262  軍事に限った内容ではないのですが、幕末前の日本の航法について質問します。幕末期に洋式の近代的航法が西洋(主にオランダからと思いますが)導入されましたが、それ以前の日本の航法はどのようなものだったのしょうか。
 幕末前の日本の航法というと初歩的な地文航法のイメージがあります。例えば、出発地と目的地が遠く離れていても同一の海岸線上にあれば、その海岸線を常に視界に捉えていれば、いつかは目的地に着ける。また、目的地が出発地から見えない島であっても、島伝いに行ける。つまり、まず、目的地から見える第一の島に接近します。すると、第二の島が見えてくる。そして、その第二の島に近づく。すると第三の島が見えてきて・・・、という具合にして、目的地の島に到着する。
 しかし、幕末前でも、そのような地文航法では行けないような他の陸地から遠く離れた島とも往復していたのではないでしょうか。では、その場合、どのような航法を行っていたのでしょうか。

二一斎

  1.  江戸初期、鎖国が完成されるまでは、日本船も呂宋(今のフィリッピン)や安南(今のベトナム)、暹羅(今のタイ)等に行っていました。
    その頃の航海教本である「元和航海書」では、観測機器を使用して毎日正午の太陽高度を知る表なども載っていて、少なくとも遠洋航海を行う事が出来るレベルの天文航法術がありました。
     これが鎖国のお陰で、どんどん廃れて行くと言うか進歩しなくなります。
    鎖国の為に国内航路だけとなるので、地文航法がメインとなり、ほとんどの船頭が天文航法を行わなかったり、天文航法自体知らないという事になります。
    ただ、文化年間に出された「海路安心録」では赤道・緯度・経度・磁石の読み取り方・方向表の事が書かれていたりするので、識者レベルでは天文航法が知られていました。
    又、天保年間に書かれた「廻船用心記」 には天測の方法が図示されていたりしています。
     以上の様に、幕末前でも天文航法の知識は書物的にはありました。しかし、大多数の船頭は知らなかったと言えるかもしれません。
    例えば、文化10年(1813)に大時化に遭遇し、メキシコ沖まで漂流し、英国船に助けられた尾張の督乗丸の船頭が船長日記という漂流時の記録を書き残しています。
    その中の一節に『異国の船ハ万国の地理にくハしく、 磁石と天文とを以て、 万事をはかり知る事なるを、 本朝の船乗り、 さるわざハしらず』とあり、船頭(船長と言い換えても良いでしょう)が天文航法を知らなかった事が判ります。
    1200石船と言えば、当時の日本の商船としては最大級ですから、その船頭が天文航法を知らなかったと言うのは、他の船頭の天文航法への知識も推して知るべしかもしれません。
     ただ、江戸中期に八丈島より遠くの無人島を幕府が探検していますが、その時の記録からは天文航法を用いていた事が判りますので、一部の船頭は天文航法を用いていた事も判ります。



  2.  伸様、早速のご回答、有難う御座います。そうです、戦国期には、呂宋助左衛門や山田長政等の海外へ雄飛した日本人がいたのですよね。当然、遠洋航海はできたはずです。失念しておりました(^^;)。
     その後の、我が国の航法技術に関しては伸様のご教授により状況が掴めました。伸様のご説明は要領よく、また資料に関する記述および内容の引用が適切かつ分かりやすく、大変に参考になるとともに、その博識に感服いたしました。重ね重ね御礼申し上げます。また同時に本ワーバードの投稿者の方々のレベルの高さに大いに驚いております。これからも宜しくお願いします。

    二一斎


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