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巡洋艦夕張について疑問点が有り質問させて頂きます。 「小型巡洋艦の量産による建艦費の削減」が目的で計画建造されたと説明されてますが「小型巡洋艦の量産」で建艦費の削減を図るなら天龍型の量産でも良かったのではないかと思います。 何故天龍の量産でなく夕張が出て来たのでしょうか? 又5500t型のサイズダウンの実験艦とも言いますが5500t型は天龍を元に設計された艦なので逆に天龍型は5500t型のサイズダウン艦とも言えるのではないかと思います。 天龍型が有るのに5500t型のサイズダウンの実験など必要有るのでしょうか? 以上の疑問点を質問させて頂きます。 皆様のご教示を頂ければ幸いです。 艦船ファン |
- すみません
私のHNは軍艦ファンです。
艦船ファン様大変失礼しました。
お詫びします。
軍艦ファン
- 夕張は5500トン型と同等の片舷砲雷力(14cm砲×6門、61cm発射管×4門)と速力(35.5ノット)を最小排水量で実現せんとしたモノで、同等排水量で5年前に起工の天龍型(14cm砲×4門、53cm発射管×6門、33ノット)よか遥かに有力です
駄レス国務長官
- あと紛らわしいHNは使用を控えてください
駄レス国務長官
- まあHNですから似たようなものがあっても不思議ではありませんし、どちらが先か後かなどと言っても仕方がないことですね。 お互い間違えられるのがイヤなら変えれば良いだけで、所詮はHNなのですから。
それはともかく、
「夕張」は質問者の方が仰るような「量産」は初めから考慮されておらず、基本的に単なる試験艦であり、実験艦です。
したがって、「ジェーン海軍年鑑」が騒いだとされるカタログスペックはともかくとして、本来あるべき軽巡としての実用性・汎用性には乏しく、所詮は「嚮導駆逐艦」並のものに過ぎないものでした。 したがって、5500トン型軽巡の後継としての量産には全く向かないことは明らかです。
早い話が、悪く言えば平賀譲のオモチャに過ぎません。 この後の「古鷹」や「青葉」などにその設計手法が活かされた、などとの所見もみられますが、試験艦・実験艦であれば別に不思議でもなく、それだけのことです。
むしろ旧海軍の戦力上からするならば、5000トン型軽巡の正当な後継を早く量産すべきで、「阿賀野」型などは遅きに失していると言えでしょう。
艦船ファン
- >4.
自己レスで申し訳なし。 ミスタイプです。
5000トン型軽巡の正当な後継 → 5500トン型軽巡の正当な後継
艦船ファン
- 「夕張」(3,100トン型)は八八艦隊整備中の大正10年4月に海軍大臣および艦政本部長より建艦費節減の指示を受けた平賀が同年6月12日に意見具申した計画に基いて1隻のみ急造されたモノで、その設計目標は>2.に述べたとおりです
同具申書には節減対象として「加古級以後大正十六年度迄ニ建造セラル可キ軽巡洋艦ノ総数ハ十三隻ナリ」として、1隻当り節減分640万円、13隻分合計8,320万円を見込んでます
同具申書の末尾にはまた、当面次年度起工分の4隻(加古・神通・川内・那珂)のみに新艦型を用い、この成績によって以後のモノを決定するとも書かれており、取りあえず4隻分合計2,560万円の節減を見込んでます
したがって「夕張」は
・試験的色彩の強い艦ではあるが、試験のための試験艦ではなく、量産を前提としたモノであり
・1隻のみの建造に終ったのは華府会議以降の全般情勢変化による結果(巡洋戦艦代替のための甲巡整備を優先)であり
・華府会議が決裂して八八艦隊が整備継続となれば、最低3隻の同型艦が誕生し、残り9隻はその改型となった可能性が高い
・・・と考えられます
駄レス国務長官
- >6.
>「加古級以後大正十六年度迄ニ建造セラル可キ軽巡洋艦ノ総数ハ十三隻ナリ」
ということで、その量産型に備えての模索のために「夕張」が使われたわけで、「夕張」そのものを量産するのとは違います。
そして平賀譲によって実験のための実験艦、試験のための試験艦として設計されたからこそ2番艦以降が建造されなかったわけで、別にワシントン会議の結果だけの問題ではありません。 すでに量産に入っていた「川内」型が3隻で中断されたことの方がその明らかな結果といえるでしょう。
平賀自身には、上手く行けば量産との期待は片隅にあったかも知れませんが、それよりもなによりも自分の“オモチャ”を作ることしか頭には無かったでしょう。 実際出来上がったものがそのとおりのものですから。
この「夕張」が1隻で終わったことについて、平賀譲るの直系を自慢する福井静夫自身がその著の中で「ここに夕張の謎は、以前として残るのだ。」とお茶を濁しているとおり、初めから平賀が量産する気の無かったことは明らかです。
そもそも「夕張」そのものが量産型なら、「川内」型が計画され、8隻の量産が予定されるわけがありません。
加えて言うなら、こんな艦が量産されたら使う方は堪ったものではありません。 1隻だけの実験艦・試験艦だからこそ良かったのです。 短なるカタログスペックの優秀性と、実際に使う側にとって優秀な戦力として使えるかどうかは別の話ですから。
艦船ファン
- >7.
