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ポテ-CAMS 161

 フランス航空省の構想による大西洋横断航路用の大型高速旅客飛行艇である。
 この新型飛行艇は20座席以上、航続6000km、平均300km/hで巡航し、更にこの速度は風速10mの偏西風に逆らって達成される必要があるというものであった。
 設計については、運用設備の関係上最大70トン、また安全性確保の観点から最小30トンという重量制限が課せられたが、それ以外は全て自由という条件である。
 ポテ-CAMSはこの構想に乗っかり、モーリス・ウーレ(Maurice Hurel)を長とする設計チームを立ち上げた。
 この計画はポテ-CAMS161の他、リオレ・エ・オリビエH-49(後にシュド・エストSE200となる)、ラテコエール631の三機種の競作となった。
 ポテ-CAMS161の設計案は1937年に航空省の承認を受けたが、前例のない超大型機ということもありポテ-CAMSは慎重を期してまず2.6分の1スケールの縮小モデルを製作することにした。
 この縮小モデルは1つ遡ってポテ-CAMS160のナンバーが与えられた。
 要目に下表に示すようなもので、座席はタンデム複座、40馬力エンジン6発、翼端フロートはそのままスケールダウンすると浮力が不足するため、引込み式として空気抵抗の帳尻を合わせてあった。
 ポテ-CAMS160は1938年6月10日にサルトルーヴィルで初飛行した。本機による各種飛行試験の結果は概ね良好で、ポテ-CAMS161の製作に自信を得た。
 ポテ-CAMS161はサルトルーヴィルで胴体・尾部・主翼の3つに分けられて製作が開始され、それぞれルアーブルに運ばれて組み立てられる手筈になっていた。
 1939年9月にフランスが参戦した時点では、それぞれのアセンブリはサルトルーヴィルで完成したばかりであった。それでも1940年4月にはルアーブルへ移送され組立ても始まったが、ドイツの侵攻により6月には作業は中止された。
 1941年3月、本機は民間機ということでヴィシー政府下に作業の続行が許され、ルアーブルで組立てた上、8か月あまりも放置されていたことからサルトルーヴィルに戻って整備の上、ベールに移動、F-BAOVの登録記号でヴィシーフランス空軍に属することとなった。
 しかし、これを協定違反としたドイツは本機を接収、VE+WWの記号でドイツ空軍機とした。とはいえ、所在は依然ベールであり、フランス空軍の管理下にはあった。
 1942年3月20日にはドイツの国籍マークのまま飛行試験が再開されたが、同年11月のヴィシー空軍消滅に伴い、名実共にポテ-CAMS161はドイツ空軍機となり、所在もボーデン湖に移動したが、ドイツ空軍は本機を利用せず、結局連合軍機の爆撃により損傷、機体は水没して失われた。

(文章:まなかじ)


CAMS161、ベールでの機影です。

諸元
160161
全幅17.69m46.00m
全長12.37m32.11m
全高3.41m8.87m
翼面積38.70m2261.00m2
自重2,275kg17,220kg
全備重量不明37,000kg
最大速度222km/h(950m)335km/h(1,500m)
巡航速度不明300km/h(4,000m)
実用上昇限度不明6,500m
航続距離不明300kg積載時8,200km
(積載150kg逆風10m時6,000km)
武装なしなし
発動機トライン4A-01 空冷直列4気筒40馬力イスパノスイザ12Y36/37 液冷V型12気筒920馬力
乗員2名4名(客室乗務員最大6名 乗客16〜20名)

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