67 |
すみません。 キ−58とG6M1の増設された下部バルジの構造や詳細な形状の資料はありませんか? また、キ−58の武装配置についてご存知だったらお教えください。 20mmx5、12.7mmx3が何処に割り振られるのかが知りたいです。 TT |
- グリーンアロー出版社「【図解】世界の軍用機史8 日本陸海軍試作/計画機 1924〜45」のP43に、キ58の良く知られている二葉の写真(左側面で左翼エンジンにカバーがかけられているものと、左後方からみた3号機)とともに、左側面イラストが描かれています。写真と合わせると、概その形状は判ります。
武装配置は、当該ページからの憶測ですが、尾部×1、後上方×1、腹部バルジ後方×1〜2、胴体前上面×1(?)が読み取れます。
(尾部と腹部バルジ、後上方は、左側面に寄った配置は判るが、左右にあるかは確認できません。後上方はキ49-IIと同じに見えます(*))
他に、胴体後部側面、後下方の銃座窓も描かれている(写真では判別不可)のと、機首銃座も撤去したという記述がないので、キ49-II(二型乙)やIIIを参考にすると、(*)
尾部、後上方、腹部バルジ、前上方、機首:20o各1
側面(左右)、後下面:12.7mm各1
ではないかと…
(*):酣燈社「日本陸軍制式機大鑑」P126 より
(上記資料は双方とも新刊で入手可能かと思います)
TOSHI!!
- G6M1については、Gakken「「歴史群像」太平洋戦死シリーズ42 一式陸攻」のP115に比較的わかりやすいイラストが載っています、正面系等や構造は仔細には割りませんが、腹部バルジの武武装や、爆弾倉内の増加タンクの形状が116ページに詳細に載っています。
武装は
@:腹部バルジ前に20o機銃×各1
A:上方銃座に20o機銃×1(初期型の7.7mm機銃の銃座とは少し印象が違う)
B:前方銃が改良されて斜界拡大(G4M1三号機で標準化)
C:同体中央側面窓:武装強化によって乗員が三名増え、機内艤装を変更しM〜N肋材間にあった小さな丸窓(機関士席)と、L〜P肋材間にあった通信士席を統合して、NからO肋材間左右両舷の窓だけになる。
E:翼内インテグラル防弾化(再外部のIV番タンクを廃止し、残ったタンクの前後壁に防弾ゴム貼り付け
F:爆弾倉内に増槽を固定装備(詳細は別図)。
G:機首下面の爆撃照準窓なし
H:尾輪が引き込み式
といった細かな外観の違いがあうようです。
質問のニュアンスから、モデラーの方ではないかと思いましたので少々クドい回答になりました。実際の書籍を見るのが一番下とは思います。
(増加タンクが独特の色で塗られいる(単なるジンクロかな?)とか機外に露出してるらしいとか、細部をみるとモデラーの方にはヤリガイがあるかも。
TOSHI!!
- >(増加タンクが独特の色で塗られいる(単なるジンクロかな?)
すみません。図を塗った本人です。
黄色に塗ったのは、単にそこが燃料タンクであるという図示のためだけのものです。実際の状態とは関係ありません、ということをお断りさせて下さい。
なお、日本海軍ではジンクロ系の黄色塗料は採用されていません。
片
- TOSHI!!さん
詳細な解説&考察と書籍のご紹介ありがとうございます。
G6M1は側面ブリスター銃座の位置も変更されているようですね。
キ−58にはG6M1のように防弾の強化や下部バルジの前方機銃は付かないのでしょうかね。
後、キ−69はおおまかなプランのみで具体的な図面はありませんよね?
ともあれ、ご回答ありがとうございました。
TT
- >キ69
既述の、酣燈社「日本陸軍制式機大鑑」P67〜P70にかけて記述がありますが、図面完成までは至っていたようですね。以下は抜き書き(引用)です。
三菱のキ67重爆(=四式重爆)をベースにした爆撃援護機(*)で、昭和15年の「研究方針」からスタート。15年5月には四式重爆の図面完了から3か月で図面完了とありますので、15年8月には設計完了、17年3月に1号機完成予定だったとのこと。
15年6月28日の設計基礎要求によると、
@:重爆撃機編隊内にあってその直接援護に使用するのを目的にした双発機
A:つとめて重爆撃機と同一機種および部品を使用する
B:性能は常用高度、航続力、最大水平速度は重爆撃機と同じで諸性能は爆撃機に準じ編隊内の行動はつとめて軽快になるようにする
C:乗員は9〜12名(座席数10〜12)
D:発動機はハ101、103、104級
E:武装は、射界は特に後方、後下方、後側面の死角消滅につとめ戦闘性能が卓越するようにするため、
・前方、前下方、下方、後上方(前後)、左右側方、尾部の8か所に銃(砲)座を設ける。
・ホ1(20o)1門(後上方)、ホ103(12.7o)1門(尾部)、九八式旋回機銃(7.92o)4挺(側方左右、前方、前下方)、テ3旋回連装機銃2挺(後下方、下方)を搭載
・要部の装甲を実施する
といった計画だっだが、具体化されずに終わった、とのこと。図面は見当たりませんでした。四式重爆の後上方砲がホ5になってるのに対してホ1なのが計画の後先の絡みかも。
(*:航空ファン イラストレイテッド97-2 92 日本陸軍機キ番号カタログ P65では"試作編隊援護機(三菱)計画のみ"と記述)
武装配置をこの資料に従ってみる限り、腹部にブリスターを設け、前下方の機銃と後下方の連装機銃はこの前後に配置されたように感じられます(私見)。側面銃座や尾部銃座はあまり変わらなかったかも。前下方は爆撃席をつぶしたのかな… G6M1腹部ブリスターの形状が参考になるかも。
(小沢デザインと本庄デザインではセンスは違うのですが)
このテの編隊援護機の類は、米国でもB17の改造機でXB/YB40でポシャってますから、各国似たようなことを考えたんでしょうけど、援護対象の爆撃機が帰路に軽くなって増速できるのに、重くて追従できないという欠点だったようですね。
尚、手元の各種資料を当たってみた範囲では、キ58の装甲強化には触れたものがありませんでした。とはいえ、一式戦にも(いささか簡易ながら)防弾装備があった帝国陸軍なので、多少は配慮されてたかもしれません。
個人的には、零式三座水偵の魚雷艇攻撃用20o機銃(胴体後下方)の形状が長年の課題です。モデルアートNo.565では、後上方機銃を20oに換装したモデルは発表されてるんですが…
TOSHI!!