>その量産型に備えての模索のために「夕張」が使われたわけで、「夕張」そのものを量産するのとは違います。
「その量産型」とはどういうモノですか?
当該文書の問題の部分は
加古級以後大正十六年度迄ニ建造セラル可キ軽巡洋艦ノ総数ハ十三隻ナリ
加古級一隻噸当り 2,800円
加古級一隻建造費 1,570万円
新艦一隻噸当り 3,000円
新艦一隻分 930万円(つまり3,100トンですね)
一隻ニ対スル建造費節約 640万円
十三隻ニ対スル同上 8,320万円
ですんで、量産対象は3,100トン型であることは文脈より明らかです
ちなみに上記節減分は「最後の巡洋戦艦4隻」の排水量増大分(42,600→47,500トン)による増額分3,530万円をカバーしてなお余りあるとの見込です
>そもそも「夕張」そのものが量産型なら、「川内」型が計画され、8隻の量産が予定されるわけがありません。
「川内型8隻」と言うのはあくまでも大正九年度の予算上のコトで、情勢の変化による艦型変更は当然有り得ます
つーコトで平賀の当初の意図は3,100トン型量産による建造費の主力艦への転用であり、出来上がった「夕張」の運用評価はまた別の次元のハナシで、お題とは関係ありません
駄レス国務長官
- >「その量産型」とはどういうモノですか?
それはこちらがお聞きしたいですね。
>八八艦隊が整備継続となれば、最低3隻の同型艦が誕生し、残り9隻はその改型となった
などは量産とはいいませんから。
>当該文書の問題の部分は
単なる自分のオモチャを作るための言い訳でしょ? そして実際に、設計そのものも、出来上がったものも、量産を意図するものでもそれに適するものでも全くないわけですから。
>お題とは関係ありません
関係なくはないでしょう。 予算獲得の弁明以外に、どこにも量産型であるなどのものはないのですから。 そんな弁明を採り上げて量産を意図していた、などというのなら、どんなものにでも当てはまりますね。
艦船ファン
- 自分で言い出しておいて
「それはこちらがお聞きしたいですね。」
なんて言い草が何処にありますか?
いささか冷静さを欠いておられるようですので、少し表の風に当たって来られては如何でしょうか
駄レス国務長官
- >予算獲得の弁明以外に、
「夕張」自体の建造費は大正六年度の追加予算に計上されてますんで、大正十年の当該文書が「予算獲得目的」とのご指摘は的外れと思われます
駄レス国務長官
- >11. & 12.
>なんて言い草が何処にありますか?
>少し表の風に当たって来られては
そのような文言が貴殿からここで出てくるとは。 もっともここは議論の場ではないので、どうやらこれ以上は無駄ですね。
>「川内型8隻」と言うのはあくまでも大正九年度の予算上のコトで、情勢の変化による艦型変更は当然有り得ます
はい、「夕張」型量産に切り替えるために打ち切ったのではありませんね。 ワシントン会議の結果としてですから。
海軍として戦闘威力大として数多くする“希望”はありましたが、それが「夕張」そのものではなく、それを踏まえての次の話でしょ? 誰も「夕張」そのものが量産されるなどとは考えていませんから。
もちろん、2〜3隻造ってみるなどは“量産”とは言いませんし、初めからその「改造型」を考慮することも「夕張」型の量産の意図とは言いません。 しかもその2〜3隻の具体的な動きさえなかったのですから。 量産の動きが伴わなければ、その「量産」の意図を証明するものはない、と言わざるを得ないでしょう?
>ご指摘は的外れと思われます
何が的外れなんです? 元々が「球磨」型の1隻として計画され、大正6年に予算が決まり、大正10年に平賀文書が出たからといって、それは平賀譲のオモチャを造るためのための弁明にしかなっていないことは事実が物語っているでしょう?
旧海軍の艦艇建造の流れを見る限りは、平賀譲自身が出した自分のオモチャの弁明書だけでは“量産の意図”があったことの証明にはなりません。 実際、例えば福井静夫でさえ「実用試作艦「夕張」」と写真集のタイトルにも著しており、かつその一連の著作の中で「量産を意図したが」などどこにも出てきませんので。
既に提示された平賀文書以外に、他に海軍として「夕張」型そのものの量産の意図を示したものがあれば、それは是非ともご教示下さい。 特に「川内」型と同時並行建造の理由を示すものを。 博学な貴殿のことですから、必ずやその量産の意図を裏付ける旧海軍史料をご存じでしょうから。
当方はこれで終わります。 あとは上記のものを貴殿がご教示下さればそれで結着が付きますし、もし出なければご質問者さんがここまで進んできたものをどのようにご判断されるかにお任せすればよろしいことですので。
艦船ファン
- >そのような文言が貴殿からここで出てくるとは。
当たり前でしょう
「その量産型」なるモノの基本スペック一つ提示なさらないで断定的に論を進めようとなさるんですから
>誰も「夕張」そのものが量産されるなどとは考えていませんから。
平賀は命令者の海軍大臣および艦政本部長に対して上記具申書を報告し、その結果、先行1隻の急速建造が裁可されてるコトはお分かりですか?
