131 |
十二試陸上攻撃機(一式陸攻)開発の時に海軍は三菱の四発機案を一蹴していますがこれは中島の十三試陸上攻撃機(深山)の開発と関連しているのでしょうか? 凡人13号 |
- このようなことが行われたとされる場の具体的な状況についてよく知らないのですが、少なくとも16年に行われた十六試陸攻の会議の席上、本庄技師が十六試陸攻四発案を提案し、これに対して航空本部から「発動機補給、整備取扱の関係上双発で進む」と回答されています。
中型攻撃機は数を多く装備する必要のあるものですから、発動機供給が機体生産上の隘路を作らないよう配慮が求められるのは当然のことともいえます。
昭和12〜13年当時の海軍の軍備計画は、中攻と大攻の比率を、隊数にして6.0対1.5、飛行機の月産数で40対15ほどのものを求めています。
一式陸攻のときにも同じく四発案を提案していたのだとしたら、本庄技師渡米前の12年9月の時点のことでありそうです。この時期の十二試陸攻とは、前月に発生したばかりの中国大陸での九六陸攻大損害を受けて、緊急的に対策をはかる意味合いのものでしたから、九六陸攻と同じ双発になるのはこれまた当然のことだったはずです。
なお、12年9月時点で候補発動機は1000馬力の金星、震天でしたが、のちに1500馬力の火星に変更されています。発動機出力が不足しているという認識は海軍側にもじゅうぶん認められてはいたはずです。
片
- 回答ありがとうございます
凡人13号