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戦史、歴史
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200 中世の戦争について書かれたサイトか書籍を紹介して頂けないでしょうか?
その時の布陣や戦略が知りたいのですが、カンネーの戦いのような大勝利よりも、泥沼化した戦いや、小規模の戦いについても詳しく知りたいです。
デスコン

誰か答えて下さい。

199 こんにちは。
最近気になったのですが、珊瑚海海戦において日本海軍とアメリカ海軍の艦載機搭乗員の戦死者について教えていただけないでしょうか?
みかん段ボール

誰か答えて下さい。

198 カルタゴとローマが戦った『カンネーの会戦』について質問させていただきます。

wikipediaによろと、カルタゴ軍5万人とローマ軍7万人が戦い、完全に包囲されたローマ兵はほとんどが戦死し、「一会戦での戦死者が5万人を超えた例は第一次大戦までなかった」と書いてありました。

近代戦では、包囲されて補給を絶たれたら降伏するか、(日本軍のように)玉砕するしかありませんが、刀槍で戦っていた古代戦ならば、包囲されても、密集隊列を組んで一人一殺すれば、一方的な殺戮にはならないと思います。

包囲されてパニックになったことも考えられますが、歴戦のローマ軍がそう簡単にパニックになるとも思えません(塩野七生に影響されすぎでしょうか?)

なぜ、一方的な殺戮になったかご教示願います。

PIAT

  1.  そのWikipediaの「カンナエ(カンネー)の戦い」には「ローマの敗因は包囲されたことによりパニック状態になり」とありますので、パニックが原因ではなかったかと思っております。
     そして、ローマの重装歩兵は、槍を多用したギリシャのそれと違って投槍と剣を使っていましたが、盾は大型であり、圧死者まで出るような状況の中では、振り返ることすら困難であったと思われます。
     しかも、後方のみならず、四囲から攻撃される状況の中では、パニックに陥らなかったら不思議だと思うのです。
     あと、ローマとハンニバルの戦闘意識の違いというのも、大きいのではないかと思っております。
     ローマ軍は戦争捕虜を奴隷として売買しておりました。したがって、相手を殺すより捕虜にしたほうが得です。
     これに対し、カルタゴ側は、降伏した野営地の警備兵1万を捕虜にしていますので、敵は殲滅すべきという意識のみではなかったとは思いますが、寡兵ですので、その気概を持って戦わざるを得なかったと愚考致しております。
     これが、ローマ軍が6万もの死者を出した原因の可能性があると思いますが、何分、素人ですもので間違っているかもしれません。
     
    hush


  2. 「歴戦」の軍だからこそ、包囲殲滅戦の恐ろしさをしっていたのではないでしょうか?
    この戦い以前にも記録に残っていない小規模の戦いで包囲戦はあったでしょうし、する側・される側で過去に経験していて、そして、言い伝えられていてもおかしくないのでは?
    普段はROM


  3. hush様  普段はROM様 回答ありがとうございます。

    私には「歴戦のローマ軍は簡単にはパニックにならない」という思い込みがあったと思います。
    『カンネーの会戦』より前にも、エパミノンダスやアレクサンダー大王は敵を包囲して大勝を収めており、ローマ軍も蛮族相手に小規模な包囲戦をしていて、包囲された恐ろしさを知っていたという説は説得力がありますね。

    『孫子』には「敵を完全に包囲すると死に物狂いで戦うから、逃げ道を残しておけ」と書いてあるそうですが、実戦ではそうではないようですね。

    そもそも、不思議に思うのですが、2200年も昔の会戦であり、勝者は後に滅亡し、敗者はほとんど全滅しているのに、何で会戦の様子がくわしくわかるのでしょうか?
    日本ならば、ほんの400年前の『桶狭間の合戦』の様子で論争があったり、最近まで『長篠の合戦の鉄砲三段撃ち』が信じられているのに。

