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戦史、歴史
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274  かなり昔ルーマニアに行ったことがあります。ある場所へ行った時、「この辺りはかつて激戦地であった。彼我の銃弾が空中で衝突し、一方が他者に貫入しX字型になったものを、博物館のようなところで見たことがある。今度見に行こう」と言われました。第一次大戦中のことだと思います。結局実物は見ていません。このようなことが実際に起きることがあるでしょうか。皆様のご意見をお伺いいたします。
電気戦艦

  1.  2 Bullets collidedで検索をかけてもらうと、実例が出てきます。
     ただ、トルコのガリポリで見つかった銃弾 https://qph.cf2.quoracdn.net/main-qimg-d5a4eb0b72bd74291d4cf1ed06634970-lq の場合、空中衝突ではなく、保存されていた銃弾に突き刺さったというものです。
     なお、銃弾が被甲されるようになると、衝突しても突き刺さるようなことはないようです。
     あと、ルーマニアでの例はネット上では見つけられませんでした。
     
    hush


  2.  hush様 大変興味深い資料紹介していただき、ありがとうございました。停まっている弾丸に飛んできた弾丸が当たると、写真のようになることははっきりしました。ということは、さらに発生確率は低いですが、運動中の二発の弾丸が当たると似たようなことが起きるかな、と思います。もっとも二者の弾道の交わる角度が大変小さい場合貫入はさらに困難とは思います。実物がないのでこれ以上は言えません。
     それにしてもこのような問題に興味を持っている人が世界には多くいることが面白いです。ガリポリはチャーチルの失敗で有名なこともあるのでしょうか。
    電気戦艦


  3. 空中で弾丸同士がぶつかった例として、西南戦争の田原坂の戦いがあります。

    以下。熊本県の歴史ガイド (ttps://kumamoto.guide/look/terakoya/009.html)より引用

    「薩軍は薩摩示現流の猛烈な必殺剣で斬り込んだ。官軍は狙撃兵を配して、これを撃ったが、官軍は、一の坂・二の坂・三の坂と三つに分かれる田原坂の最後の300Mを越えられなかった。雨も降り続いた。文字通り泥沼の戦場となった。一日32万発もの弾雨が降り注ぎ、弾丸が空中で激突したほどである。(田原坂資料館に保管されている)。」
    タンジェント


  4.  ロシア兵2名が同時にウクライナ兵を狙撃した際、空中で衝突してコースが変わったので命中しなかったそうです。これは画像解析の結果分かったことのようで、動画が公開されています。
     銃弾が被甲される前ですと、南北戦争で実例があったようで、2 Bullets collided Civil warで画像検索をしますと、いくつか出てまいります。
     
    hush


  5. タンジェント様
     資料ご紹介ありがとうございました。田原坂の戦いは名前はよく知っていたのですが、実際にはこんなことがあったのですね。2本のシャワーの水を相対させると水滴どうしが当たることかなりありそうです。

    hush様
     資料紹介ありがとうございました。被甲があると起こりにくいということですが、表面で滑ってしまうので、破壊や貫入が起きにくいということでしょうか。
    電気戦艦


  6. >5
     その通りです。被甲がある、すなわち、フルメタルジャケットの場合、いわゆる鉛玉より、そのようなことは起こりにくいでしょう。実際、銃弾の費消数は増えておるのに、そのような弾丸の発見例がなくなりつつある理由としては、他に考えにくいと思っております。
     
    hush


  7. hush様  >6
     ありがとうございました。現代に近い戦闘では、二者合体弾(タンジェント様紹介の資料によると行合弾ともいう)はほとんど発見されていないとい、これは二者が当たってもツルッと滑るからである(あろう)、ということですね。
    電気戦艦


  8.  2 Bullets collidedで動画検索をかけると、衝突の瞬間に砕け散るものが多いようですが、 https://youtu.be/xvZ1nS8SllM の動画では、衝突により方向が変わっているようです。
     
    hush


  9. hush様   >8
     ありがとうございました。 動画を見てもよくわからないのですが、方向が変わるということはそうなのだと思います。高校の物理で習う運動量保存の式が役に立つのでしょう。
     今回の質問ではそんなことまずは起こらないだろうという思い込みがあったのですが、実際は結構起きていることがわかり、感動いたしました。
    電気戦艦



