来名春(2002/11/17更新)
リパブリック P-47D (背鰭付型)
垂直尾翼に背鰭を追加した「背鰭付き型」ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/11/18更新)
リパブリック P-47H
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和来名春(2002/11/17更新)
リパブリック P-47N
N型は、対日戦を意識して航続距離を伸す改良を施された型で、他にも翼端形状の変更、大型かした垂直尾翼の背鰭の装着等の改良点が上げられます。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
ノースアメリカン P-51B MUSTANG
エンジンをパッカード・マーリンに換装した性能向上型。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
ノースアメリカン P-51D MUSTANG
水滴風防を装備し、主翼機銃を 12.7mm×6 に強化した改良型。ページのトップへ戻る
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アンサラー(2002/9/7更新)
ノースアメリカン P-51H MUSTANG
量産されるも第二次大戦には間に合わなかった。ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/9/18更新)
カ−チス XP-60
数機製作された試作戦闘機ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/9/18更新)
カ−チス XP-60A
XP-60のバリエ−ションページのトップへ戻る
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和来名春(2002/9/23更新)
カ−チス XP-60C
XP-60のバリエ−ション。二重反転プロペラ装備ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/9/23更新)
カ−チス XP-60E
XP-60のバリエ−ションページのトップへ戻る
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和来名春(2002/10/7更新)
カ−チス YP-60E
XP-60のバリエ−ションページのトップへ戻る
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巣田@うぐぅ(2002/8/31更新)
ノースロップ P-61 ブラックウィドウ(Blackwidow)
バトル・オブ・ブリテンの研究から高性能夜戦の必要を感じた米陸軍が 1940 年暮れに発注した機体。機首先端をレーダー室とし、胴体下面に 20mm 機銃 x 4、胴体上面に後方防御機銃を兼ねる旋回式 12.7mm 機銃 x 4 の重武装を持ち、強力な R-2800 双発によって高速・高運動性を誇ったが、少々凝りすぎた設計のため実戦デビューは 43 年暮れまで遅れ、第二次大戦ではそれほど目立った戦果は挙げられなかった。残存機の一部は写真偵察機 F-15(RF-61) レポーターに改造され朝鮮戦争で活躍している。主生産型 P-61B(450 機)の仕様は R-2800-10 2000hp x 2、最高速度 594Km/h、航続距離 3058Km、武装 20mm 機銃 x 4 + 12.7mm 機銃 x 4、SCR-720 レーダー。各型合わせた総生産数は 706 機。ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/10/27更新)
カ−チス XP-62
数機作られた試作機ページのトップへ戻る
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ささき(2005/6/12更新)
Bell P-63A キングコブラ(Kingcobra)
P-39 の発展型で、レイアウトは似ているが一回り大きな新規設計機。主翼は層流翼となり、二段過給器つきアリソンエンジンを搭載している。1942 年 12 月に初飛行し性能良好と認められたものの、航続距離不足などで米軍の需要を満たすことはできず、生産された機体の過半数はレンドリース機材としてソ連へ送られた。アリソン V-1710-93 液冷 12 気筒 1325hp, 最高速度 660Km/h, 航続距離 724Km。武装 M10 37mm 機関砲 x 1, 12.7mm 機銃 x 4。総生産数 3303 機。ページのトップへ戻る
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ささき(2005/6/12更新)
Bell P-63D キングコブラ