とうぜん上手くいったら同型艦の増備でしょ(実際は期待に反しましたが)
またしきりに「オモチャ、オモチャ」と言われますケド、当時の日本海軍は(てか何処の海軍でも)計画主任の道楽を許す環境にはありません
>実際、例えば福井静夫でさえ「実用試作艦「夕張」」と写真集のタイトルにも著しており、
福井氏は遠藤氏と比べると平賀文書にあまり精通してなかったようですケド
>特に「川内」型と同時並行建造の理由を示すものを。
平賀は上記具申書で「加古級以降が置換対象」と言ってますので、川内型3隻との同時建造はなんら否定材料にはなりません
失礼ながら「平賀〜福井憎し」の先入観でもって日頃の明晰さがいささか曇っておられるのではないでしょうか
駄レス国務長官
- >6.と矛盾しますので下記は撤回します
「平賀は上記具申書で「加古級以降が置換対象」と言ってますので、川内型3隻との同時建造はなんら否定材料にはなりません」
ただし着工時期は前後してますが竣工は川内型3隻の進水前ですから「同時建造」と言うのもどうかと
駄レス国務長官
- >13. 14.
結局今のところ他には出てこないというころですね。 では、先のとおりあとはご質問者の方のご判断と言うことで。
なお、老婆心ながらお口には少々気を付けられた方がよろしいですね。
艦船ファン
- >15.
ご忠告、痛み入ります
貴台におかれましても「夕張」「平賀譲」「福井静夫」を「3100トン型」「計画主任」「後世史家」と読み替えるなどして、特定ワードに過剰反応するコト無く、歴史的事象に対して客観的かつ中正な評価を下されるよう期待申し上げます
駄レス国務長官
- 横から失礼致します。
5500トン型軽巡洋艦の後継艦というのは二通りの案があったのでは?
平賀案から建造された夕張、艦政本部造船部巡洋艦班による5600トン型の。
後者は純粋に5500トン型の拡大改良型で、基本的な艦型を5500トン型と同じにしつつ、連装砲を採用する等の合理化で総合力を高めた艦と私的には解釈しているのですが。
艦型を5500トン型と同じタイプとすればある程度の量産効果も見込めるでしょうし、将来的な発達余裕も夕張より上でしょう。
大正10年に検討されている事から当初より平賀案と艦政本部案の二通りがあり、5500トン型の正統進化型と呼んでよい5600トン型(量産効果等は計算しやすいでしょう)と違って、まったくの新設計から建造される事となる夕張は作ってみなければ実際の建造コスト圧縮や性能を評価する事は難しいと思います。
1番艦である夕張をそのまま量産化するかどうかはさておき、技術的妥当性と想定される建造コスト圧縮が現実として可能かどうかを確認する為に試験的に建造した、という見方は可能だと思うのですが、いかがでしょう?
そして想定通りのコスト削減が達成され、使用実績が良好であれば夕張型が量産されてもおかしくはないかと。
無論、その場合でも5600トン型との比較検討はなされたのではないかと思いますが。
5600トン型>基本艦型を5500トン型と同様とし、主砲を14センチ連装4基として配置を合理化、魚雷発射菅を連装6基(片舷3基)へ強化した艦。
主砲配置は艦橋前に背負い式に2基、後部マストの後ろに背中合わせに2基。
薩摩
- >17.
>平賀案から建造された夕張、艦政本部造船部巡洋艦班による5600トン型の。
のちの金剛代艦のトキと同様のシチュエーションってワケですね
平賀が俄然ファイト燃やしそうであります
>いかがでしょう?
新開発的要素の多い3100トン型1隻(夕張)を先行試作してコストと性能の達成度を早期に検証するというコトでしたら全くその通りかと
あと宜しければ「5600トン型」の出典を開示いただければ有り難く
駄レス国務長官
- >17.
