28 1式戦や3式戦が2式戦を米軍機と見立てて戦闘訓練をするというようなことはなかったのでしょうか。
ZYX

  1. 逆に質問しますが何を元にそのような質問をするに至ったのでしょうか?
    また二式戦と書いてますが、キ45とキ44と二つの二式戦があるので絞っていただかないと書けません。

    といっても両機種とも、本当にそのようなことがあれば面白いのですが、そのような目的で使うなんて話は聞いたこともございません。
    二式単戦と隼の間で単機の模擬空戦であるならば話は別ですが・・・

    また、3式戦と二式単戦が一緒に居たなんてのはビルマの64戦隊くらいでしょうが、配備された3式戦は僅か数機(2・3機?)のみでほとんど飛ばなかったようです。
    末期の本土防空戦だと一緒の飛行場にいそうですが、こちらは異機種間の戦闘訓練どころではないでしょう。
    P-kun

  2. > 1
    制式名称は、キ四十四が「二式戦闘機」、キ四十五が「二式複座戦闘機」ですよ。


  3. 大戦末期ごろにP-51と四式戦で模擬空戦をして黒江氏が若いパイロットに負けてやった後、実戦で不利な態勢からP-51に挑んでいったというエピソードを聞いたことがあります。日本機の中では二式単戦は一撃離脱型の欧米タイプの戦闘機だと思うので、数的主力戦闘機である運動性重視の零戦や一式戦が急襲を受けたときの退避の仕方とか、一撃を避けた後の反撃の方法など新人パイロットの教育には有効だと思ったので質問してみました。三式戦については軽戦に分類されるのでついでにという感じです。
    ZYX

  4.  対米軍機という話であれば、南方で鹵獲したB-17を重爆迎撃の仮想敵として陸海軍とも利用していますし、米軍機でありませんが、輸入したMe109E-7と一式戦や二式戦、Fw190A-5と四式戦(P-51Bも)との模擬空戦は行っていますね。
     やや話題が逸れるかもしれませんが、海軍では零戦の制式配備直後に九六式艦戦との模擬空戦(単機から編隊空戦まで)が、二式陸偵(後の月光)の試験配備直後にラバウルで零戦との模擬空戦(単機のみ)が、烈風(A7M2)の試験中に零戦との模擬空戦(単機のみ)が行われています。
    T216

  5. どうやらこのような戦闘訓練はなかったようですね。本気でやれば接近戦ですから事故が起きかねませんし、新人は九七戦くらいまでで後は実戦部隊に送られて現地訓練なのでしょうか。間違ってたらごめんなさい。
    ZYX

  6. >6
    というか、一撃離脱戦法の対応なら、別にそのためだけに二単を持ってこなくても隼でも飛燕でもできてしまいます。
    それに「米軍機と見立てて」というような訓練方法をやるのなら、わざわざ余り配備の進まなかった二式単戦を持ってこなくても比較的多数鹵獲され、しかも占領地にあるP40やF2A、ハリケーンでなんとかなってしまうでしょう。
    ですので、鹵獲P40を使用して特殊防空隊を組んだ50戦隊や、鹵獲ハリケーンを戦力化しようとした64戦隊などではひょっとしたら、それらとの戦闘訓練を行った可能性はあるとは思います。

    >2
    突っ込み多謝です。お恥ずかしい・・・
    P-kun

  7. あ、今気がついた。
    上の>6は>5の間違いっすね。失敬(^^;;
    P-kun

  8. 微妙にぶれるようですが、新人訓練という意味で質問を立てたわけではなかったのです。タイプの違う戦闘機を有している陸軍がギリギリの戦闘能力を発揮して戦闘法を会得するのと、1式戦同士が剣道の形演技のように対戦するのとではまったく違うと思うのですが。北関東の部隊とか明野とかでならこうした戦技開発が可能かと思いましたので質問してみました。
    ZYX

  9.  今更ですが「ビルマ航空戦」を読み返してみたら、飛行第六十四戦隊で一式戦三型と二式戦二型の空戦訓練の話が載っていました。

    > 8.
     一式戦実用化直前に九七式戦や九五式戦と模擬空戦を行い、空戦法の開発に取り組まれており、「こうやったら一式戦は九七式戦に勝てる」「こうやったら一式戦では九七式戦に勝てない」等を確認しています(海軍でも九六式艦戦は九五式艦戦と、零戦は九六式艦戦と模擬空戦を行って同様のことを行っています)。
     また、4.でも挙げたMe109E-7との模擬空戦には一式戦と九七式戦も参加しており、この模擬空戦には低速機で高速機に対抗できるかどうかの確認(空戦方法の模索)の意味もあったようです。
    T216

  10. >1
    64戦隊は一式戦装備の部隊だったと記憶しているのですが、なぜ二単や三式戦が配備されていたのでしょうか?
    gk

  11. 10>
    南方軍の稲田総参謀長の昭和18年7月の状況報告で「1個戦隊に重戦を9機配備して二重装備にしたい」との報告が中央にあり、これが実現したためのようです。
    原因はやはり当時猛威を振るっていたB24対策の一環でした。
    これが同年10月に実現することになり、50・64戦隊に二式単戦が4機ずつ配備となります。
    三式戦もこれと同時期に来たようですが、「壊れてくれたほうが良かった」と評価は散々のようです。

    本来なら、それ以前に配備された二式複戦の21戦隊のように、一個戦隊を配備するのが筋なのでしょうが、それだけの人員・装備を配備する余裕が無かったのだと思われます。
    P-kun


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