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1941当時の川崎航空機の戦闘機開発力について質問します。 1941年に日本陸軍は、川崎航空機に新型急降下爆撃機の開発を要求しました(後のキ66です)。 そして同年に中島飛行機に最高速度680km/h以上、20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門装備、制空・防空・襲撃などあらゆる任務に使用可能な高性能万能戦闘機の開発を要求しました(後の四式戦闘機です)。 ここで質問ですがもし四式戦闘機の開発を中島と川崎で競作した場合川崎もほぼ同等性能を誇る試作戦闘機を開発できたのでしょうか? shadow |
- 追記です。
九九式双発軽爆撃機に本機と同じダイブブレーキを取り付けた場合ある程度の急降下爆撃が可能だとわかったので新型急降下爆撃機の開発要求を川崎にせず中島と万能戦闘機の競作をさせた場合と考えてください。
shadow
- 川崎はそれ以前から15年の陸軍航空兵器研究方針にしたがってキ64という究極の、ともいえるデラックス重戦闘機に着手しています。
川崎にはキ60、61、64。中島にはキ62、63と並べて戦闘機の試作を行わせているわけです。
このうち、キ63を改案したのがキ84です。あまりにもデラックスすぎて解決すべき問題が並んでいるキ64よりも、開戦してしまった対英米戦に間に合わせるため、とりあえずすでに手に入れている技術だけでほぼ作り上げようとされたのがキ84です。
川崎に対しても同様に、キ64を停めて、現実的なものとして開発させようとしたのがキ60IIであり、陸軍としてはこの機種が完成してくることを期待していたのですが、発動機の問題がクリアされず結果的にキ100となって出現することになります。
現実の経緯としてはそのような状況です。
あとはご自分でご判断いただければと思います。
片
- こちらも追記を。
中島では、キ84で最初期に行った性能推算の結果「680km/h」は達成できないとして、「660km/h」を希望し、この数字が追認されて、以降その方向で進められています。
これと並行して進められる(競争試作ではありません。二機種併用方針です)川崎のキ61IIは、発動機出力が1500馬力と小さく、代わりに水冷であるための空力的有利があるのですが、「650km/h」で進められています。
片
- 横からですみません。
この当時の陸軍内でのキ61IIとキ84の扱いというか、住み分けはどのように行われていたのでしょうか。搭乗員の方の手記などを読むとどちらも重戦として認識されていたようですが、しかし両者ともそれなりの航続力はあり、汎用的な戦闘機のように思えるのですが、単に両者を補完するような、保険をかけるような考えがあったのでしょうか。
codfish
- >4
住み分けはわかりませんが扱いとしては四式戦闘機が「二式単座戦闘機より運動性がよい、火力が高い、最高速度が速い、航続力が長い2000馬力の重戦闘機」で三式戦闘機(五式戦闘機)が「二式単座戦闘機より運動性がよい、一式戦闘機より火力が高い、一式戦闘機より最高速度が速い中戦闘機」といったところでしょうか。
間違っていたら訂正をお願いします。
shadow
- >>shadowさま
お返事ありがとうございます。
それはおっしゃる通りと思うのですが、例えばそのひとつ前のキ43IIとキ61はほぼ同時期に生産され、キ44のように使用目的や地域を限定されることなく運用されていました。キ61IIが結局100機に満たない生産数でキ100に転換されてしまった訳ではありますが、いずれにせよ中島と川崎の戦闘機が(それぞれに特徴は違うにせよ)同じ時期に、同じ地域で、同じ運用のされ方をしていたのはどうしてなのか、どちらかというと川崎は中島を補完するような扱いを陸軍はしていたような節があるので、戦闘機ににせよ軽爆にせよ複数のメーカーに生産させることで保険をかけていたのかなと思ったのですが、その真意がわからなかったのです。
そもそもキ84が実用化された頃はもう重戦軽戦という線引きは名目上のものだけであったとも言いますし、だとするならば陸軍としては両者をどう見ていたのか、それを知りたかったのです。1943年〜1944年頃の南方方面の主力である第5、第6、第7飛行師団の編成を見てもキ43、キ44、キ61と全ての戦闘機が軒を連ねていますし・・・
codfish
- 陸軍では、満州事変のとき九一戦の生産が間に合いそうになかったことから、審査では落とすはずだった川崎KDA-5を急遽九二戦と採用した経緯があります。
以降、中島なら中島だけへの一極集中を避けて、複数の製造会社の戦闘機を同時に併用する軍需上の方針を採るようになっているのです。
こうしたことから例えば『支那事変陸軍軍需動員第二次実施訓令』では、中島に対し小型機月産80機、川崎に60機を作らせると定められることになり、両社の数的な生産能力は既定方針として織り込み済みのものになってゆきます。
また、これに見合った試作開発能力についても整備する義務が求められています。この場合の試作開発能力というのは、その会社で設計試作を同時に進められる機種数何機種、という数量的なものです。
片
- キ61IIについては、完全にキ100に転換されてしまったわけではなく、昭和20年5月航空総軍の20年6〜8月の飛行機補給計画にもちゃんとまだ入っています。
発動機供給が可能な限り、キ61IIも作り続けようとされていたということです。
同じ表でこの三か月間で完成させることが求められている単座戦闘機の機数を各社別に見てみると、
中島 648機(四式戦)
川崎 430機(三式戦一型、二型、五式戦)
立川 305機(一式戦三型)
