日本海軍機アイコン
解説協力:T216さん               .
     群馬帝国空軍工廠さん       .
     胃袋3分の1さん         .
     ささきさん           .

(2003/8/25更新)
(2003/8/31更新)
三菱 十二試艦上戦闘機 試作一号機 (A6M1)
後に「ゼロ」として世界中にその名を知られる零式艦上戦闘機の試作一号機。
十二試艦戦の開発コンセプトは「艦隊を襲撃する敵攻撃機(主として高速双発爆撃機)の阻止迎撃」と「艦隊決戦時の敵観測機の掃討」であり、敵機を一撃で撃墜出来る「20o機銃2挺の大火力」と艦隊決戦中の主力艦隊上空哨戒を可能にする「巡航6時間の航続性能」が求められていた。
この要求性能を実現するため設計主務者の堀越二郎技師は徹底した重量軽減を行い、超々ジュラルミン製の主翼主桁、可変ピッチプロペラ、引き込み式主脚、流線型落下増槽といった新機構も採用している。
昭和14年4月に初飛行した十二試艦戦一号機は、エンジンは三菱の瑞星13型でプロペラは2翅、胴体が短く垂直尾翼形状が異なり水平尾翼の取付位置が低い、眼鏡式照準器装備など後の零式艦戦とは多くの相違点があり、恒速式3翅プロペラへの換装、昇降舵操縦系統への剛性低下方式の導入といった改良が施された結果、要求性能をほぼ満たす最高速度約500q/hを発揮、同年9月に海軍へ領収され、昭和15年3月にはエンジンを三号機以降と同じ中島製の栄12型に換装している。
昇降舵マスバランス切断による奥山益美工手操縦の二号機墜落や無数の不具合箇所改善を乗り越え、十二試艦戦が晴れて「零式一号艦上戦闘機一型」(A6M2a。後に零式艦上戦闘機一一型と改称)として制式採用されるのは昭和15年7月、そして重慶上空で敵機27機全機撃墜(実際は33機中撃墜13、大破11)、損害なしという鮮烈なデビューを飾るのは同年9月13日のことである。

(2002/9/25更新)
三菱 零式艦上戦闘機ニ一型 (A6M2b)
世界的有名機である零式艦上戦闘機の初期型で、太平洋戦争緒戦時における日本海軍の主力戦闘機。
二一型は長大な航続距離、強力な20o機銃2挺、軽快な運動性能を活かして大陸戦線で活躍していた局地戦闘機仕様の一一型に艦上戦闘機仕様を施したもので、着艦フックや無線方位測定器が装備された他、空母艦上での運用、特にエレベーター搭載時に便利なように主翼端を50pずつ折り畳める様に改修されている。
因みに昭和15年12月に制式採用された時の正式名称は「零式一号艦上戦闘機二型」だが、後に「零式艦上戦闘機二一型」と改称されている。
下川事故の対策として昭和16年12月以降の新造機および既生産機に施された主翼外板の増厚により、高速域における主翼の変形が減少、当初509q/hだった二一型の最高速度は、24q/h向上して533q/hになっている。
二一型は中島でも転換生産されており、昭和16年12月から昭和19年6月(中島での二一型生産終了時、三菱では五二乙型を生産中)の間に本家三菱製二一型の4倍近く生産されている。
なお中島製二一型には、翼内機銃をベルト給弾式の九九式一号20o固定機銃四型を搭載する武装強化型の「仮称四一型」が存在していた。

(2003/8/25更新)
(2003/8/31更新)
三菱 零式艦上戦闘機三二型 (A6M3)
エンジンを栄12型から一段二速過給機付きの栄21型に換装した零式艦上戦闘機初のメジャーチェンジ型。
エンジン換装に伴って再設計されたエンジンカウルと翼端から50pずつ切り詰めて翼幅を11mに短縮、角型に整形された翼端を持つ主翼が大きな特徴。
昭和16年7月に試作一号機が完成、昭和17年6月から本格生産に移行した三二型(当時の呼称は「零式二号艦上戦闘機」)は、速度向上は二一型より11q/h優速の544q/hに留まり、主翼面積縮小によって旋回性能が低下していたが、上昇力6,000mまで7分5秒と二一型より22秒短縮された他、高々度性能や高速時の操縦性、急降下性能、横転性能も改善されていた。
しかし、エンジン換装により胴体燃料タンク容量が減少したことで二一型より航続距離が低下しており、配備直後に生起したガダルカナル戦に参加出来ないことが問題視されて本格生産開始から僅か半年後の昭和17年12月に生産が終了している。
三二型は中島での転換生産が上記の「二号零戦問題」により中止されたため生産は三菱のみで行われ、基地航空隊の他に母艦航空隊に配備されて南太平洋海戦などに参加している。

アイコンは航空母艦「瑞鶴」飛行隊所属機。

(2003/8/25更新)
(2003/8/31更新)
三菱 零式艦上戦闘機二二型 (A6M3)
ガダルカナル戦に参加出来ない三二型の航続距離不足を改善するため主翼内外翼部に固定式増加燃料タンクを新設、その重量増加によって増加する翼面過重を相殺するために主翼を二一型同様の翼幅12mのものに戻した応急対策型。
改修による速度低下は僅かに3q/hほどに留まり、541q/hという最大速度と計算上零式艦上戦闘機各型中最大の航続距離を有する二二型は昭和17年10月頃に試作一号機が完成、同年末頃から基地航空隊専用機として実戦配備され、ガダルカナル戦中盤から投入されている。
この頃にはブインやムンダなどの前進基地が整備されていたため大航続距離はそれほど必要でなくなっていたが、ガダルカナル戦中盤以降におけるラバウル航空隊の主力機材として活躍している。
二二型の生産は三二型同様三菱のみで行われ、派生/性能向上型として翼内機銃を長銃身の九九式二号20o機銃三型に換装した二二甲型(A6M3a)が作られた他、生産末期には翼端折り畳み機構を省略した一二型が少数生産されている。

アイコンは第204航空隊 杉田庄一二飛曹搭乗機。

(2003/8/25更新)
(2003/8/31更新)
三菱 零式艦上戦闘機五二型 (A6M5)
二二型の主翼を翼幅11m・丸型翼端のものに変更、増速効果のある推力式単排気管を装備した型。
基本的に三二型(A6M3)のリファイン・武装強化型であり、エンジンは栄21型(後期生産型は栄31甲/乙型)のままであるが、エンジンカウルがより空力的に優れたものに変更され、後期生産型の翼内燃料タンクには自動消火装置が装備されている。
昭和18年4月頃に試作一号機が完成、空力特性の向上と単排気管のロケット効果により最大速度565q/h、上昇力6,000mまで7分1秒という三二型を上回る飛行性能と二二型と同程度の航続距離を有する本型は同年8月に制式採用されると直ちに当時の激戦地であるラバウルに送られてガダルカナル方面のF6F、F4U、P-38等の米軍機と激戦を繰り広げ、昭和19年1月17日には二二型や二一型と共に彼我200機近い航空機が乱舞する中で「ラバウル上空の完全勝利」を演じている。
五二型は昭和18年12月から中島でも転換生産が行われているが、中島と三菱の生産機では迷彩の塗装パターンが異なる。
性能向上型として、主翼外板を増厚することで急降下制限速度を740q/hに引き上げ、翼内機銃をベルト給弾式の九九式二号20o固定機銃四型に換装した五二甲型(A6M5a)、右舷胴体機銃を7.7oから13o機銃に換装、風防に防弾ガラス、操縦席後方に防弾板を取り付けた五二乙型(A6M5b)がある。