「夕張」の位置付けについては仰るとおりと思います。
>夕張をそのまま量産化するかどうかはさておき、
>現実として可能かどうかを確認する為に試験的に建造した
堅実な量産用の路線は既に持っているわけですから、ともかく強情な平賀にやらせてみよう、ということであって、当初からその「夕張」の量産を念頭に置いたものではありませんね。 そして全てはその通りに動いています。 実験・試作艦と量産の延長の二本線で。
艦船ファン
- >>18
最初に見たのは遠藤昭氏の日本軍艦発達史だったような記憶。
現状、手元にないので確認が取れません。
手持ちで言及されている書籍は「未完成艦名鑑1906〜45」でしょうか。
こちらには1921年に検討された次期主力軽巡洋艦となっております。
何れも一次資料ではなく一般書籍であるため、出典として信頼性がないと言われてしまえばそれまでですけれども。
個人的には夕張という巡洋艦、あくまでも実験・試験艦的要素のカタマリであってどうしても量産を前提にしているとは思えないんです。
新技術を詰め込むコトで生じるリスクの方が圧倒的に大きく、実際排水量過大や峰風型駆逐艦よりも短い航続距離といったマイナス面がかなりありますし。
これらの問題が露呈する前に量産を前提とした予算を組んでいるというのは正直考えにくいです(まして急速建造であれば尚更完成を待って確認する心算だったと思われますし)。
5600トン型の詳細設計が完了していない段階では夕張を基準とした予算を組むしかなく、完成後の結果次第では予算の振り替えを行う事を前提としていた可能性が高かったのではないかと私は考えております。
薩摩
- >19.
>堅実な量産用の路線は既に持っているわけですから、ともかく強情な平賀にやらせてみよう、ということであって、
ある程度の成算が見込めるから海軍大臣も建造を裁可したワケで、計画主任のオモチャのために国費を投入するほど当時の日本海軍がノーコントロールであったワケではありません
上層部が建造不要と思えば計画主任に別の仕事を命ずれば済むコトで、実際に二ヵ月後の大正10年8月には米オマハ級をベンチマークした7100トン型を意見具申してるワケですから
(まさか7100トン型も計画主任のオモチャとは仰らないでしょうね)
あと「堅実な量産用の路線」とは5500トン型のコトと思われますケド、別の見方では十年一日、米オマハ級(第一艦は大正9年12月進水)により一気に陳腐化する体のモノです
>そして全てはその通りに動いています。 実験・試作艦と量産の延長の二本線で。
3100トン型の詳細設計に時間が掛かるのと、船台を長期間空けないため、とりあえず川内型3隻の建造を訓令したのは現実的な判断でしょうが、もしも華府条約が不調に終って八八艦隊の整備が継続され、3100トン型がある程度成功していれば、川内型が予算どおり8隻揃うかどうかは予断を許しません
あと計画主任は3100トン型を当初“New Special T.B.D.”つまり「新特型駆逐艦」と呼んでましたが、いかにも用兵側が感情的に反発しそうなネーミングですね
(軽巡に乗れると思ってたのに駆逐艦を造るとはケシカラン・・・とか)
>20.
>最初に見たのは遠藤昭氏の日本軍艦発達史だったような記憶。
ご教示有難うございます(そう言や書店で見た記憶が)
遠藤氏は福井氏より一次資料にアクセスしてるとは思いますケド、記事の裏が取りにくいのが難点ですね
まぁ計画主任の3100トン型のほうが本気度で遥かに上だったってコトでしょう
>これらの問題が露呈する前に量産を前提とした予算を組んでいるというのは正直考えにくいです
じゃなくて艦型縮小によって既得予算の節減・転用を図るって主旨ですから
>個人的には夕張という巡洋艦、あくまでも実験・試験艦的要素のカタマリであってどうしても量産を前提にしているとは思えないんです。
ようは設計目標と手持ち技術との乖離が思いのほか著しかったってハナシだと思いますケド
駄レス国務長官
- >21.
別に貴殿にお答えいただく必要もなかったコトですが、わざわざ書き込んでいただいても当初の「夕張量産」の証明の補足には何にもなっていないんですケドね。 (ただ反論してみたかっただけ・・・とか)
ご返答は不要ですのでお気遣い無く。
艦船ファン
- >22.
お手すきのお時間がございましたら「ともかく強情な平賀にやらせてみよう」と書かれた文書資料などゼヒご紹介くださいませ
駄レス国務長官
- >23.
その様な文書を探すまでもないコトでしょう。 どうぞ『海軍造船技術史概要』でもゆっくりお読み下さい。 旧海軍の造船屋さん達自身でさえ、「大正10年ニ至リ此ノ中ノ9番艦ハ予定ヲ変更シテ3100瓲試作型ニ振替ヘテ夕張ニナツタ」と明確に書いていますケド もっとも、貴殿が拘る文書1つをもって「夕張」そのものの量産を意図していた“新発見”とあくまでも言い張られるのは貴殿の勝手ですケド
再度申し上げますが、ご返答は不要ですのでどうぞお気遣い無く。 デハ
艦船ファン
- >24.
『海軍造船技術史概要』は戦後にまとめられたモノで同時代資料ではありませんね
「夕張」の製造訓令前のモノをご紹介くださいませ
あと文体を真似するのはご遠慮願いたいモノであります(偽者の嫌疑が掛かります)
駄レス国務長官
- >24.
