410 |
13試双発陸戦のコンセプトは、作戦行動半径700浬級で、 96陸攻や1式陸攻をキチンと護衛できる、というモノだったと聞いてます。 増槽をつけた零戦21型は、600浬級の作戦行動範囲を持つので、 開戦劈頭の台湾=フィリピンの作戦を見ても、13試双発陸戦の代役を務めたことは事実でしょう。 とはいえ、元々の13試双発陸戦と比べ、作戦行動半径が100浬小さいだけに、 ガダルカナルでは、当然とはいえ大苦戦してます。 中島あたりに、燃料タンクの増量など零戦の小改造を依頼してるとか、 (二式水戦をラクラク再設計できる会社ですからネ) 基地からの出撃限定で、もう少し増槽の大型化を検討するとか、 (彩雲では730Lの大型増槽が登場してます) 無理やりなIFを重ねなくても、工夫の余地はあった、と思います。 用兵側は、当時、どう考えていたのでしょう? 昭和16年5月に十三試双発陸戦の試作一号機が完成し、テスト飛行してる間、 この機体で零戦と互角に戦えないことは航空本部も理解してたハズですが。 月光 |
- 単座機は単純に搭載燃料を増やしても航法能力に限界があるために実用的な行動半径は限られてしまいます。
台湾、フィリピン間の目標物の無い長距離飛行はまさに限界にありました。
その点、ガダルカナル戦初期の長距離進攻は島伝いの地文航法を併用できたのであまり問題になっていませんし、中間基地が整備されてからは航続力にも余裕が出てきます。
十三試双戦はもともと敵戦闘機に旋回銃の火力で対抗し、前方固定銃で敵攻撃機、偵察機を撃破することを考えて作られています。
陸上攻撃機編隊の火力増大を目的にした機動力のある増設銃座のような性格ですから、零戦のような戦闘機と単独で戦うことは本来の任務ではありません。
こんな機体で零戦はもちろん欧米の戦闘機に太刀打ちできるのか、という疑問はもっともだとは思いますが、このような機体があえて必要とされた背景には、まさに欧米戦闘機の性能躍進が著しいからこそ、陸上攻撃機の防御力強化策を深刻に考えざるを得なくなったという事情があります。
陸上攻撃機そのものに対しては高速戦闘機対策として動力旋回銃塔装備のG4M2計画
陸上攻撃機改造の翼端掩護機による編隊火力の強化
双発戦闘機の動力旋回銃塔によるさらに柔軟な火力強化
この三つがセットで考えられていたのが昭和16年頃の状況です。
そしてもう一つ、十三試双発戦闘機には長距離降下爆撃機としての派生型が早くから研究されています。
戦闘、偵察、爆撃能力を兼ね備えた万能機は日本に限らず、世界中の空軍にとって魅力的な存在だったのです。
BUN
- BUNさん回答ありがとうございます。
つまりは零戦のエスコートが期待できない、作戦行動半径650〜800浬級については、陸攻や翼端掩護機、双発戦闘機の動力旋回銃塔の火力でなんとか凌ごうと考えていた、ということですね。
では追加質問です。
一式陸攻の翼端掩護機版はお払い箱(練習機や輸送機に転用)ですし、双発戦闘機も制式採用できないシロモノでした。渡洋爆撃の戦訓として、(単座)戦闘機の護衛ナシで、爆撃隊の火力さえ向上すれば、再発は防げる、という誤ったモノが出回っていたのでしょうか?
どうも戦闘機無用論の残党の影が見え隠れしてるような気がした次第です。
月光の初号機テスト中に、零戦の主タンクを大型化し陸上長距離戦闘機として小改造して、航続距離がもう300浬(作戦行動範囲で100浬)延長を行っていれば、ガダルカナル初戦とか、17年2月20日のラバウル迎撃戦とかで、もう少しマトモな戦果が挙げられたような気もしますが。台南空の「エースパイロット」達が消耗したのは、ブイン基地が稼働する前ですしね…
月光
- そうではありません。
陸上攻撃機の編隊火力を強化するという発想自体は零戦とは関係がありません。もともと一式陸上攻撃機は渡洋爆撃の大損害に対する回答として試作された防御力強化策なのですが、それでは足りなくなったと判断されていたということです。ドイツ空軍を圧倒したB17の編隊火力発揮を究極とすれば、そこへ向かう方針は間違っていたとは言い切れません。
また零戦の航続力強化は実は一度も望まれていません。
先に述べた理由で現状が限界と考えられていたからです。
そして、陸軍の一式戦闘機の審査時に問題になったように、増槽で航続力を延伸しても戦闘空域上空で燃料満載状態で戦うのであればきわめて不利である、という見解も見据えておくべきでしょう。戦闘機は偵察機と違って増槽を大型化すればよいという訳でもないのです。
またブイン基地の戦力化は17年10月からです。
搭乗員の本格的消耗はその後から始まります。
BUN
- 参考ですが、単座機の長距離進攻は困難だったという例が米軍機にあります。
あまり知られていないのですが、硫黄島から日本本土に進攻したP-51は、かなりの損失を出しています。506th Fighter Groupでは5月末から終戦まで作戦行動で約80機を損失し、50人程のパイロットが未帰還です。
45年6月1日には天候不良により、27機と24人のパイロットが失われる大損害を被っています。
部隊の戦果は、地上での破壊も含め200機程、空戦では50機程となります。
戦果の実態は報告より小さいのが常ですから、この部隊だけをみれば決して勝ち戦とはいえない状況で、実際長時間の進攻がパイロットにとって負担になっていたという話も伝わっています。
ケンジ