アイコンは第381航空隊所属機。

(2003/9/8更新)
三菱 零式艦上戦闘機五二丙型 (A6M5c)
零式艦上戦闘機の事実上の最終生産型。
五二丙型は零式艦戦第二のメジャーチェンジ型として、エンジンを栄21型から水メタノール噴射装置付きの栄31型に換装、水メタノールタンク設置に伴い胴体の燃料タンク配置を大幅に変更、胴体左舷7.7o機銃を撤去する代わりに主翼に13o機銃2挺を操縦席後方に防弾ガラスを追加、全燃料タンクを内袋式防弾タンクに変更した五三型(A6M6)の改修の内、五二乙型に武装強化と防弾ガラス追加のみを施した機体で五三型への過渡的存在と言える。
完成を急ぐために当時三菱で開発中だった局戦「閃電」の設計陣を主翼の改設計にあてると言う手段が用いられ、昭和19年9月に試作一号機が完成すると即制式採用されているが、その直後に発生した既存零式艦戦の発動機事故対策の影響を受けて栄31型の開発が中止されたため、本命である五三型の代わりに先行量産型である五二丙型を大量生産・配備する羽目に陥っている。
武装と防弾を強化したことによって重量が大幅に増加したにも関わらず、エンジンが栄21型と大差ない栄31甲/乙型であったため、最高速度541q/h/6,000m、上昇力5,000mまで5分40秒と飛行性能は大きく低下しているが、20o機銃2挺+13o機銃3挺という零式艦戦各型中最高の火力は搭乗員から高く評価されている。
派生/性能向上型として本格的な戦闘爆撃機型である六二型(A6M7)が生産され、胴体機銃を廃止してエンジンを栄31乙型に水メタノール噴射装置を再装備した栄31丙型に変更した六三型(A6M6?)が試作されている。

アイコンは第203航空隊所属機。

(2002/9/21更新)
三菱 零式艦上戦闘機五四丙/六四型 (A6M8)
エンジンを栄21型から水メタノール噴射装置付きの金星62型に換装した零式艦上戦闘機の最終改修型。
エンジン換装に伴い、エンジンカウルが機首上面に大型の気化器用インテークを設けた艦攻「天山」のカウルに類似したものになった他、プロペラも変更され、スピナーは艦爆「彗星」の先端が尖ったものが流用されている。
また十二試艦戦から五三丙型まで機首に装備されていた7.7oや13o機銃は廃止され、武装は六二型末期生産型と同様に主翼の20o及び13o機銃各2門のみになった他、増槽は主翼下に一つずつ装備するようになっていた。
昭和20年5月に試作一号機が完成、テストの結果、最大速度572q/h、上昇力6,000mまで6分50秒と五二丙型とほぼ同じ装備を持ちながら、より軽量である五二型と同等以上の性能を発揮できることが確認され、直ちに量産に移されることになったが、試作機数機が完成しただけで量産型一号機の完成前に終戦となった。
因みに「五四丙型」は開発時の名称で、量産型は「六四型」と呼ばれることになっていた。

(2003/9/8更新)
第二十一航空廠 零式練習用戦闘機一一型(A6M2-K)
十七試練習用戦闘機として第二十一航空廠で開発された零式艦上戦闘機の複座練習機型。
エンジン・プロペラ・尾翼は原型となった零戦二一型と同じだが、やや前方に移動して開放式となった操縦席後方に操縦装置と計器を備えた密閉風防式の教官席及び胴体後部両側面に安定ひれが新設、主翼からの20o機銃、翼端折り畳み機構、主脚車輪カバーの廃止、尾輪の大型・固定化といった改修が行われた結果、最大速度476q/h、上昇力6,000mまで7分57秒に低下していた。
昭和17年11月に試作一号機が完成、昭和19年3月に零式練習用戦闘機一一型(A6M2-K)として制式採用されているが、実際にはそれ以前から少数ながら生産されており、昭和19年5月からは日立で転換生産が行われている。
練習機である零式練戦は全面橙黄色に塗装され、胴体と主翼の日の丸に白縁が付けられていたが、昭和19年8月以降の生産機には迷彩塗装が施されている。
性能向上型として零戦五二型(A6M5)を複座練習機化した仮称零式練習用戦闘機二二型(A6M5-K)が試作された他、日立製のA6M2-Kの中には零戦五二型の主翼を取り付けた機体が存在する。

アイコンは筑波航空隊所属機。

(2003/9/8更新)
中島 二式水上戦闘機 (A6M2-N)
十五試水戦(後の強風)実用化までの場つなぎとして、仮称一号水戦として中島で開発された零式艦上戦闘機の水上戦闘機型。
エンジン・プロペラ・武装は原型となった零戦一一/二一型と同じだが、水上機には不要な主脚・尾輪・着艦フックを除去、参考にされた零観のフロートと同様の潤滑油冷却器を内蔵した支柱付きの単フロートの取り付け、垂直尾翼の増積と下方までの方向舵の延長といった改修、海水による各部の腐食対策が施されたため、最高速度435q/h、上昇力5,000mまで6分43秒に低下していたが、零戦の優れた飛行性能は受け継がれており、水上機としては抜群の運動性を持っていた。
試作指示から僅か11ヶ月後の昭和16年12月に試作一号機が初飛行、翌年7月に二式水上戦闘機として制式採用され、同年秋からソロモンや中部太平洋、アリューシャンなどで活躍している。
水戦の主力はA6M2-Nではなく、零戦三二型(A6M3)を水上機化した機体にA6M2-Nと同じ翼幅12mの主翼を取り付けた性能向上型の仮称二号水戦(A6M3-N)となる予定だったが、零戦三二型の開発遅延と太平洋戦争勃発のため計画は放棄されている。

アイコンは第802航空隊所属機。

(2002/9/9更新)
(2003/8/14更新)
三菱 十七試艦上戦闘機 試製烈風 (A7M1)
昭和17年から十七試艦戦として三菱で開発が始まった零戦の後継艦上戦闘機。
エンジンは中島製の誉22型を装備、機体構造は基本的に前作の局戦「雷電」の手法を踏襲しつつ、より量産性を考慮したもので、先端を絞ったエンジンカウルと強制冷却ファン、層流翼的な断面の内翼と通常の断面の外翼を組み合わせた31uもの大面積の主翼、スロット式の親フラップに空戦フラップを兼ねるスプリット式の子フラップを組み合わせた親子式フラップなどが採用されている。
A7M1は全長11m、全幅14mと艦戦としてはかなり大型であったが、空力的特性は非常に優れていた(風洞実験の結果による)。
エンジン選定や翼面荷重値の決定に手間取った上に、堀越二郎技師及び曽根嘉年技師の健康問題などが絡んで開発は遅れ、昭和19年5月にようやく試作機が初飛行、操縦性、安定性、視界、離着陸性能には問題がなかったものの、最高速度574q/h、上昇力6,000mまで9分54秒(試作二号機の数値)と計画値に届かなかったため不採用になるが、後に登場するA7M2の母体となった。
武装として主翼に20o機銃と13o機銃をそれぞれ2門ずつ装備する予定だった。

(2002/8/30更新)
(2003/8/14更新)
三菱 艦上/局地戦闘機 烈風一一型 (A7M2)
不調に終わったA7M1のエンジンを中島製の誉22型から三菱製のハ43-11型(Mk-9A)に換装した機体。
エンジン換装に伴ってエンジンカウルが再設計されているが、外見的にはそれ以外に大きな改造は行われておらず、強制冷却ファンを廃し、エンジンカウル下面に突出して設けられた滑油冷却用空気取入口がA7M1との大きな識別点である。
ハ43-11型に換装した試作一号機は最高速度628q/h/5,500m、上昇力6,000mまで5分53秒(軽荷状態での数値。全備状態では最高速度624q/h/5,800m、上昇力6,000mまで6分5秒)とほぼ計画値に達する性能を発揮、他の飛行性能全般も向上していたことが確認されたことから昭和20年6月に烈風一一型(A7M2)として制式採用され、既存のA7M1の発動機を換装して7機のA7M2が作られ(完成したのは3機のみ)、烈風用に全開高度を向上させたハ43-12型への換装実験計画や量産準備も進められていたが、量産型一号機の完成直前に終戦となり遂に実戦に参加することはなかった。
武装は当初A7M1と同じく主翼に20o機銃と13o機銃各2挺の装備が予定されていたが、開発途中で20o機銃4挺に強化されることになっていた。
なお烈風は当初「艦上戦闘機」として開発されていたが、海軍の戦闘機運用思想の変化や戦況の悪化から「局地戦闘機」(ただし対戦闘機用の甲戦闘機扱い)として採用されている。
性能向上型として、エンジンを排気タービン過給器付きのハ43-11型(Mk-9A)に換装、主翼武装を30o機銃4挺に強化、胴体30o斜銃2挺を追加し、最大速度648q/h/10,000m、上昇力10,000mまで15分30秒を目指した高高度局地戦闘機の「烈風改」(A7M3-J)、エンジンを一段三速過給機付きのハ43-51型(Mk-9C)に換装、主翼に20o機銃を2挺追加して計6挺へ強化し、最大速度643q/h/8,700m、上昇力10,000mまで13分6秒を目指した高高度甲戦闘機の「烈風性能向上型」(A7M3)が計画されたが、どちらも試作機の完成前に終戦となった。

