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日本海軍、一式陸攻11型の航続距離と燃料給油方法について教えて下さい。 緒元性能表によりますと燃料満タン 4780リッターで、[攻正]2852km、[攻過]4287kmとなっています。 この意味は攻撃状態(搭乗員7名、火器有)で、爆弾1000kgを携行した攻撃飛行での航続力2852km。 偵察状態(搭乗員7名、火器有)、爆弾携行無しでの航続力4287kmとの解釈で正しいのでしょうか。 この場合、単純計算しますと爆弾100kgあたり航続距離が約140km低下することになるのですが、この考え方は正しいのでしょうか。 また、8個あるインテグラルタンクへの給油口はそれぞれの8ヵ所に分かれていたのでしょうか、それとも給油口は左右1個ずつあって、空になっている1号タンクから4号タンクへ順に満たされていったのでしょうか。 ご存じの方おられましたら宜しくお願い致します。 世良 |
- 給油口は各タンク別々です。
各状態で航続距離が異なるのは、燃料搭載量が違っているからです。
必ずしも燃料を満載にするわけではないのです。
最も航続力が稼げるのは「偵察過荷重状態其二」ですが、この場合は爆弾倉内に増槽を増設して燃料総量4900立程度とします。これにより全備重量は13210kgとなります。当然ながら、この増槽は攻撃状態では使用できません。
これに対して「攻撃過荷重状態其一」「同其二」では爆弾または魚雷800kg、燃料2850立で全備重量12500kg。「攻撃過荷重状態其三」では爆弾800kg、燃料3600立で全備重量13250kgになります。
この3600立というのが機内燃料槽だけでの満載状態です。
このように、全備重量を一定限度内に収めながら、許容搭載量を爆弾、魚雷に使うか、燃料の余分な積載に使うかと振り分けられるわけです。
以上、実機の取扱説明書を基本資料としつつ。
片
- 詳細な説明ありがとうございます、とても参考になります。
もう少し質問を続けさせて下さい。
私は終戦直後の8月19日に降伏条件協議のため、日本の代表団を乗せて木更津から伊江島まで飛行した二機の緑十字機(1番機一式陸攻輸送型のG6M1-L2、2番機1式陸攻11型G4M1)について調べています。
ご存じと思いますが、この機は帰路に天竜川河口付近に「燃料切れ」が原因で1番機が不時着しました。
原因は伊江島での米軍による燃料補給を受けた際、ガロンとリッターを間違える等のミスがあっただろうとの見方が有力となっています。
しかし、私はこの原因がどうしても腑に落ちません。
1ガロンは約4リッターであり、仮に1000リッターの給油を申し入れしたら4000リッターの給油量となるはずです。
仮に逆に計算ミスしたとして500リッターを給油したとしても機内に各タンク毎に設置されている筒状の油量計を確認しないで夜間の長距離飛行をするとは考えられないのです。
また、給油口が各タンク毎に設置されているなら、尚更左右の給油量がバランス良く給油されているかの確認は絶対に必要だと思うのです。
当初米軍からの使用機種指定は零二二型L二型及D三型(DC-3)又は陸軍の100式輸送機でしたが、終戦を納得しない友軍機からの攻撃を避ける為に往路、復路での給油が望めない為、航続距離の長い一式陸攻に変更してもらいます。
米軍からの命令書には給油に何する記載がなかったからです。
もし、伊江島での給油が期待できるのであれば、零式輸送機(DC-3)でも伊江島へ給油なしで飛行可能ではなかったでしょうか。
一式陸攻にこだわったのは往復無給油での飛行を前提にしたのではないかと言うのが私の推理です。
日本地図で物差しを使って簡易的に木更津〜伊江島までの距離を測りますと直線で約1600km、往路は鳥島付近まで南下し、その後西進、佐田岬で米軍機と合流して伊江島に直行、この機構距離は約2100km程度と思うのです。
帰路は夜間飛行となる為、安全を期して海岸線沿いに飛行。
木更津から約200km手前の天竜川付近で燃料切れで不時着してしまいます。
この帰路の機構距離を約1600kmとすれば、合計気候距離3700km程度となり、
一式陸攻の偵察状態での航続力4287kmからすれば給油無し飛行の場合で起こり得ることではないかと思うのです。
不時着原因は、「米軍による給油ミス」と「搭乗員の油量確認忘れ」というミスの重複という現状の有力原因にはどうしても疑問が残ります。
2番機機長の河西兵曹長の証言から伊江島で2番機に対する給油の事実は間違いないようです。
下士官機長の気楽?さからか遠慮しないで貰っておけと1号〜5号(増設タンク?)まで満タンの指示をしており、この2番機は無事木更津に戻ります。