途中一つ入ってしまいましたが、先の >24. に続けて、質問者の方及びここをご覧になる方のために分割してUPするつもりだったものを。
大正12年、昭和3年及び昭和5年の海軍大学校の『基本戦術講義』『砲戦術講義』の中で、巡洋艦の変遷の項では「矢矧」「天龍」「球磨」「加古」「妙高」が、また列国最新巡洋艦として「鬼怒」「加古」「妙高」が採り上げられ、そして巡洋艦の要求性能についての各細部項目解説でも「夕張」については一言も出てきません。 つまり用兵側は「夕張」については実用艦とは見なしておらず、全くの単なる試作・実験艦に過ぎないことを明確に認識していたことを示しています。
つまり、駄レス国務長官氏が言い張る平賀自身の文書を除いては、技術側も用兵側も誰一人として「夕張の量産の意図」など認識していない、ということです。
そして平賀文書そのものの位置付けについては既に述べたところです。 そしてその平賀自身がその単なる『意見書』において「3100瓲特型駆逐艦の設計を試みた」と言っているとおりです。 つまり、意見書では5500トン型軽巡の後継でもなく、駆逐艦系列でもない、経費削減を表に出した系列的に極めて中途半端な艦を造ってみたい、と言っているに過ぎません。
なお、これらを示す大正10年6月の『新艦型ニ就テ』及び大正10年8月の『七千百瓲軽巡洋艦設計案』は「平賀譲ディジタル・アーカイブ」でもご覧になれますし、『平賀譲遺稿集』にも収録されていますので、是非じっくりとその内容をお読みいただければと思います。
そして加えるならば、駄レス国務長官氏が都合が悪いから出さないのか、大正12年8月の『夕張ニ就テ』で平賀自身が
「夕張ハ新型ニシテ特殊ノ目的ヲ以テ設計セラレタルモノニシテ設計上ノ精神ハ七千百瓲級一万瓲級ハ元ヨリノ事将来ノ排水量ヲ制限セラレタル主力艦ニモ関係スル事至大ナリ」
「単ニ新艦型ト見ルモ竣工後アラユル経験ヲ得テ艦型ノ試験ヲ行フ事必要ニシテ五千五百瓲級ガ今日ニ至リテ始メテ我々ノ改良ス可キモノヲ発見シ得タルガ如キハ時期ヲ誤ルモ甚ダシ況ヤ本艦ハ前記ノ如ク特殊ノ目的ヲ有スルニ於テヲヤ」
と記している如く、先ず「夕張」を造ってみた後は、就役後に徹底した試験を行ってその成果を得てから次ぎに進むべき性質のものと言っており、「夕張」が全くの試験・実験艦であることを平賀自身が明確に認識していることを示しています。 これは即ち、「夕張」そのものの量産を初めから全く考えていないということです。
これを要するに、技術側も用兵側も、当時から今日に至るまで、誰も「夕張」そのもののが量産を意図したものであるなどは言っておらず、実際の建造の流れの史実はそのままそれを表しており、かつ当の平賀自身でさえそれを意図していなかったことは明らかです。
艦船ファン
- では小職も質問者の方及びここをご覧になる方のために
大正13年12月18日、平賀は摂政宮裕仁親王に「列強軍艦設計ノ大勢ニ就テ」を進講しましたが、その中で「夕張」の計画趣旨に関して
「今後建造セラル可キ五千五百噸型ハ十三隻アリ。故ニ若シ之ニ代フルニ本型ヲ以テスレバ建造費ノ節約一隻六百万円、十三隻分約八千万円ニ達スル事ヲ得。」
と、将来の天皇に対して当初の量産意図の存在を明言しています
駄レス国務長官
- >>26、27
遠藤昭氏の著によれば、当時(明治〜大正期)の日本海軍で1造船官の発案による建艦計画の変更などあり得ず、日本海軍は長期計画をきっちり組んで建艦を行っていたとの由。
その上で夕張は技術試験艦との位置付けとされているようで、最初から1隻のみの計画だったとも書かれています。
つまり遠藤氏の著作を信じるのならば、夕張は平賀主導ですらなく純粋に技術試験艦としての建造だったと読み取れるものでした。
また、駄レス国務長官様がお書きなられている「故ニ若シ之ニ代フルニ本型ヲ以テスレバ」の部分ですが、頭に「若シ」の言葉がある所を見るに確定事項とは思えません。
あくまでも5500トン型の変わりに夕張を建造すれば建艦費が安くなるという事を示しているだけのように思えます。
その説明を以って量産の意図が存在するとはどうしても考えられません。
むしろ冒頭に書いたように日本海軍内部ではあくまでも実験艦の位置付けであり、平賀にとって会心の出来であったが故に量産をさせたかったとも思えます。
※前述の遠藤氏の著作でもそのような表現があった記憶
個人的には、
・夕張は元々技術実証艦として建造されており、量産の意図はなかった
・その設計に関しては平賀主導ですらなく、当初予定通りの計画に過ぎなかった
・結果として平賀にとっては会心の作であり、その量産化を希望した
※その為に具申書を作成した、と考えております
・しかし5500トン型軽巡洋艦の延長として5600トン型軽巡洋艦も検討されており、海軍としての本命はこちらであった
といった辺りなのではないかと。
少々遠藤氏の著作(&記憶モード)に頼り過ぎではありますが、私的にはこう考えております。
薩摩
- >28.