    生き残った将軍の手記でも残されているのでしょうか?
    PIAT


  4.  英語版WikipediaのBattle of Cannaeの脚注によると、戦死者数6万という数字はポリュビオスの「歴史」に出てくるそうです。信長の場合は、死後に毀誉褒貶を含む多くの伝記が出ていて史実が捻じ曲げられています。しかし、第2次ポエニ戦争の場合は、同時代人のポリュビオスがおり、小スキピオの家庭教師だった関係で、正確と思われる話が残ったということのようです。
     なお、英文ですので、私は読む気は起こりませんが、ポリュビオスの「歴史」のカンナエ(カンネー)の戦いの部分はネット上で読めます。御興味がありましたら、どうぞ。
     http://sourcebooks.fordham.edu/halsall/ancient/polybius-cannae.asp
     
    hush


  5. 私見ですが、逃げ道を・・、については味方の損害が大きくなるから追撃戦で被害を抑えつつ戦果を拡大せよ、と言っているのではないでしょうか?
    状況・条件次第でいくらでも変わると孫子だか呉子だかも言っていたような・・・
    普段はROM


  6. 記憶のみ、半分は小説からの印象なので控えておりましたが、個人的に説得力のある説だと思えるので紹介します。

    カンネー会戦のローマ軍は、中央突破を意図してマニプルス隊の間隔を詰めていました。この状態で左右からカルタゴ兵に圧迫され、満員電車の様に密集してしまい、その時点で後方をハンニバルの騎兵に塞がれ、歴戦のローマ兵も一瞬立ち止まり、完全にラッシュアワー状態で身動きが取れなくなります。剣も槍も振るう余地さえない団子状態。中央で圧死するものさえいたと。

    文字通り手も足も出せない状態に追い込まれたのです。
    タンジェント


  7. hush 様
    長年の疑問に答えていただき、ありがとうございました。

    普段はROM様 タンジェント様 回答ありがとうございました。
    カンネーの会戦がカルタゴ軍の完勝になった要因は、ローマ軍の密集体形が完成し、中央突破される寸前に包囲が完成したところにあるようですね。
    カルタゴの騎兵隊が後ろに回り込むタイミングが早すぎれば、ローマ軍は散開して乱戦になったでしょうし、遅すぎれば、中央突破されたカルタゴ歩兵隊は壊乱したかもしれません。

    後知恵で考えれば、敵が後方に回り込んでいることに気づかなかったローマ軍指揮官はアホに思えますが、平原の大会戦で的確に戦況を知り、絶妙のタイミングで包囲を完成させたところがハンニバルの名将たる所以と思いました。


    PIAT



197 戦争中、アメリカ人の蔑称は「アメ公」でしたが、イギリス人は何だったのでしょうか。
大英帝国

  1.  イギリス人単独に対する蔑称は、日本語では思いつきません。
     これは日英同盟等を通じて、イギリスは日本人が憧憬を感じても、侮蔑する対象と考えられなかったことに由来するものと思われます。
     一方、アメ公という蔑称は、大正末期から昭和初期にかけてに登場するのですが、これは、ワシントン海軍軍縮条約、排日移民法の成立と軌を一にします。
     これに対し、対英感情の悪化するのは、日中戦争時に、イギリスが援蒋ルートを支援したあたりからですが、アメリカと一緒にした鬼畜米英という言葉が登場するのは、戦争中期あたりからのようです。
     戦争末期には米英にけもの偏がつく表記も出てきますが、マレーやビルマ(ミャンマー)等で交戦しながらも、イギリス軍が銃後の意識の中に登場することは、アメリカよりもずっと少なかったと思われます。
     戦後、おそらくはアメ公に範をとって、ズベ公、ポリ公、さらには先公というような蔑称が登場しますが、イギリス人に対するそれが出てこなかったのは、憧憬よりも、一般の関心の薄さだったのかもしれません。
     
    hush


  2. hushさん、ご回答有り難うございます。
    銃後では鬼畜米英でしたが、前線では北方、中国、太平洋、それぞれに敵の蔑称がありました。同様に、マレーやビルマでも英軍の蔑称があった筈だと思うのですが、戦記を読んでも出てきません。どなたかご存じの方、ご教示くださると有り難いです。
    大英帝国