273 https://gendai.media/articles/-/124798
太平洋戦争末期、硫黄島での陸軍、海軍の食料事情の格差の記事ですが、この格差は時期、場所を問わずあったものなのでしょうか?あと徴兵される側からは、食料事情の良い海軍の方に行きたいという話は有ったのでしょうか?
まさのり

  1.  ガダルカナル島の海軍設営隊の記録には食料不足の話が載っておりますし、ミリ島では陸海軍兵士が食料を争ったという話があるようです。また、敗戦間際には海軍も食料が調達できなかったようですので、時期、場所を問わずというわけにはいかないようです。
     海軍の食料事情の原因の一つとして、志願制ですので、食料を陸軍よりよくしないと志願する者が減るからという理由が上がっていますが、食料事情を理由にして海軍へ行った者がどれだけいるかは存じません。
     
    hush


  2. hushさん、ありがとうございます。大和ホテルと言われたりした海軍の方が、平時でしたら良さげですね。
    まさのり


  3. >2
     その代わり初年兵いじめは陰惨だったようです。その海軍の料理でも上の兵隊がなかなか箸をつけないものだから、わずかな時間で書き込むしかなく、味など分からなかったそうです。
     
    hush


  4. 海軍は潜水艦で孤島でも輸送する手段があったからじゃないでしょうか。
    瑠藻莉


  5. >4
     すいません、それは何に対する回答でしょうか。
     
    hush


  6. >4
    戦争末期の日本近海の島々の状態です。
    瑠藻莉


  7. >6
     失礼ながら、質問は「この格差は時期、場所を問わずあったものなのでしょうか?あと徴兵される側からは、食料事情の良い海軍の方に行きたいという話は有ったのでしょうか?」であって、そういうことは聞かれていないと思いますが。
     
    hush


  8. それもそうですね。
    瑠藻莉



272  戦時中の雑誌にラジコン飛行機の広告がありました。

 ラジコン飛行機用の燃料といえばおそらくメタノールを主成分とするグロー燃料ではないかと想像します。
 戦時中の日本というと何もかもが統制されていたというイメージがありますが、グロー燃料はどのような扱いになっていたのでしょうか? ラジコン飛行機を自由に飛ばせるだけの民間市場への供給があったのですか?
おうる

  1.  黒柳徹子の自伝の続編が家に転がっていたので、読んでみたのですが、彼女の父親は有名なヴァイオリニストで、青森県に疎開するまで、戦時中にも関わらず、かなり豊かな暮らしをしています。また、満鉄の副社長の娘だったという人が遠縁におり、戦時中でも、一般庶民とは隔絶した暮らしをしていたようです。
     メタノールについては、戦後のアルコール不足の時代に飲用に供され多数の死者や失明者を出しましたが、酒税不要の変性アルコールとして比較的多く出回っていたようです。
     また、1935年生まれの義母の話では、津市旭町にグライダーの練習場があったぐらい、航空産業や飛行士の育成に軍が力を入れていたようです。このため、ラジコン飛行機はこの方針のもとに雑誌掲載が許された可能性があります。
     当時、ラジコン飛行機用のエンジンは小川精機のグロー燃料を使用するものと思われますが、戦時中であっても、航空産業育成のためというような理由をつければ飛ばせるでしょうし、工場でも経営していたら工業用アルコールの入手は困難ではなかったと思っています。
     
    hush



271 明けましておめでとうございます。新年早々またつまらないことが気になってしかたないので、質問させていただきます。

百年戦争時の聖女ジャンヌ・ダルクのエピソードについてです。

ジャンヌは神の聖託を受けた後、最寄りのアルマニャック派貴族ロベール・ド・ボードリクール伯の支援を受け、王太子シャルルへの信任状と武具を与えられ、シノン城へ旅立つのですが、この時ボードリクール伯がジャンヌにかけた言葉として、私の知る限り、

@「行け、行くのだ。たとえ前途に何が起きようとも」と励ました。

A「とっとと行ってしまえ。俺はもうどうなっても知らんぞ」と吐き捨てた。

の全く逆の2種類の邦訳があるのですが、今日正しいとされているのはどちらでしょうか?

