ちょっと気になると夜も眠れない。 戦史、歴史 Ans.Q どうでも良いことなのに…、誰か助けて! |
279 |
夏になると必ず「負けるとわかっているのに、なぜアメリカと戦争したのか?」という話題がマスコミに取り上げられますが、今回は少し違った角度で質問させていただきます。 開戦当時、日本の指導者たちは強大なアメリカに勝てるはずがないことは、内心ではわかっていたと思いますが、どのような形の敗北を予想していたのでしょうか? 当時、原爆は理論上の存在に過ぎず、B29は試験飛行もしておらず、大規模な上陸作戦の成功例はなく、同盟国ドイツはソ連を含む全欧州を征服しようとしていました。 そのため、実際のような悲惨な敗北ではなく、中国からの撤退・植民地の放棄・天皇の退位ぐらいで済むというような、甘い予測をしていたと私は推測しています。 当時の指導者達の証言などを教示いただけたら幸いです。 PIAT |
- 最初から「負ける」事は想定していなかったと思いますが……。
南方資源地帯の確保で長期持久体制を整え来寇する米艦隊を迎撃撃破し、ドイツの快進撃と併せて有利な「講和」を目指していたと20年以上前に何かの書籍で見た覚えはあります。
元自
- 当時はぎりぎりまで対米戦は考慮してませんでした。
問題点は鉄(屑鉄禁輸)と油の禁輸です。
中国との紛争(戦争)が引くにひけない以上
(ギリギリまで講和は考えていた)、禁輸に対する対抗策は南方進出での
資源地帯の確保しかありません、当時行っていた戦争を進めるにあたっての
日本のロードマップは
・人造石油の増産
・中国との講和と中国市場の掌握
・満州国の移民先と食糧供給元としての継続的確保
・対ソ戦を踏まえた陸軍の機械化の増強
・航空機の世界世代への追従
実際は
・人造石油の急な増産が不可能と判明(東条首相に直接報告されて対米覚悟)
・中国援護のルートであるインドシナ掌握すると別ルートが作られ禁輸措置
・対米交渉では満州を含む全面撤退要求(少なくとも日本はそう捉えた)と
いう戦前数十年の成果全ての放棄要求という降伏傀儡化要求ともいえる内容
・対ソ戦を独逸と足並み揃えて行う所謂「北進論」が当初は優勢でしたが
いきなりの全面禁輸で「油の早急な確保」が必要という状況に追い込まれ
「南進論」が注目される
・「防共協定参加国」という理由で直接被害を受けていない国家も
経済上の宣戦布告ともいえる禁輸措置に参加(ABCD包囲網)
日蘭会商との戦略物資の供給要求も日本側の異常ともいえる要求に
オランダが難色を示し「日本側から」協議終了通知しそのまま禁輸に至る
・1942年は国内所要量の4割を人造石油で賄う予定が100%不可能と判明
・満州での油田探査も有望な所見はあるももの確定せず時間切れと判断される
(採掘要員が南に転用、在満で予定していた試掘場所が満州油田地帯という悲しさ)
・南方等への外征するだけの航空機も目途が立つ
たかだか1年での急な対外状況悪化で綿密な計算などはほとんどされずに
「それまでの研究のすべてをやれることをとりあえず並べて形にした」
開戦に至るまでも昭和天皇が言葉を荒げて「確実に勝てるのか?」と
詰問されたという話もありますし誰しも無謀というのは
わかっていたのが実情です、故に負ける時のことは考えずに勝つことだけを
考えて突き進んだのが太平洋戦争開戦ではないかと思います。
当時のアメリカの要求を鑑みれば「国体維持」を否定する要求ととれた
軍部の行動は国家の存亡をかけた自衛戦争としての戦争開始は
やむを得ないと個人的には考えます。(但しそうなってしまった原因は軍部)
ももんが
- 当初から一撃大きな戦果を挙げてその後有利な条件で講和
というのが今も目的だったとされますがそのような事はついぞ発生せず
具体的に検討された内容が皆無の為、どのような条件で講和を
考えていたのかは伝わってないと思います。
(恐らく条件も考えてもいなかった)
ただ天皇の退位は全く考えてなかったと思います。
(仮に軍人が口に出すだけでも予備役確実で不敬です、民間人なら特高案件)
戦争末期になると対外植民地の全放棄(朝鮮台湾北方4島沖縄含む)を
考えての条件付き降伏が案として挙がりますが
連合国に伝える手段が無かった為ポツダム宣言と聖断が下るまで
具体的には連合国への接触はされた形跡がないのが実情かと思います。
正確に言えば連合国のソ連には仲介を依頼したが領土欲から握りつぶされた
という形です。
ももんが
- 又、三国同盟の縛りで単独不講和はNGの協定を
太平洋戦争開始後に結んだため
昭和天皇も沖縄戦前までは一撃講和を諦めてなかった様子ですし
具体的に終戦に向けて動き出すのはドイツも降伏した以降の数か月に
凝縮されていると思います、ご質問の「戦争と講和」というのは
条件が揃わなかった為検討されずに終戦に至ったというのが実情かと思います
(連合国も単独講和NGの協定を結んでいます)
ももんが
- 山本五十六の「1年、2年は暴れますが、その先は…」や同じく山本五十六の「南方の資源を獲得し自給自足で戦う為には、ハワイに在る太平洋艦隊を潰す。」あと作戦の第一段階終了後(珊瑚海海戦やドゥーリトルの日本空襲前)で、この先どうしようか?と方針が定まって無いところを考えると、細かくは考えてなかった感じかな と思われます。
まさのり
- 元自様 ももんが様 まさのり様 わかりやすい回答ありがとうございます。
「真珠湾の戦艦を沈めたら、アメリカはビビッて講和に応じるだろう」といったズサンな計画ではなく、それなりに綿密な作戦を立てていたことがよくわかりました。
ただ、希望的観測をつなぎ合わせて纏めた案のように感じました。
苦し紛れに出した計画が客観的にみると失敗確実であっても、「空気」のためだれも言い出せず、突っ走ってしまうということが現代でもよくありますが、それに近いように感じました。