  3.  インパールで伯父が2人死んでいたり、高校時代の教師がビルマで捕虜になっていたりしますので、多少の関心はあって、いくらか読んだことはありますが、イギリス兵に対する蔑称は記憶にありません。したがって、一部で使用されていた隠語のようなものはあったかもしれませんが、人口に膾炙したものはなかったのではないかと思っております。
     また、当時の日本人の意識から考えると、イギリス兵よりも低く見られていたであろう現地兵に対しても、土兵、土民兵というような呼称しかありませんが、これは他の地域の現地兵に対しても使用されています。もっとも、これらの言葉は、現在では差別語になっておりますが、1970年代ぐらいまではそういう意識なしに使用されています。
     実際、ABCD各国の一つであるオランダに対しても蔑称は聞いたことはなく、北方におけるロシア、中国、そして、太平洋におけるアメリカほどの脅威を感じていなかった結果ではないかと愚考致しております。
     
    hush


  4. hushさん、重ねて有り難うございます。
    大英帝国


  5.  中公新書(中公文庫)会田雄次著『アーロン収容所』に於いて「イングリ」と書いてあるので、その「イングリ」がイギリス人に対する蔑称だったと思われます。
    板野ファン


  6. 戦記を二、三当たってみたのですが、イングリという言葉は、元々ビルマ人やインド人がイギリス人の事をそう呼んでいたようで、単にそれを受け継いだだけにも見えます。

    「アーロン収容所」はどこか紛れ込んでしまって確認できないですが、場所・時間によっては蔑称的に使われていたのかもしれませんね。
    とおり


  7.  「アーロン収容所」は、まだ、見つけておりませんが、「イングリ」との組み合わせで検索を行って、どのような記載であったかは、概ね分かりました。
     6でとおり様が仰られているように、ビルマ(ミャンマー)でイギリス人を呼ぶ言い方のようで、蔑称ではありません。現地では英語を発音する際、末尾を省略する傾向があり(Seat beltはシッベッと発音される)、Englishをそのように発音するというだけのようです。
     また、検索で分かった文面で判断する限りでは、会田雄次も蔑称として使用している感じはありません。単に、現地でそのように言うので、そのように記載したというだけのようです。
     
    hush


  8.  >とおりさん
     「場所・時間によっては蔑称的に使われてたかもしれません」。まさに、そのとおりだと思いますが、あえて書き込みました。おまけに「アーロン収容所」はウン十年前に書かれた本なので、その頃に現代のような蔑称等差別語に関する概念があったとは、ちょっと(かなり?)思いにくいです。
    板野ファン



196 古代ローマでは紀元前1世紀のマリウスの軍制改革によって、兵の装備を軍が支給するようになっています。
中国では兵馬俑の像からすると秦王朝の頃には既に軍の装備を統一していたようですが、中国において歩兵の個人兵装を統一した(判明している範囲で)最も古い例はいつ頃になるのでしょうか?
おうる

  1. おうる殿、貴君はあちこちで質問しているが、回答を貰っても反応しないことが多すぎないか?
    ZZZZ


  2.  荒神谷遺跡から同じような銅剣が358本出てきたのは有名です。他の地方勢力との戦争に使える純然たる武器は、製造元(日本なら造兵司、兵庫寮の管理する職工たち)が当然有力者の管理下にあるはずです。自弁させるにせよ「統一されていない武器」を将兵が自由に選べるようになったのは、逆にずいぶん後のことではないかと思いますよ。
    マイソフ


  3. 直接の回答ではなく、さらに記憶モードですが。
    兵馬俑から推測するのは危険かと思われます。というのも、あのテラコッタウォリァーズは顔は一つ一つ違うらしいのですが胴体他は型取り量産品らしいのです。よって、統一装備だから型から同じもの(胴体に付いてる鎧・剣など)を沢山つくってオーケーだったのか、省略して量産品をつかったのか不明だからです。
    どうも、兵一人に一体作らせて納めさせたらしく(費用は兵が負担、殉死させられるよりマシ)一般兵は高額の負担に耐えられず、顔 オーダーメイド、他 量産品、で済ませていたらしいです。
    がちょう



195 最近、山梨・宇垣軍縮に興味を引かれているのですが、当時存在していた27個野砲兵連隊のうち5個は2個大隊で編成されていたとありましたが、これはどの連隊でしょうか?
調べた限りではこれが分からず書き込みました。
よろしくお願いいたします。
フレドリクス