しかし、全権の川辺中将を乗せた1番機は機長が大尉であり、もし米軍からの、ほどこし給油は受けないとの判断があれば無給油で帰路に就いたとの可能性がありえるのではないかと思うのです。
その時点で1式陸攻の航続力からしてまだ十分な燃料があったと可能性があります。
しかし、帰路は2番機のトラブルで単機での飛行となり、さらに往路2番機に乗っていた数名が1番機に乗ったとすれば、航続力はその分だけ低下したのではないでしょうか。
考えれば考えるほど不時着の謎にはまってしまいました。
どうかご教示をお願い致します。
世良
- いわゆるカタログデータ的な数値は、特に航続距離に関して、実際にはそのとおりにはいきませんし、海軍でもそのように考えて臨んでいます。
カタログデータはあくまで最良条件での数値であり、現実的な「技量優秀なる搭乗員」の場合でもこの75%程度に考える必要があり、さらに天候、夜間、月齢などによってここからさらに大幅に割り引かなければならない、ということが実用上の航続距離を割り出すときの基本とされたいたわけです。
実際、1番機機長の回想でも、往路に行われた厚木基地を避けるための南下も積乱雲を避けるために、事前に伝えられた計画通りには行われておらず、かなり手前で西に針路を変えたとしています。
このように、地図上では直線であっても、実際の空には避けなければならない天候なども存在しているのであって、その都度燃料は余計に消費されてゆきます。
また、この飛行に使われた機体は相当な老朽機です。これもまた、実用上の航続力を大幅に目減りさせる要因です。
計算で燃料消費量を割り出すためには、付け加えて考慮しなければならないたくさんの要素が存在しているのだということをご理解いただければと思います。
片
- といいつつ・・・・・・なのですが、この飛行で一番機として使われたG6M1−L2は爆弾倉内増槽が装備された機体であり、この場合偵察過荷重は3650浬程度になるはずであるような気もしますね。
(帰りは増槽の中の燃料を確認し忘れたかもしれない、ということがこの機の機長の回想にも述べられています)
片
- 片様、重ね重ねありがとうございます。
どうやら私の考えている伊江島での給油が無かった事は無理があるかもしれませんね。
と同時に増槽による偵察過荷重3650浬=6500kmも気になってしまいます(笑)。
機長回想で増槽の中の燃料確認を忘れたかも・・・との事ですが、1〜4号タンクが満タンでさえあれば十分帰着できたのではとも思います。
また、軍事的には素人の私は、搭乗員の心理面を強く考えてしまいます。
2番機に比べ1番機のクルーの方が、背負うものが多かったと思うのです。
そしてその事が、仮に給油がなかったとしたら、真実は語らず米国のミスによるものとしておこうとの行動につながったのではないかと思うのです。
1.横須賀航空隊で士官が機長の1番機。
木更津航空隊で下士官が機長の2番機。
2.帰路、陸軍の川辺中将や横山少将が搭乗していた1番機、そして陸軍と海軍のライバル関係。
3.仮に、伊江島での給油が見込めないことを仮想しての一式陸攻の機種選定であれば、その選定経緯を知っていた飛行プラン作成者の寺井中佐と須藤大尉。
一方、下士官の2番機機長は経緯をしらず、給油に対する抵抗がなかったのではないか。
4.戦争は終結しており、今後の生活を考えた場合、ここは原因を米国にしておいた方が良いのではとのクルー全員の認識と申し合わせ。
等々、考えてしまいます。
それだけ私の中で給油量を確認しないで夜間を離陸した事が考えられない事実ですし、
1番機の搭乗員の当時の回想がいまひとつ一貫性に欠けているように思えてならないのです。
さて、申し遅れたのですが、私は1番機が不時着した静岡県磐田市に在住しています。
平成18年6月に不時着した1番機の機体(尾翼部分)の一部が61年ぶりに海岸に打ち上げられ、
現在、近くの公共施設で常設展示されています。
この機体を見ながら、あの夜にいったい何があったのかとの重いが募るばかりです。
最後に片様の1番機機長の回想に関する文献はまだ読んだことがありません。
迷惑でなかったら出典を教えていただければ幸いです。
世良拝
世良
- 『中攻史話集』です。
片
- >横須賀航空隊で士官が機長の1番機
1番機機長の須藤傳大尉は、大正15年横須賀海兵團入団の下士官兵出身特務大尉で、操練16期出身の大ベテラン、ということを、もしご存じなければ補足しておきます。つまり、両機の機長は純粋に操縦経験と技倆重視で選ばれています。
平山
- 須藤機長の卓越した操縦技術があったからこそ見事な不時着につながったんでしょうね。
その須藤機長の回想録を読んだことがないので、早速「中攻史話集」の中古本を発注致しました。
これで私のもやもやが解消されると思います。
ご協力ありがとうございました。
世良