『朝日新聞GLOBE+』というサイトで、近衛文麿は真珠湾攻撃の報に接し、「この戦争は負ける。どうやって負けるか、お前はこれから研究しろ、それを研究するのが政治家の務めだ」と側近に語ったと記載されていました。
前首相ともあろう者が戦争の終わり方も考えていなかったのかとあきれましたが、他の指導者たちの考えを知りたくて質問いたしました。
当時は敗戦を口にできなかったにせよ、戦後になって「実は私は敗戦を予想していた」と言った人物があれば、御教示いただければ幸いです。
PIAT
- 読〇新聞 終戦構想 で検索頂くと
当時の主だった方の構想が出典付きで見られます。
どれも戦後に書かれた物ですから当時の生の声か否かは
割り引いてみる必要があると思いますが
まとめると「他国任せで見切り発車で戦争を始めた」
というのに尽きるようです。
欧州と協力しイギリスアメリカを順番に「他国任せ」で屈服させる
厭戦気分に持ち込んで手打ちにする、それまで資源地帯で引き籠るという
なぜ昭和天皇がそんな希望に希望を並べた予測でGOを出したという塩梅
戦力の劣勢は南方基地を不沈空母に見立て、機動部隊と合力で
来襲は防げるという実際には各個撃破されるがままだった航空戦力を
過信した結果と、陸軍がしぶったラバウル以南への過度な拡大と
進出終末点だったガナルカナルでの初めて体験する近代消耗戦についてけず
それでも講和の口実になりえる大戦果を求めて
ずるずると突き進んだ結果かと思います。
昭和天皇はガナルカナルの戦局、損害を聞いた時には
「その程度の損害で引くのは弱腰過ぎではないか」という意見も出しており
それが理由かわかりませんが後世でも「戦力集中が少ない、引き際も遅い」という悲惨な結果になりました。
ももんが
- 昭和天皇の心境の変化についてだけを言えば
太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」
で検索頂けると色々出てきます。
開戦前は気持ちは反対に回るもはっきり「聖断」を出さなかった為
開戦後に「講和できる大戦果」を求め続けたのが分かります。
ももんが
278 |
第一次世界大戦の講話条約であるベルサイユ条約について、フランス陸軍のフォッシュ元帥は「これは平和ではない。たかだか20年間の停戦だ」と評し、その言葉どおりに、ベルサイユ条約調印の約20年後に第二次世界大戦が勃発しました。 では、フォッシュが主張する講話条約とは、どのような内容だったのでしょうか? 案外、実際よりも緩やかではなかったかと想像しているのですが・・・ PIAT |
- すみません。『講話条約』ではなく、『講和条約』でした。
なぜ、100年も前の出来事を持ち出したのかご説明します。
ロシアとウクライナの戦争について先日アメリカから停戦案が示されましたが、仮に両国がこの案を受け入れても、近日中に戦争が再開するとしか思えませんでした。
そこで過去を振り返って、どのような条約ならば戦争再開を防げるかと考えたので、第二次大戦勃発を予期したフォッシュの考えを知りたくて投稿しました。
PIAT
- フォッシュは「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示しており、それが認められなかったからでしょう。
hush
- hush 様 早速回答をいただき、ありがとうございます。
教えていただいた案は全く考えていませんでしたが、第二次大戦のマーケット・ガーデン作戦の目的地がライン川左岸のアーネムだったように、ドイツを軍事的に抑え込むためにフォッシュはライン川の確保が必要と考えたのでしょうね。
ただ、当時の疲弊した連合軍がライン右岸のドイツ領土を占領するのは困難だし、仮に占領したら、ドイツ人の恨みがひどくなるので、フォッシュ案では戦争の再開は防げなかったと考えます。
平和条約は難しいですね。
PIAT
- >3
そのため、彼はラインラント(ライン川左岸)をドイツから切り離し、衛星国にしようと考えていたようです。
hush
- また間違いました。 アーネムはライン右岸ですね。
ラインラントはベルサイユ条約とロカルノ条約で非武装地帯とされましたが、1936年にドイツ軍が進駐し、ナチスドイツの拡大が止められなくなるきっかけとなった地域ですね。
小室直樹『新戦争論』では、ラインラント進駐は第二次大戦のきっかけとなった重要な事件と書いてありましたが、ようやく事情がのみこめました。
ありがとうございました。
PIAT
277 |
皆様、明けましておめでとうございます。m(__)m 17~19世紀にかけてのアジア、例えば清朝、ムガール帝国、オスマン帝国辺りと西欧各国を比べると火器、火器を使用前提の戦術が停滞或いは進歩してないように見えます。中国は明朝→清朝で火器の使用が減ってる気がする。これは如何なる理由があるのでしょうか?気候の問題? まさのり |
- クライヴ・ポンティングの「火薬の世界史」によると、これらの国は安定していたが、ヨーロッパの政治制度が不安定だったからとあります。
ただ、中国では1630年代、50年代に火砲用の光学式照準眼鏡が1670年代に速射を行う後装式の機関銃が考案されており、いずれもヨーロッパより数十年先んじているそうです。
hush
- hushさん回答ありがとうございます。政治的安定かぁ。日本も江戸時代と鎖国で停滞したからね。中国は清朝は火器より刀槍類の冷器が発達したという記述を見た記憶が有ります。火器の使用比率が高かったのは明朝の軍とも書いて有りました。清朝の始祖ヌルハチは大砲による怪我で死亡したとも書いて有りました。清朝、オスマンは騎馬民族、ムガル帝国の軍隊の基本は戦象と重装騎兵と火器類と余り相性が良くないのもあるのですかね?