誰か答えて下さい。

194  もしかしたら艦船のコーナーに投稿すべきかもしれませんが、銅の取引相場について質問です。

 18世紀に英海軍が艦船の喫水下を銅板で覆うようになってから、木造船の銅板被覆は急速に広まりましたが、このことは当時の銅の相場に影響を与えたのでしょうか?
おうる

  1.  逆に、1865年から1870年にかけてアメリカでの銅相場はポンドあたり30せんとから19セントまで急落し、その原因のひとつは銅板被覆木造船の鋼製船への切り替わり、もうひとつは南米銅山の開発による供給増大だと書いてある本があります。

    https://books.google.co.jp/books?id=bnXXES5-LRcC&pg=PA34&lpg=PA34&dq=copper+price+wooden+ship&source=bl&ots=uVzDLYcrfb&sig=sKWV88KcSzMPxWQwQG4laqu_odU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj_3sqlxZzTAhUQOrwKHUhLANQQ6AEIMTAC#v=onepage&q=copper%20price%20wooden%20ship&f=false


     立ち上がり時期についてのWikipediaの記述によると、ちょうどそのころ新しい銅山がウェールズなどで操業を始め、相対的に安い銅が使えるようになったと書いています。また同項目の後ろのほうに民間船での採用比率も載っていますが軍艦ほど高くはなく、銅供給と銅相場に銅板被覆の普及(の遅れ)が引きずられたような印象を受けます。
    https://en.wikipedia.org/wiki/Copper_sheathing
    マイソフ


  2. 回答ありがとうございます。

    逆に低下していたというのは意外でした。
    おうる


  3.  相関と因果は違うと言うことです。銅相場が供給側の事情で下がっている事情があったから主要軍艦に銅被覆を施す予算措置が認められたのであり、それがある程度民間船舶にも広がって使われる銅の総量が増えると、それが一気に不要となることが銅相場を下落させる要因のひとつとして働きました。
    マイソフ


  4. 質問は、18世紀の話です。回答は、19世紀後半の事実です。何か、チグハグしていませんか。
    UK


  5.  質問の範囲を越えた回答をしているのは確かです。

    ・18世紀、銅相場は新鉱山の登場など供給側の要因で軟化傾向にあった。
    ・この軟化傾向を背景として、高額の新規出費となる軍艦の銅板被覆はイギリス政府から裁可され、ほどなく大型艦艇に普及した。
    ・民間船舶での採用はこれより遅れ、最も普及した時期でも30%ほどであった。
    ・19世紀、鋼製船への転換と銅鉱山のさらに新たな開発が重なり、需要側・供給側両方の要因が同方向に働いて銅相場は低下した。

     以上の事実をもとに、私はこのように考えました。

     18世紀に銅相場が上昇したという事実はなく、「銅板被覆の普及が銅相場を高騰させたという史実はあるか」という質問に対する答えは「ノー」の2文字で済む。一方、19世紀に「銅板被覆需要の消滅が銅相場を下落させた」という事実も、単一の要因ではないが認められる。このふたつの、一見矛盾する事実は、「銅板被覆を当初採用したのは大型軍艦に限られ、民間船の銅板被覆はさらなる同価格低下を待って徐々に進んだので当初は銅価格高騰が観察できなかったが、民間船への普及が進み銅板被覆のための銅需要が銅需要に占める割合が19世紀には高くなっていたため、当時の観察者が鋼製船への転換を銅相場下落の要因のひとつに数えた」と考えれば筋が通ります。もとの質問は18世紀に関するものですが、「銅板被覆需要の銅相場に対する影響の有無」と広義にとらえれば、「18世紀には「まだ」なかったが量的な問題であり、一般的に影響しないと考えるのは誤りである」というのが私の答えです。

    マイソフ



193 江戸期において国持ち・四品以上などの大名は徳川家より松平の称号を賜姓されていますよね そこで疑問なのですが細川家はなぜ除外されたのでしょうか? 細川家は鎌倉・室町以来の名門の血筋ですし国持ちの大身です どうしても納得のいく理由がわからず困っています
ツバメ号

  1.  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%93%81%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%98%87%E9%80%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7
     こちらで見ると、細川家以外にも、藤堂家とか、他にもありますね。
     
    hush


  2. wikiは調べて関連項目などにも目を通したつもりでしたが見落としがあったようですね 申し訳ありません 記事紹介大変助かりました 考察を進めることが出来ます hushさん ありがとうございます
    ツバメ号



