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昭和15年2月9日「兵器名称付与ニ関スル件申進」として「紀元二六〇〇年ニ完成又ハ採用ノ兵器名称ハ零式トシ紀元二六〇九年迄ハ夫々一式、二式ヽヽヽヽ九式トス」ニ改メラレ候」という通達が出ています。これはアジ歴の「海軍(二復)公報」(「昭和十五年二月九日官房機密第一〇三〇号(海軍公報三四二五号登載)」)で確認できます。 これに基づき、昭和15年採用になった十二試艦上戦闘機は、零式艦上戦闘機(厳密に言えば、零式一号艦上戦闘機のようですが)という名称で採用されたことは、皆さんご承知のとおりです。そして零式艦上戦闘機は略して零戦と称されていることもです。当時の公文書を見ても零式艦上戦闘機(零戦)以外の表記を見たことがありません(当たり前ですが)。 ところが何故か、「零戦」ではなく「ゼロ戦」と表記する本やウェブサイトが非常に目に付きます。一例を挙げるなら著名な戦史家である秦郁彦氏の書いたものは、すべて「ゼロ戦」となっています。どうして制式名称である漢数字を使わないのでしょうか。無論当時でも「レイセン」以外に「ゼロセン」と呼ばれていたことは知っています。しかし呼び方と表記は別物です。例えば戦艦「大和」を戦艦「ヤマト」と表記する人はいないでしょう(宇宙戦艦ヤマトはフィクションですから、関係ありません)。 明らかに誤りと言えることが、なぜまかり通っているのか残念でなりません。「ゼロ戦」と書く人は、秦氏も含めてカタカナにすると、かっこういいとでも思っているのでしょうか。もし私の気が付かない理由があるならご教示ください。 横 |
- 昭和19年11月23日に零戦が新聞紙上で国民に初めて名称と共に紹介された際、その記事には「ゼロセン」と呼ばれていると書かれています。ですから日本国民にとっては「ゼロセン」との付き合いは制式名称と同じくらい長いとも言えます。
また、公文書上で「零戦」以外の表記が無いかといえばそうでもなく、簡易に「0戦」と書かれることも多く、この表記は「ゼロ戦」に繋がりやすいと思いますし、愛称、通称としての「ゼロ戦」はそれほど違和感のあるものでは無いように思います。
読みとしての「ゼロセン」にそれなりの歴史があり、その上で、単なる兵器として以上に強く零戦のイメージを作り上げたといえる戦後の漫画や映画などで「ゼロ戦」「0戦」の表記が用いられたことから、今も「ゼロ戦」表記が生き残っているのだと思いますが、私は零戦とは戦後に作り上げられたイメージも含めた存在だと思っていますので、「ゼロ戦」表記も大いに結構だと考えます。
むしろ逆に「ゼロ戦」表記に反発を感じる理由が知りたいような気もします。
BUN
- 我々は「レイシキセントゥキ」又は「レイセン」と呼んでいました。
「ゼロ」は米軍の呼称で、戦後一般化した呼び名です。
老兵
- 回答では無くすみませんが。
質問者様は零式以外の機種名の表記についてはどのようにお考えでしょうか。
一式・百式・九九式などをそれぞれ1式・100式・99式と表記することを許容できないと受け止めますか?世界の傑作機は一貫して後者で表記されております。ゼロセンはさすがに零式ですが
表記に違和感を感じることは私もあります。ですが表記のゆらぎ程度は情報の価値を大きく損じるものではないと考えます。
この点補足していただくと今後回答がつきやすいと思います。
以上僭越ながら失礼しました。
超音速
- >2
新聞報道にあるように「ゼロ」の愛称は開戦当初から存在します。
BUN
- 皆様回答ありがとうございます。今のところ残念ながら私の意見に賛同してくれる方はいないようですね。
>1
「零」ではなく「ゼロ」というカタカナ表記が使われる理由や背景が縷々書かれていますが、正直言って、私には納得出来ません。こうなると結局、日本軍の兵器名称にカタカナが混じるのを見たくないという私の価値観との相違としか言いようがないようです。
正しいかどうか分かりませんが、日本人のカタカナ好きと無縁ではないような気がします。今では野球選手、タレント、施設などの名前・名称にカタカナを使うのは当たり前となっています。また「ゼロ」というのは、他の数字にはない響きがあるのは否定出来ません。それ故多くの人が「ゼロ戦」と表記するのではないでしょうか。
>3
横書きの場合の算用数字置き換えは、X式〜のXを固有名詞ではなく、単なる数字と見なすことも出来ますので、必ずしも否定するものではありません。だからと言って「ゼロ」としていい理由にはならない気がします。0式〜、0戦とするなら違和感があるものの理屈としては分かります。かつて『日本空母戦史』という本の中で「〇戦」と表記した著者がいましたが、今でも非常に違和感があります。
