サヴォイア・マルケッティ SM.84
 三発雷爆撃機S.M.79を全面的にリファインした機体で、1940年6月5日に初飛行している。
 イタリア空軍が雷撃機部隊を創設するにあたって、特に専用雷撃機として開発を命じたもので、当初SM.79bis、後にSM.94のナンバーが与えられたが、結局SM.84のナンバーで開発されることとなった。
 SM.79と比べると胴体背面が滑らかになり、上部にランチァ・デルタE旋回銃座を設け、またその射界確保のために双尾翼を採用している。
 装備エンジンもピアッジオP.XI RC40(1000馬力)に強化され、重量は2トンほど重くなっているにもかかわらず翼面積はほとんど同じなので高翼面荷重となっている。
 つまり、より高速を目指したわけであるが、最大速度はほとんど向上しなかった。
 それよりも、揚力不足による離着陸距離の増大、双尾翼の設計不十分による操舵性、方向安定性の問題、そしてエンジンの信頼性不足などから実戦部隊では嫌われた。特に低空での運動性に欠けることは雷撃機として致命的とも言えた。
 結局、SM.79を更新することはできず、SM.79はII、IIIと改良を重ねていくこととなる。
 1940年11月から1943年6月までに試作機1機を含む309機が発注されたが、実際に製作されたのは246機であったとされる。
 1941年2月に、まず第41グルッポ(爆撃)、続いて第36ストルモ(雷撃)への配備が始まったが、たちまち悪評が広まった。
 そんな中でも1941年9月には英戦艦ネルソンを損傷させたりもしている。
 しかし、1942年9月にはSM.84は雷撃隊から退き、爆撃隊と輸送部隊に配置されるようになる。
 また、この頃、雷撃照準を操縦席から行なうように改め、主翼の上反角を増し、魚雷投下器など細部をさまざまに改良したSM.84bisが試作されたが、やはり成績不良でSM.79IIIに敗れ、生産には入らなかった。
 1943年4月(6月ともいう)には、休戦を待たずに整理機種となり、生産は中止、発注済の分もキャンセルとなった。
 休戦後、ANR及びドイツ空軍ではSM.84を使用しようとはしなかったが、連合国側の共同交戦空軍では10機ほどを輸送機として使用し、新生イタリア空軍となってからも1946年いっぱいまで使用を続けた。

(文章:ダリオ・マナカジーニ)


機首下面の垂下式爆撃照準席と、胴体後方下部ゴンドラの雷撃照準席とに注目

魚雷の框板に注目

諸元
全幅21.13m
全長17.93m
全高4.59m
翼面積61.00m2
自重8,850kg
離陸最大重量13,300kg
武装12.7mmイゾッタ=スコッティ機銃*4 魚雷2本又は爆弾最大1600kg(胴体内爆弾倉最大1000kg)
発動機ピアッジオP.XI RC40 空冷星型14気筒 1000馬力
最大速度432km/h(4,600m)
巡航速度346km/h
実用上昇限度6,800m
航続距離1,830km
乗員4名 乗客10名

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