P-63 の性能向上型。水滴型風防、より強力なエンジン、高初速の機関砲を備え、重量増加に対し翼端を延長して翼面積を増加してある。しかし完成は 1945 年にずれ込んでしまい、既に戦争の行く末は見えており試作一機に終わった。唯一の試作機はテスト中の事故で全損してしまい、現存していない。アリソン V-1710-109 液冷 12 気筒 1425hp, 最高速度 703Km/h, 航続距離 1528Km(増槽使用時?)。武装 M9 37mm 機関砲 x 1, 12.7mm 機銃 x 4。 ページのトップへ戻る
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アイコン書く造(2005/10/27更新)
マグダネル XP-67 バット(Bat)
1940 年 7 月に新興マグダネル社が自社開発した双発単座長距離戦闘機。胴体やエンジンナセルを滑らかな曲線でつながれた翼型断面とし、主翼に埋め込んだ排気タービンつきエンジンは延長軸で左右逆回転の四翅プロペラを駆動、タービン排気も無駄にせずナセル後方に推力排気管を設けて速度を稼ぐという凝った設計だった。しかし 1944 年 1 月 6 日に初飛行した試作機は IV-1430 の不調・出力不足に悩まされ続け、9 月には空中エンジン火災を起こして不時着全焼してしまい試作1機に終わった。
コンチネンタル IV-1430 液冷倒立 V12 気筒 1350hp x 2、最高速度 764Km/h(計画) / 652Km/h(実測)、武装 37mm 機関砲 x 6(予定)。ページのトップへ戻る
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和来名春(2003/8/18更新)
XP72
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舞沙P(2002/12/2更新)
Bell XP-77
アルミ等の軽金属が不足すると駄目っぽいような気がした陸軍が、木製戦闘機なんかを作ってみた機体。
震動問題や、安定性に問題がある以前に、目的からして問題があるようで、結局不採用に終わった。詳しくは"世界の駄っ作機"参照
幅8.4m 長7.0m 自重1295kg 総重量1665kg
最大速度531km/h 航続距離880km 機銃12.7mm*2 爆弾100~300*1ページのトップへ戻る
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怪人37型(2003/2/12更新)
Curtiss B-2 Condor
1927 年に開発された双発複葉の「重」爆撃機。鋼管羽布張り構造でカーチス・コンカラー V-1570 水冷 V12 630hp 双発、エンジン直上に縦長のラジエターを持ち、左右ナセル後部に旋回銃座が設けられているのが特徴。1928 年から量産が開始されたものの、大恐慌の真っ最中に一機7万5千ドルという価格は高価に過ぎると判断され量産発注はわずか 12 機。1929 年から 30 年にかけてノンビリと手作りペースで生産されたが、ただでさえ古臭い設計の本機は航空技術日進月歩の時代にあってますます旧式化し、1934 年頃には早くも退役してしまった。機体は全てスクラップ処理され現存していない。最高速度 209Km/h、航続距離 1255Km、爆弾搭載量 1134Kg、武装 7.7mm ルイス旋回機銃 x 4、乗員 5 名。ページのトップへ戻る
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えりゅ(2002/9/26更新)
マーチン B-10B
1932 年にマーチンが独自開発した Model123 爆撃機は全金属応力外皮構造、引き込み脚、タウネンドカウリングなどの最新技術を結集した単葉機で、当時の戦闘機を凌ぐ 317Km/h の高速を発揮した。これに注目した米陸軍は XB-10 として仮採用し、何度かにわたる改良の末に量産仕様 B-10B を決定した。B-10B は空力的に一層洗練され、エンジンもパワーアップして速度は 346Km/h に向上、防御武装も改善されている。B-10B は米陸軍向けが 103 機が生産されたほか、エンジンなど細部の異なる輸出仕様 Model139W がオランダ、中国、アルゼンチン、トルコ、シャムなどに合計 189 機が輸出された。
B-10B の仕様は全長 13.6m、全幅 21.5m、全備重量 6668Kg、ライト R-1820-33 空冷 9 気筒 775hp x 2、最高速度 346Km/h、航続距離 2200Km、武装 7.62mm 機銃 x 3 および爆弾最大 1t。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/11/12更新)
A-36A
P-51A をベースに急降下ブレーキと爆弾投下器を付加した対地攻撃型。ページのトップへ戻る
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ささき(2002/12/1更新)
パイパー PA-48 エンフォーサー(Enforcer)
AT-6 や T-28D に代わる安価な輸出用対地攻撃機として 1984 年に設計された機体。ライカミング T-55 2450hp ターボプロップを搭載、固定武装は持たず主翼左右 10 個所のハードポイントに各種爆弾・ロケット弾・ガンポッドを搭載する。P-51 の設計がベースになっているが、根本的に改設計されており部品の互換性は 10% 未満しかない。結局買い手がつかず試作一機に終わった。最高速度 648Km/h、航続距離 1500Km。ページのトップへ戻る
