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太平洋戦争の後半、海軍機で上面濃緑色迷彩が導入されて以後登場した、強風、紫電、紫電改、彗星、流星、彩雲、晴嵐などの単発機において、操縦席からプロペラまでの機首上面は濃緑色べた塗りが主流になったように思えるのですが、ひとり雷電のみは黒色防眩塗装を最後まで実施しています。 この理由はなぜでしょうか?雷電はその胴体形状から来る視野・視界の不良がたたって操縦席前面の胴体を削り落した形状にするなど対応に苦慮してますが、濃緑色べた塗りだけでは機首・プロペラの反射光に対応できなかったのでしょうか? ここまで来ていわゆる予防線。自分で書いといて何ですが私は濃緑色べた塗りの雷電を見たことがないので質問しました。いつぞやの中島式零戦32型のように私が知らないだけで、実在する物があるのでしたらどうもすみません(弱気)。 備後ピート |
- 胴体の迷彩塗り分けと同じく、
「最初にそう決めちゃったから」。
陸軍四式戦の機首黒塗りも同様ですね。
片
- 元々、海軍の工作標準には、「空冷機のカウリングは黒塗りする」というようなことは書かれていても、液冷機の機首上面に防眩塗粧を施す規定はありませんでした。
十四試局戦のような空冷機の機首形状は想定外のもので、おそらく十二試陸攻の機首の塗粧様式を流用したのだと思います。
陸攻のような多発機の機首防眩塗粧も規定にないものですので、おそらく飛行実験の際に修正要求があって施されたものだったのではないかと思います。
いずれにせよ、雷電の防眩塗粧は、それ自体がイレギュラーなものだった、ということです。
ただ、一度そう決めてしまって、のちにそれを改定する人がいなかったので、ずっとそのまま通してしまった、ということなのでしょう。
片
- 雷電二一型の仮取扱説明書は塗粧に関しても触れていて、機体外面は「灰鼠色」(三菱社内で言うJ3の名称)の軽金属用特殊塗料で研磨仕上げが施されている、としています。写真に残る試作機の灰色塗粧と機首上面の防眩塗粧が量産機でも基本とされ、それに機体上面の迷彩が追加されているというのが建前なのです。研磨仕上げされた灰色塗料に防眩塗粧が必要とされた、と解釈できますが、J2M1の一号機と二号機は灰色ではなく、無塗装の外板を研磨仕上げしたピカピカの状態で、防眩塗粧は必須でした。
となると、雷電の機首上面の防眩塗粧は無塗装時代に決定したものが、灰色の研磨仕上げになってからも引き継がれ、さらに量産機に迷彩塗粧を施すようになっっても残っていた、ということなのでしょう。
BUN
- 十四試局戦で無塗装の研磨仕上げはJ2M1の一号機、四号機、J2M2の一号機でした。訂正します。
BUN