といった具合で、中島と川崎の比率は3:2くらいで、昭和13年の軍需動員第二次実施訓令の4:3とそれほど変わっていないことがわかるかと思います。
中島、川崎の両社には常にそれくらいの比率で戦闘機を作って納めることが求められていた、ということです。
片
- というところで話を最初に戻しますと、
昭和16年の時点で、各社が進めていた戦闘機の計画はこんなものでした。
中島 キ62軽戦
キ63重戦
川崎 キ60重戦
キ61軽戦
キ64重戦
大東亜戦争開戦に当たって、これらを各社別に統合させたのが、
中島 キ84重戦(キ44を基に各種性能を付与するために再計算して作り出すもの)
川崎 キ61II重戦(ただし、いきなりは得られないのでまずキ61Iをとりあえず作って、のちキ61II重戦を得る)
というものです。
棲み分けとしては、本来的には、キ84とキ61IIは同じようなところを狙ったものであり、開発に当たって手堅くあることも同じように考えられていたわけです。
片
- >>片さま
お返事ありがとうございます。
なるほど、そういう事情で両社の戦闘機は生産されていたのですね。大変よくわかりました。それにしてもキ61IIが終戦まで生産努力が続けられていたのは意外でした。そうすると「航本と川崎側でキ61IIの生産は100機程度と決まった」というのは暫定的な話であったということでしょうか。
codfish
- >6
一式戦闘機二型と三式戦闘機が同じ地域で同じ運用がなぜされたかというと三式戦闘機の設計主任だった土井さんの優秀な戦闘機の考えにあります。
三式戦闘機のコンセプトは、既に上記したとおり中戦闘機です。
このとき軍部からは、航続距離(行動半径)の具体的数字はわかりませんが燃料搭載量の要求は500リットルだったらしいです。
しかし土井さんは、「航続力の高い戦闘機こそ優秀」と考えたのか初期量産型の機体内の燃料搭載総量は820リットルとかなりの量でした。
しかし後に翼内をセミ・インテグラル方式から防弾済みの燃料タンクに変更されたため燃料搭載量が755リットルまで減った(これがcodfishさんがいう一型甲だと思われます)。
それでも二式単座戦闘機よりも長距離まで飛べるので一式戦闘機のような進攻戦に追従できたというところです。
間違っていたら修正をお願いします。
shadow
- 三式戦はニューギニア、比島と激戦地に配備されていますが、全戦域に配備された訳ではありません。支那戦線への配備は現地から拒否されていますから、ニューギニアから比島の戦闘に参加したのは三式戦の特性というよりも、ニューギニアで三式戦の配備を受けた第四航空軍の戦場がそのように移動したからです。
例外的な配備計画としては昭和20年にビルマ方面の飛行第六十四戦隊が一式戦から三式戦への機種改編を準備していますが、実現していません。
>11
キ61は土井武夫さんの提示した複葉案は製作されることなく終り、キ60の性能向上計画として再出発しています。キ60の最大速度が560km/hに留まり、昭和16年当時の重戦闘機の要件と考えられた600km/hに満たないため、その改良型であるキ61も重戦闘機ではなく軽戦闘機に分類され、さらに性能向上したものを重戦闘機とする予定でいます。
ということで、キ61は「土井武夫発案の中戦闘機」ではありません。
また中戦闘機という言葉も昭和15年から16年にかけて陸軍航空技術研究所内で次期航空兵器研究方針の検討が行われている中で従来の重戦/軽戦の概念を改める必要が認められた結果、出て来たもののようです。軽戦の武装強化が決定し、航続距離要求にも差がなくなった(元々、重戦闘機の方が長い航続距離を要求されています)ので、両者の明確な違いといえば最大速度程度になったからです。
>11
機内500リットルという数字を聞いて「あれ、零戦並みだ!」と思うようになると色々なことにピンと来るようになりますよ。
BUN
- >>shadowさま
お返事ありがとうございます。
なるほど、キ61の特徴がよくわかりますね。
>>BUNさま
お返事ありがとうございます。
そうですね、おっしゃるように第4航空軍の戦い方が結果的にああなってしまったと考える方が自然ではありますね。なんというか南東方面のキ61の抱えた苦労を思うと、ガ島争奪戦が開始されたばかりの二号零戦の事を思い出してしまいました。
codfish
- >10
キ61IIの生産予定数ですが、昨年に各務原の航空博物館での飛燕をテーマにした企画展に、昭和20年3月末の工場現地指導記録文書が展示されて、
それにも「当分ノ間 月産50機ニテ可」との記述がありました。
ちなみにキ100は「相当長期ニワタリ月産250機ヲ維持シテ進ム」となっていました。
また、米軍が作成した川崎航空機の調査レポートに掲載されている終戦後に撮影された疎開工場(神社の境内のようなところ)の写真には、
製作途中の水滴風防型キ61IIの胴体(エンジン防火壁前方がキ100用に切断されていない)が何機分か写っており、現実に生産が継続されていたことが伺えます。
各務原の住人
- キ61IIとキ100が50機:250機で進めば良かったのでしょうが、20年5月に出た航空総軍の補給計画が前記の数字でしたし、7月の軍需省飛行機課『昭和二十年度下半期生産内示(案)』の10月以降年度内いっぱいの生産計画でもキ61IIは当分月産30機で進むことが計画されています。21年2月以降はこれを月産40機に上げることを目標とされています。この場合キ100の月産最大数は190機です。
20年6月の各務原空襲で生産設備も完成機体の多くも破壊されてしまっているのですが、なお、7月になって部隊へ供給されたキ61IIがあり、これらは各務原の住人さんがおっしゃるように水滴風防型になっています。
片
- >>各務原の住人さま
>>片さま
年をまたいでしまいましたが、お返事ありがとうございました。
codfish