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アンサラー(2002/11/3更新)
Northrop XP-56 Black Bullet
1940 年、米軍期待の新型エンジン P&W X-1800 を搭載する新戦闘機開発計画「R-40C」に沿って開発されたゲテモノ三兄弟の一機。
R-40C は開発途中で肝心の X-1800 が挫折しそれぞれに代替エンジンを選択したが、XP-56 は空冷 R-2800(二重反転推進式) を積んだため食用ガエルのように膨れてしまった。
XP-56 は深刻な安定性不足と悪性スピンに悩み、最後まで解決できず没となった。
アイコンはヨクたん形状を改修し尾翼面積を拡大した二号機の姿。ページのトップへ戻る
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アイコン書く造(2005/11/21更新)
ダグラス A-20G ハボック(Havoc)
原型は 1939 年に輸出用軽爆 DB-7 として自主開発された機体で、いわゆる高速軽爆万能思想の落とし子である。A-20G は 2850 機が作られた最多生産型で、爆撃手席を廃し固定機銃を装備した襲撃機仕様。低空での軽快な運動性を活かし、対地支援・船舶攻撃などの任務に活躍した。ライト R-2600-23 空冷星型 14 気筒 1600hp x 2、最高速度 545Km/h、航続距離 1650Km(標準武装時)、武装 12.7mm 固定機銃 x 6、12.7mm 旋回機銃 x 3、爆弾 1000Kg。ページのトップへ戻る
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アイコン書く造(2005/10/27更新)
ダグラス A-26 インベーダー(Invader)
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(2008/03/08更新)
ダグラス A-26 インベーダー(Invader)
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(2008/03/08更新)
ダグラス A-26 インベーダー(Invader)
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中村(2003/5/13更新)
De Havilland Mosquito PR.MkX VI
1944年6〜7月、米陸軍航空隊 第8航空軍 第25爆撃航空群 第653爆撃飛行隊所属
白と黒のストライプはオーバーロード作戦参加機の証、二ヶ月限定のレア塗装な“モッシー”ページのトップへ戻る
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胃袋3分の1(2003/8/31更新)
ボーイング B-17E
意外に撃たれもろかったB−17Dに対して、後部胴体を完全に再設計し、背びれの追加、尾部銃座の追加、水平尾翼の再設計等を実施したタイプ。この改造により安定性が向上し、爆撃照準能力も上がっている。
その他、コクピット後上方の連装回転銃座など、武装がすべて12.7mm機銃に換装されており、防御能力も飛躍的に向上している。
胴体後下部の銃座は、当初、ベンディックス社製のペリスコープを用いた遠隔操作式のものであったが、非常に不便であったため、以降の型で使用されることになる、スペリー社製の人が中に入って操作するタイプにものに変更された。
諸元
全幅:31.63m,全長:20.68m,全備重量:27,216kg,最大速度:510km/h,航続距離:3,200km,爆弾搭載量:5,440kg(最大),エンジン:ライトR-1820-65 空冷星形9気筒 1,200HPページのトップへ戻る
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胃袋3分の1(2003/8/31更新)
ボーイング B-17F
元々は1934年8月に米陸軍から出された多発爆撃機の競争試作に、ボーイング社がモデル299で応募したものであった。試作機から高性能を発揮していたが、機体サイズとコスト高がネックとなり、一旦はダグラス社のB-18に敗れたが、その高性能と世界情勢の変化等により量産されることとなった。
このF型は、E型に対して、翼内燃料タンクの増設、機首武装の強化等、400カ所以上もの改修が施された機体であり、外観上は機首の爆撃機席風防が枠の少ない大型のものになったことで容易に識別ができる。
主に欧州戦線で多用され、ドイツ昼間爆撃の主戦力として重用された。
諸元
全幅:31.63m,全長:22.78m,全備重量:29,484kg,最大速度:510km/h,航続距離:2,400km(爆弾2,300kg),爆弾搭載量:4,350kg(最大),エンジン:ライトR-1820-97 空冷星形9気筒 1,380HP ページのトップへ戻る
