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日本海軍や中島が誉エンジンを史実以上に早期に開発できる可能性はなかったのでしょうか。 誉の問題は戦争の長期化による特殊金属や潤滑油の枯渇によるものが大きいと思うので、早期に投入できるならまた違った評価を受けられるように思えるのです。 チャカ |
- フライングテストベッドに十一試艦爆なんか使っておらず、もっと早く銀河に切り替えろよ、とかそういうことなんですかね。うーーん・・・・。
片
- 片様、回答ありがとうございます。
航空機の開発もそうですが、栄や護に回していたリソースを誉に回して早期に大馬力の戦闘機用発動機を開発できれば誉が失敗作と呼ばれるようなことになる可能性はなかったのでは、ということです。
機械の扱いに慣れた整備兵も戦争初期ならまだ残ってるでしょうし。
チャカ
- それで、栄二〇型が未完成のまま、それを欠いた状態で戦争を進めろ、ということですか?
片
- 誉は栄二〇型の目処が立ったところで発案され、それ以降は可及的速やかに設計 が進められていると思います。
もっと早く思いつけよ、とかそういうレベルの話にしかならないのだと思うのですが。
片
- 栄二〇型は離昇出力の向上が目的だったわけで、だったら気筒数を増やす方向に行ってもいいのでは、と思ったのですよ。
中川技師が課長からのアドバイスをきっかけに誉の開発を始めたという話が本当なら、栄の改良の時点で18気筒を狙った可能性は無かったかな、と。
チャカ
- 栄二〇型で出力の向上が達成できる目処が立ったから、それを踏まえた技術的な次の段階として気筒数を増やす方向が提案されたわけです。
途中の段階をとばすというのでは、それはオーパーツということになるのではないでしょうか。
片
- 栄が二〇型に改良される過程に誉の開発に必須となるどのような要素が含まれていたのかが分からないのです。
チャカ
- そもそも、試製中の十二試艦戦を完成形とするために栄二〇型が要求されている時に、それはすっ飛ばして次の世代の発動機開発に移行しましょう、という提案はあり得ないと思うしかないですね。
片
- 栄が二〇型に改良される過程に誉の開発に必須となるどのような要素が含まれていたのかが分からないのです。
チャカ
- 連投してしまいました。
つまり十二試艦戦が栄と紐つけられていたことが誉開発の妨げとなった、ということでしょうか。
チャカ
- まずは二速過給器。次いで18気筒。
片
- 日本海軍は手持ちの艦戦に高高度空戦を期待することが、発動機の出力向上よりも当時は優先順位が高かったのですね。
チャカ
- 適切な過給器も、排気量の増加も、戦闘機の速度を向上させるためであるとは思われませんか?
片
- 両方とも、単位時間あたりにより多くの燃料を燃焼させてエネルギーに変えるための仕掛けであるはずなのですが。
片
- 排気量✕回転数✕過給圧=単位時間あたり燃料の燃焼量=エネルギー
であるとして、18気筒化はこの中の一つの要素に過ぎません。
栄一〇型は離昇で「2700RPM、ブースト+225」とか「2550RPM、ブースト+250」。
これを、栄二〇型は「2800RPM、ブースト+300」へ持っていこうとしている。
次の段階として、14気筒のままさらに回転数、ブースト圧を高めて1400馬力まで出力を向上させようとした。
この段階で14気筒をやめて18気筒で考えるようになったのが誉です。
誉の端緒は「栄二〇型の18気筒化」ではなく、その開発を終えた先、次の段階の物の18気筒化なのですから、「現に開発が進行中の栄二〇型を止めて誉に移行する」という関係は成り立たないのです。
片
- ✕は掛け算の記号です。
片
- 片様、ありがとうございます。
栄一〇型を18気筒化できないか、と考えていたのですが、ブースト圧を上げる誉の傾向が栄二〇型からの特徴だったということですね。
チャカ
- 発動機の性能向上のためにブースト圧を上げるのは、「栄二〇型からの特徴」というまでもなく、こうした発動機一般にふつうなことです。
栄一〇型ですら、原型の+150から+200、+250に上げてきたものです。
栄二〇型を控えて暫定的な中間状態にある栄一〇型の時期に考えられたのは、すでに完成されている光を18気筒にして大排気量化、高速回転化することです。44.9リッター。誉より排気量が25%も大きい発動機が得られます。
そうしたことが行われた後に、次の要素として「排気量を抑えても小直径化」という観点が加えられ、栄の二〇より先の型をあえて取りやめて、誉を開発することが行われています。
技術的な進化というのは、階梯を一段ずつ上がらなければ実現されないものなのです。
片
- 片様、ありがとうございます。
光を18気筒化するなら排気量は65.2リッターではないのでしょうか。44.9リッターは護ではないでしょうか。
チャカ
- 片渕監督が仰る栄二〇型を飛ばして誉があり得ないというのも事実ですが、
ル号発動機(誉)が十五試ではなく十四試ル号であり得た可能性はゼロではありません。
二速過給器は十三試へ号(火星)で試作に入っていますし、十四試リ号は十八気筒です。
このように栄系の十八気筒化、金星系の十八気筒化はちょっと遅いのです。
戦闘機発動機の試作の遅れの要因は三菱と中島に試作が命じられていた倒立V型十二気筒の液冷、空冷のモーターカノン発動機の試作なのです。
これが無ければ戦闘機用十八気筒発動機は少し早く試作発注されていた可能性があります。
ただし、史実より早い実用化を想定するならばアメリカの道義的禁輸措置が無い世界、
すなわち日本に100オクタン燃料製造技術が無事に入って来た世界を想定しなければなりませんが、もしそれが可能ならば誉の実用化時期は史実より早まったことでしょう。
BUN
- BUN様、ありがとうございます。
液冷発動機はてっきり川崎が担当しているものと早合点しており、モーターカノンまで含めて関係しているとは思いませんでした。
モラルエンバーゴが1939年.史実で誉の開発が始まったのが1940年.