>・結果として平賀にとっては会心の作であり、その量産化を希望した
> ※その為に具申書を作成した、と考えております
「夕張」竣工が大正12年7月31日に対して具申書が大正10年6月12日付ですから全く有り得ませんね
駄レス国務長官
- >28.
>頭に「若シ」の言葉がある所を見るに確定事項とは
全くそのとおりで、単に「夕張」ような艦型のものの建造費の比較を述べたに過ぎません。 そして、その同じ『列強軍艦設計ノ大勢ニ就テ』の中で、
平賀の提案する「一特殊巡洋艦」(陛下の前で、先の意見書では部内には「特型駆逐艦」と言っている)を、平賀以外の誰も賛同しないからこそ
「御詮議ナライザリシモ」
となり、その上でまあ試験・実験艦として造らせてみようとのことで
「唯一隻ノミハ将来ノ製艦計画ニ資センガタメニ至急建造シテ実際ノ成果ヲ見ル事ニ決定セラレタリ、現夕張コレナリ」
「茲ニ於テ理論上ニモ、又実際上ニモ新考案ノ可能ナルコトヲ確信シ得タルヲ以テ、遂ニ夕張ノ提案トナリタリ。 夕張ハ至急建造ヲ訓令セラレ、(後略)」
となったと言っています。 要は、まずともかく造ってみて確認しようということになった、ということに過ぎません。
その上で、陛下に対して
「速力ニ於テ目的ヲ達シ」「居住性良ク」「凌波性良好」などとかいささか事実と異なる事をご進講し、自分の能力を自慢しようとしていますね。
まあ、陛下の前で、徹底的な試験・実験をしてみなければ本格的な次の改良型には移れませんでした、などは言えるわけもないことですが。
これ即ち、夕張そのものの量産意図の証拠には全く成っておらず、むしろそれを明らかに否定する文書ですね。
艦船ファン
- >>29
実艦が完成しているかどうかなんてぶっちゃけ無関係です。
平賀が夕張の設計そのものを会心の作だと考えているなら、実艦完成前に具申書を出しても驚くにはあたりませんので。
後の金剛代艦計画に強引に自分の設計を持ち込んだ事から考えて、言葉は悪いですが実艦完成前の机上の空論を振りかざして量産化を強引にねじ込んだように思えます。
薩摩
- >30.
失礼、ミスタイプでした。
「御詮議ナライザリシモ」 → 「御詮議ナラザシモ」
艦船ファン
- >>31
>平賀が夕張の設計そのものを会心の作だと考えているなら
ご参考にされている遠藤昭氏の著述によれば「夕張」は「藤本喜久夫造船官の発案、設計による」ものと紹介していますよ。
遠藤氏によれば5500トン型の整備によって洋上魚雷戦用巡洋艦の整備を終えた日本海軍が「天龍」型をタイプシップとして砲戦型巡洋艦の試作として建造したものが「夕張」としており、また「平賀自身が「この艦のように多種兵器を搭載すると船価が高くなる」と批判している」との図版の解説もあります。
その主張の正誤はわかりませんが、遠藤氏系の資料にもとづいて「夕張」を検討する場合は、平賀=夕張の図式に対して慎重であるべきかと思います。
東京の人
- 引用書の書名を書き忘れました。
スコラスペシャル46号の「日本の軍艦」という大判のムック本です。遠藤昭氏は戦前の海軍艦艇分の執筆を担当しています。
ご参考までに。
東京の人
- 皆様質問者として回答が遅れた事をお詫びします。 又艦船ファン様、紛らわしいHNでご迷惑をおかけした事をお詫びします。当方が夕張について疑問点を抱いたのは「海軍砲術学校」と言うサイトで5500 t型の計画魚雷兵装について知ってからです。「球磨級の当初計画は天龍と同じ三連装移動発射管二基装備だったが移動発射管が非実用的だった為急遽装備方式を切り替え連装四基とした。一舷射数を減少せしめたるは遺憾なるも天龍の実例に鑑みやむを得ない。」と記述した資料が有りました。又「所要発射管数は水上水中を合し一舷少なくも六門乃至八門の発射管を装備するを可とす」「魚雷進歩の如何を問わず一舷6射線は射法上より最小限度の要求に属し6射線以下兵装の如きは当事者の耐え難き苦痛」との資料も閲覧した事で定説に対し大なる疑問が出て来たからです。 5500t型は天龍の魚雷兵装はそのままに艦型の拡大と砲力の拡大を図った艦だった。ならば天龍型は5500型のサイズダウンになり得る艦だと判断しました。 夕張でサイズダウンの実験などしなくとも天龍が有るのだからその様な実験など用兵側は考えてもいなかったと思います。そもそも夕張は天龍を基に設計された艦なので結局天龍に逆戻りになると思います。 夕張の量産についても天龍とは別に新規に小型巡洋艦を計画しそれを量産する必要が有るのかと思います。 5500t型に替えて天龍を量産すれば良いだけです。 一舷6射線を「最小限度の要求」とする用兵側からしてみれば砲力重視の夕張と魚雷重視の天龍、どちらを取るでしょうか?私は天龍だと思います。しかし天龍で小型巡洋艦の使い勝手の悪さは判明している。ならば小型巡洋艦の量産による13号艦の予算確保を目的とした夕張建造の提案など魅力的な案なのでしょうか? 遠藤昭氏の言われる通り「全く相手にされない」のが当然だと思います。遠藤氏の天城型12隻量産説を愚策だと否定される方々なら平賀造船官の「夕張の量産」が用兵側から見てどれだけ愚策か容易に理解出来るのではないでしょうか?