192 珊瑚海戦の際のアメリカ空母部隊の動きについてです。ヨークタウン隊とレキシントン隊は5月1日早朝に、空母戦開始前の最初の合同をしますが、その後分離して給油に移ります。その後かなり両隊の距離が開いてしまい、その結果としてヨークタウン単独でのツラギ空襲となります。なぜ相互に連絡が難しくなるほど(視界内に止まるとか方法はあったと思いますが)分離したのでしょうか。

アッシュ

誰か答えて下さい。

191 過去の議論ボードを見ていたら、鈴二号作戦という作戦がありましたが、これはどういう作戦や計画なのでしょうか。
レイテ島に対する増援作戦というのはなんとなく解るのですが、詳細の内容が知りたいです
二号とあるからには、鈴一号作戦や鈴三号作戦なども計画されていたのでしょうか

戦史叢書を読んでみたのですが(南西方面海軍作戦とか)、詳細の内容についてはどうも見つける事が出来ませんでした。
もし自分が読み損ねただけでしたら本当にすみません
天ヶ崎

  1. アジ歴 C14020653400 参照。
    BUN


  2. 紹介ありがとうございます
    読んでみる事にします
    天ヶ崎



190 ハプスブルグ家について質問いたします。
スペイン・ハプスブルグ家は1700年のカルロス2世の死をもって断絶しています。
近親結婚が続いたことにより、王族が虚弱になってしまったことが原因だそうですが、そこで質問です。
@ スペイン・ハプスブルグと同じく近親結婚をつづけていたのに、オーストリア・ハプスブルグ家は現在も続いています。また、マリア=テレジアのように頑健な皇帝や、フランツ・ヨゼフのような長命な皇帝もいます。両家の違いはどこにあったのでしょうか?
Aカール5世を始めとして、ハプスブルグ家では下あごが突き出た顔をした人物が多かった(歴代スペイン王は全員)のに、時代が新しくなると、オーストリア・ハプスブルグでは下顎が目立たなくなります。何か理由があるのでしょうか?
PIAT

  1.  御質問に答えがつかないのは、一つは、ここが軍事の掲示板であっても、世界史の掲示板ではないということ、もう一つは、近親婚を繰り返したと言っても、そのすべての関係を把握するのが難しいということがあろうかと思います。
     ただ、御質問にあります名や王朝名は艦名にもなっておりますので、私なりに調べてみましたが、考えてみると、近親婚とはいえ、別の遺伝子も入ってきているわけです。たとえば、マリア=テレジアの曽祖父フェルディナント3世は、結婚相手のフランツ1世シュテファンの祖父でもあるのですが、マリア・テレジアの母親はブラウンシュヴァイク・リューネブルク家の出です。
     また、オーストリアのハプスブルク家の場合、マリア・テレジアが娘のマリー・アントワネットをフランス王家に嫁がせる等、各国と友好関係を結んでおりますので、スペインよりも外来の血が混じってきております。それでも、ルドルフ皇太子のように虚弱な体質の人も生まれていますが、@については、他の遺伝子がスペインよりも入る要素が強かったからというのも一因だろうと思っております。
     Aについても、メンデルの分離の法則から考えても、遺伝子上大いにあり得ることなのですが、さらにいろいろな家系の血が流れてきたオーストリアの場合、特に不思議なことではないと思われます。
     
    hush


  2. hush様 お礼が遅れて申し訳ありません。

    確かに板違いの質問でしたが、失礼ながら、この板は異様に博識な方が多いので質問させていただきました。
    詳細な回答をいただき、ありがとうございました。

    PIAT



189 ビルマの戦いにおいて質問があります。某Wikipediaでは、ビルマの戦いにおいて国民党軍が10万名戦死したとかかれてますが、この情報源はいったいどこの情報なんでしょうか?
んふぅ

誰か答えて下さい。

188 昭和17年5月のMO作戦において疑問があります
日本の敵戦力見積もりではモレスビーの守備隊は5000人とされ、ポートモレスビー攻略は第一四四連隊を基幹とする南海支隊(と呉第三海軍陸戦隊)が担当ということになっています。
敵戦力に対して上陸部隊が少なく相当苦戦しそうな印象を受けるのですが、この戦力で攻略出来ると日本が考えた理屈や根拠が解らないのです

輸送中に空襲を受けることや攻略後の補給を懸念していても、上陸後の陸戦の心配をしている様子があまり無さそうなのが気になっています
あくまで例えばですが、
モレスビーの5000人は戦闘員以外も含んでいる見積もりであって戦闘員なら倍以上の戦力比だから勝てる、みたいな感じなのでしょうか
天ヶ崎