まさのり
- 18世紀末のマイソール戦争ではイギリス軍がマイソール王国のロケットにより撃退されています。イギリスはこれに感銘を受けてロケット部隊をつくりナポレオン戦争や英米戦争で使用しています。
また、アヘン戦争時にイギリスが広東を攻撃した際には、中国の城塞が火砲に対する強靭さを持っていることに驚いています。
火薬は中国で発明されたものですので、それなりに軍の中での地位を持っていたようですし、それはオスマン帝国でもムガール帝国でも同一だったようです。
hush
- hushさん返信ありがとうございます。
まさのり
276 |
微妙な話題かもしれませんが、戦国時代、一向衆や一向一揆に苦しめられた豊臣秀吉、徳川家康は、キリスト教は弾圧しましたが、一向衆、浄土真宗を弾圧したという話は聞きません。ただ私が無知で知らないだけかもしれませんが…この差はどうしてなのでしょうか? まさのり |
- 家康は三河一向一揆で家臣のかなりの部分が本願寺側に立ったので大変だったはずですが。あと、秀吉は信長傘下の武将ですので、一向一揆鎮圧の側です。これが和睦に転じたのは、信長の路線を踏襲したからにすぎません。実際、秀吉の建てた大阪城は石山本願寺の跡地です(顕如に土地を与えたのはその後)。
なお、三重県内に勢力を持つ浄土真宗高田派は、長島一向一揆の際、信長にあれは他派で、うちは関係ないという手紙を出していたと知り、唖然した記憶があります。
hush
- なぜ、家康が弾圧しなかったかというと、家臣に大量の門徒を抱えていたからです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86#%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E5%81%B4%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%9F%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E5%AE%B6%E8%87%A3 を御覧になれば、弾圧をして叛旗をひるがされたらどうなるかが分かると思います。
hush
- hushさん、いつもありがとうございます。やっぱり浸透/根付き具合、スペインなどの思惑等を鑑みて、融和政策になったのでしょうね。
まさのり
- 1. 問題になる時期、厳密には「一向宗」と「浄土真宗本願寺派」は別物です。
ただ通称として「一向衆」または「一向宗」と呼ばれることが多かった。
そして「浄土真宗本願寺派」として独立した宗派でしたから、他の浄土真宗諸派からは別物として扱われました。
詳しくは ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E5%AE%97
2. 「弾圧」はしなかったかもしれませんが秀吉、家康ともに「戦争」はしていました、それも10年以上。
3. 信長以下が「弾圧/戦争」したのは浄土真宗ではありません。宗教権威により世俗の権力=政治に介入する宗教勢力です。
信長に焼き討ちされた寺社は全部これに当たります。キリスト教もカソリックの政治権力志向が明確になったために弾圧されたと私は思っています。
hushさんの記事とは少し違っていますが、家康が弾圧しなかったのは「浄土真宗本願寺派」は政治権力を取り上げられ、そこまで危険で無くなったこと。
さらに東西に分割し家康自身が入信する事で完全に制御出来たからだと思います。
以上、私見を含みますがご参考まで
タンジェント
- >3
いつもお世話になっております。また、丁寧なフォローを賜り恐縮しております。
ただ、3に「家康自身が入信する事で」とあるのを拝見して、いささか疑問に思っております。彼が先祖代々浄土宗の信徒であり、天海に傾倒して天台宗に肩入れしたのは存じているのですが、真宗に入信したとは聞いたことがないからです。
よろしければ、典拠を御教示いただければ幸甚に存じます。
hush
- タンジェントさん フォローありがとうございます。
>>5 タンジェントさんが、入信と話してる事はこの事でしょうか?
「松平氏の菩提寺は今でも愛知県岡崎市にある成道山松安院・大樹寺(だいじゅじ)だ。 この寺は当然仏教であり、宗派は浄土宗」
まさのり
- >6
それは浄土宗の寺で、徳川家、松平家の菩提寺です。
浄土真宗ではないです。
hush
- 申し訳無い、浄土真宗信者を受容したのを、浄土真宗を受容したと記憶違いしていたようです。
タンジェント
- >8
ありがとうございます。
実は私の家が浄土宗、学校が真宗高田派、相方の家が真宗高田派、学校が本願寺派ですので、つい気になってしまいました。
失礼の段、お許しください。
hush
275 |
1945年8月14日夜間から翌朝にかけて埼玉県熊谷市は米軍の大空襲を受けました。一説には、ルメイが「爆弾が戦後も残っていると物品管理の事務が面倒だから、グアム基地にあるものは一切合切日本の上に落としてこい」と言ったと言われています。いかにもルメイのいいそうな言葉ですが、実際にそのように言ったという史料あるのでしょうか。 電気戦艦 |
- そもそも、ルメイが「爆弾が戦後も残っていると物品管理の事務が面倒だから、グアム基地にあるものは一切合切日本の上に落としてこい」と言ったという話を知らないのですが、奥住喜重著「中小都市空襲」(1988年三省堂選書)をもとに、いくつか記しておきたいと思います。
1945年8月1日にルメイは第20航空軍司令官から戦略航空軍参謀長になっています。
ただ、戦略航空軍団(SAC)の発足は1946年ですので、大陸航空軍(Continental Air Forces)の参謀長だと思うのですが、もし、そうなら、本土防空が任務ですので、ルメイは本土にいたのではないかと思います。SACの設立準備という意味なら、司令部がサン・フランシスコですので、やはり、マリアナにはいないと思われます。もっとも、新聞記者に聞かれたら、それぐらいは言うかもしれないと思いますが。
M56ブロック・バスターを使用しています。この2t爆弾が中小都市爆撃に使用されたことは過去にはなかったので、最後の空襲だからという意識はあったのかなと思います。
熊谷、伊勢崎空襲は第314爆撃航空団が夜戦命令で指定されていましたが、熊谷には第313爆撃航空団の11機、伊勢崎には第73爆撃航空団の8機が参加しています。このようなことは、過去にはなかったので、これも同様の理由ではないかと思われます。