軍艦ファン
- 申し忘れました。
当方が参考にしたのは「海軍砲術学校」中の帝国海軍水雷術史、
第7編 艦船水雷兵装艤装の進歩変還
第3節 大正4年以降時代
艦型艤装調査委員会 発射管装備数決定の標準
以上を参考にさせて頂きました。
軍艦ファン
- >28.
>30.
>頭に「若シ」の言葉がある所を見るに確定事項とは
>全くそのとおりで、
量産が確定事項かどうかではなく、当初の意図にあったかどうかが問題です
平賀の当初の意図にはあったが、反対が多かったのでやむなく一歩下がって技術獲得のための試験的製造で我慢したワケですから
>平賀以外の誰も賛同しないからこそ
議事録を確認しましたか?
>その上で、陛下に対して
まだ即位前ですケド
>31.
具申書→量産否決→1隻のみ試験建造訓令、って時系列は理解しておられますか?
>35.
>一舷6射線を「最小限度の要求」とする用兵側からしてみれば砲力重視の夕張と魚雷重視の天龍、どちらを取るでしょうか?私は天龍だと思います。
貴方がどう思うかではなく、用兵側は「火力が5500トン型の2/3に減じても良い」と言ってるのですか?
>遠藤氏の天城型12隻量産説を愚策だと否定される方々なら平賀造船官の「夕張の量産」が用兵側から見てどれだけ愚策か容易に理解出来るのではないでしょうか?
日本で一度に4隻しか造れず、建造に3〜4年を要する主力艦と、短期に一箇所で複数建造可能な3000トン級の補助艦をなぜ一緒くたにするのか容易に理解出来ませんケド
駄レス国務長官
- >35.
>紛らわしいHNでご迷惑を
とんでもありません。 HNですから「軍艦ファン」があり「艦船ファン」があってもちっともおかしくはありませんので。
>夕張建造の提案など魅力的な案なのでしょうか?
実用的な戦力にならないと思っているからこそ、ご紹介サイトの記述にあるような水雷屋さんはもちろん、先の海軍大学校の資料も含めて用兵側は誰も魅力的とは全く思っていませんね。 というより、「夕張」は初めから技術屋さんの試作(平賀のオモチャ)と認識しているからこそ、実戦上の問題にはしていません。 もし魅力的と思っているなら「これが量産されていれば」とか何か出てくるはずですから。 そしてそれは技術側も同様に全く言っていません。
それはそうでしょう。 単に建造費削減を前面に出して、小さな船体に積める限り詰め込んだものを試作してみましょう、というものですから。
そもそも平賀文書は元々は早い話し「こんな船を設計して造ってみたら」という企画提案書に過ぎませんから、“もし実際に建造してみて(徹底した試験の上で)上手く行ったならば、そのような艦型のものを量産すれば建造費はこうなる予想です”という謳い文句としてあっても全く不思議ではありません。 そんなものが“量産の意図”になるはずもないことです。
そして既に上記で出てきた文書を見ても、平賀自身が新機軸の艦(特殊目的の艦と自分で言っている)を試作するにあたり、それをそのまま量産できるなどは考えていなかったことは明らかです。 自分で5500トン型軽巡が徹底した試験をしなかったことを問題だと指摘しているぐらいですから。
まあ、当時の平賀の頭の中を誰も覗いたことがあるわけではありませんから、「平賀の頭には初めから“「夕張」そのもの”の量産の意図があった」と言い張りたい人は、それはそれでその人の自由ですから構いませんが・・・・現実は平賀自身の文書も含めて全ての状況はそれを否定するものしか無いわけです。
艦船ファン
- >38.