(2002/11/30更新)
中島 九七式一号艦上攻撃機 (B5N1)
九六式艦攻の後継機で、十試艦攻として昭和10年から中島で開発が始まった機体。
開発陣は二十代後半が主体で、やや先行していた十試艦偵(後の九七式艦偵)の経験を取り入れながら開発は進められ、十試艦偵と同じセミインテグラルタンク、可変ピッチプロペラの他に、引き込み式主脚、ファウラー式フラップ(試作一号機のみ。二号機以降はスプリット式)といった新機構が採用されている。
当初エンジンは開発中だったNK-1B(後の栄11型)を予定、機体もそれに合わせて設計されていたが、エンジンの開発が間に合わなかったため光3型を搭載している。
昭和12年1月に初飛行した試作機は最大速度350q/hを発揮するなど要求を上回る性能を見せ、同年11月に三菱のB5M1と共に制式採用、九七式一号艦上攻撃機と名付けられると、直ちに中国戦線に送られている。
派生型として、中席に操縦装置を追加した九七式練習用攻撃機(B5N1-K)がある。

(2002/12/10更新)
中島 九七式三号艦上攻撃機 (B5N2)
九七式一号艦攻(B5N1)のエンジンをより小直径・高出力の栄11型に換装した性能向上型。
エンジン換装に伴い、再設計されて細くなった機首の空気抵抗軽減とエンジンの出力向上により、最高速度が28q/h向上して378q/hになった他、航続力を除く全ての飛行性能が向上している。
昭和14年12月に九七式三号艦上攻撃機(後に九七式艦上攻撃機一二型と改称)として制式採用され、八十番徹甲爆弾及び浅深度魚雷を搭載した第一航空艦隊所属機が昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に参加したのを皮切りに、大戦前半における主力艦攻としてインド洋、珊瑚海、ミッドウェー、ソロモン等で活躍、後継の天山に主力艦攻の座を譲った後も、索敵や哨戒、更に捜索レーダーH-6や磁気探知装置KMXを搭載しての船団護衛などに終戦まで使用された。

(2002/12/2更新)
中島 九七式三号艦上攻撃機 (B5N2) 航空母艦「赤城」飛行隊長 淵田美津夫中佐搭乗「A1-301」号機 1941.12.8
日本海軍乾坤一擲の大作戦であった真珠湾攻撃において第一次攻撃隊を率いた淵田美津夫中佐が搭乗した機体。
空中集合時に目印となるよう水平・垂直尾翼を真っ赤に塗り、「A1-301」の機番号とその上に1本、下に2本入れた帯を黄色で入れ、更に胴体に白地の赤帯を1本巻くという当時の海軍機としてはかなり派手な塗装が施されている。
なお、機番号の"A1"は"第一航空戦隊一番艦所属機"(第二航空戦隊はB、第五航空戦隊はE)、"301"は"艦攻隊一番機"を(艦戦隊は100番台、艦爆隊は200番台)、また胴体の帯の赤色は第一航空戦隊、帯数は一番艦所属であることを示している(第二航空戦隊は青色、第五航空戦隊は白色。二番艦所属機は帯2本)。
因みにこの時「A1-301」号機に搭乗していたのは松崎光男大尉(操縦)、淵田美津夫中佐(偵察)、水木徳信一飛曹(電信)の3人で、オワフ島まで第一次攻撃隊182機を誘導した後、「奇襲成功」を意味する暗号「トラトラトラ」を発信、更に水平爆撃隊の一機として八十番徹甲爆弾を米戦艦群に投下している。
淵田中佐は第一航空艦隊に所属する6隻の空母の攻撃隊全てを統括する総指揮官だったが、当時の日本海軍にこのような役職は存在しないため、やむを得ず中佐でありながら通常なら少佐が勤める「赤城飛行隊長」という立場でこの任に当たっていたが、艦隊には彼のことを正式な役職名で呼ぶ者はおらず、その任務に相応しく「総隊長」と呼ばれていたという。

(2002/9/22更新)
(2003/2/8更新)
中島 艦上攻撃機 天山一二型 (B6N2)
九七式三号艦攻(B5N2)の後継機で、昭和14年から中島で十四試艦攻として開発が着手された機体。
要求性能を満たすため、艦上機としては日本初の4翅ペラ、セミインテグラルタンク、ファウラー式フラップを採用している。
垂直尾翼がエレベーターとの干渉を避けるために前傾しており、更に離陸滑走中の回頭癖対策のために3度の取付角が付けられているのが、外見的な特徴である。
一二型はエンジンを不調の中島製の護11型から三菱製の火星25型に換装した性能向上型で、最高速度は17q/h向上して482q/hとなり、昭和19年3月に制式採用されている。
一一型がブーゲンビル島沖海戦に投入されたのを皮切りにマリアナ沖海戦、フィリピン・沖縄の戦いに投入されている。
派生型として後ろ上方旋回機銃を13.2oに、後ろ下方銃を7.9o機銃に換装し、捜索レーダーH-6を装備した一二甲型(B6N2a)がある。

(2002/10/1更新)
中島 艦上偵察機 彩雲一一型 (C6N1)
「我ニ追ヒツク敵戦闘機無シ」の電文を発したことで有名な長距離高速艦上偵察機。
第二次世界大戦中に設計段階から艦上偵察機として開発された唯一の機体だが、陸偵として運用されることが多かった。
高速を得るためにエンジン直径ギリギリまで細くされた胴体、当初から装備された推力式単排気管、層流翼、主翼前縁にスラット式、後縁にスロッテッド式というジェット機並みのフラップとそれに連動する補助翼、大直径プロペラと地面との干渉を避け、層流翼の効果を失わせないために主翼前桁後方に取り付けられた長い主脚、厚板構造、自動操縦装置など特徴の固まりで、オイルクーラーの配置や垂直尾翼などに前作の天山との共通点が見られる。
昭和18年4月に完成した試作一号機は最高速度654q/hを発揮(量産型は609q/h)、昭和19年9月の制式採用以前から増加試作機が実戦に投入され、大戦後期の日本海軍の眼として活躍、戦後に米軍が行ったテストでは最高速度695q/hを記録している。
派生/性能向上型として、30o斜銃を装備した夜戦型や排気タービン過給器付き誉24型に換装した彩雲改(C6N2)も作られた。

(2002/10/19更新)
(2003/4/24更新)
愛知 九九式艦上爆撃機一一型 (D3A1)
十一試艦爆として愛知で開発された日本海軍初の全金属製艦上爆撃機。
エンジンは当初中島の光だったが、試作二号機からは三菱の金星に変更されている。
主翼、尾翼はともに空力的に優れた楕円テーパー翼を採用、主脚は主翼の強度確保や重量軽減のため固定脚とされ、急降下制動板はJu87に似たものが主翼下に取り付けられている。
昭和13年1月に初飛行したが、テストの結果、特殊飛行時の安定性に問題が発見されたため、主翼に捻り下げを付け、垂直尾翼前方に大型のヒレを追加する、といった改良が加えられ、昭和14年12月に制式採用された。
当初は大陸で活躍していたが、開戦後は真珠湾、インド洋、珊瑚海、ミッドウェー、ソロモン海で活躍している。
特にインド洋海戦において、英巡コーンウォール、ドーセットシャー攻撃で約88%、英空母ハーミス攻撃で約82%という驚異的な命中率を記録したことは有名。