質問者
- 敵性言語的発想で0をゼロと読んではいけないなどと考えるのは、内務省と陸軍が勝手にやっていたことに毒されているわけで、それなりに英語を使っていた海軍には関係ないでしょう。
「む」
- 零戦のことは置いといて、陸軍でさえ中戦車を「チハ車」とか「チト車」、軍用機を「キ−61」とか「キ−84」のように公用文書の中で使っています。日本軍の兵器名称にカタカナが混じるのを見たくないという質問者様の価値観はともかく、過去の現実は現実として受け入れられてはいかがでしょうか。
備後ピート
- 秦郁彦さんの著作での「ゼロ戦」表記は単純に編集者のセンスだと思いますけれども、そんなに不快でしょうか。
実際に戦時中の使用例がたくさんある「〇戦」がいけないとなると「九〇戦」も駄目になってしまいそうですね。
BUN
- 現代の零戦関係出版物の大多数は「零戦」表記で「ゼロ戦」は少数派です。
それでも一部の出版物が「ゼロ戦」表記を用いる由来はおそらく昭和40年代の戦記漫画にあると考えられます。
この時代の零戦テーマの漫画タイトルは「0戦」「ゼロ戦」ばかりです。「0(ゼロとルビ)戦はやと」「ゼロ戦行進曲」「0(ゼロとルビ)戦あらし」「0戦仮面」「ゼロ戦レッド」といった具合です。幼年読者向けに「零」の字が難しいと判断してのことか、最初のヒット作品の影響なのでしょうけれども零式艦上戦闘機が「ゼロ戦」になったのはほぼこの時代ではないでしょうか。
ほんのひと時代のことですが、零戦のイメージの大きな部分が作り上げられたのはこの時代でもあります。
ですからその影響を残した「ゼロ戦」表記を用いた出版物で「ゼロ戦」表記は意識的に使われていることも多いのではないでしょうか。たとえば「ゼロ戦20番勝負」といったタイトルは単純に零式艦上戦闘機の代表的な空戦記というよりも、かつて憧れの対象だった「ゼロ戦」が現実にどう戦ったかを描き出すという意味も込められていると感じます。
もしこうした時代が存在せず、零戦が「ゼロ戦」でなかったとしたら、現代人は零式艦上戦闘機という飛行機のことをそれほど強く覚えていないかもしれません。
「零戦とは戦後に作り上げられたイメージも含めた存在」とはこうした意味です。
BUN
- どうも私の意見に賛同する方はいないようですね。ただ6と7の回答を読むと、私の真意を必ずしも理解されていませんね。
>6
「ゼロセン」と呼ぶなとは一言も言っていません。あくまでも制式名称の中に出てこない「ゼロ」というカタカナを使うのはおかしいと言っているんですけど。零戦をレイセンと呼ぼうと、ゼロセンと呼ぼうとどちらでもいいのです。実際どちらもそう呼ばれていたのですから。
>7
例に挙げているのは、軍自体が付与したものですから、なんの問題ありません。それに対し「ゼロ戦」という表記は、海軍当局が付与したものではありません。戦後民間が勝手に付けたものです。「零戦」を含めて零式艦上戦闘機というのは、固有名詞(あるいはそれに近いもの)だと考えています。人名で言えば、例えば「五郎」のようなものです。普通「ゴ郎」などと書かないのと同じです。
>8
秦氏本人の好みでしょう。でなかったらすべての著書の中で使うということはないでしょう。
戦時中「〇戦」が使われていたということですが、私は見たことがありません。しかし使われていたとしても、それは問題ではありません。やはり漢数字ですから。もし海軍部内の文書で「ゼロ」が使われていたならすぐシャッポを脱ぎますが。九〇戦について、九六より前の飛行機については余り詳しくないのですが、ちょっと関係書を読んだ限りでは、採用名が「九〇式艦上戦闘機」のようですからなんの問題もありません。
『日本空母戦史』の中で使われている「〇戦」という表記に違和感があると書きましたが、言葉が足りなくて誤解を与えたかもしれません。「〇戦」という表記がおかしいというわけではなく、「零戦」ではなくわざわざ「〇戦」とする必然性を感じなかったからです。この本は、とんでも本なので、処分して手元にありません。「〇戦」という表記が一番記憶に残っています。
>9
戦後の状況についていろいろ書かれており勉強になりますが、残念ながら零をゼロと表記する理由としては、やはりピンときません。特に『「ゼロ戦」表記は意識的に使われていることも多いのではないでしょうか』は、どうでしょうか。それなら結構ですが、私には安易に使われているとしか見えないのですが。
