211 いつもお世話になっております。先日、九六式三号艦上戦闘機の存在を初めて知り、その余りの美しさに打たれてるのですが、史実では結局三菱が液冷エンジンの実用化が困難として開発は見送ったようです(アツタやハ40の取り巻く状況を考えれば妥当な判断かも知れません)が、もしあの時点で三菱がイスパノスイザのエンジンの国産化を決意していたとしたら、どのような障害が考えられましたか?また、実現の可能性はどれくらいあったのでしょうか。三号艦戦を幻の試作機で終わらせるには余りに惜しい機体だと思いますので…
ハインマット

  1. それ以前より三菱はイスパノスイザ社製エンジンのライセンス生産をずっと行ってきたのですが、ヒ式650馬力で深刻なデトネーションが多発し、これを搭載した三菱製八九式艦攻は欠陥機の汚名を着せられてしまっています。
    こうしたことがあって、それまで水冷発動機メーカーだった三菱は空冷の金星シリーズを中核とするラインナップに転換していったわけです。
    「国産化を決意」はとうになされており、しかし、うまくいかなかった、という感じです。


  2. 早速の回答ありがとうございます。

    しかし、そうであるならば、なぜわざわざフランスからD510を輸入してまで液冷12気筒エンジンの研究をしていたのでしょうか。単にモーターカノンの実用化を模索していただけかも知れませんが…


    堀越氏の著作を読んでも、モーターカノンの機構も含めかなり興味を持っていたようですが、現場の要請から二号二型仕様に戻されて中国に送られたと書いてあります。堀越氏自身は直接エンジンに関わる人間ではなかったから、単に個人的な感想を記しただけなのでしょうか。当時三菱社内で実用化のあてもなく遊んでいた三号艦戦を、もったいないから再利用したという事なのでしょうか。
    ハインマット

  3. あの2機は元々イスパノエリコン20ミリ機銃装備実験機として水冷発動機を装備されたもので、実験終了後は速やかに原型に復して実用に供した、ということなのだと思います。
    D510についても同様、モーターカノン実験目的です。
    結果として、海軍の20ミリ機銃装備は、モーターカノン形式ではなく、翼銃という形で実用化されてゆくことになります。


  4. なるほど。よくわかりました。ありがとうございます。しかし、残念ですね。日本版スピットと言うか、エンジンカウル周りの美しいラインは、試しに付けてみたとは思えないくらいの完成度のように見えますよ。模型もガレージキットしかないみたいだし…僕が宮崎駿なら漫画かアニメにしたいくらいです!
    ハインマット

  5. 三菱の社内資料をひもといてみましたが、
    「冷却能力不足」
    「性能は二号一型と大差ない」
    「イスパノを九六戦に装備する意思はそもそも抱かれていなかった」
    ということだそうです。
    機体の領収が12年7月とまさに支那事変勃発と重なったこと、この時点で、九六戦の総生産数が70機程度でしかなかったこと、などから肝心のモーターカノン実験も十分な結果を得ないうちに、二号一型に改装されていったようです。


  6. 世傑の諸元を見ても三号艦戦の記述があまりないので、ちゃんと飛ばしたのかなと思っていたのですが、そうだったんですか。しかし寿三型を積んだ二号一型と変わらないと言うのは何やら釈然としない物がありますが、冷却不足が原因だったのでしょうか。


    僕がここまで拘るのは、七試の開発の際、当初自社開発の七試液冷エンジンの搭載を企図していた、という記述を世傑で見たからです。これは前述のヒ式とは別物のようですが、九六式三号艦戦のあのうまくまとめたデザインはこの時の経験があったらではないでしょうか。


    僕は妄想するんですよ。もしイスパノ九六艦戦が生まれていたら、十二試艦戦も史実とはまったく違った姿をしていたかも知れない。それは堀越氏自身もそう思われていたんだろうかと。


    しょせんは僕の勝手な妄想ですが、ジェットエンジンを積んだ震電より、液冷エンジンを積んだ九六艦戦や零戦の方に夢を感じるんです。
    ハインマット

  7. デザイン的なロマンのお話はわかります。

    それはそれとして、歴史的な経緯を述べるなら、航空発動機メーカーとしての三菱は、ずっと水冷屋さんでした。
    ですから、それまでに三菱で製作されてきた機体はほぼ水冷一辺倒です。十年式3種、一三式艦攻、鷹型艦戦、八九艦攻、七試艦攻。ですから、この類のデザインソースは豊富に持っていました。七試単戦2号機に搭載が予定された三菱七試水冷600馬力とは、艦攻用だったイスパノ650馬力のボアを縮小、小型軽量化して艦戦用にしようとしたものです。そういう意味では、三菱がずっと培ってきた技術の路線上にあるものだともいえます。
    一方で、ようやく空冷に転換し始めようとしたのが、金星旧型ができた七試双発艦攻、七試単戦からでした。海軍は八九式の頃から空冷に転換したがっていましたし、実際、その八九式がイスパノ650馬力で泣きが入ってしまったわけで、水冷発動機技術そのものは、その艤装も含めて必ずしもうまくいっていたわけではありません。まあ、三菱はやむにやまれず空冷化に向かったわけであり、そこで金星という成功作を得たのですから、すべては無碍ないことだったわけでして。



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