原文を見ればいいじゃないかと言われるかも知れませんが、私のフランス語に対する知見が低く、原文を検索し出すことができませんでした。

どなたかフランス語ないしフランス史に精通されている方がいらしたら、どうか教えてください。
備後ピート

  1.  19世紀のフランス人歴史家ミシュレの書いたのを翻訳した中公文庫版「ジャンヌ・ダルク」は前者のニュアンスで、フランス在住の日本人文化史家の書いた講談社学術文庫版「ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女」では言葉そのものはないものの、後者という感じでした。
     おそらく、記録されているのは言葉だけで、伯爵の気持ちは記録されていないので、作者の捉え方次第という部分があるのではないでしょうか。
     書店や、図書館へ行けば評伝はたくさんありますので、見比べて新しいものはどうなっているかを調べるのも一興かと思われます。
     
    hush


  2. hush様。ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
    備後ピート



270 謹んで新春のおよろこびを申し上げます。
スリガオ海峡海戦についてお伺いいたします。

同海戦における西村中将最後の命令として有名な

「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク 各艦ハワレヲカエリミズ前進シ敵ヲ攻撃スベシ」

ですが、この時の「各艦」に当たる重巡「最上」、駆逐艦「時雨」の戦闘詳報を閲覧しましてもこの文面はありません。

見落としなら申し訳ありませんが、どこからこの文面は来たのでしょうか?
(「時雨」駆逐艦長西野中佐(当時)の証言のみで、他の証言はない文面なのでしょうか?)

宜しくお願いいたします。
Ranchan

  1.  戦史叢書 https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=056# 153コマ、324コマを見ますと、西野繫中佐陳述録によるとあります。
     受信録にないものをどうやって聞いたのかという話にはなりますね。
     
    hush


  2. ご回答有り難うございます。
    他には記録も証言者もない「西野中佐の個人的な証言」の域を出ないものだったんですね。

    まあスリガオ海峡海戦における日本側の指揮官レベルの生還者(捕虜になられた方は除く)は西野中佐お一人ですから、やむを得ないのかもしれませんが・・・。
    Ranchan


  3.  そういえば、沢地久枝が「ミッドウェー海戦」を書き、運命の5分間は嘘だったと書いて旧海軍の人達と論争になったことがありました。彼女は、圧倒的な量の資料を提示して、旧軍側の顔色を失わせたわけですが、本当かなと思って読んだほうがいい戦記って、戦史叢書にもあります。
     実際、海軍が公刊した日露戦史は、嘘が多いことが、「極秘 明治37.8年海戦史」の発見された今日では常識となっています。
     
    hush


  4. 何という戦記だったのかは失念したのですが、

    戦艦「山城」から放たれた西村中将最後の命令は
    「ワレ航行不能。各艦ハ『扶桑』艦長指揮ノ下レイテ湾に突入セヨ」
    だった。

    と読んだことがあります。
    これは発光信号によるものだったそうですが。

    あの激烈な砲雷撃下で炎上し沈没寸前の「山城」からの発光信号がすぐ近くにいるわけでもない「最上」「時雨」から識別できるんでしょうか・・・ねぇ?
    Ranchan


  5.  「戦史叢書」には、「時雨艦長は、西村司令官から…と下令されるのを聞いた」とありますが、信号兵から聞いたものなのでしょうかね。
     プリンス・オヴ・ウェールズ沈没時のトーマス・フィリプス提督がノー・サンキューと言って退艦を断ったという話も、捕虜がでっち上げた話を日本で美化して広げたとか、長篠の戦いの三弾撃ちも陸軍が作ったとか、いろいろありますからね。
     
    hush


  6. 「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク 各艦ハワレヲカエリミズ前進シ敵ヲ攻撃スベシ」

    スリガオ海峡海戦や西村中将の最期を語るときいつも出てくる文言ですが、こんなに根拠のない不確かなものだったとは驚きです。
    Ranchan


  7.  そういえば、こういうのもありました。
     https://synodos.jp/opinion/society/23075/
     洋の東西を問いませんね。
     
    hush



269 昭和17年に米豪遮断作戦などと企画されたが、かりに全南半球の島全部を日本軍が占領したとして、米豪は遮断されるのでしょうか。船での行き来が可能な限り、交流は続いており遮断は無理なんじゃないでしょうか。
五十六週撃