  1.  戦史叢書「南東方面海軍作戦(1)」には、たしかに連合軍の兵力を5000人としております。しかし、その内訳の記載はなく、その真偽も含めて、委細は分かりません。もしかしたら、陸軍作戦のほうには記載があるのかもしれませんが、そちらは持っておりませんので、確認が取れていません。
     ただ、当地には飛行場があり、操縦士や整備士等がいたはずです。もし、それを含んでの数であるのなら、南海支隊と陸戦隊だけでも攻略できるという判断されたのはではないかと思われます。というのは、グアム攻略時に同支隊には兵員4886名を数えていたからです。若干の損失もあったのですが、補充兵も送られているようであり、これに数百名程度ですが、陸戦隊の人員を加えると戦闘員の数では上回ると考えらます。
     ただし、現在は否定されているそうですが、当時は攻撃3倍の法則というものがありました。これは、ドイツ陸軍の研究による経験則だそうですので、日本軍にも入ってきていると思います。したがって、海兵隊員約400名と若干の現地兵しかいなかったグアム攻略戦、ニューブリテン島全体で1400名しかいなかったラバウル攻略戦のように、3倍以上の兵力を確保できない状況となります。したがって、御質問のように陸戦の心配をしないのはなぜかというのはもっともだということになります。
     ただ、南海支隊はグアムで失った兵員は1名に過ぎず、ラバウルでも28名だけです。この結果、連合軍の戦力を過小評価し、与しやすしと考えたとしても不思議はありません。実際、7月のポート・モレスビー攻略においては、補給の途絶により悲惨な結末には終わっていますが、緒戦は押しております。
     慢心と言えば、それまでですが、上陸後のことよりも、制空権の確保されていない中での途中のことのほうが、より気にかかるということではないかと愚考致しております。
     
    hush


  2. hush様ありがとうございます。

    ただグアム攻略時の第一四四連隊の3個大隊で3000名以下ですし、山砲兵第55連隊第1大隊加えるとしても4000名に届かないと思われます。
    MO作戦時の参加数は解らないのですが、グアム戦時の南海支隊の人員より上回る事は無いと思われます。
    また暁の珊瑚海ではモレスビー上陸予定の南海支隊はソース不明ですが2000名とあり、かなり少ない印象を受けるんです。

    >ただ、南海支隊はグアムで失った兵員は1名に過ぎず、ラバウルでも28名だけです。この結果、連合軍の戦力を過小評価し、与しやすしと考えたとしても不思議はありません。
    グアムでの連合軍兵力見積もりは約1500名、ニューブリテン島でも大体同数程度と見積もっていたと記憶しております。
    素人考えでは、見積もり1500名の敵に勝った(グアムでは見積もり以下の約400名)から、見積もり5000名の敵に勝てると考えるのは不思議に見えるのですが、不思議は無いものなんでしょうか
    天ヶ崎


  3.  4886名という数字はWikipediaに載っているものであり、しかもその出典が明らかになっておりませんので、拘泥は致しません。ただ、これだけ細かい数字だと、何の根拠もなく出て来たとは思えないので、書いたばかりです。そして、南海支隊長は第55歩兵団長でもあり、歩兵団は3ヶ連隊からなりますので、その代表として抽出されてきた歩兵第144連隊は、通常編制ではなく、増強されたものであろうとは思っております。
     ところで、グアムはともかくとして、ラバウルに1500名の連合軍がいると見積もって、ほぼ同数の兵員が(全島でですが)いたわけです。にもかかわらず、ほとんど被害を受けずに占領したのならば、5000名の兵員が待ち受けていても、大丈夫だろうと思うのは、慢心かもしれませんが、当然なのかもしれません。
     ただ、1でも書きましたように、陸上よりも途中のほうが気にかかるというほうが大きいのではないかと思っております。というのは、中国で日本軍が、戦略的にはともかくとして、戦闘で優位に立てたのは、絶対的な制空権を握っていたからだと思っているからです。しかし、MO作戦の場合は、海軍主導の作戦であり、空母が引き揚げたらというような不安材料は多かったと思います。また、そのような中を、兵員を満載した輸送船で長距離移動するわけですから、陸軍側が大丈夫だろうかと思うのは、当然ではないかと思います。
     
    hush


  4. グアム攻略時の
    南海支隊 4886名
    南海支隊の歩兵第144連隊(の3個大隊) 3000名弱
    ですので何も問題はありません
    南海支隊の主戦力である歩兵第144連隊はそのくらいの兵数と書いたに過ぎないんです。