当時の軍がここまでに100オクタン燃料製造技術を確保できなかった時点で誉の失敗は開発前から決まっていたのでしょうか。
チャカ
- >液冷発動機は川崎が担当
それは陸軍向け発動機でBMW系とDB601を製造していただけです。
川崎は寿系発動機や栄系発動機(双軽や一式戦用)の生産工場でもあります。
>当時の軍がここまでに100オクタン燃料製造技術を確保できなかった時点で誉の失敗は開発前から決まっていたのでしょうか。
誉は失敗してはいませんよ。
この発動機の量産なくして戦争後期の陸海軍新鋭機はあり得ません。
失敗とか成功とか批評的な結論を安易に前提にして物事を考えるのは間違いのもとです。そうした内容の本や雑誌記事などは警戒すべきでしょう。
>当時の軍がここまでに100オクタン燃料製造技術を確保できなかった時点で誉の失敗は開発前から決まっていたのでしょうか。
100オクタン燃料の有望な製造技術の購入失敗が大きな「if」になり得る理由は、昭和16年度までに日本がそれを標準燃料とする計画だったからです。
栄二〇型、金星五〇型以降、火星といった新鋭発動機が全てそれを前提に試作されていたからです。
戦時中に苦労した不具合の多くが高オクタン価航空燃料の製造困難のために生じているので、実用化が早まる、と仮定するならこの問題を何とかしなければ結局、水メタノール噴射装置の導入が決まり、史実と同じことになったでしょう。
BUN
- BUN様、ありがとうございました。
誉は失敗作ではない、確かにその通りです。
むしろ安易に失敗扱いや成功扱いする方が危険ですね、思い込みしやすくなりますから。
チャカ
- 「日本の」「航空機エンジン」「航空機用ガソリン」に留まらず、周辺を見てみると、どのぐらい大きなIFが必要なのか考える助けになるように思います。
据え付けや機関車等でなく小型の移動機械でも動力機関の優位が明らかになるのは1860年代で、だから英国では抵抗勢力たる馬車組合のロビー活動により赤旗法が成立します。
他方、馬車は地味に改良され、サスペンション型式が固まるのが1870年代、普及は1900年代にかけて緩やかに続きます。
1914年に、ロンドンのバスが、馬車でなくすべて自動車になります。
WW1初期の救急馬車もフォードTTトラック等に急速に置き換わります。
WW1後、英国の農村では、畜力耕から動力耕への転換が急速に進みます。
戦間期、先進諸国では、ガソリンエンジンが大きく進化します。ブロワード・ベントレーに見られるように自動車でも機械式過給器が実用化され、航空機においても、過給と減速機が一般化しますね。
馬車の完成からWW1の熾烈な航空戦までって実はすぐなんです。赤旗法から誉までも地続きのように思います。零戦試作機を牛車で運んだのはだからごく自然なことなんです。米軍と、米軍と共同する連合国軍以外、各国とも輜重の畜力依存は終戦まで続くんですから。
その英国の航空機用ガソリンでさえ長く77オクタンであり、かなり頑張って87オクタンになります。
英国でも自国だけでは100オクタン化できませんでした。
つまりアメリカのガソリン事情は突出していました。
日本ではガソリンが配給になったことに庶民は気づかなかった、という話があります。生活に関係ありませんから。
英国だと、少なくとも1934年ころ、ヘンドン航空ショーのお客さんつまり一般市民向けパンフレットに石油各社の広告が見られます。
日本では、明治後期に食料増産のための「乾田馬耕」普及運動が始まります。
WW2後、昭和26年、アメリカによる占領の終了を見越して自前で食料増産4するための食糧増産3750万石10ケ年計画が立てられ、これは翌年、食糧増産1850万石5ヶ年計画となります。
これに際して、北海道の有名な馬産家・神八三郎の活動もあり、畜力耕用馬匹増産の必要が確認されています。
結果的には、昭和32、33年頃から日本でも急速に動力耕が普及するために馬匹増産計画は尻つぼみにおわります。
英国で動力耕が普及したのは1920年代。とうぜん、WW1中からはるかに工業力が高いアメリカでは同等以上に早く普及します(映画「シービスケット」に馬車屋さんが自動車屋さんに鞍替えする象徴的なシーンがあります)。