(2003/4/30更新)
愛知 九九式艦上爆撃機一一型 (D3A1)江草少佐機

(2002/10/20更新)
(2003/4/30更新)
愛知 九九式艦上爆撃機二二型 (D3A2)
九九艦爆一一型のエンジンをより高出力の金星54型に換装した性能向上型。
エンジン換装に伴い、エンジンカウルの再設計とプロペラスピナーの追加が行われた他、フラップや垂直尾翼が大型化され、爆弾懸吊装置や風防、射爆照準機の改良も行われている。
この改良により、最大速度が382q/hから428q/hに、上昇力も3,000mまで6分27秒から5分48秒に向上している。
昭和18年1月に二二型として採用され、当時の最前線であるソロモンに送られたが、余りの損害の多さから搭乗員は「九九式棺桶」と自嘲的に呼んだという。
生産は愛知だけでなく、増速を狙って推力式単排気管を追加した二二型が昭和で転換生産された他、後席に操縦装置を追加した仮称九九式練習用爆撃機一二型(D3A2-K)が既存の二二型を改造して作られている。

(2002/11/6更新)
空技廠 仮称九九式練習用爆撃機二二型[明星] (D3Y1-K)
ジュラルミン不足対策として空技廠で開発された九九艦爆の全木製練習機。
木製機の実験/研究機的な機体で、主翼・尾翼は共に直線テーパー翼に変更、カウリングを再設計、胴体が延長された他、風防も変更するなど、原型を留めないほどの再設計が行われた。
部品は松下飛行機(松下電器の子会社)で行われ、木材を樹脂で固めるという新方式がとられたが、良い接着剤がないため製作は困難を極め、しかも重量が最大で1t近く増加してしまい、最大速度は変わらなかったが上昇力は大きく低下してしまった。
昭和20年1月に初飛行し、試作機が7機作られたところで終戦になった。
エンジンを金星62型に換装し、主脚を引き込み式にした仮称九九式練習用爆撃機二三型[明星改](D3Y2-K)は計画のみで終わった。

(2002/10/28更新)
空技廠 二式艦上偵察機一一型 (D4Y1-C)
十三試艦爆の爆弾倉内に燃料タンクを増設し、胴体後部にK-8型航空写真機を取り付けて偵察機仕様とした機体。
機体強度が不足していたため急降下爆撃に不安のある十三試艦爆であったが、基本的に急機動を行わない偵察機としてであれば、その高速力と航続力を活かして運用できると考えられ、試作機2機が蒼龍に積み込まれてミッドウェー海戦に参加、母艦の沈没により貴重な試作機が失われたが、、昭和17年7月に制式採用され、ソロモンや中部太平洋での偵察任務に投入されている。
艦偵だが主として陸偵として運用され、性能向上型としてエンジンをより高出力の熱田32型に換装した一二型(D4Y2-C/R)、派生型として後部旋回機銃を二式13o機銃に換装した一二甲型(D4Y2-Ca/Ra)がある。

(2002/10/30更新)
空技廠 艦上爆撃機 彗星一一型 (D4Y1)
敵艦載機の攻撃範囲外から発艦、高速で敵機を振り切って先制攻撃を行うというコンセプトの元に十三試艦爆として空技廠で開発された機体。
やや研究機的な性格を有しており、高速性能を得るため空気抵抗の少ない国産版DB601である熱田21型を装備、主翼や胴体も徹底した抵抗軽減が図られた他、脚、爆弾倉、フラップは日本機には珍しい電動式とされたため、最高速度552q/h、500s爆弾装備して降爆可能と高性能だがやや生産し難い機体になってしまった。
初飛行は昭和15年11月だったが、急降下爆撃するには不足していた機体強度の補強に手間取り、制式採用は昭和18年12月と遅れたが、ソロモン戦後期から実戦に参加している。
主として愛知で生産され、派生型として航空戦艦用にカタパルト射出が可能なように機体を補強した二一型(D4Y1改)がある。

(2002/10/30更新)
空技廠 艦上爆撃機/夜間戦闘機 彗星一二戊型 (D4Y2-S)
彗星艦爆に20o斜銃1挺を取り付けて夜間戦闘機仕様にした所謂「彗星夜戦」。
原型となったのはエンジンを水メタノール噴射装置を取り付けてより高出力にした熱田32型に換装、風防形状や照準器を変更、防弾ガラスを追加し、尾輪を固定式にした彗星一二型(D4Y2)で、最高速度は580q/hに向上している。
一二戊型は一二型の後部風防内に20o斜銃(試作時は30o)を取り付け、風防最後部が金属張りに変更されいるが、爆弾を搭載して艦爆として運用することも可能で、第302航空隊ではB-29迎撃に、芙蓉部隊では夜間戦闘及び夜間攻撃に使用している。
一二型には航空戦艦用の二二型(D4Y2改)、後部旋回機銃を二式13o機銃に換装した一二甲型(D4Y2a)及び二二甲型(D4Y2a改)などの派生型がある。

(2002/10/31更新)
空技廠 艦上爆撃機 彗星三三型 (D4Y3)
エンジンを不具合から生産が遅延していた熱田32型から金星62型に換装した型。
機首が再設計されたことに伴って不足気味となった縦安定性を増すために垂直尾翼が増積された他、主翼下に増槽以外に250s爆弾を1発ずつ搭載できるように改修されている。(翼下に250s爆弾を搭載する場合は爆弾倉内の爆弾も250s爆弾)
エンジン換装によって空気抵抗は増加したが重量は軽くなったため、最高速度は一二型より僅かに6q/h遅いだけの574q/hに留まる一方、稼働率は大きく向上し、昭和19年後半に制式採用され、フィリピンや沖縄の戦いに主に陸爆として投入された。
後部旋回機銃を二式13o機銃に換装した三三甲型(D4Y2a)の他に一二戊型と同様に20o斜銃を積んだ試作夜戦型もあった。

(2002/10/31更新)
空技廠 艦上爆撃機 彗星四三型 (D4Y4)
800s爆弾を搭載可能にし、防弾を強化、胴体後部下面に加速用ロケットを装備した型。
通常攻撃より体当たり攻撃を重視した機体で、終戦後に米艦隊に特攻した宇垣中将の乗機として有名。
胴体に800s爆弾や加速用ロケットを装備するための切り欠けによる空気抵抗が増加、最高速度は552q/hに低下している。
後席と旋回機銃が撤去されて単座とされていたが、実際には仮座席を設けて複座にもどしたものが多い。
当初3基装備されていた加速用ロケットは、重量軽減のため後に2基に削減されているが、安定性が損なわれるため使用されることはなかったという。
また、エンジンを誉12型に換装した五四型(D4Y5)は計画のみに終わった。

(2002/11/5更新)
(2003/12/1更新)

(2003/12/9更新)
愛知 零式水上偵察機一一型 (E13A1)
愛知で十二試三座水偵として開発された九四式水偵の後継機。
人手不足のため設計陣は十二試二座水偵(試作のみ)と兼務し、先行させた二座水偵の成果を取り入れつつ開発が行われた。
しかし、試作機の製作に手間取り、納期に遅れて失格となってしまったが、愛知は研究機として開発を続行、昭和14年4月に初飛行、テストの結果、最高速度367q/hという高性能を示し、採用内定していた川崎のE13K1が事故で失われたこともあり、急遽採用内定するという大逆転劇を演じ、昭和15年12月に制式採用、索敵、哨戒、地上攻撃、船団護衛、救援、連絡などに使用された。
派生型として第901、951航空隊で対潜哨戒に使用された捜索レーダーH-6を装備した一一甲型(E13A1a)および磁気探知装置KMXを装備した一一乙型(E13A1b)の他、20o旋回機銃や下向きの30o斜銃を装備した魚雷艇攻撃型、推力式単排気管を追加した型があった。

(2002/9/20更新)
川西 十四試水上偵察機 試製紫雲 一号機 (E15K1)
敵制空権下でも敵戦闘機の追撃を振り切って強行偵察を行える水偵というコンセプトの元に、昭和14年に川西に対して試作発注された十四試水上偵察機の試作機。
要求された速度性能を発揮させるために、エンジンは雷電や強風と同様に火星24型を採用、二重反転プロペラ、投下可能な主浮舟、層流翼、半引き込み式の翼端浮舟などの新機軸が多数盛り込まれている。
昭和16年12月に初飛行した試作一号機は、社内試験中に転覆事故を起こして大破したが、後に修復されている。