陸軍のように一〇〇式としたら、あるいは零がレイという音しかなかったらどうなっていたのか。前者は略称一〇〇式艦戦(一〇〇式戦)となっていた可能性が強いでしょうが、後者の場合は戦後「レイ戦」と表記されたでしょうか。5にも書きましたが、ゼロにはなんか特別な響きというか、イメージというか、うまく言えませんが、そういうものがあるような気がします。無論零をゼロと表記する正当な理由にはなりませんが。
質問者
- No.10に追加です。
No.5に書いた「日本軍の兵器名称にカタカナが混じるのを見たくないという私の価値観」というのは、少し誤解を与える表現でした。備後ビート様が指摘された試作名称まで頭にありませんでした。あくまでも、制式採用名称(多分漢字のみで付与されていると思います)があるのに、ゼロ戦というようにカタカナが混じるのを見たくないという意味です。考えてみれば、カタカナ表記があるのは、零戦と零観(零式観測機)だけかもしれません。
それから最後の「無論零をゼロと表記する正当な理由にはなりませんが」は「無論零戦をゼロ戦と表記する正当な理由にはなりませんが」に訂正します。
質問者
- 私にはなぜ質問者様が「ゼロ戦」表記をそこまで病的に嫌悪されるのか理解できませんが、最初は非公式な名称でもそれが広域に流布し、世間の認知度を得れば後から追認的に認められる(いわゆる市民権を得る)場合があると思います。
ぶっちゃけて言えば流行った物勝ちというです。私もかつて「土井晩翠」は「つちいばんすい」であって「どいばんすい」は誤りと人物欄で述べたことがありますが(今思えば大人げないなあ)、人名でなくても「デジカメ」はかつてサンヨー電気の登録商標でしたけれども、ここまで一般化すればそれを主張するのはそれこそ大人げないということになり、係争する意味は無いでしょう。
また、わが国の物理学の世界ではニュートン力学を元祖とする由縁か用語、単位等は英語表記が一般的ですが「エネルギー」についてはドイツ語表記が用いられ(その理由は有名な話なので分かりますね?)ています。他の物理用語のように「エナジー」という英語表記がなされれば、私はやはり違和感を感じるでしょう。
「ゼロ戦」の呼称も市民権を得ており、もはや冒頭の「海軍(二復)公報」をもってしてもこれを否定し去ることはできないと愚考します。
質問者様、このような例はままあるここと納得なさるなさることはできないでしょうか。
備後ピート
- ×ままあるここと→○ままあることと
備後ピート
- ×納得なさるなさる→○納得なさる 重ねての非礼大変失礼しました。
備後ピート
- 質問者様がいくらおかしいのではないかと思われても、
事実既に他の方が述べられているように、
戦時中から「ゼロセン」表記は既にあるのが事実で、
覆しようがない事であります。
(我が家にもコピーがあります)
なぜそんな表記がまかり通ったかは、
正直そう呼んだ当事の当事者から聞かない限り判らないことでありますが、
少なくとも戦時中から零戦をゼロセンと読んでも、
当時の人々は誰も違和感を覚えなかった事実は読み取れるのではないでしょうか。
また現代において、読みがおかしい、訳語が間違いでもまかり通っている語などは、United States of Americaをアメリカ「合衆国」と呼ぶことなど世の中幾らでもあります。
そうした事象全てに目くじらを立てる行為が生産的かどうかは私にはそうとは思えません。
ですが、少なくとも「零」という字をゼロと呼ぶ文化、歴史は根が深そうなのは確かなようです。
零戦をゼロ戦と呼ぶ所以を調べることにおいては、そうした背景を調べていく必要があるのではないかと思われます。
P-kun
- P-kun、質問者さんが不快だと主張なさっているのは英語読みでカタカナの「ゼロ」と漢字を組合わせた「ゼロ戦」表記についてであって、ゼロセンという読みについてではありません。
もう少し丁寧にその主張を読んでください。
「ゼロ戦」表記は明らかに昭和40年代前半までの戦記ブームによって広まったものです。少年漫画は「ゼロ戦」「0戦」でしたし大人向けのTVドラマでも「ゼロ戦黒雲隊」がありました。
そんな中で当時ベストセラーだった「ゼロ戦と隼」は少年漫画の出版社によって作られたものでしたが、著者は質問者さんのような方の知識の基礎となっている「日本航空機総集」や「日本航空機辞典」の野沢正さんです。
また、当時、学校図書館にも数多く見られた児童生徒向けの太平洋戦史にも「ゼロ戦」表記は存在します。