    中部太平洋方面海軍作戦(1)に記載があり、恐らくWikipediaの出典もそこかと思われます(3000名弱と書きましたが、同書には詳細な人数まで載っていたはずです)

    ただ、MO作戦で敵5000名の見積もりに対し、5000名に満たない(下手すると4000名以下。暁の珊瑚海では2000名)南海支隊で大丈夫と考えられたのは、
    グアムやラバウルの快勝の結果、連合軍の戦力を過小評価したから
    というのは本当なのでしょうか

    グアムやラバウルの快勝の結果は関係無い。仮にラバウルが1500名でなく5000名の見積もりでも南海支隊で大丈夫な感覚を持っていた
    ということは無いのでしょうか
    主張ではなく、快勝の結果の過小評価が本当なのか気になっているんです
    天ヶ崎


  5. >4

    そもそも論として、たとえ兵力が半分だろうと命令を受けたら行って勝たなければならないのが帝国陸軍なんですよ。当時敵と同数では戦えませんなどと言う日本の将軍はどこにもいなかったと思います。というか同数なら勝ってあたりまえと思われてたんじゃないでしょうか。

    それがそもそも論で、背景にはその時点で南海支隊以外に回せる兵力が無かったとか、船腹がぎりぎりだとかの事情もあったと考えられます。またそれまで一度も負けたことはないですから、今度も勝つだろうとは思っていたでしょう。ガダルカナルの例を見れば分かりやすいですよね。これは過小評価とも言えるし、経験に基いた(ある意味当然な)類推とも言えます。
    とおり


  6.  「暁の珊瑚海」が市立図書館にありましたので、借りてきました。拾い読みしたところ、南海支隊に関する部分は、なぜ、空母祥鳳が単独で運用されたか、なぜ、追撃命令を出さなかったという点に使われているようです。これは、海戦を主眼とする本書の性格上仕方のないことなのですが、このため、陸戦に向けての心構えのようなものは書いてありません。
     5でお書き戴いたようなことはあるかもしれませんが、あったとしても、そのような理由で、陸戦に関する要求の部分は、同書には収録されないと思われます。
     御質問の主旨が本書において陸戦の心配をしていないのはなぜかという意味でありますのなら、上記の理由によるものと思われます。しかし、命令を出した側が、この人数で足りたと思う根拠を時系列で出せということでしたら、私の能力を上回りますので、御期待には添えかねます。
     
    hush


  7. >5
    やはり、考えられる思われるなど類推するしかないのでしょうか
    理屈としては解らなくは無いのですが、その類推で本当に正しいのかどうかが多少不安を覚えています

    >6
    どちらかといえば、暁の珊瑚海というより戦史叢書の方がウエイトが大きいです
    南東方面陸軍作戦においてもあまり陸戦に関して心配している様子が見受けられず、連合軍の兵力を5000人も内訳などの委細はありませんでした

    >御質問の主旨が本書において陸戦の心配をしていないのはなぜかという意味でありますのなら、
    その意味も全く無いとは言いませんが、「暁の珊瑚海では南海支隊は2000名とあった」と何度か書いたように、同書では2000名と書かれていたと紹介しただけという理由の方が大きいです
    グアム攻略作戦と異なり、MO作戦における参加人数がよく解らないのも私の疑問の一つなんです
    天ヶ崎


  8. >7

    グアムからは南海支隊全力がラバウル攻略に向かったはずです(このときの輸送船9隻)。
    南海支隊の編成はご指摘のとおり4886名と戦史叢書に記載があります。
    内訳は司令部159名、歩144が2925名、砲兵・工兵など1263名、衛生468名、船舶71名です。

    ラバウル攻略後は一部がラエ・サラモア攻略に向かいましたが、それは成功した後ラバウルに戻っており、戦史叢書ではモレスビー作戦前に支隊全力が集結したとあります。ポートモレスビーに向かった輸送船は11隻ですから、ほぼ全力が向かったんではないでしょうか。確かに戦史叢書にも人数は書いてありませんが、〜がラバウルに残置したともありません。舟艇機動ならともかく、砲兵も乗ったと読むのが妥当と思います。「暁の珊瑚海」の2000名はポンと唐突に書いてありますが、歩144の全員すら乗っていないことになり、根拠が知りたいところです。

    5では「たとえ兵力が半分だろうと命令を受けたら行って勝たなければならない・・」と書きましたが、命令を出す方は2000名を5000名に当てるのは躊躇するでしょう。

    とおり



187 石原莞爾が総理大臣なら大東亜戦争は日本の勝利間違いなしですよね?