(2002/9/20更新)
川西 高速水上偵察機 紫雲一一型 (E15K1)
十四試水上偵察機は5機の試作機に続いて10機の増加試作機が作られた後、昭和18年8月に紫雲一一型として制式採用されたが、これ以上の生産はされなかった。
試作一号機に装備されていた半引き込み式の翼端浮舟は固定式に変更されたが、最大速度468q/hを発揮できた。
生産された15機の試作/増加試作機の内、6機で昭和19年4月に横須賀で第12偵察隊が編成され、6月にパラオへ進出、この方面の偵察に当たっている。

(2002/9/28更新)
愛知 水上偵察機 瑞雲一一型 (E16A1)
愛知飛行機で開発された急降下爆撃も可能な複座水上複座偵察機で、水上爆撃機(略して水爆)とも呼ばれた。
当初は十四試特殊水偵として発注されたが、昭和16年に改めて十六試水偵として開発が始まった。
443q/hという高速を実現するために切り詰めた主翼を補う空戦フラップ兼用のダブルスロッテッド式フラップが装備された他、浮舟支柱の両側に急降下制動板が設けられている。
主翼固定20o機銃2挺、13o旋回機銃1挺、爆弾250sという強力な武装を持っており、昭和18年8月に瑞雲一一型として採用、第634航空隊などの所属機がフィリピン戦や沖縄戦に参加している。
性能向上型としてエンジンを金星62型に換装した一二型(E16A2)も試作されたが、生産前に終戦となった。

(2002/11/4更新)
(2003/12/9更新)
三菱 零式観測機一一型 (F1M2)
艦隊決戦時において、敵機の妨害を自力で排除しつつ弾着観測を行うために十試観測機として三菱で開発された機体。
小型化と軽快な運動性の両方を同時に実現するため、一見前時代的な複葉型を採用しているが、補助翼以外は全金属製で抵抗減少のために様々な工夫がされた近代的な機体で、昭和11年6月に初飛行した。
テストにおいて横安定性の不足が判明し、主翼平面型を楕円テーパーから直線テーパーに変更、捻り下げを採用した他、垂直尾翼の増積が行われ、安定した時には原設計より垂直安定版は85%、方向舵は30%拡大されていた。
F1M1では中島の光だったエンジンをより高出力の瑞星13型に換装した試作3号機以降のF1M2では最高速度が37q/h向上して370q/hとなり、これが昭和14年10月に零式一号観測機一型として制式採用(後に零式観測機一一型と改称)された。
開戦後は偵察、哨戒や船団護衛などに投入されており、特にショートランドを基地としたR方面部隊の活躍は有名。
派生型として後席に操縦装置を追加した練習機仕様の零式練習用観測機(F1M2-K)がある。

(2004/3/5更新)
(2004/3/28更新)
三菱 九六式陸上攻撃機二三型 (G3M3)
九六式陸攻の最終生産型。外見的には二二型と大きな違いはないが、一段二速過給機付きの金星51/52/53型への換装、燃料タンク容量の4割近い増大といった改修が施されており、二二型より43q/h優速の最大速度416q/h、航続距離(偵察過荷)6,156qという性能を発揮することができた。
開発メーカーである三菱は昭和16年2月に二二型の途中から生産を打ち切って後継の一式陸攻の生産に移行したため、二三型の生産は転換生産先の中島のみで昭和17年8月の制式採用前から行われ、日華事変後期には実戦配備されている。
開戦劈頭は一式陸攻とともにフィリピンやウェーキ島を爆撃、そして12月10日のマレー沖海戦では索敵に出た帆足正音少尉機が英東洋艦隊を発見、元山航空隊及び美幌航空隊所属の九六式陸攻が鹿屋航空隊所属の一式陸攻と共同で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスに雷爆撃を加えてこれを撃沈、海戦史上初めて「戦闘航行中の戦艦を航空攻撃のみで撃沈」するという快挙を上げている。
その後もソロモン航空戦に参加しているが、昭和17年半ば頃から徐々に一式陸攻に主力の座を譲り始め、翌年前半には攻撃機としては第一線から退き、残存機は練習航空隊などで余生を送っていたが、昭和18年12月に第901航空隊が新設されると航続力と搭載力、安定した操縦性を買われて主力機材に選ばれ、捜索レーダーH-6や磁気探知装置KMXを装備して、ボルネオ、フィリピン、大陸沿岸、本土などで船団護衛任務に従事した他、沖縄戦では練習航空隊である松島航空隊と豊橋航空隊の所属機が米輸送船団や占領された嘉手納の飛行場に夜間雷爆撃を行っている。

(2003/1/6更新)
三菱 一式陸上攻撃機一一型 (G4M1)
九六式陸攻の後継機で、昭和12年から十二試陸攻として三菱で開発が始まった機体。
開発には九六式陸攻に引き続いて本庄季郎技師を中心にした開発陣が取り組むことになり、海軍からの要求を実現するため当初は四発機とすることも考えられたが、最終的には双発機に落ち着いている。
搭載エンジンは当初予定されていた金星から完成したばかりの火星11型に変更、最大断面部を前部から40%付近に置いた葉巻型の胴体、捻り剛性が大きくてフラッターに強く、かつ量産に適し、双発機としては異例の薄翼で、内部にインテグラルタンクを設けた主翼、大面積の安定板と小面積ながら効きの良い小弦長動翼の組み合わせといった新機軸が採用されており、最高速度428q/h、航続距離(攻撃過荷)4,287qという性能を発揮できた。
試作機は昭和14年9月に完成、翌10月に初飛行、昭和15年4月に制式採用されると、直ちに大陸戦線に送られ、開戦直後は九六式陸攻と共にフィリピン航空戦、そしてマレー沖海戦、更にソロモン航空戦に参加している。
派生/性能向上型として、陸攻型の前に作られた防御機銃を強化、燃料タンクに防弾を施した翼端援護型の十二試陸攻改(G6M1)、G6M1を練習機に転用した一式大型陸上練習機一一型、更にG6M1の武装を減らし20名分の座席を設けた一式大型陸上輸送機(G6M1-L2)、エンジンを火星15型に換装、燃料タンクに自動消火装置と防弾ゴムを取り付けた一二型(G4M1)がある。

(2004/1/9更新)
三菱 一式陸上攻撃機一一型 (G4M1)
昭和18年ラバウル 第705海軍航空隊 第2中隊機。

(2003/1/6更新)
三菱 一式陸上攻撃機二二型 (G4M2)
一式陸上攻撃機一一型に全面改修を施した性能向上型。
エンジンを火星11型からより高出力の水メタノール噴射装置付きの火星21型に換装、VDM式4翅プロペラ、推力式単排気管、引き込み式尾輪を採用、主翼を一一型よりやや厚翼の層流翼へ変更、取り外し式だった爆弾層扉を常時装備、上部旋回7.7o機銃を球形動力銃塔式20o機銃に変更、前方7.7o旋回機銃の動力化、胴体側方7.7o旋回機銃座のブリスター式覆いから開閉式平窓への変更、尾翼および尾部旋回20o機銃覆いの形状変更といった改修が行われ、最高速度は9q/h向上して437q/hに、航続距離(攻撃過荷)は1,800q近く向上して6,056qになっている。
試作一号機は昭和17年11月に完成、昭和19年10月の制式採用より前の昭和18年7月から量産型が完成している。
派生型として、胴体側方旋回機銃を20oに変更し、捜索レーダーH-6を追加した二二甲型(G4M2a)、二二甲型の上部旋回20o機銃を短銃身の九九式一号銃から長銃身の九九式二号銃に変更した二二乙型(G4M2b)がある。