これだけ浸透していた「ゼロ戦」表記は幼年読者への配慮と、そして質問者さんがおっしゃるようなカッコよさという要素も含んで選択されたものだと思いますが、良質な執筆者の著作にも使われ、主に戦争の悲惨な側面を描くことを目的とした児童生徒向けの教養書にも採用されています。
現代の日本で質問者さんのようなマニアが存在するのも、こうした「ゼロ戦」表記を使った様々なメディアが築いた土台があってのことです。広く浸透した表記ですからそれを用いた物の中には低俗なものも数多く含まれますが、良質なものも確実にあり、そこから現在に繋がっているということではないでしょうか。
BUN
- 1950年に堀越二郎が書いた「日本空軍むかし話/私が『ゼロ』戦の設計者だ」と云う雑誌記事(『読売評論』1950年11月)があります。
えらくセンセーショナルな表題ですが、
私はこの話を手柄話として書いたわけでもなく、またいたずらな回顧談として書いたわけでもない。どう考えても起こり得なかったはずの、あのばかげた戦争を引起し、父祖が何十年かかって築いてくれた経済的基調を一挙に失わせ、国民(人民でもよい)を今後いったい何十年かかったら脱出できるかわからない惨苦の淵に突落した狂人共に対する公憤をあらたにし、そしてもう二度と常識にあわないことは互いにやるまい、やらせまいという決意をあらたにする上に、いくらか役に立つこともあろうかと思って、この話を書いた。
の「前書き」を持つ―堀越・奥宮「零戦」刊行前―もので、堀越氏自身は、本文で「本稿の表題『零戦の謎』は、と記述しています。
「零戦の謎」が「私が『ゼロ戦』の設計者だ」になった理由はわかりませんが、編集者が付け直したものと見て良いでしょう。
「ゼロ戦」「0戦」表記の少年向け記事には、”ゼロ戦は正しくは零式艦上戦闘機という”云々の補足記事がオマケに付いているものがあり、今日、自分自身が「レイセン」と読み、「ゼロ戦」表記に違和感を覚え、「0戦」に至っては「『E電』の走り」かと思うのは、この「正しくは…」に漂う秘伝・口伝の香りに幻惑されたからに他なりません(笑)。
なお、当用漢字別表(義務教育期間中に読み書き出来るよう指導すべき漢字)中に、「零」は記載されていない(当用漢字の中にはありますが)ので、「子供向け」メディアの制約も視野に入れる問題かもしれません。
「ゼロ戦」記事に「正しくは零式艦上戦闘機」云々の補足がつくところに、記事執筆者のホンネがあるように思う次第です。
印度総督
- 秦氏の『太平洋戦争航空史話』という本をひさしぶりに目を通したら、やはり「ゼロ戦」となっていました。そして愛知の零式三座水偵はちゃんと「零式水偵」となっています。なぜ「零戦」と書くことをしないのだろうか(秦氏の本は結構読んでいますが、「零戦」という表記を見た記憶がない)。逆になぜそこまで「ゼロ戦」という表記にこだわるのか、そっちの方が私には不思議でなりません。なお秦氏にはなんの恨みもありませんが、そこだけが残念です。
最後に、BUN様始め多くの方から、私の愚問に真摯なご回答をいただきありがとうございます。
質問の内容がこの板にそぐわないことは承知していましたが、ずっと腹にためていたことを今回吐き出して、皆様の考え方を知ることができ、ある意味満足しています。大変失礼しました。
質問者
- 私は元海軍の搭乗員で九七艦攻や天山に搭乗していました。
当時は「零(レイ)式艦上戦闘機」と呼んでいました。
老兵
- >「ゼロ戦」記事に「正しくは零式艦上戦闘機」云々の補足がつくところに、記事執筆者のホンネがあるように思う次第です。
印度監督様、私には「レイ戦」とあっても同じ補足が付くと読みました、通称を補足したと思います
所詮業界用語、通称、符丁なので正しさなんて意味がないのでは思いますし
業種、地域、部門等で呼び名が違うのは往々にあると思います
例えば現在の製造業種で直径をパイと呼称してことが多くありますが正しくはファイだし
会社によってはファイと発音してます
関係ないけど私の業界ではゼロ、零はマルと発音してますのでどこかで「マルセン」なんてのもあるかもしれません
tune
- 米軍が優秀な零戦を「ゼロフアイター」と呼んで恐れていました。
戦後零戦を「ゼロセン」と呼ぶきっかけを作ったのです。
老兵
- 零戦の存在を一般に公開したときの新聞記事です。
http://www.asahi.com/culture/articles/gallery_e/view_photo.html?culture-pg/TKY201309210326.jpg
「荒鷲達からゼロセンと呼び親しまれ」という一文が含まれています。
片