第73、第313爆撃航空団は前日の日本本土空襲に参加しており、何らかの事情により参加できなかった機体を持ってきたようですが、土崎を空襲した第315爆撃航空団機を含めると、8月14-5日に使用できた機体のすべてを投入したと思われます。
なお、時間的に見ますと、土崎空襲が、最後の日本本土空襲になると思われます。
hush
- hush様
いろいろな情報ありがとうございました。結局ルメイが対日戦闘で本領を発揮した期間は数ヶ月もなかったのですね。
ブロックバスターというものは知らなかったので興味湧きました。勝手な推測ですが、米軍は最初工場攻撃には通常爆弾を用いてましたが、あまり効果が上がらないものですから(狙ったところに当たらない)、このような爆風を利用する大型爆弾を開発したのか、と思いました。もっともそれを使う前に焼夷弾による一般民家攻撃に切り替えたので、使う機会がなかったのでしょうか。残っていたそれらを最後の機会だからと、熊谷市に使用したのでしょうね。
直接の関連はありませんが、今年はパンプキンによる被害をまとめた成書も出版されました。
電気戦艦
274 |
かなり昔ルーマニアに行ったことがあります。ある場所へ行った時、「この辺りはかつて激戦地であった。彼我の銃弾が空中で衝突し、一方が他者に貫入しX字型になったものを、博物館のようなところで見たことがある。今度見に行こう」と言われました。第一次大戦中のことだと思います。結局実物は見ていません。このようなことが実際に起きることがあるでしょうか。皆様のご意見をお伺いいたします。 電気戦艦 |
- 2 Bullets collidedで検索をかけてもらうと、実例が出てきます。
ただ、トルコのガリポリで見つかった銃弾 https://qph.cf2.quoracdn.net/main-qimg-d5a4eb0b72bd74291d4cf1ed06634970-lq の場合、空中衝突ではなく、保存されていた銃弾に突き刺さったというものです。
なお、銃弾が被甲されるようになると、衝突しても突き刺さるようなことはないようです。
あと、ルーマニアでの例はネット上では見つけられませんでした。
hush
- hush様 大変興味深い資料紹介していただき、ありがとうございました。停まっている弾丸に飛んできた弾丸が当たると、写真のようになることははっきりしました。ということは、さらに発生確率は低いですが、運動中の二発の弾丸が当たると似たようなことが起きるかな、と思います。もっとも二者の弾道の交わる角度が大変小さい場合貫入はさらに困難とは思います。実物がないのでこれ以上は言えません。
それにしてもこのような問題に興味を持っている人が世界には多くいることが面白いです。ガリポリはチャーチルの失敗で有名なこともあるのでしょうか。
電気戦艦
- 空中で弾丸同士がぶつかった例として、西南戦争の田原坂の戦いがあります。
以下。熊本県の歴史ガイド (ttps://kumamoto.guide/look/terakoya/009.html)より引用
「薩軍は薩摩示現流の猛烈な必殺剣で斬り込んだ。官軍は狙撃兵を配して、これを撃ったが、官軍は、一の坂・二の坂・三の坂と三つに分かれる田原坂の最後の300Mを越えられなかった。雨も降り続いた。文字通り泥沼の戦場となった。一日32万発もの弾雨が降り注ぎ、弾丸が空中で激突したほどである。(田原坂資料館に保管されている)。」
タンジェント
- ロシア兵2名が同時にウクライナ兵を狙撃した際、空中で衝突してコースが変わったので命中しなかったそうです。これは画像解析の結果分かったことのようで、動画が公開されています。
銃弾が被甲される前ですと、南北戦争で実例があったようで、2 Bullets collided Civil warで画像検索をしますと、いくつか出てまいります。
hush
- タンジェント様
資料ご紹介ありがとうございました。田原坂の戦いは名前はよく知っていたのですが、実際にはこんなことがあったのですね。2本のシャワーの水を相対させると水滴どうしが当たることかなりありそうです。
hush様
資料紹介ありがとうございました。被甲があると起こりにくいということですが、表面で滑ってしまうので、破壊や貫入が起きにくいということでしょうか。
電気戦艦
- >5
その通りです。被甲がある、すなわち、フルメタルジャケットの場合、いわゆる鉛玉より、そのようなことは起こりにくいでしょう。実際、銃弾の費消数は増えておるのに、そのような弾丸の発見例がなくなりつつある理由としては、他に考えにくいと思っております。
hush
- hush様 >6
ありがとうございました。現代に近い戦闘では、二者合体弾(タンジェント様紹介の資料によると行合弾ともいう)はほとんど発見されていないとい、これは二者が当たってもツルッと滑るからである(あろう)、ということですね。
電気戦艦
- 2 Bullets collidedで動画検索をかけると、衝突の瞬間に砕け散るものが多いようですが、 https://youtu.be/xvZ1nS8SllM の動画では、衝突により方向が変わっているようです。
hush
- hush様 >8
ありがとうございました。 動画を見てもよくわからないのですが、方向が変わるということはそうなのだと思います。高校の物理で習う運動量保存の式が役に立つのでしょう。
今回の質問ではそんなことまずは起こらないだろうという思い込みがあったのですが、実際は結構起きていることがわかり、感動いたしました。
電気戦艦
273 |
https://gendai.media/articles/-/124798 太平洋戦争末期、硫黄島での陸軍、海軍の食料事情の格差の記事ですが、この格差は時期、場所を問わずあったものなのでしょうか?あと徴兵される側からは、食料事情の良い海軍の方に行きたいという話は有ったのでしょうか? まさのり |
- ガダルカナル島の海軍設営隊の記録には食料不足の話が載っておりますし、ミリ島では陸海軍兵士が食料を争ったという話があるようです。また、敗戦間際には海軍も食料が調達できなかったようですので、時期、場所を問わずというわけにはいかないようです。
海軍の食料事情の原因の一つとして、志願制ですので、食料を陸軍よりよくしないと志願する者が減るからという理由が上がっていますが、食料事情を理由にして海軍へ行った者がどれだけいるかは存じません。
hush
- hushさん、ありがとうございます。大和ホテルと言われたりした海軍の方が、平時でしたら良さげですね。