(2003/1/6更新)
三菱 一式陸上攻撃機二四型 (G4M2A)
一式陸攻二二型のエンジン振動対策として火星21型の減速比を0.54から0.625に変更した火星25型に換装した性能向上型。
エンジンの換装以外に大きな変更は行われておらず、その他の装備は二二型と同じだが、最高速度が13q/h向上して450q/hにとなり、昭和19年5月から量産が始まっている。
派生型として、二二甲型に準じて胴体側方旋回機銃を20oとし、捜索レーダーH-6を追加した二四甲型(G4M2Aa)、二二乙型同様に二四甲型の上部旋回20o機銃を短銃身の九九式一号銃から長銃身の九九式二号銃に変更した二四乙型(G4M2Ab)、更に機首前方機銃を7.7oから13oに変更した二四丙型(G4M2Ac)、「桜花」懸吊母機型の二四丁型がある。
その他にエンジンを全開高度を向上させた火星27型に換装した二五型(G4M2B)、燃料噴射装置を追加した火星25乙型に換装した二六型(G4M2C)、排気タービン過給機付きの火星25乙型に換装した二七型(G4M2D)が計画されたが、試作のみで終わった。

(2003/1/6更新)
三菱 一式陸上攻撃機二四丁型 (G4M2E) 桜花11型搭載
一式陸攻二四型の桜花懸吊母機型。
爆弾倉が桜花一一型を搭載できるよう改修された他、燃料タンクや操縦席に防弾鋼板が追加されており、更に一部の機体は胴体後部下面に離陸促進用補助ロケットを2本装備出来るようになっていた。
二四型と比較してエンジン出力や空力が向上していないにも関わらず、改修によって機体重量が増加している上に、搭載する桜花一一型の全備重量が2tを超えるため、桜花懸吊時の二四丁型の飛行性能は著しく低下することになった。
二四丁型が配備された第721航空隊(通称「神雷部隊」)は、昭和20年3月21日に米機動艦隊へ白昼集団攻撃を行っているが、零戦の護衛があったにも関わらず桜花発進前に二四丁型が全機撃墜されてしまったため、それ以降は薄暮または夜間単機攻撃に切り替えられたが、結局大きな戦果を挙げることは出来なかった。

(2003/1/14更新)
三菱 一式陸上攻撃機三四型 (G4M3)
一式陸攻二四型の防弾を強化した性能向上型。
開発は本庄季郎技師に代わり高橋己治郎技師が中心となって行われ、エンジンは二四型と同じ火星25型だが、主翼を前後2桁式から中央翼と外翼を作り付けの単桁式に変更、主翼付け根にフィレットを追加、翼内燃料タンクをインテグラル式から内装式防弾ゴム(後に人造樹脂「カネビアン」に変更される予定だった)を張った燃料タンクに変更、胴体側方機銃を20oに変更、尾部銃座改修、水平尾翼への上反角追加といった改修が施されている。
これらの改修により航続距離こそ4,334q(攻撃過荷)に減少しているが、最大速度は20q/h向上して470q/hになり、昭和19年1月に試作機が初飛行、同年10月から量産されている。
三四型の派生型としては輸送/対潜哨戒機仕様の三四甲型(G4M3B)、上方旋回20o機銃を長銃身の九九式二号銃に変更した三四乙型、機首前方機銃を13oに変更した三四丙型がある。

(2002/11/9更新)
中島 十三試陸上攻撃機 深山 (G5N)
昭和13年はじめ、海軍は前年の十二試陸上攻撃機(一式陸攻)に続いて魚雷2本又は爆弾を4トン搭載して3500カイリ(約6,500km)飛行可能という画期的な攻撃機、十三試陸上攻撃機の開発を中島に一社特命で命じた。
中島は米国から輸入したDC-4大型輸送機を手本として当時20代そこそこだった新進気鋭の設計陣で開発を進めた。
翌年12月に「火星」発動機を搭載した試作1号機(G5N1)が完成。海軍に領収され「深山」と命名された。
さらに「護」発動機に換装した増加試作機(G5N2)も5機製作されたが、当時の日本ではこのような大型機を実用化するのは難しく試作機は専ら輸送機として使用され、第3、5号機が太平洋戦争を生き抜いている。
全長:31.02m 全幅:42.14m 全高:6.13m 自重:20.1t 全備:28.15t 乗員:7〜10名 最大速度:420km/h(高度4,100m) 航続距離:4,260km 発動機:中島 NK7A「護」(1,870馬力)×4 武装:20mm×2、7.7mm×4 爆弾:最大4,000kg 生産数:6機

(2003/7/14更新)
十二試陸上攻撃機改(G6M1)6号機
中国大陸での長距離侵攻作戦用に、全行程で陸攻隊を援護できる「翼端援護機」として開発された機体。
胴体下面ゴンドラの前後に20ミリ機銃を装備するなどの重武装となっていたが、重量過大や重心位置の後退等で肝心の陸攻隊と行動を共にすることは不可能と判定され、また、長距離援護が可能な零式艦上戦闘機の登場で存在価値が無くなり、練習機や輸送機に転用された。

(2002/8/31更新)
(2004/4/18更新)
中島 十七試陸上攻撃機 試製連山 (G8N1)
失敗に終わった十三試陸攻「深山」の結果を踏まえて十七試陸攻として試作された機体。
排気タービン過給機付き誉24型を装備、主翼は層流翼とされ、高速化実現のため高翼面加重となったが、ダブルスロッテッド式フラップや前方視界の良い前車輪式を採用することで対処している。
厚板構造を採用して重量軽減に努める他、電動油圧式の20o旋回機銃塔を始めとする防御用火器と防弾ゴムを張った燃料タンクを装備しており、最高速度593q/h、最大搭載量4t、実用上昇限度10,200mという性能を発揮する予定だった。
終戦までに試作四号機まで完成したが、一〜三号機は空襲により破壊され、残った四号機はアメリカに運ばれてテストされている。
派生/性能向上型として、エンジンを排気タービン過給機付きハ43-11型に換装したG8N2、鋼製化した試製連山改(G8N3)が計画された。

(2002/8/29更新)
(2003/9/3更新)
川西 二式飛行艇一二型 (H8K2)
十三試大艇として開発された九七式大艇の後継四発飛行艇。
アスペクト比9という細長い主翼と着水時の低速飛行性能を確保する親子式スロッテッド式フラップ、「かつおぶし」と呼ばれる波抑え装置などを備えており、一一型(H8K1)は昭和17年2月に制式採用された。
一二型はエンジンを一一型の火星12型から火星22型に換装した性能向上型で、最高速度454q/h、航続距離7,150q、最大滞空時間は丸一日という長大なものであった。
実戦初参加は第二次ハワイ空襲だが、主として哨戒や索敵、誘導及び人員の輸送に使用され、昭和19年3月の古賀GF長官遭難時の乗機でもあった。
この他にも、防弾を強化し補助浮舟を引き上げ式にした仮称二二型(H8K3)、二二型のエンジンを火星25型乙に換装した二三型(H8K4)、一二型の輸送機仕様である晴空三二型(H8K2-L)がある。

(2004/1/9更新)
川西 二式飛行艇一二型 (H8K2)
東京・お台場「船の科学館」展示機。

(2002/9/29更新)
中島 二式陸上偵察機一一型 (J1N1-R)
後に月光の母体となった陸上偵察機。
元々は昭和10年代に世界的に流行した双発多座戦闘機の一つとして開発された機体。
原型である十三試双発陸上戦闘機は、陸攻に匹敵する航続距離と零戦並みの運動性能、機首固定の20o機銃1挺及び7.7o機銃2挺に加えて遠隔操作式7.7o連装旋回機銃塔2基という武装を備えた機体であったが、先に実用化された零戦が長距離侵攻・援護の任務をこなしていたため宙に浮いた形となり、複雑な遠隔操作旋回機銃を取り外した機体が昭和17年7月に二式陸上偵察機一一型として採用された。
陸偵として採用された後も攻撃機や急降下爆撃機への改造案が航空本部や空技廠で計画され、猫の目のように変わる要求仕様を聞いた中島の開発陣はこれを「Gの七化け」と呼んだという。

(2002/9/29更新)
中島 試作観測機 (J1N1-F)
二式陸偵の偵察員席を潰して、球状旋回機銃塔を装備した機体。
十数機が試作され、銃塔装備機銃もラインメタルMG131機銃2挺や九九式20o旋回機銃1挺など様々な機銃が搭載された。
球状銃塔の空気抵抗からか、バフェッティングなどの問題が発生したため、量産には至らなかった。