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胃袋3分の1(2002/9/23更新)
B-17F「バーミンガム・ブリッツクリーク号」 空中集合目標機
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アイコン書く造(2006/6/6更新)
ダグラス XB-19
1935 年、超大型長距離爆撃機を求める米陸軍航空隊の「プロジェクトD」に応募し採用された機体。しかし予算不足と度重なる計画変更によって試作機製造は遅延を重ね、41 年 5 月に一号機が完成した時には既にキャンセルされており、ただ一機のみ完成した機体は超大型機のデータ収集、エンジンテストベッド及び大型輸送機として用いられた。エンジンは当初はライト R-3350-5 空冷 2000hp だったがトラブル多発し、のちにアリソン V-3420 に換装して XB-19A と改名、戦後の 1946 年まで安全に飛行を続けたが、やがてスクラップ処理されてしまった。
ライト R-3350-5 空冷星型 18 気筒 2000hp x 4、最高速度 360Km/h、航続距離 12408Km、武装 12.7mm 機銃 x 5 + 7.62mm 機銃 x 6 + 37mm 機関砲 x 2、爆弾 8t。ページのトップへ戻る
新入荷アイコン
F15E (2008/10/10)
B-23 ドラゴン
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胃袋3分の1(2002/9/23更新)
コンソリデーテッド B-24J リベレイター(Liberator)
1938 年、米陸軍から B-17 ライセンス生産を打診されたコンソリデーテッド社が「より優れた性能を安価に提供できる」として自主開発した機体で、社内呼称を Model32 と呼ぶ。独特の細長い翼には試作に終わった Model31 双発飛行艇(P4Y)で培われた技術が応用されており、縦長断面の胴体に高翼を付けたレイアウトも飛行艇に似ている。試作機 XB-24 は 39 年 12 月に初飛行、防御武装強化・排気タービン装備など量産型 B-24D の仕様が決定し引き渡しが始まったのは 42 年始め。 43 年中頃から生産された J 型は総生産数の約 1/3(6678/18484)を占める主力モデルで、戦訓に基づいた武装強化などが施されている。B-24 は主にイタリア方面からのドイツ本土爆撃に従事したほか、優れた航続性能を活かして物資輸送や洋上哨戒にも活躍した。これらの任務に特化した派生型として輸送機型の C-87 リベレイター・エクスプレス(287 機)や米海軍向け PB4Y-2 プライベティア(739 機)などが存在する。
P&W R-1830-65 空冷 14 気筒 1200hp x 4、最高速度 482Km/h、航続距離 2735Km(爆装時)/6000Km(最大)、武装 12.7mm 機銃 x 10 + 爆弾 2.3t(通常)/5.8t(過載)。ページのトップへ戻る
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群馬帝国空軍工廠(2002/11/22更新)
NorthAmerican B-25 ミッチェル(Mitchell)
全長:16.13m 全幅:20.6m 全高:4.98m 自重:8.84t 全備:15.9t 乗員:6名 最大速度:438km/h(高度4,000m) 航続距離:2,175km 発動機:ライト サイクロン R-2600-92(1,700馬力)×2 武装:12.7mm×12 爆弾:最大1,360kg 130mmロケット弾×8 生産数:約11300機ページのトップへ戻る
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群馬帝国空軍工廠(2003/1/6更新)
B-25B ミッチェル
昭和17年4月18日、ドゥリットル中佐はこのB型を駆って日本を初空襲しました。ページのトップへ戻る
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アイコン書く造(2005/10/27更新)
マーチン B-26B マローダー(Marauder)
1939 年 1 月の米陸軍高速双発爆撃競作にマーチン社がモデル 179 として応募した機体。空力的に洗練された胴体に大馬力 R-2800 二基を装備したデザインは軍を魅了し、試作機初飛行前に量産命令が発注された。B-26 は特に中低空での速度に優れ、神出鬼没の戦術任務に欧州・太平洋を股にかけ活躍したが、高翼面過重による離着陸特性は危険で事故が多く「後家づくり(ウィドウ・メーカー)」とも陰口を言われた。このため末期生産型の F/G 型は最高速度低下を忍んで主翼取りつけ角を 3.5 度増加し、着陸速度を下げる改良が施されている。
B/C 型は 3093 機が作られた主生産型で、尾部・後部銃座の火力が強化されている。P&W R-2800-43 2000hp x 2、最高速度 453Km/h、航続距離 4500Km。武装 12.7mm 機銃 x 8 + 爆弾 2.5t。ページのトップへ戻る