まさのり
- >2
その代わり初年兵いじめは陰惨だったようです。その海軍の料理でも上の兵隊がなかなか箸をつけないものだから、わずかな時間で書き込むしかなく、味など分からなかったそうです。
hush
- 海軍は潜水艦で孤島でも輸送する手段があったからじゃないでしょうか。
瑠藻莉
- >4
すいません、それは何に対する回答でしょうか。
hush
- >4
戦争末期の日本近海の島々の状態です。
瑠藻莉
- >6
失礼ながら、質問は「この格差は時期、場所を問わずあったものなのでしょうか?あと徴兵される側からは、食料事情の良い海軍の方に行きたいという話は有ったのでしょうか?」であって、そういうことは聞かれていないと思いますが。
hush
- それもそうですね。
瑠藻莉
272 |
戦時中の雑誌にラジコン飛行機の広告がありました。 ラジコン飛行機用の燃料といえばおそらくメタノールを主成分とするグロー燃料ではないかと想像します。 戦時中の日本というと何もかもが統制されていたというイメージがありますが、グロー燃料はどのような扱いになっていたのでしょうか? ラジコン飛行機を自由に飛ばせるだけの民間市場への供給があったのですか? おうる |
- 黒柳徹子の自伝の続編が家に転がっていたので、読んでみたのですが、彼女の父親は有名なヴァイオリニストで、青森県に疎開するまで、戦時中にも関わらず、かなり豊かな暮らしをしています。また、満鉄の副社長の娘だったという人が遠縁におり、戦時中でも、一般庶民とは隔絶した暮らしをしていたようです。
メタノールについては、戦後のアルコール不足の時代に飲用に供され多数の死者や失明者を出しましたが、酒税不要の変性アルコールとして比較的多く出回っていたようです。
また、1935年生まれの義母の話では、津市旭町にグライダーの練習場があったぐらい、航空産業や飛行士の育成に軍が力を入れていたようです。このため、ラジコン飛行機はこの方針のもとに雑誌掲載が許された可能性があります。
当時、ラジコン飛行機用のエンジンは小川精機のグロー燃料を使用するものと思われますが、戦時中であっても、航空産業育成のためというような理由をつければ飛ばせるでしょうし、工場でも経営していたら工業用アルコールの入手は困難ではなかったと思っています。
hush
271 |
明けましておめでとうございます。新年早々またつまらないことが気になってしかたないので、質問させていただきます。 百年戦争時の聖女ジャンヌ・ダルクのエピソードについてです。 ジャンヌは神の聖託を受けた後、最寄りのアルマニャック派貴族ロベール・ド・ボードリクール伯の支援を受け、王太子シャルルへの信任状と武具を与えられ、シノン城へ旅立つのですが、この時ボードリクール伯がジャンヌにかけた言葉として、私の知る限り、 ①「行け、行くのだ。たとえ前途に何が起きようとも」と励ました。 ②「とっとと行ってしまえ。俺はもうどうなっても知らんぞ」と吐き捨てた。 の全く逆の2種類の邦訳があるのですが、今日正しいとされているのはどちらでしょうか? 原文を見ればいいじゃないかと言われるかも知れませんが、私のフランス語に対する知見が低く、原文を検索し出すことができませんでした。 どなたかフランス語ないしフランス史に精通されている方がいらしたら、どうか教えてください。 備後ピート |
- 19世紀のフランス人歴史家ミシュレの書いたのを翻訳した中公文庫版「ジャンヌ・ダルク」は前者のニュアンスで、フランス在住の日本人文化史家の書いた講談社学術文庫版「ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女」では言葉そのものはないものの、後者という感じでした。
おそらく、記録されているのは言葉だけで、伯爵の気持ちは記録されていないので、作者の捉え方次第という部分があるのではないでしょうか。
書店や、図書館へ行けば評伝はたくさんありますので、見比べて新しいものはどうなっているかを調べるのも一興かと思われます。
hush
- hush様。ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
備後ピート
270 |
謹んで新春のおよろこびを申し上げます。 スリガオ海峡海戦についてお伺いいたします。 同海戦における西村中将最後の命令として有名な 「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク 各艦ハワレヲカエリミズ前進シ敵ヲ攻撃スベシ」 ですが、この時の「各艦」に当たる重巡「最上」、駆逐艦「時雨」の戦闘詳報を閲覧しましてもこの文面はありません。 見落としなら申し訳ありませんが、どこからこの文面は来たのでしょうか? (「時雨」駆逐艦長西野中佐(当時)の証言のみで、他の証言はない文面なのでしょうか?) 宜しくお願いいたします。 Ranchan |
- 戦史叢書 https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=056# 153コマ、324コマを見ますと、西野繫中佐陳述録によるとあります。
受信録にないものをどうやって聞いたのかという話にはなりますね。
hush
- ご回答有り難うございます。
他には記録も証言者もない「西野中佐の個人的な証言」の域を出ないものだったんですね。
まあスリガオ海峡海戦における日本側の指揮官レベルの生還者(捕虜になられた方は除く)は西野中佐お一人ですから、やむを得ないのかもしれませんが・・・。
Ranchan
- そういえば、沢地久枝が「ミッドウェー海戦」を書き、運命の5分間は嘘だったと書いて旧海軍の人達と論争になったことがありました。彼女は、圧倒的な量の資料を提示して、旧軍側の顔色を失わせたわけですが、本当かなと思って読んだほうがいい戦記って、戦史叢書にもあります。
実際、海軍が公刊した日露戦史は、嘘が多いことが、「極秘 明治37.8年海戦史」の発見された今日では常識となっています。
hush
- 何という戦記だったのかは失念したのですが、
戦艦「山城」から放たれた西村中将最後の命令は
「ワレ航行不能。各艦ハ『扶桑』艦長指揮ノ下レイテ湾に突入セヨ」
だった。
と読んだことがあります。
これは発光信号によるものだったそうですが。
あの激烈な砲雷撃下で炎上し沈没寸前の「山城」からの発光信号がすぐ近くにいるわけでもない「最上」「時雨」から識別できるんでしょうか・・・ねぇ?