(2002/9/26更新)
中島 夜間戦闘機 月光一一型 前期型 (J1N1-S)
B-17やB-24などの四発重爆を夜間迎撃するために、第251航空隊(所謂ラバウル航空隊)司令の小園安名中佐が発案した斜銃(進行方向に対して30度上向きまたは下向きに取り付けた機銃)を二式陸偵に装備することで誕生した日本海軍初の夜間戦闘機。
ソロモンで日米両軍が激戦を繰り広げていた昭和18年5月に初戦果を飾り、8月に月光一一型として制式採用された。
B-17やB-24の夜間迎撃に活躍した他、下向き斜銃を用いて魚雷艇や飛行場、潜水艦攻撃などにも使用された。
一一型前期型には、二式陸偵の現地改修型の他に新規製造型も多数存在するが、両者の胴体の形状に差はほとんどない。
これは二式陸偵との生産の都合上、なるべく同じ形であった方が効率的であったためと考えられている。

(2002/9/26更新)
中島 夜間戦闘機 月光一一甲型 (J1N1-Sa)
二式陸偵の生産が終了した昭和18年後半から生産効率と空力の向上のために胴体後部の段を廃止し、夜間迎撃では使用頻度の低い2挺の下向き斜銃を降ろして増速を狙った一一型後期型が生産されるようになった。
この一一型後期型の上向き斜銃を2挺から3挺に強化したのが一一甲型で、昭和19年夏頃から月光の生産が終了する10月まで生産された。
また、既存の一一型後期型を改造して一一甲型と同一の武装にした機体の他、一一型、一一甲型ともに排気管を消炎管付き集合排気管から増速を狙った推力式単排気管に改修した機体もあった。
なお、一一甲型で追加された20o斜銃はベルト給弾式の九九式二号四型だったが、当初から装備されていた斜銃はドラム給弾式の九九式二号三型だった。

(2002/9/26更新)
中島 夜間戦闘機 月光一一甲型 電探装備型 (J1N1-Sa)
夜間迎撃を効率的に行うために、一一甲型の機首にFD-2射撃電探を試験的に搭載した機体。
一一甲型だけでなく、一一型後期型にも電探装備機が存在する。
折角取り付けられた電探だが性能が不安定であったため、重量軽減のためにアンテナを残して降ろしてしまった機体が多かったが、横須賀航空隊所属の電探装備型月光が一度だけB-29の反射波を捉えたといわれている。

(2002/11/18更新)
中島 十八試局地戦闘機 天雷 (J5N1)
昭和18年1月海軍は敵大型爆撃機に対抗しうる重戦闘機、十八試局地戦闘機の開発を中島に命じた。
これを受けた中島は小型・軽量・高翼面過重の双発形式を採用。余剰馬力の大きな高性能機として期待が高まり、試作要求からわずか一年余の昭和19年7月に第1号機が完成した。
しかし、試験飛行を行うと「誉」発動機の油漏れや振動問題で額面どおりの出力が出ず、さらにナセルストール対策などで重量が膨れ上がり要求性能を下回る結果に終わってしまった。
本機は終戦までに6機が試作されうち1機が完成直前で終戦を迎え、第5・6号機は夜戦用の複座型となっていた。
全長:11.5m 全幅:14.5m 全高:3.51m 自重:5t 全備:7.2t 乗員:1名(5・6号機は2名)
最大速度:620km/h(高度6,500m) 航続距離:2,740km 発動機:中島 ハ-45「誉」二一型(1,990馬力)×2
武装:30mm×2、20mm×2 (第5・6号機は20mm斜銃×4 or 30mm×2) 生産数:6機

(2002/8/26更新)
(2003/8/14更新)
九州 十八試局地戦闘機 試製震電 一号機 (J7W1)
十八試局地戦闘機として九州飛行機で開発された日本初のエンテ式(前翼式)戦闘機。
設計を行った鶴野正敬海軍技術少佐はパイロットの資格を持つ所謂「パイロットエンジニア」であり、エンテ式の空力特性試験用に作られたモーターグライダーMXY6の試験飛行も自らの手で行っている。
エンジンはフルカン接手駆動過給機付きのハ43-21型(Mk-9B)を閃電用に推進式としたハ43-41型(Mk-9D)に延長軸を追加したハ43-42型(量産型では一段三速過給機付きのハ43-44型に変更予定)で、機首に30o機銃4挺という強力な武装と前縁に20度の後退角のついた層流翼の主翼を持ち、最大速度750q/h/8,000m、上昇力10,000mまで10分40秒、実用上昇限度12,000mという性能を発揮する予定だった。
また機体後部に装備されたプロペラを傷つけないため30o機銃の薬莢は機外に排出せずに機内に収納し、搭乗員の脱出時には事前にプロペラを火薬で飛散させて搭乗員を保護するようになっていた。
昭和20年6月に試作一号機が完成、8月3日に初飛行したが全力試験を行う前に終戦となり、戦後米軍に接収された試作一号機は現在スミソニアン博物館が所蔵している。

(2003/8/25更新)
昭和 L2D3 零式輸送機 22 型
昭和13(1938)年、三井商事は当時の金額で9万ドルの大金を払い DC-3 の製造権と実機2機を購入した。建前は民間航空向けとしての購入だったが、本音は高性能輸送機を求める海軍の意向に従ったものである。原形をそのまま組み立てた機体を L2D1(D 型輸送機)、エンジンを金星 43 型(1000hp)に換装した国産型を L2D2(零式輸送機 11 型)と呼んだ。また米軍の C-47 に相当する貨物輸送型は「零式荷物輸送機」と呼ばれ、略符号に -1 を付けて区別した。「D輸」「ダグラス」などの愛称で親しまれ、頑丈で使いやすい輸送機として大戦全期にわたって活躍した。
L2D3 はエンジンをより強力な金星 51 型(1300hp)に換装し、スピナーの追加やリベットの一部を沈頭鋲に置き換えるなど空気抵抗の削減を図った性能向上型で、操縦席後部に窓が追加されている点が外見上の特徴である。
三菱「金星」51 型空冷 14 気筒 1300hp x 2、最高速度 395Km/h、航続距離最大 5500Km、乗客 21 名。連合軍コードネームは「タビー(Tabby)」、総生産数 485 機。

(2002/10/19更新)
(2003/12/9更新)
愛知 特殊攻撃機 晴嵐 (M6A1)
潜水空母「伊-400型」の搭載機として昭和17年に愛知で開発が始まった特殊攻撃機。
当初は彗星艦爆を改造することも考えられたが、それでは要求性能を満たすことが出来ないため、新規に設計されることになった。
直径3.5mの格納筒に収納するため、F6Fヘルキャットに似た主翼折り畳み機構を採用、垂直尾翼上端は右側方に、水平尾翼も下方に折り畳めるようになっていた他、浮舟は着脱式で、浮舟を取り外した場合は方向安定を保つために垂直尾翼上端の折り畳み部も取り外すことになっていた。
格納筒には浮舟を取り外した状態で収納されるため、浮舟は機体を格納筒から出した後に取り付けなければならなかったが、翼の折り畳みと展張は艦内からの油圧で行われ、展張は57秒、折り畳みは5分35秒で行えた。
エンジンは彗星12型と同じ熱田32型が採用されたが、これは高速性能を得るためと、エンジンに温水を通せば暖機運転の代わりとなり、発進までの時間を短縮できるためであった。
胴体下面のやや右寄りに爆弾または魚雷を800s搭載でき、浮舟が有る場合の最大速度は474q/h、浮舟が無い場合は560q/hを発揮できたという。
当初の攻撃目標はパナマ運河であったが、戦局の悪化からウルシー泊地に変更され、昭和20年7月下旬に晴嵐を搭載した「伊-400」及び「伊-401」が出撃したが、攻撃前に終戦となった。生産機数は28機。

(2002/10/23更新)
愛知 練習用特殊攻撃機 晴嵐改[南山] (M6A1-K)
晴嵐から浮舟を取り外して彗星の降着装置を取り付けた陸上練習機型。
練習機型であると同時に、浮舟と垂直尾翼上端が無い状態での空中性能の試験機でもあった。
8機作られた試作・増加試作機の内、2機が晴嵐改(南山)に改造されたといわれており、現存する写真に映っている尾翼の「コ-M6-6」から考えて、晴嵐改(南山)に改造された試作型晴嵐のうち1機は試作6号機であると思われる。