- TOSHII!!様
横から失礼します。
零式三座水偵の20mmですが、後下方装備は本当にあったのでしょうか。
魚雷艇攻撃+20mm=後下方という我々の思い込み、もしくはそのような記述が一時期多かったので、洗脳?されてしまっているのかもしれません。
偵察員席搭載の写真がありますが、この装備法が一般的もしくは全てなのではないでしょうか。
私もこの問題には大いに関心があります。
chosan
- >6.
質問者の方の主意からは脱線しているので手短に。
「丸メカ No12 零式水上偵察機」P57に、元第452空・海軍飛曹長 高橋重男氏の体験記があり、その中に、"昭和18年後半に入って零式水偵にも改良が加えられた。偵察席下方に20o機銃を搭載して敵魚雷艇攻撃を行った"(ママ)との記述があります。
現地改造たったのかもしれませんが、「零式水偵とともに3200時間」という元パイロットの方の体験談なので、信憑性は高いかと。
また同頁には、零式水偵による雷撃実験と、玄海基地での水偵雷撃隊の編成にも詳しく書かれており、貴重な証言と思っています。
以上、ご参考までに。
TOSHI!!
- 重ね重ねありがとうございました。
TT
- >7
TOSHI!!様
ご教授ありがとうございます。
ということは後下方も実在したのですね。
どうも、写真の印象が強く、後下方は誤伝かと思っていました。
chosan
- >4
G6M1の側方銃座位置はたしかに一般的なG4M1とは違っていますが、これは翼端援護機用に移動されたのではありません。そもそも試作段階でのG4M1はG6M1と同じ銃座位置だったのです。
「G4M1試作機」→「G6M1」→「G4M1量産機」という順で生産されたため、G6M1は旧形状を残したままになっているのです。
>5
キ67はたしかに当初はかなり早い時期に設計完了に持ち込むことが目論まれていたのですが、実際にはさまざまに遅延し、最終的な設計完了は17年半ばにまで至っています。
この時期にまで下るとさすがに翼端援護機という時代でもなくなっており、したがってキ69は設計に着手されぬまま中止となっています。ですので図面も存在しません。
キ67の計画が遅れた理由の中でも大きいのが、銃座配置をどうするか、とういうものでした。
15年中のキ67は完成機とは異なった銃座配置で考えられていて、側方銃座は海軍式のブリスターではありませんし、後下方銃座が存在しています。
こうしたところから出発して、自己防御力を向上させることが、キ67開発のテーマとなっているのです。
なお付け加えるなら、ブリスター型の銃座覆は三菱側でデザインしたものではなく、B17試作機を見学した海軍空技廠部員から提唱されたものです。初期のB17は胴体側方だけでなく下方にもブリスターをもっており、これがG6M1に影響していったものと考えます。
片
- >10.
確かに、計画時の配置図と実機では大きく違っていますね。原型機も機首の透明部の形状が違いますし。
正直、今回少し調べて、昭和15年に図面完成しているワリには量産が遅いかな、と思ってましたが、納得しました。行き届いたフォローをありがとうございます。
>9.
後部銃座に20o機銃を装備した「58-081」号機の写真は有名ですが、後下方偵察窓に旋回20o機銃を装備した機体が一定数存在したことは明らかと思っています。逆に「58-081」号機の方が現地改造ではなかったのかと…
こういったことは搭乗員の手記や談話では散見されており、天山艦攻の後上方に20o機銃を固定装備(後方に向けた斜銃)して、索敵の定期便のカタリナに向けてケツを上げて「撃て撃て〜」なんて空中戦を演じた談話が残っています。
(丸メカニックNo30.P71 攻撃第254飛行隊長 肥田大尉(談))
TOSHI!!