Ranchan
- 「戦史叢書」には、「時雨艦長は、西村司令官から…と下令されるのを聞いた」とありますが、信号兵から聞いたものなのでしょうかね。
プリンス・オヴ・ウェールズ沈没時のトーマス・フィリプス提督がノー・サンキューと言って退艦を断ったという話も、捕虜がでっち上げた話を日本で美化して広げたとか、長篠の戦いの三弾撃ちも陸軍が作ったとか、いろいろありますからね。
hush
- 「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク 各艦ハワレヲカエリミズ前進シ敵ヲ攻撃スベシ」
スリガオ海峡海戦や西村中将の最期を語るときいつも出てくる文言ですが、こんなに根拠のない不確かなものだったとは驚きです。
Ranchan
- そういえば、こういうのもありました。
https://synodos.jp/opinion/society/23075/
洋の東西を問いませんね。
hush
269 |
昭和17年に米豪遮断作戦などと企画されたが、かりに全南半球の島全部を日本軍が占領したとして、米豪は遮断されるのでしょうか。船での行き来が可能な限り、交流は続いており遮断は無理なんじゃないでしょうか。 五十六週撃 |
- 制空権が取れるならできるかもしれませんが、そんな広範囲を守る力などはないでしょう。
hush
- 一度占領した島を即座に基地化、要塞化できなかったからガダルカナルで負けたようなものですし、占領しただけじゃ無理でしょう。
Shipmap で検索してもらえると世界を航行するコンテナ船&タンカーの航路を見ることが出来ますが、米西海岸と豪州を結ぶ航路を遮断しようと思ったらソロモン諸島のみならずニューカレドニア、バヌアツ、フィジー、トンガ、サモアといった島々は軒並み基地化しなければならなくなりますし、それのみならずニュージーランドまで抑えなければ太平洋航路を遮断できません。日本軍にそれを可能とするだけの戦力があったとは思えません。
しかも太平洋航路を遮断してもインド洋航路はノーマークのままですから豪州の経戦意思次第では米豪遮断による豪州脱落を実現させるのは無理でしょう。
おうる
268 |
最近の人口石油のニュースでサイトを見てると 人造石油(液化石炭)について書いてあるサイトが有りました。そのサイトには、 「ここにひとつの誤認をわれわれは犯していた。ドイツの成果は、すべて石炭の直接液化法によるものだと考えていたことである。戦後の文献によるものは、ほぼ68万トン/年にすぎず、それ以外はすべてタールその他の液状原料の水素添加だったのだ」と陸軍省燃料課の技術将校・高橋建夫少佐も語っています(高橋健夫著『油断の幻影』)。の記述が有りました。ナチスドイツは人造石油(液化石炭)で戦ったと思ってた私からすると どちらが正しいの?と思いました。あと上記にある、タールその他の液状原料の水素添加 とはどういうことなのでしょうか? まさのり |
- 私もよく分からないのですが https://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/4298 あたりはどうでしょうか。
hush
- hushさんありがとうございます。今まで何回かのオイルショックが有ったにもかかわらず、人造石油(液化石炭)の話が少ないってことは、コストパフォーマンスが良くないとか色々問題が有りそうですね。
まさのり
- 最近、この方面もさっぱりご無沙汰ですが
極少数の旧海軍関係者の、今はやりの忖度と言うか嘘が、何の検証も無く、長年に渡ってひとり歩きをしていたというのが実状では無いでしょうか。
よく引用される、直接液化法で日本の石炭の灰分が配管を摩耗して、日本では物にならなかったと言う話も、冷静に考えれば、ドイツの石炭に灰分が無い訳が無く、何を言いたかったのかを考えて見るべきでしょう。
海軍関係者の分析と選択の失敗を糊塗しようとしたのが、この話の始まりだと考えます。
姫
- >3
姫君、お久しぶりです。
専門家の仰ることはやはり違いますね。
実のところ、私はこの話を知らなかったのですが、開戦経緯と絡んで注目しております。
海軍については、東京裁判を有利に乗り切るために関係者の発言を統一した経緯もあり、旧海軍関係者の嘘が一人歩きしているというのは、説得力にある話だと思っております。
また、いろいろと教えて下さい。
hush
- 関係者の忖度や嘘というよりも、燃料問題は陸軍と海軍、民間各社でそれぞれに研分野が異なるため、当時の技術者は自分が関与した方面にしか知識が無く、俯瞰的に見られる立場に無かったことが不正確な回想が生まれた大きな要因だと思います。民間企業の社史も同様で、ある企業の社史と別の企業の社史または社史と並行する編纂物などで得られる情報が矛盾することも多くあります。
水素添加の技術もアメリカ式の陸軍とドイツ式の海軍では系統が異なり、どちらも戦時下で行われた技術革新を採り入れることができずに取り残されています。
ドイツの石炭、褐炭ベースの高性能燃料製造技術は戦時中に大きく転換してある程度の成功を収めていますが、日本はその技術を模倣できないまま終戦を迎えているので、「実はドイツでは通説とは全く異なり・・」といった話では無いのです。
BUN
- うろ覚えの過去の知識ですが、
ドイツの直接添加法に用いられたタール、重質油の由来は3系統に分かれます。
