486 パレンバン油田について質問

日本が占領してから使用可能になるまでどの程度期間を要したのですか?
当時の燃料事情の逼迫から想像するに、米側の通商破壊行動が活発化するまでに大した量を供給されたようには見えないのですが・・・

当時は90オクタン価程度のものが一般的に利用されているようですが、ここで生産されていた高オクタン価のガソリンの生産量は少なかったんですかね?
周辺の島々の航空隊でしか使用した記述が見られなかったので

みやのふじ

  1. 還送第一船の内地入港は4月11日です。

    還送総量が採油量に対して多くない理由は、使用可能船腹量が限られていたためです。


  2.  陸軍の落下傘部隊が降りたプラジュー製油所(後の第一製油所)は比較的損害が少なく(占領後、すぐに爆撃を受け、ある程度の損害は受けている)17年4月上旬には製油所の復旧がなり、4月20日には87オクタンの生産が始まっています。8月20日までには日量1,000バーレルのイソオクタン製造装置も完成し、92オクタンは勿論、100オクタン航空揮発油の生産も始まっています。放火により徹底的な破壊を受けたスンゲェイゲロン製油所(後の第二製油所)は11月21日に蒸留装置に火入れが行われ、生産を開始しています。油田の方は5月2日第一鉱業所から送油が開始されています。生産量を見れば南方全体の原油生産量の70%を占める、戦中の石油生産の根幹をなす規模を誇っていました。これに比べれば日本での採油量など取るに足らず、日本国内の製油設備もレベルもかなり低いものでした。戦中に90オクタン以上の揮発油が量産出来たのは、南方の設備を抜きにしては考えられません。つまり、パレンバンで製油したほうが国内で製油した石油より大量かつ良質な製品が生産できます。そこで、戦地に製品が直接送られると共に、現地でも大量に消費されています。日本国内に還送された量が少ないのは片様が書いてある通りタンカーの数があまりにも少なかったためです。開戦時、50万トン以下のタンカーしかありませんでしたが、戦争継続するためには200万トンのタンカーを必要すると見積もられていました。


  3.  帝国石油の資料を見ると、内地還送分の方が多い事が判ります。
    陸軍南方燃料廠の航空揮発油(航空燃料用のハイオク。自動車用の場合は自揮と別にされている)の現地消費量や内地還送分の量を見ると、
     昭和17年 内地還送90,000kL:現地消費90,000kL
     昭和18年 内地還送294,000kL:現地消費200,000kL
     昭和19年 内地還送350,000kL:現地消費250,000kL
    となり、内地還送に努力している事が判ります。
    尤も、これは出荷元の数値なので、内地を届いた分は少なくなる訳ですが。
     陸軍南方燃料廠はボルネオ、スマトラ、ビルマ、ジャワまでの陸軍管轄の油田地帯で生産される石油製品の統括する組織ですが、パレンパンが生産量の6割強(昭和17年で65%、昭和18年で67%、昭和19年で61%)を占めてました。


  4. それなりに本土へ届いていたんですねハイオク、あんしんしました。
    みやのふじ


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