日本で動力耕が普及するのは1950年代です。
だから、頑張っても航研機。
太洋横断競争にも、ペンディックス、シュナイダー、マックロバートソンのようなレースに参加できていませんし、自動車分野でもレースが出来るようになるのは戦後ですね。戦後も箱根を登れる車がえらい時代でした。
1920年代の日本といえば、戦後恐慌、軍縮、そのうちに世界恐慌です。動力耕がこのころに普及するIFはなかなか大変なように思います。
1920年代に動力耕が普及した英国でも100オクタンに手が届かなかったことを加味すれば、さらに早く動力耕が普及するIFが必要となり、すると明治維新を30年前倒しにしたい感じがいたします。
六
- >栄や護に回していたリソースを誉に回して
ハ5系(ハ5・ハ41・ハ109・ハ44)が挙がらない理由は?
近接する排気量の火星と金星が性能でも信頼性でも勝ってるので護と光の次くらいには整理さるべしと思われますが?
栄は日本の軍用機の主力発動機です。いかな誉とて、栄への開発資源を減らす訳にはいかないのに
一方でハ5系への開発資源は「誉に回して」と言わない。
にも。
- >25 アメリカで接触分解法で高オクタン価燃料の量産が開始されれたのは1939年、連続処理で本格的な大量生産が可能になったのが1942年です。
それまではイギリスやドイツと航空燃料のオクタン価は大きく変わりません。
日本の戦闘機用空冷18気筒発動機の試作が昭和15年度以降の着手となった直接の原因は、
三菱十一試空冷七〇〇馬力発動機(MK3A)
中島十一試空冷七〇〇馬力発動機(NK4A)
三菱十一試液冷七〇〇馬力発動機(ME1A)
中島十一試液冷七〇〇馬力発動機(NE1A)
三菱と中島の両社に以上4種のモーターカノン用倒立V型12気筒発動機を命じ、
昭和15年初めまでその試作が行われていたことにあります。
昭和14年の「性能標準」で艦戦と局戦にモーターカノン装備が謳われるのは
これらの試作が進行中だったからです。
こうしたきわめて具体的な理由があるので、
戦闘機用の小型空冷発動機の18気筒化は遅れたのです。
BUN
- 三菱や中島は空冷列型のみならず液冷列型まで試作させられており、
それらがなければ、それらから見たプランBである栄や金星の十八気筒化はその分早くなっていた。
そのことはBUN様の以前の書き込みで読んだ記憶がありますが、改めて挙げていただき、助かります。
質問者様の
>誉の問題は戦争の長期化による特殊金属や潤滑油の枯渇によるものが大きいと思うので、早期に投入できるならまた違った評価を受けられる
>機械の扱いに慣れた整備兵も戦争初期ならまだ残ってるでしょうし
と云った本末転倒な価値判断にかちんときた次第です。
にも。
- プランBといった並行的なものではなく、単純に遅れていたのです。
BUN
- 四エチル鉛の生産が出来ない時点で限界があると思います。
ドイツでも生産出来ないで輸入していたんでしたよね。
備蓄が尽きたらそれで仕舞でしょうね!。
オクタンに色々混ぜて鉛で調整するのが当時の生産方法と聞きました。
有鉛ガソリンでなければ、オクタン価100は無理なのでは?
記憶違いでなければ、現代の無鉛ハイオクガソリンは100行ってなかった思いますが。
青江
- 日本の四エチル鉛に関しては、大戦前には国産化されていたはずです。
インターネット上では、この記事。
https://yoshimimasato.hateblo.jp/entry/2017/10/19/220000
日本海軍燃料史P.434『耐爆剤製造の研究』も四エチル鉛のことかと思います。
曖昧な記憶に頼らずに、調べる癖をつけたいものです(自戒)。
太助
- 四エチル鉛が国産できない、とは大きな勘違いですが、
日本における戦前の航空燃料製造史は陸軍、海軍、民間の各社とそれぞれの立場から
たとえ技術的な内容であってもどちらかといえば自分に都合よく書き残しているので
それらを総合した「日本の航空燃料史」はなかなか見えて来ないのです。
BUN