一つ目は、石炭からのコークス製造又は石炭ガス製造などの高温乾溜により発生したタール分からモーターベンゾールやベンゼン、トルエンなどの有用成分を取り除いた残渣
二つ目はドイツで大量に採掘される褐炭を低温乾溜したタール分、又はこれより軽、中、重油を乾溜した残渣
三つ目はドイツ並びに大戦中に大増産を遂げたオーストリア産原油を製油した残渣である重質油分、タール分になります。ドイツ、オーストリア産原油はハンガリー産原油とは性状が違い重質な為、重質油分、タール分の取得割合が多かったと思われます。
ドイツでの直接液化法とは石炭の高温乾溜によって出来たコークスや褐炭の低温乾溜によって出来たコーライトを使って製造した水性ガスから分離した水素と、触媒と重質油、タール分又は石炭、褐炭を粉末にした物を重質油、タールに混ぜた物を、高温高圧の元で反応させる事です。
と理解していました。
姫
267 |
かつて軍艦の燃料が石炭であった時、黒い煙は相手に見つけられやすいので、煙が薄くなるような良質の石炭が好まれたと言います。では実際に、煙が黒くて不利になった例、逆に煙が薄くて有利になった例にどのようなものがあるのでしょうか。第一次大戦中にありそうなのですが、お分かりの方教えてください。 電気戦艦 |
- 日本海海戦時、信濃丸は病院船オリョールの灯火を発見して臨検のために近づこうとした際、夜明けとともにバルチック艦隊を発見していますが、ロシア側は気づかなかったようです。
第1次大戦のほうはよく分かりませんが、 http://geo.d51498.com/kigiken/update2.html 所収のドッガー・バンク海戦に見る機関部の実相を見ますと、いろいろと技術的なことが書いてあり、ドイツ側は有煙炭だったので不利だったと書いてあります。
多分、専門家の方がフォローしてくれると思いますが、あのサイト復活しないのかなぁ。
hush
- hush様 どうもありがとうございました。信濃丸のことはひょっとしてとも思っていましたが、ロシア側がみつけられなかったのが、煙が薄かったせいなのかどうかよくわかりません。夜間、海上で、月明かりがある時他船がどのように見えるのか想像がつかないのです。
カーデイフ炭は積出港の名をとっているのであり、実際は、無煙炭から瀝青炭まで色々あったようです。(わたしは、無煙炭が燃えた時の燃焼ガスに関心があります。要は高温の二酸化炭素ガスなのでしょう。炎というものはあまりないのかと思います。ウナギを焼くときの備長炭のコンロの上なのでしょう。)
高木氏のサイトは大変充実しており、私も常々参照していました。蒸気機関車のデータと比較しながら勉強すると特に興味深いです。これらが紙の本になって記録されることを願うものです。
電気戦艦
- たしかに「極秘明治37.8年海戦史第2部戦紀巻2」(JACAR Ref.C05110084400)には「十数隻の軍艦と尚他に数条の煤煙とを発見し」とあるのみですね。「1904、5年露日海戦史」はどうだったかなと思って探したのですが、どこへ置いたか分かりませんでした。
なお、バルチック艦隊は回航中の訓練により放出される煙の濃度は減少していたという意見もありました。
>これらが紙の本になって記録されることを願うものです
髙木氏に期待しましょう。
hush
- 「1904、5年露日海戦史」が出てきましたので確認したところ、「午前5時信濃丸発見す」というオリョールからの報告はありますが、「右方霧中より艦隊を追尾して暫時接近せる商船現る」とあるばかりで、煤煙とも何もありません。ロシアの使用している時刻は日本時間とは異なっていますが、30分ほど早く日本側が発見しているようです。
hush
- hush様 >4. ありがとうございました。同じ内容のことは「もうひとつのツシマーロシア造船技術将校の証言」293ページにも出ています。「明け方、右舷の方に朝もやの中から白色に塗った汽船が姿を見せ、艦隊の後尾に近づき、艦列を認めると急に転回して霧の中に姿を消した。」とあります。煙のことは出ていません。
電気戦艦
- 考えてみれば、第2、第3艦隊は全力で航行していたわけではありませんので、煤煙の量も少なかったはずでした。そして、信濃丸は北上中に右舷に艦隊を視認していますので、東側の曙光の中に艦隊が浮かび上がったから見つけることができたが、自身は闇の中に隠れることができたということでしょう(もっとも、5で紹介された本の場合は右側に信濃丸となっていますが、この本に書かれているオリョールは病院船ではなく戦艦のほうですので、時刻は後になります)。したがって、2で疑念を示されたように、全速時ならともかく、巡航時にはそれほど煤煙は上がっていないということになります。実際、航行中と思われる写真の中にも、ほとんど煙が上がっていないものがあります。
だとすれば、「坂の上の雲」で司馬遼太郎が無煙炭を喧伝していたのは何だろうなとは思いますが、ひとまず、日本海海戦がそうであるという指摘は撤回させていただきます。
失礼しました。
hush
- hush様 どうもありがとうございました。オリョールが2隻いたこと忘れていました。
カーデイフ炭が評価されていたのは、煤煙の量が少ないというよりも、重量当たりの発熱量が一番大きかったことにあると思います。このことは他の石炭よりも(同一積載量で)航続距離が大きいとか、機関員の疲労が減るとか利点があったのでしょう。帝国海軍は大正期に燃料の練炭への切り替えが進んだので、煙の色はあまり心配しなかったのか、と考えます。では、大戦中地中海に派遣された日本駆逐艦はどんな燃料を使っていたのか、には関心あります。