食い砲台

  1. あり得ません。

    1941年より前に総理大臣になっていれば…政敵をたくさん作ってしまって国内をまとめることができなかったでしょう。暗殺事件やクーデターが起きたかもしれません。

    1941年に総理大臣になっていれば…対米戦回避のためなら中国大陸はおろか朝鮮半島も台湾も放棄するのも仕方ないと主張している人物ですから、積極的にハル・ノートを受諾するでしょう。
    なので、大東亜戦争自体が発生しません。

    対米開戦後であれば…総理大臣が誰だろうと結果は変わりません。米国との国力差は誰が総理大臣になったところで埋められません。大東亜戦争はやれば必負、開戦してしまった時点で負けが決まっている戦争です。手を上げるのが早くなるか遅くなるかの違いでしかありません。

    おうる



186 赤穂事件において浅野長矩を取り調べたのは多門伝八郎という目付です. ここで疑問に思ったのですが目付の職掌は旗本関係なのになぜ大名である浅野長矩を取り調べたのでしょうか? 本来なら大目付の役儀なのではないでしょうか?
Ad.シュペー

  1. 当時の大目付のうち、大目付仙石久尚は討ち入り後に浪士たちが彼のところに自首に赴いているように赤穂藩と元々関わりがあったようであり、もうひとり大目付庄田安利は浅野長矩切腹の検死役正使ですから、彼がこの事件の担当者であり、その下にさらに多門、大久保の目付がつけられていた、ということではないでしょうか。


  2. なるほど! 大目付の指揮を受けていたのですね! 長年の疑問に終止符をうつことが出来ました. こちらに質問して本当に良かったです. 片さん本当ありがとうございました.
    Ad.シュペー


  3. 「多門伝八郎覚書」は全部信ずるわけにはいかない資料とされていますが、当日の取り調べ等の手順は次のようになっています。

     その日の「御目附当番」は多門・大久保であり、御目付部屋に返事が知らされたので駆けつけました。明記されていませんが同役の近藤平八郎、久留十左衛門もおそらく同席していたと思います。4人がかりで、浅野長矩を押さえつけていた旗本をなだめて受け取り、ひとまず落ち着かせました。

    http://park17.wakwak.com/~irumaq/edojo/honmaru/omote.html

     若年寄4人が合議し、4人の目付を半分ずつ、とりあえず両者の言い分を聞き取りに行かせました。浅野長矩には6人の徒目付が近くに控え、暴れたら取り押さえられる態勢でした。あらかじめ「お役目なので敬語を使わない」と断ったうえ、多門は存念を聞き取りました。4人の目付はまず大目付仙石久尚・安藤重玄に報告。その後目付は若年寄に(おそらく大目付は老中に)報告。老中たちから特に呼び出され、目付から老中に直接報告。老中から側用人・松平美濃守(柳沢吉保)に報告。

     これだけで切腹の御沙汰が出てしまったので……以下は省略として、大目付は自分で浅野長矩を引き据えたりはしませんでしたが、ちゃんと意思決定には加わっていたようです。

    http://wheatbaku.exblog.jp/tags/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5/10/
    マイソフ


  4. なお大目付庄田安利のことを多門は書いていませんが、田村邸への護送列には目付・檜川源吾が付き添っているところ城内の描写に出てこないので、大目付も全員は登城していなかったのではないかと思います。
    マイソフ


  5. 詳しく解りやすい解説ありがとうございます. 参照サイトまで紹介してもらって嬉しかったです. 江戸城本丸御殿絵図! これもすごく良かったです. 次回映画や書籍で鑑賞する際の参考になりますよね. マイソフさん.本当にありがとうございます.
    Ad.シュペー



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