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和来名春(2002/9/11更新)
B-29 「ス−パ−フォ−トレス」
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アイコン書く造(2006/12/27更新)
コンベア B-32 ドミネーター(Dominator)
1940 年、革新的に過ぎ成立性に不安のあったボーイング B-29 のバックアップとして、より堅実な機体としてコンベア社に発注された長距離重爆撃機。しかし B-29 が傑作機として仕上がった反面 B-32 は堅実以下の凡作に仕上がってしまい、試作機 XB-32 および練習機型 TB-32 を含め 123 機が生産されたにとどまった。一部の B-32 は太平洋戦線に偵察機として配備され、終戦直後の 1945 年 8 月 17 日および 18 日に「気象偵察任務」として日本側に無通告で東京上空に侵入した B-32 は高射砲と戦闘機による迎撃を受け、機銃手一名が戦死している。また 8 月 28 日には離陸事故と悪天候で 2 機が損失、合わせて 15 名の乗員が失われる惨事も起こしてしまった。B-32 は 戦後まもなく全機スクラップ処理され現存していない。
ライト R-3350-23 空冷 18 気筒 2500hp x 4、最高速度 575Km/h、航続距離 3862Km、武装 12.7mm 機銃 x 10 + 爆弾最大 10t。ページのトップへ戻る
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怪人37型(2003/4/26更新)
ノースロップ XB-35
1941 年に米陸軍が発注した「10x10 爆撃機」構想…10,000 ポンドの爆弾を積み 10,000 マイルを飛ぶ爆撃機…に応募しコンベア B-36 と競作になった機体。B-35 はジャック・ノースロップの持論であった全翼機で、この特異な形態をテストするため 1/3 サイズの N-9 実験機が数機作られてテストされた。
しかし始めての巨人全翼機ということで開発は難航、初飛行は戦後の 1946 年 6 月 25 日になってしまった。テスト飛行ではエンジンまわりの故障が多発、とりわけ 3x2 翅二重反転プロペラとその駆動用ギヤボックスに破損が多発した。このため 48 年 2 月には 4 翅プロペラに換装し大幅な信頼性の向上を果たしたが、冷却ファンや延長軸などにまだ多くの問題を抱えていたという。
そもそも B-35 の量産発注は 44 年 5 月すでにキャンセルされており、戦後のテスト飛行はジェット換装型 B-35B(のち XB-49) 研究用の意味しか持っていなかった。XB-35 一号機・二号機とも 49 年 8 月にスクラップ処理されている。
全長 16.1m、全幅 52.4m、全備重量 81.6t、プラット&ホィットニー R-4360-21 空冷 28 気筒 3000hp x 4、最高速度 629Km/h、航続距離 13100Km、武装 12.7mm 機銃 x 20 + 爆弾最大 23t。ページのトップへ戻る
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Schump(2006/7/12更新)
パイパーL-4グラスホッパー(1941)
 1940年に採用したO-49ヴィジラント観測機がやや高級に過ぎたことから、米陸軍は1941年に改めて連絡・観測機の選定に着手、テイラークラフトO-57、エアロンカO-58とともに採用されたのが本機である。3機種とも似たような設計と性能の軽飛行機だったことから、まとめて「グラスホッパー」と呼ばれた。本機の採用当初の名称はO-59だが、1942年の呼称規則改正によりL-4となった。
 すでに量産体制が整い、軍用練習機としての実績もあったJ-3型軽飛行機をベースにしていたこともあって「グラスホッパー」3機種の中では最も多く作られ、生産数は米陸海軍及び英空軍向けの約6000機に達した。用途も本来の砲兵観測・部隊間連絡にとどまらず、VIP輸送や患者輸送、対戦車攻撃にまで及んでおり、朝鮮戦争期に後継のセスナO-19や各種ヘリコプターに代替されるまで活躍を続けた。
 アイコンは、ノルマンディ上陸作戦に参加したL-4H。 ページのトップへ戻る
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ささき(2003/8/22更新)
Douglas C-47A スカイトレイン(Skytrain)
DC-3 の軍用輸送機型が C-47 であり、後部ドアが大型の観音開きに変更されている点が旅客型と大きく異なる。エンジンは P&W R-1830-92 ツイン・ワスプ 14 気筒 1200hp。米軍による制式な愛称はスカイトレインだが、乗員達はむしろ親しみと信頼を込めて「グーニー・バード(Goony Bird)」と呼んだ。貨物輸送時は標準 2.7t/過搭載時 4.5t の貨物を、兵員輸送仕様では 28 名の兵士を、また患者輸送仕様では 14 名の傷病者を輸送できるほか、パラトルーパー母機およびグライダー牽引機として空挺降下作戦にも多用された。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/9/22更新)
