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利根型巡洋艦は何故砲数を減らしてまで水上機の搭載増大したのでしょうか。 よく言われる話として、「水偵による策敵能力したから」という話は聞きますが、なぜ砲数削減水偵増大を選んだのか、最上や高雄と同じでは何故足りないという結論に至ったのか疑問に思えるのです。 やはり、十二試水偵をできるだけ多数積みたいが為に利根はあのような形になったのでしょうか。 それとも十二試水偵開発とは全く関係無く、別の意図があったのでしょうか。 天ヶ崎 |
- 利根型は、昭和9年度の丸2計画での計画艦ですから、十二試云々とは関係ないでしょう。
利根型の原案は昭和8年6月に軍令部でまとめられました。
原案では15.5cm三連装砲塔5基であり、基本的には計画基準排水量8500tの最上型を計画基準排水量8450tで建造しようというものでした。
それが航空巡洋艦的な計画に変更されたのが丸2計画が成立した頃と同じ時期の昭和9年3月頃と言われています。
この経緯から見ても十二試云々は関係ないと言えるでしょう。
因みに、利根型が新造時に計画されていた搭載機は九四式水偵(三座)2機と九五式水偵(複座)4機です。
仮称第5・第6中型巡洋艦と言われた利根型は、昭和11年改正要求後の要目では15.5cm三連装砲塔4基となっており、搭載航空機は6機となっていました。
砲塔数を減らした経緯は確たる文書類が未だ発見されていないので諸研究者の推測となりますが、四つ程の説があります。
1.最上型の失敗の経験から、この程度の大きさの艦に砲塔5基は過大であるから1基を減じ、砲塔を前部に集中配備する事により防御の集中化による強化と砲撃命中率の向上を図った。
2.A−140(大和型)が主砲の前部集中配備の案を検討していた為に、その事前検証艦として計画が変更された。
3.艦隊決戦の前に、敵艦隊の所在を偵察し行動を報告する為の偵察巡洋艦が必要になり、利根型は偵察巡洋艦とする為に計画が変更された。
4.漸減邀撃作戦で潜水戦隊を指揮する旗艦が必要となり、利根型をその目的に合う様に計画を変更された。(4は上述の3の任務を含むと考えても良いかもしれません)
伸
- 当時の軍令部資料では、利根型は「航空巡洋艦」/「偵察巡洋艦」の両呼称で説明されているという資料もあるので、偵察巡洋艦として計画された可能性が高いかと思います。
但し潜戦旗艦については、すでに昭和八年の段階で「潜戦旗艦は単独で敵制空権内に突入するため、通常型巡洋艦では早期に敵航空機の攻撃で行動不能とされる」と判定されているので、利根型がこの任務のために建造される可能性はまずありません(大淀型に至る潜戦旗艦の初期構想が、当初防空巡洋艦型式の艦として検討されるのは、「敵制空権下で敵機の攻撃を排除しつつ作戦を行う」ためであります。これが変わるのは旗潜型が戦列化されて以降のことですね)。
因みに軍令部が出した改正要求での利根型の搭載機数は、総数六〜八機とされており、その内訳は二機〜四機が長距離偵察用の三座水偵で、四機が対潜哨戒に当たる二座水偵とされています。
この時期巡洋艦の二座水偵を攻撃任務に投じることが検討されているのは確かですし、妙高型や高雄型が改装時に水偵用の25番爆弾用の爆弾庫を設置しているのはその一環です。だがそれはあくまで「巡洋艦搭載機を敵艦隊攻撃用の戦力とする」という構想に基づくもので、十二試水偵の開発もそれに基づく物です。
故に利根型があの形となったのは、単に「一二試水偵を多数搭載するため」ではなく「攻撃戦力となる二座水偵と、偵察用の三座水偵を必要数搭載するため」と考えた方が良いのではないか、と個人的には思う次第です。
大塚好古
- >2 実際に、完成時の筑摩を使って艦載機の最大搭載試験を行っていますが、三座水偵4機、複座水偵4機の計8機という結果が出ていますね。
最上型が計画搭載機4機であった所を新造時に3機に減るという事があったりしたので、航空艤装についても色々と詰め込みすぎた最上型を反省材料としたのではないかとは思うのですよね。