(2002/9/20更新)
川西 十五試水上戦闘機 試製強風 一号機 (N1K1)
前進基地における制空戦闘に使用するため、昭和15年に川西に対して試作発注された十五試水上戦闘機の試作一号機。
世界でも数少ない水上戦闘機で、層流翼(世界的に見ても採用が極めて早い)、自動空戦フラップといった新機軸が盛り込まれている。
試作一号機の最大の特徴は、搭載された火星エンジンの強力なトルクに対処するために装備された二重反転プロペラである。
ただし、この二重反転プロペラは実用化困難と判断されたため、装備したのは試作一号機だけだった。
試作一号機の初飛行は昭和17年5月で、プロペラの変更などの後、昭和18年12月に強風一一型として制式採用され、更に陸上機化、紫電/紫電改へ進化した。

(2002/8/29更新)
(2003/4/22更新)
川西 局地戦闘機 紫電二一型[紫電改] (N1K2-J)
水上戦闘機の強風を陸上機化したものの、未完成な点が多い紫電に全面改良を施した性能向上型。
エンジンは紫電と同じ誉21型だが、胴体を誉に合わせて細く再設計し、主翼断面は同一だが中翼から低翼とした結果、視界が大幅に改善された他、主脚が短くなったため不具合も減少、量産性も大幅に向上していた。
主翼に20o機銃4挺という強力な武装と充実した防弾装備を持ち、自動空戦フラップにより運動性も良好で、試作機では630q/hを記録した最高速度は誉21型の不調や運転制限のため、量産型では594q/hに低下、上昇力は6,000mまで7分22秒だった。
昭和18年12月末に試作機が完成、昭和20年1月に制式採用され、生産機の大半を装備した第343航空隊は昭和20年3月19日の米海軍艦載機迎撃戦を皮切りに、四国や沖縄で米軍機と熾烈な戦いを演じている。
後期生産型では垂直尾翼の安定板を縮小した他に、派生/性能向上型として、250s爆弾2発または60s爆弾4発装備可能とした二一甲型[改甲](N1K2-Ja)、機首に13.2o機銃2挺を追加した三一型[改一](N1K3-J)が量産され、三一型のエンジンを誉23型に換装した三二型[改三](N1K4-J)、三一/三二型の艦上戦闘機型である四一/四二型[改二/四](N1K3-A/N1K4-A)、二一甲型のエンジンをハ43-11型に換装した二五型[改五](N1K5-J)、二一型の操縦席後方に教官席を設け、武装を撤去した練習機型(N1K2-K)などが試作されている。

アイコンは、第343海軍航空隊戦闘第301飛行隊長 菅野直大尉乗機のマーキング

(2002/11/13更新)
(2003/8/9更新)
空技廠 陸上爆撃機 銀河一一型 (P1Y1)
昭和14年から進められていた長距離研究機Y-20計画を元に昭和15年夏から十五試陸爆として空技廠で開発された機体。
零戦並みの速度と一式陸攻並みの航続力、1t爆弾を搭載しての急降下爆撃ばかりか雷撃も可能という要求を実現するため、エンジンは試作中の誉11/12型を装備、乗員を3名に削減し、防御機銃を前方(20o)と後方(13o)のみとするなどして可能な限り機体を小さくまとめ、セミ・ファウラー式フラップ、急降下制動板としても使用可能な補助フラップ(彗星と同じ)、防弾燃料タンク、自動操縦装置などが採用され、最大速度548q/h、航続距離(過荷重)6019qという性能を発揮できた。
昭和17年6月に試作一号機が初飛行、昭和19年10月に制式採用されているが、生産自体は中島で昭和18年8月から開始されており、第521航空隊に配備された機体がマリアナ海戦に参加しているが、その後もエンジンの不調などに苦しんでいる。
派生/性能向上型として後方機銃を20o機銃に変更した一一甲型(P1Y1a)、爆弾槽内に下向き20o斜銃20挺を装備した多銃型などが量産され、後方機銃を13o連装とした一一乙型(P1Y1b)、一一乙型の前方機銃を13oとし電探を追加した一一丙型(P1Y1c)、誉23型装備の一二型(P1Y4)、誉21型装備の一三型(P1Y3)、ハ43-11型装備の一四型(P1Y5)、火星25甲型装備の一六型(P1Y2)、火星25丙型装備の一七型(P1Y6)、夜間戦闘機型(P1Y1-S/P1Y2-S)、桜花二二型母機などが試作され、胴体を太くして乗員を4名とし誉21型と4翅ペラを装備した三三型(P2Y3)、鋼製実験機などが計画されている。

(2002/10/19更新)
(2003/2/28更新)
空技廠 一八試陸上偵察機 試製景雲 一号機 (R2Y1)
中止に終わった十七試陸偵に代わって昭和18年から空技廠で開発が始まった試作陸上偵察機。
DB601を国産化した熱田30型を2基を並列に組み合わせた双子エンジンであるハ70に排気タービン過給器を追加したものを搭載、4mを超える延長軸で大直径の6翅プロペラ(当初予定されていた二重反転プロペラから変更)を駆動し、最大速度741q/hを発揮する予定だった。
層流翼、新案のインテグラルタンク、三輪式の降着装置、与圧式の操縦席などの新機軸が盛り込んで設計が進められていたが、設計が70%ほど進んだ昭和19年10月に整理対象機種となったが、景雲に当時開発中だったネ330を搭載してジェット攻/爆撃機化した景雲改(R2Y2)が提案され、空力特性調査の名目で試作再開が許可された。
昭和20年5月に排気タービン無しの試作一号機が初飛行したが、二度目の飛行試験中にエンジン火災を引き起こして緊急着陸、そのまま終戦を迎えた。

(2002/10/18更新)
中島 試作特殊攻撃機 橘花 一号機
ドイツから取り寄せられたMe262の資料を元に昭和19年8月から皇国二号兵器(一号はロケット戦闘機「秋水」)として開発が始まった日本初のジェット機。
ジェットエンジンについての基礎研究は空技廠において戦前から行われており、この時にもたらされたBMW003の資料とそれまでの経験を元に開発された軸流式ターボジェットエンジン、ネ20(推力475s)を搭載している。
機体のシルエットは参考にされたMe262に似ているが橘花の方が遙かに小型で、主翼の後退角も小さく、防空壕などに格納するため主翼は折り畳み式となっており、最大速度676q/hを発揮する予定であった。
試作一号機は昭和20年6月25日に疎開先の群馬県の養蚕小屋で完成、8月7日に千葉県木更津基地で15分間の初飛行を果たした。
しかし、8月11日に燃料満載・ロケットブースター装備で挑んだ2回目の飛行試験の際、離陸に失敗して破損、そのまま終戦を迎えた。
橘花は攻撃機として開発されていたが、練習機型や偵察機型、戦闘機型、更にエンジンを換装した性能向上型の開発も計画されていた。

(2003/1/6更新)
空技廠 特殊攻撃機 桜花一一型 (MXY7)
昭和19年から空技廠において「丸大部品」の名称で開発が始まったロケット推進式の小型有人爆弾。
一一型は一式陸攻を母機としたもので、軽金属製の胴体と尾翼に木製の主翼を取り付けた機体に、四式一号火薬ロケット(噴射時間9秒)を3基装備、機首に1.2tもの徹甲爆弾を搭載していた。
最高速度648q/h、航続距離37q(発進高度3,500m)と言う性能で、昭和19年9月に試作機が完成、昭和20年3月から実戦に投入されたが、米軍に大きなダメージを与えることは出来なかった。
派生型として、爆弾とロケットを省略した練習機型の仮称桜花練習用滑空機(桜花K-1)がある。
また爆弾を600sに減らした銀河搭載型の仮称二一型、爆弾を1.6tに、エンジンをツ11型ジェットエンジンに変更した仮称二二型、エンジンをネ20に変更した連山用の仮称三三型、仮称三三型の陸上基地発進型の仮称四三型、仮称三三型を飛行機曳航式とした仮称五三型などは計画のみで終わった。