>用兵側は誰も魅力的とは全く思っていませんね。
そらそうでしょう
現行よか遥かに小さいフネに乗せられるんですから感情的な反発もあったんじゃないでしょうか
平賀が大正10年8月4日に具申した「七千百噸軽巡洋艦設計案」の中でも「単ニ排水量小ナリトノ理由ノ下ニ顧ラレズ」として、反対意見の最重要なモノとして排水量過小と英米のカウンターパート(オマハ級など)に対して個艦優越とならないコトの2点を挙げてます
(とうぜん天龍型ではさらに劣位となるコトでしょう)
>現実は平賀自身の文書も含めて全ての状況はそれを否定するものしか無いわけです。
平賀は上記具申書の中で建造費を
加古(川内)級 一千五百七十万円
三千百噸級 九百三十万円
本型 一千九百九十万円 とし、
「故ニ加古級四隻ノ代リニ本艦二隻、三千百噸級二隻ヲ建造スルトセバ約四百四十万円ノ節約ヲ得可ク」と、依然として3100トン型の複数建造とそれによる建艦費節減を諦めてません
駄レス国務長官
- 横からで、失礼ですが。
>35
御質問の本来の趣旨である、「天龍」が五五〇〇トン型のダウンサイジングとして成立可能かということに関しては、八四艦隊から八六艦隊の成立過程を検討すれば、ある程度の想像は可能かと思います。
八四艦隊の整備は二期に分かれており、「天龍」型は大正五年度計画で小巡として建造されています。
そして予定通りであれば、大正六年度計画で大巡三隻と小巡=「天龍」型六隻が建造されたはずです。しかし実際には、小巡の能力にたいする問題もあり、大巡と小巡を並行整備する計画は見直され、巡洋艦は中巡に統一されます。この中巡が「球磨」型ですが、予算上の問題で九隻全てを中巡で建造することは出来ず、一隻は建造承認を受けながら保留とされています。
この時点で「天龍」型の評価は決しています。「天龍」型の能力に不満があるがために中巡建造に移行したのですから、予算上の問題があったとしても5500トン型の代替として「天龍」型が選択されることはないでしょう。
一方で、八四艦隊で残された一隻の枠は、八六艦隊の艦型改良費を加えることで、小巡一隻分を建造可能となります。しかし小巡に関する能力的な問題は依然として存在したため、その建艦計画は「改良型小巡」としてスタートします。これが「夕張」の祖型ですが、その設計意図が既存小巡の能力的な不備をクリアすることにあったことは明確で、小型だが5500トン型と同等の戦闘力、というコンセプトはこの時点で明確になります。
したがって、仮に八六艦隊計画以降に小巡の量産計画が存在した場合、「天龍」ではなく「夕張」が選択されるのは、当然のことだと思います。
ただし、この「改良型小巡」が実際に建造された「夕張」と同一であったという保証もありません。八六艦隊計画艦が準備された時点で、その設計は完了しておらず、ために起工が遅れ、タイミング的には八八艦隊計画艦と同時期の起工となってしまいワシントン条約の影響を受けているからです。
「公文備考」に「夕張」へのNVNC甲鈑の採用について、主力艦建造制限による呉海軍工廠製鋼部の操業維持のため、と明記した文書が残されているように、「夕張」は条約下の建艦環境を意識して設計された結果、当初計画の小巡からは、やや距離をおく設計になった可能性があるのです。
つまり小巡量産の是非に関しては、それがいつの時点のものであるのかについてを念頭において考える必要があり、量産化の可能性と「夕張」の評価は変化すると考えます。
東京の人
- もう見てる人はいないかもだけど……。
アジ暦の「球磨級巡洋艦型研究会議(4)」にて、
「排水量の増加によりてまず速力40ノット付近を得、次て航続力の長大を計り然る後魚雷砲熕機雷或いは飛行機の順序に兵装を決定せは理想的巡洋艦型を得 球磨級以下の頓数にては到底価値ある艦型を得さるものと信す」(一部読めない場所等は省略、大意はわかるかと)。
明確に球磨型よりも小さな巡洋艦が否定されております。
この文書を見る限り、設計側(造船官側)が排水量極限による小型化とそれに伴う建造単価の抑制を主張していたとしても、用兵側はそれを全く相手にしていなかったと判断します。
つまるところ軽巡洋艦夕張とは設計側の思惑と用兵側の思惑が全く別であり、造船側の主張する量産などは用兵側には論外だったのではないでしょうか。
その意味では駄レス国務長官様の「量産前提」というのは造船官側に立って見た場合は正しく、用兵側から見た場合は間違っており、逆に最初から量産を前提にしていないという意見は用兵側の立場から見た場合正しく、造船官側から見た場合間違っていると考えて良いと思うのですが如何でしょうか?
薩摩