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マレー沖海戦で戦艦が2隻撃沈しましたが、後の戦訓を見てみると戦艦は沈みにくい船で大和型も1日中ないし多数の航空機によってようやく撃沈しています。 質問は、マレー沖海戦でなぜプリンスオブウェールズやレパルスを撃沈できたかがの要因や沈没原因が知りたいのです。 wikiでも分かりませんでしたので、どなたか教えていただけないでしょうか? 葛葉 |
- 天一号作戦海上特攻隊[1YB主力(大和2sd)]戦闘詳報の記載では天一号作戦での大和は一三〇〇頃から雷爆撃を受け始め、一三三七には大傾斜で戦闘能力を喪い、そのため一三四五には突入作戦中止を決心、ほぼ無抵抗の状態となったまま一四一七に横転爆発しています。
大和は敵第一波攻撃開始からせいぜい30分程度しか反撃できていないことになります。
戦訓といえば、大和のような大戦艦でも航空攻撃を受けるとほんの30分で処理されてしまうという事実に対して、天一号作戦海上特攻隊戦闘詳報の「戦訓」にはちょうど良い記述があります。
第八 戦訓
一.用兵一般
(イ)制空権を有さざる艦隊の脆弱なるは既にマレー沖海戦以来幾度かの戦闘に於て実証せられたる処なり。故に此れが使用に当りては特に左の点を考慮するを要す。
(一)完全なる制空権を確保し得ざる場合といえども突入まで強力なる直衛機を附し勢力の保存を期す
(二)極力天象を利用す
以下略
「荒天や夜襲でもなく昼間に友軍航空機の直衛を欠いたまま一方的な航空攻撃を受ければプリンスオブウェールズも大和も同じ目に遭うのは当たり前で、そんなことは以前から解っていたことなのに・・」と言っているのです。
大和も特別な軍艦ではなく、プリンスオブウェールズもまた開戦前に海軍航空隊が予測したようにまとまった機数で攻撃すれば撃沈できる軍艦だったということです。
BUN
- 千早正隆著「日本海軍の戦略発想」プレジデント社刊の104頁に「戦争中期から後になっても、日本海軍の対空砲火一門の定数は驚くなかれ、高角砲二百発(約十分間)、機銃約千五百発(約十分間)であり、これが供給される全量であった。しかも、その後にどんなに消耗しても、ふたたび補充は受けられなかった」と記されています。これが本当であれば、レイテで弾丸を相当消耗していた筈の大和が、武蔵に比べてあっさりと撃沈されたわけが判ります。
次に、プリンスオブウェールズは、両用砲の筈の副砲が、発射速度が遅すぎる等対空砲としてたいして役にたたなかったのもあっさりと撃沈された理由の1であると思います。また、大和型に比較して艦幅が狭いのも、魚雷に対して弱くなるため、武蔵に比較してあっさりと沈んだ一因と思われます。
次に、レパルスは溶接でなく完全なリベット構造であるため、これも一因と思われます。なお、POWについては、構造がリベットか溶接かは、小生は知りません。
UK
- >2 捷一号作戦で対空弾を消耗したから天一号作戦時、大和に対空弾が無かったということでしたら、さすがにそれは勘違いです。ご紹介の本もそのような意味で書かれてはいないと思います。
捷一号作戦で大和は角砲弾を3765発、25mm機銃弾を85897発消費しています。これを補充しない訳には行きませんね。
プリンスオブウェールズは新戦艦の沈没というショッキングな事件でしたから、溶接構造が仇になった、水中防御に欠陥があった等とも憶測されましたが、詰まる所はトン数相応の防御であったと判断されているはずです。
BUN
- 艦側の問題は分かりましたが、それを実際に操艦する側はどうなのでしょうか?
大和も森下が操艦の名人であったのに対し、有賀は熟練時間が足りなかったそうです。
葛葉
- 航空機の大群から集中j攻撃を受ける中で操艦技術がどれだけの意味を持ち得たでしょう。
BUN
- >2
少なくとも昭和20年春の段階では、日本海軍の対空射撃はほかに支障ない限り積極的に行われているように思えます。これは特務艦のようなものまで含めてです。
3月19日呉・柱島方面艦載機空襲への対空砲火(大和周辺を含む)を攻撃側が評して「並ぶ弾煙の上を歩けるよう」と報告しています。米軍機の被弾率もそれなりのものがあります。
それに比べれば4月7日にはかなり程度が低かったともいわれていますが、「それは近くに陸上砲台がなかったから(つまり相対的砲門数自体が少なかったから)だ」と米軍側も理解しています。
片