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なぜ紫電は疾風より配備が遅れたのでしょうか。川西が陸上機になれてなかったためでしょうか。 霞ヶ浦は他人 |
- 両機種とも比島戦には間に合っているのですが、組織的投入という意味では、四式戦の方がはるかにうまくいっています。
キ84、紫電はともに、16年12月の対米開戦直後に、可及的速やかに高性能機を得るべく、既存機の設計に依存して試作された戦闘機といえます。
キ84の場合、基礎としたキ44に対して最初から大きな変更を加えてスタートしていますので、強風の設計を出来るだけ残そうとした紫電に比べ、試作1号機の完成がかなり遅れています。しかし、この手間によりキ44の欠点のかなりの部分を排除することは出来ており、発動機とプロペラ関係を除いた機体そのもの完成度は最初からかなり高いものになっており、量産への移行もスムーズに行われています。
一方で、紫電は、試製のスピードアップをはかるため、強風の原設計をのうち陸上機として不適な部分を残してしまっており、このためさらに第二段階として紫電改を必要としてしまっています。こうしたことから肝心の19年中期の生産数が向上しません。
いわば、急がば回れを地で行ってうまくいったのが四式戦ということになりそうです。また、そのような結果になるようにうまく導いた陸軍行政の奏功も大きな要因といえるのではないかと思います。
片
- 便乗質問させて下さい。
>一方で、紫電は、試製のスピードアップをはかるため、強風の原設計をのうち陸上機として不適な部分を残してしまっており、
海軍は、最初から「低翼の紫電」(つまり紫電改)の作製を指導できれば良かったと思いますが、雷電の不調が原因で、急がば回れ的な余裕も無くなったという事でしょうか。よろしくお願いします。
はなみ
- 雷電の不調が顕在化するのは、紫電の姿勢計画開始よりももっとあとの時点のお話ではないでしょうか。
16年末に雷電で問題になっていたのは、試作遅延と性能が要求に満たないため早急な性能向上が必要であると見なされていたことでした。
いずれにせよ、対米戦勃発により大至急、高性能戦闘機を入手しなければならなかったわけです。
キ84についていえば、原型となったキ44に明らかな短所があったため、急がば回れであろうとも直さなければならなかったのだと思います。
片
- 片様 早速のご回答ありがとうございます。海軍の事情は理解できました。
ところで、紫電は川西側の経営的な問題から提案されたと言われますが、海軍からの働きかけは無かったのでしょうか。
はなみ
- 紫電も基本的には海軍からの要求により試製されています。
「川西側の経営的な問題」といわれるのは、川西社内で要求への回答が可能かどうか諮られたものと理解しています。
片
- 例えば、紫電は層流翼だが、四式戦は在来翼型、ということについても、紫電の原型となった強風が元々層流翼であった結果なのだと思うのですが、川西が航研の谷教授と諮って層流翼を作り出した背景にも、やはり海軍からの働きかけが存在しています。層流翼LBは、川西に高速機を作らせるために海軍が仕組んで作らせたものだったのです。この方向性は、自動的に川西に高速陸上戦闘機を作らせたい、という海軍の意向に育ってゆきます。紫電や十七試陸戦などはそうしたものの結果なのです。
片
- 強風の陸戦化は、川西社内で上層部が話し合った、とされる日付よりも以前から、海軍の中ですでに抱かれていたわけですが、その他に、川西という会社の環境についても少し。
川西というのは、元々は中島からの移籍組技術者で作られた会社ですが、その後、海軍からの梃入れが入って人的内容が入れ替えられています。
一新された社内では、風水槽(つまり流体力学関係)に熱心に力が入れられるようになります。
一方で、海軍航空廠科学部で行われていた流体力学研究は、事情あって担当者不在となってしまったため頓挫しかかります。
そこで、海軍が着目したのが東大の谷教授で、この人になんとか新翼型を作らせたい。たまたま川西菊原技師が谷教授の同窓であったため、この個人的な結びつきを通して谷教授に働きかけるようにとの海軍からの斡旋が入っています。
こうしたことから、実用機試製計画上も、同じ水上機メーカーの愛知とは一線を画して、川西には高速水上機を発注する方向が強まり、やがて、高速水戦、高速陸戦へと指向していったわけです。
この時点で川西の上層部はほぼ完全に海軍からの天下り退職者が占めるようになっており、海軍の意向が融通を利かせやすい会社になっていました。
末期に川西が国有化されて二技廠となるのも、こうした流れの上にあってのものなのではないかと想像します。
いずれにせよ、川西独自の「会社経営上の問題」よりもさらに上層に海軍の意向があったわけです。
片
- 片様 興味深いお話ありがとうございました。紫電やLB翼の開発、川西の人事まで海軍の意向が働いていたのには驚きました。
紫電について、設計を急ぐため陸上機として不適な部分が残ったことについても説明していただきましたが、中翼を残したのは設計時間の短縮だけが目的だったのでしょうか。
強風の解説では、中翼は「胴体との干渉抵抗が少なく」かつ滑走中に水の飛沫が当りにくいため採用されたと記載されていました。
「胴体との干渉抵抗が少なくなることによる紫電の高速化」を期待した、というのはあり得ないでしょうか。
いくら設計時間の短縮とはいえ、脚や視界に目をつぶってまでも中翼を続けるのか疑問に思いこんな質問をさせてもらいました。よろしくお願いします。
はなみ
- 基本的には、中翼であることが克服できない弱点と見なされなかったからこそ、紫電はGOサインを得たのだと思いますよ。
視界に関しては、十四試局戦も実機が完成するまではそれほど重視されていません。これからの高速機はこんな形態になるのだ、と思われていたのではないかと想像します。もちろん紫電も含めて。
しかし、実機が完成した雷電が思った以上に視界対策を必要とすることが明らかになったがために、強風や紫電の低翼化が促進されていったのではないでしょうか。
片
- もう一点。
あの中翼は、元々、空技廠の小型高速陸上機研究から出てきたものなんです。
片
- 空技廠の小型高速陸上機研究・・・
「実験機」では中翼が有利でも「戦闘機」は低翼に越したことはない、ということでしょうか。
お付き合いありがとうございました。
はなみ