電気戦艦
- >7
>オリョールが2隻
オリョールは鷲のことですので、東ローマ帝国から引き継いだとされるロシア帝国の国章、双頭の鷲を意味すると思われます。このため、1889年にロシア義勇艦隊の客船として進水した際には国を代表するものとしてこの名が使われたのでしょう(もっとも、Eagleと英訳された船名で進水しているそうです)。
>大戦中地中海に派遣された日本駆逐艦はどんな燃料を使っていたのか
アジ歴リファレンス・コードC10080069500ピロウス方面に於ける燃料淡水並工場調査報告を見ておりますと、戦前はピロウス(アテネの外港ピレウスのことだと思います)に入ってきていたカーディフ、ニュー・カースルからの英炭の輸入は途絶しており、現地のギリシャ炭を使用せざるを得ないと書いてあります。
hush
- >8. hush様
早速調べてくださりありがとうございます。石油産出は地理的に偏在していますが、石炭は品質の良否は別にしてどこの国にも産出するということでした。幕府海軍は、品質が低いとされる常磐炭を結構使ったらしいです。
軍艦の命名はお国柄が現れて興味深いですね。ただ、日本では絶対に個人の名前が使われないことは、はっきりしています。我々の精神世界の奥底では、平家物語や方丈記のようなものが強く生きてるのでしょう。
電気戦艦
- >日本では絶対に個人の名前が使われないことは、はっきりしています
間宮と「しらせ」という例があります。間宮海峡と白瀬雪原と書かれていますが、もとは間宮林蔵と白瀬矗というのははっきりしていますので。もっとも、砕氷艦を軍艦と呼ぶべきかなるとどうなのでしょうね(間宮も特務艦ですが)。
命名権者である明治天皇が歌人であったため人名は使われませんでしたが、乃木神社とか東郷神社とかが作られたことを考えると、絶対にとは言えないと思っています。
もっとも、このあたりは、随分と脱線しておりますので、この辺で。
hush
- 本来の質問に対する回答ですが、(1)第1次世界大戦時のドイツ潜水艦や通商破壊艦エムデンの獲物の発見には、排煙が大きな役を果たしたと思われます。但し、その濃淡が具体的にどの程度の影響を及ぼしたかは判りません。
(2)ドッカーバンク海戦で、英国の巡洋戦艦隊は損傷した旗艦の旗信号を排煙のため見間違い、逃げるドイツ巡洋戦艦隊を追撃せず傷ついたブリュッヒャーを攻撃したため、独巡洋戦艦隊を取り逃がしたと言われています。ただ、これもどの程度影響したのかは判りかねます。
(3)第2次世界大戦の初期に生じたラプラタ沖海戦では、英国の巡洋艦隊は、接近してくるシュッペー号をその排煙により発見しています。ただ、これも具体的にどの程度早く発見できたのかは判りかねます。
UK
266 |
米西戦争時のグアム島攻略時に、スペイン側は戦争状態である事を知らなかったので、攻略に来たアメリ艦隊に礼砲を打とうとしました。 しかし、礼砲が発射できずに(即応用の砲弾も火薬もなかったらしい)、釈明に来たスペイン軍司令官をアメリ艦隊が捕虜にしたので、あっさりグアム島は陥落しました(ソース『ラバウル烈風空戦録』)。 このエピソードは本当でしょうか? 安井 賢一 |
- https://www.y-history.net/appendix/wh1401-130.html には、事実であるように記されていますし、私も事実だと思っていました。
hush
- 念のため、salute gun ”Guam” Spanish-American Warで検索してみたところ、 https://en.wikipedia.org/wiki/Capture_of_Guam にもそのようにしるされていました。
hush
- hushさん、回答をありがとうございます。
戦争がまだ牧歌的だったからのエピソードですね。
安井 賢一
265 |
WWIにおいてドイツはペーター・シュトラッサ―司令の下、ドイツ飛行船体を駆使して英本土の戦略爆撃を行っていますが、この際の発進基地はデンマークのトンデルン基地となっていました。 はて、WWIにおいてはデンマークは確か中立国だったはず。この際の国際法上の取り扱いはどうなっていたのでしょうか? またのちに英国海軍は空母フューリアスの艦載機でトンデルン基地を攻撃、壊滅させることに成功しますが、この場合も英国とデンマークの国際関係はどのように解釈されたのでしょうか? 備後ピート |
- 当時はドイツ領です。
hush
- トンデルン(デンマーク名ティナー)は北シュレスヴィッヒに属しており、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン戦争(昨今はデンマーク戦争と呼ぶそうです)によりプロイセン領となり1920年にドイツの敗北によりデンマーク領となっています。
したがって、当時はドイツ領です。
愛のない書き込みでしたので、補足しておきます。
hush
- いや、いつも迅速正確なご回答をいただいておりますのでその点では、感謝しかありません。当方の不明を反省するばかりでございいます。このたびも詳細な説明の愛ある回答をいただき、どうもありがとうございます。
備後ピート