51 フランクリン・D・ルーズベルトが病死したさいヒトラーが罵倒し、鈴木貫太郎が哀悼の意を表明したのは有名です。ヒトラーが死んださい日本・ならびに連合国はどのような生命をだしたのでしょうか。当時ヒトラーの自殺は詳しく判明していなかったのでスルーされたのでしょうか?
                                                
綺羅星

  1. ↑1
    ×生命→○声明
    綺羅星

  2.  ヒトラーの死が判明していたか否かについてだけですが、日本ではヒトラーの死亡は1945年5月2日に確認されており、新聞にて報道もされています。
    ドイツからの海外向けラジオ放送は行われていましたので、それなりに正確に欧州での戦況は知られていました。
     例えば、当時の朝日新聞の見出しでは、
    4月25日ヒ総統 伯林で奮戦 周辺から官庁街に砲火
    4月26日ベルリンを両断 市街中央部で手榴弾戦 市内半分以上を占拠
    4月29日ベルリン攻防戦 総統本営を攻撃 ヒ総統地下施設で指揮
    4月30日伯林増援軍を待望 全市四分の三占領 死の町を覆ふ大火焔
    5月 3日ヒ総統薨去す 後任にゲーニッツ提督
    と言う風で、5月3日にヒトラーの死は報道されています。
    外務省の外交資料である「1945年世界情勢の動向第十七報」では、
    『ヒットラー」総統薨去 五月二日午前九時五十分「ハンプルタ」放送ハ、独大本営特別発表トシテ、「ヒットラー」総統ハ一日午後軍指揮中死亡シタル旨並ニ「デーニッツ」元帥(独海軍総司令官)ガ、四月三十日、総統後継者ニ任命セラレタル旨放送セルガ、五月二日ノ独大本営公表ハ、「ヒットラー」総統ノ戦死ヲ確認シ左ノ如ク述ベ居レリ。 「ヒットラー」総統ハ独逸ノ首都ノ英雄的防御者ノ先登ニ於テ戦死セリ。総統ハ独国民及世界ヲ「ポルシエヴィズム」ニ依ル破壊ヨリ救ハントノ意志ニ充チテ徹底的ニ戦ヒ抜キ、最後ノ瞬開迄真理ニ忠実ナリキガ総統ノ不 ノ努力ハ永遠ニ独逸兵士ノ 鑑トシテ輝カン。』
    とあり、新聞報道の前日2日に確認している事が判ります。
    因みに、新聞報道では5月1日位からドイツの降伏説が報道され始めています。
     日本の公式資料にもヒトラーの死は、薨去という皇族または三位以上の貴人の死を示す言葉を用いていますので、ヒトラーの死は一国の王の死と受け止められていたのではないでしょうか。



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