伸
- 伸さん、大塚好古さん、ありがとうございます。
今一度確認させて頂きたいのですが、最上型以前と利根型で与えられた、期待された任務は異なるということなのでしょうか。
天ヶ崎
- 大枠でみれば、『利根型も最上型以前の重巡と同じ任務を期待されていた』と言えるでしょう。
昭和12年の無条約時代に対応する為に、昭和11年6月3日に国防方針第三次改訂が行われます。
この改訂での海軍の所要兵力量の内、巡洋艦については外線部隊に重巡20隻、軽巡8隻、水雷戦隊旗艦用軽巡6隻、及び潜水戦隊旗艦用軽巡7隻を配備するというものでした。
この時点での保有している重巡は、古鷹、青葉、妙高、高雄各型の計12隻。条約明けに20.3cm砲に換装する予定の最上型を加えても14隻。建造中の最上型、利根型を加えても昭和14年までに18隻という内容でした。
つまり2隻程、所要兵力量より足りない訳です。
しかも古鷹、青葉各型計4隻は、近い将来に艦齢満限により第一線任務から退く事になる事が判っていたので、その代艦も必要になります。
よって重巡だけでも昭和12年か十年間位で6隻を建造する必要があると考えられていました。
(蛇足ですが、軽巡についてはもっと状況が悪く、この時点での保有数は準重巡と言うべき最上型を除いた数で17隻。この段階で所要兵力量より4隻程足りません。更に追い討ちをかける様に、近い将来に艦齢満限になる艦が17隻全部。昭和12年から10年間位で6000t級軽巡を21隻は建造する必要があると考えられていました)
この兵力を如何に運用するかという案も当然あり、改定案が粗方決まっていた昭和11年4月17日に軍令部第一課において、建艦が終わった昭和22年位を想定した艦隊編成案である『国防所要海軍兵力整備後の艦隊編成予定案』というものが作られていました。
この編成案も見ると、前進部隊である第二艦隊に重巡4隻を一個戦隊とする戦隊四個16隻を配備するとあり、利根型もその重巡戦隊を構成する艦となっていました。
因みに、第二艦隊の主な任務は夜戦による漸減作戦や索敵、偵察となります。
つまり、利根型が計画建造されている時点では、他の重巡と変わらない任務を期待されていたと言えると思います。
利根型の次は改最上型とも言える伊吹型だから利根型は別物じゃないかと言うかもしれませんが、昭和14年の丸4計画で軍令部は13,000tの改利根型を要求しています。これは海軍省との協議の段階で、予算の問題等で削られてしまいます。この時点で軍令部は、少なくとも利根型(+改利根型)を一個戦隊4隻は揃えようとはしている訳です。
伊吹型は次の昭和16年の丸急計画での計画艦だったりします。
補足として、開戦前までの重巡の艦載機の運用例を述べると、先ず重巡の任務は次の三つになります。
1.敵情の偵察
2.戦勢の観測
3.弾着観測
運用としては、敵との予想距離が300海里前後で三座水偵を発艦させ敵の発見(敵情の偵察)に努め、150海里まで敵との距離が縮まると複座水偵を発艦させ戦勢の観測を行い、敵との距離が75海里前後で複座水偵の二号機を発艦させ自艦の弾着観測を行うとしていました。因みに複座水偵に三号機がある場合は、砲戦開始直前まで残置させておき予備機とするのが普通でした。
コレが重巡の艦載機数の3機(三座1機、複座2機)や4機(三座1機、複座3機)に反映されています。
敵情の偵察任務等は、利根型以前の重巡でも普通に行われる任務であり、利根型だけが特別という訳ではありません。
この時点では仮想敵たる米重巡は水偵4機の搭載だったりしています。艦数の不利=偵察機数の不利と考える事も出来るので、数の不利を解消する為にも水偵を数多く搭載できる航空巡洋艦が望まれたのかもしれません。
伸
- こんなに詳しい回答を頂きありがとうございます。
気づくのが遅れて申し訳ないです。
成るほど、古鷹型の代艦と考えれば砲力は低下どころか強化された形になるわけですね。
戦勢及び観測を行うに上で複座機を従来の重巡よりもっと欲していた、米重巡対抗、などの意味合いから搭載数増大が望まれたということなんですね。
天ヶ崎