210 |
大和型戦艦の主砲の前面装甲(砲塔装甲)をアイオワ型戦艦の主砲で射撃したら、見事に貫通し、砲塔装甲は2つに割れたという説明とその状態の砲塔装甲が米国に展示されているそうです。これについて、この艦船関係のAns,Qのどこかで(他の質問に対する回答で誰かが)「あれは厚さが66cm(UK注、数値はうろ覚え)あるので、何らかの目的で製造された規格外品(UK注、確か65cm)ではないかという説がある。」という記事を読んだことがあります。そこで質問させて戴きます。何処を、どの様にして測定されたのでしょうか。 この質問をするのは、以下の理由によります。 昭和56(57?)年に金属と言う専門雑誌で、大和の装甲の開発責任者であった堀川一男氏が「@水平装甲は410mm厚、砲塔装甲は560mm厚のVH鋼鈑と決まった(UK注、原文のまま。水平は舷側の誤記と思います。また、560mも何らかの錯誤と思います)。A大和型の装甲は、質量/表面積が大きいため、冷却速度が遅く、熱処理が困難であり、その完全な対策が確立したのは終戦直前であった。従って、大和の装甲は、あくまでも仮対策のものである。」旨、記載されていらっしゃいます。なお、信濃の砲塔装甲は、実際の主砲が完成後の試験の結果、もっと薄くされたと思います(舷側装甲は2cm薄く、水平装甲は1cm薄くされました)。従って、堀川氏はそこまでは記載されていらっしゃいませんが、大和の砲塔の開発に際して、大和より質量/表面積が大きい、即ち厚い砲塔装甲を製造したのではと思われます。ひいては、実際に1cm厚いのが正しければ、前記の規格外品という説を強化することとなる(傍証となる)こととなります。 UK |
- 米国における計測ならとうぜんインチ尺使用ですから、単に650mmを26in(660.4mm)と表記しただけのハナシじゃないんでしょうか
駄レス国務長官
- Warbirdsの皆で堀川先生とご歓談する機会を得られた折に、そもそも560以上の厚みのものは実用レベルで作ることが出来ない(だから大和前盾は560である)そして当時の設備で可能な最大厚は660であったことを直接聞いてます。
先生は(私のうろ覚えですが)設備的に可能な最大厚で作るだけ作ってみたのではなかろうかと述べておられました。
SUDO
- 基本的には駄レス国務長官が仰っているように、単位換算の問題であるように思います。
なお、大和型戦艦の主砲塔前盾に関しては、砲熕関係者である大谷豊吉氏の記録と福井静夫氏などが紹介している造船官系資料で650ミリが採用されており、660ミリはむしろマイナーなデータです。
誰かが計ってきてくれれば一発だと思いますが、650と660のいずれが正解にせよ、これは同じデータの丸め方の違いでしょう。
ついでながら580ミリ説は、大和型戦艦の装甲開発の責任者であった(堀川一男氏というのは間違い)佐々川清の戦後発表論文に依拠すると思いますが、A-140段階での主砲塔前盾が近い数値であることを考えれば、理論上から導かれた計画値と考えられます。
なお佐々川は、より後年に執筆した雑誌発表論文では650ミリを採用しています。何らかの新しい知見があったのでしょう。堀川氏の記述も、基本的には初期の佐々川論文に依拠していると考えられます。
その上での質問者の方の下段のお考えに関する私見を述べさせて頂きます。
まず「質量/表面積が大きいため、冷却速度が遅く、熱処理が困難」というのは、VH甲鈑の開発過程で確認された「白目」と呼ばれる脆性組織の問題のコトを指しており、「完全な対策が確立したのは終戦直前」というのは、呉海軍工廠製鋼実験部において白目が冷却速度に起因する上部ベイナイト組織(この時点でそうした言葉はなかったと思いますが)の問題であることが確認し、その対策が考案されたのが昭和19年以降のことであることを意味しています。
そして「あくまでも仮対策」とは、「白目」対策として導入された焼き入れ温度の変更、あるいは完成製品から試験ピースを採取して大型シャルピー衝撃試験による「白目」の確認試験のことを意味します。
つまるところ信濃用と伝わる現存主砲塔前盾の厚さが通説と10ミリ異なっていても、それは熱処理問題に関する技術的要素から導かれたものではないと考えるのが自然だということです。
なおこの上記の内容は堀川一男氏の『海軍製鋼技術物語 正・続』に紹介されているので、ご興味があれば読まれてみるのもよいかと思います。
東京の人