ダグラス C-124 グローブマスターII(Globemaster II)
1942 年、アジアと欧州での二面同時戦争という事態に直面した米陸軍は、大兵力を高速で長距離輸送するため超大型輸送機 C-74 をダグラスに発注した。しかし C-47・C-54 の戦時生産による多忙や R-4360 エンジンの開発遅延などに引きずられ、初飛行は終戦後の 45 年 9 月 5 日になってしまい C-74 は 14 機の生産にとどまった。だが冷戦体制のなかで再び巨大輸送機の必要性が認識され、C-74 の拡大発展型として作られたのが C-124 である。主翼・尾翼などは C-74 からの流用だが箱型の胴体は新規設計で、両開きの機首下面には昇降ランプが備えられ車両・人員などの迅速な積み降ろしを可能にしている。試作型 YC-124 は 49 年 11 月に初飛行し、量産型 C-124A 204 機と改良型 C-124C 243 機が量産された。R-4360 エンジンと巨大なプロペラが生み出す独特の振動から「オールド・シェイキー(Old Shakey)」の渾名で呼ばれ、米空軍では 1970 年頃まで使用された。C-124C の仕様は P&W R-4360-63A 空冷星型 28 気筒 3500hp x 4、最高速度 515Km/h、巡航速度 322Km/h、航続距離 3500Km、武装兵士 200 名または貨物 33.6t。ページのトップへ戻る
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Schump(2003/8/16更新)
XAT-6E 試作練習機
AT-6系のエンジンであるP&Wワスプの供給不足が懸念されたため、レンジャーV-770空冷倒立V12エンジンに換装してみた機体。機首が細く、重量も軽くなったため、速度が338km/hから391km/hに、実用上昇限度が7315mから9144mへと性能の向上をみたが、エンジンの信頼性があまりに低く、ボツになった。そして、懸念されたワスプの供給不足は起こることなく戦争は終わった。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/8/22更新)
Douglas XC-47C
1943 年、太平洋戦線での島嶼作戦において飛行場設営能力や洋上輸送・揚陸能力の不足に危惧を抱いた米陸軍は C-47 の水陸両用型を発注した。フロートの老舗エド社(Edo)はステップ直後に主輪・フロート先端に引き込み式の先輪を持ち、1140 リッター増槽の機能を兼ねる全長 12.5m の特製フロート「モデル 78」を製作、C-47 の一機 42-5671 号に取り付けて試作機が出来上がった。フロートの性能は優秀で陸上・水上ともに良好な操作性を示したが、搭載量や最高速度の低下によって軍用輸送機としての価値は下がり、何より心配されていた「飛行場設営能力の不足」が杞憂に終わったため試作一機に終わった。エド社のフロートは 150 基が作られ、一部は現地改造用パーツとして前線にも送られた。戦後余剰となったフロートは民間に払い下げられ、大型の水上輸送機を欲するアラスカやカナダのブッシュ・パイロットの間で使われたという。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/8/31更新)
ダグラス XCG-17
1943 年頃、ヒマラヤ山脈を超える航空輸送の効率向上案として試作された無動力グライダー。とは言っても C-47 の一機(41-18496 号)のエンジンを取り去って整形カバーをかぶせただけである。おそらく重心位置を合わせるためのバラストを搭載し、油圧を失った脚は下げ位置で固定されたと思われる。
1944 年からテストが開始されたが、「このクラスの大型グライダーを牽引するには B-17 あるいは C-53 クラスの大型機が必要」という当たり前の結果が出ただけだった。四発輸送機が大量投入できるならば貨物グライダーなど必要ない。そもそも悪天候と乱気流と日本戦闘機が跳梁するヒマラヤ上空でこんなグライダーが使い物になるかどうか、考えるまでもなく判りそうなものだが。
テストが終わった XCG-17 は再びエンジンを搭載し、戦後は余剰機材としてメキシコに転売され普通の輸送機として余生を送ったと伝えられる。ページのトップへ戻る
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ささき(2003/11/14更新)
WACO CG-4A
米陸軍は来るべき空挺作戦時代に備えて 1941 年に空挺グライダーの競作を実施、これに採用された機体が軽飛行機の老舗 WACO 社の CG-4 である。使い捨て機にふさわしく鋼管・木材・羽布などの素材で安価かつ簡素に作られており、胴体・主翼は輸送の便を考慮して分割式、コクピットを含む機首先端は簡単な仕掛けでパックリと開き人員・貨物の迅速な昇降が可能になっていた。乗員 2 名、完全武装の兵士 13 名または貨物 1.7t を搭載、最高速度速度 193Km/h。第二次大戦では C-53(DC-3 のグライダー牽引型)とのペアで神出鬼没の空挺作戦に活躍した。ページのトップへ戻る