  1.  制空権が取れるならできるかもしれませんが、そんな広範囲を守る力などはないでしょう。
     
    hush


  2.  一度占領した島を即座に基地化、要塞化できなかったからガダルカナルで負けたようなものですし、占領しただけじゃ無理でしょう。

     Shipmap で検索してもらえると世界を航行するコンテナ船&タンカーの航路を見ることが出来ますが、米西海岸と豪州を結ぶ航路を遮断しようと思ったらソロモン諸島のみならずニューカレドニア、バヌアツ、フィジー、トンガ、サモアといった島々は軒並み基地化しなければならなくなりますし、それのみならずニュージーランドまで抑えなければ太平洋航路を遮断できません。日本軍にそれを可能とするだけの戦力があったとは思えません。
     しかも太平洋航路を遮断してもインド洋航路はノーマークのままですから豪州の経戦意思次第では米豪遮断による豪州脱落を実現させるのは無理でしょう。
    おうる



268 最近の人口石油のニュースでサイトを見てると
人造石油(液化石炭)について書いてあるサイトが有りました。そのサイトには、
「ここにひとつの誤認をわれわれは犯していた。ドイツの成果は、すべて石炭の直接液化法によるものだと考えていたことである。戦後の文献によるものは、ほぼ68万トン/年にすぎず、それ以外はすべてタールその他の液状原料の水素添加だったのだ」と陸軍省燃料課の技術将校・高橋建夫少佐も語っています(高橋健夫著『油断の幻影』)。の記述が有りました。ナチスドイツは人造石油(液化石炭)で戦ったと思ってた私からすると
どちらが正しいの?と思いました。あと上記にある、タールその他の液状原料の水素添加 とはどういうことなのでしょうか?
まさのり

  1.  私もよく分からないのですが https://www.osaka-ue.ac.jp/file/general/4298 あたりはどうでしょうか。
     
    hush


  2. hushさんありがとうございます。今まで何回かのオイルショックが有ったにもかかわらず、人造石油(液化石炭)の話が少ないってことは、コストパフォーマンスが良くないとか色々問題が有りそうですね。
    まさのり


  3. 最近、この方面もさっぱりご無沙汰ですが
    極少数の旧海軍関係者の、今はやりの忖度と言うか嘘が、何の検証も無く、長年に渡ってひとり歩きをしていたというのが実状では無いでしょうか。
    よく引用される、直接液化法で日本の石炭の灰分が配管を摩耗して、日本では物にならなかったと言う話も、冷静に考えれば、ドイツの石炭に灰分が無い訳が無く、何を言いたかったのかを考えて見るべきでしょう。
    海軍関係者の分析と選択の失敗を糊塗しようとしたのが、この話の始まりだと考えます。


  4. >3
     姫君、お久しぶりです。
     専門家の仰ることはやはり違いますね。
     実のところ、私はこの話を知らなかったのですが、開戦経緯と絡んで注目しております。
     海軍については、東京裁判を有利に乗り切るために関係者の発言を統一した経緯もあり、旧海軍関係者の嘘が一人歩きしているというのは、説得力にある話だと思っております。
     また、いろいろと教えて下さい。
     
    hush


  5. 関係者の忖度や嘘というよりも、燃料問題は陸軍と海軍、民間各社でそれぞれに研分野が異なるため、当時の技術者は自分が関与した方面にしか知識が無く、俯瞰的に見られる立場に無かったことが不正確な回想が生まれた大きな要因だと思います。民間企業の社史も同様で、ある企業の社史と別の企業の社史または社史と並行する編纂物などで得られる情報が矛盾することも多くあります。
    水素添加の技術もアメリカ式の陸軍とドイツ式の海軍では系統が異なり、どちらも戦時下で行われた技術革新を採り入れることができずに取り残されています。
    ドイツの石炭、褐炭ベースの高性能燃料製造技術は戦時中に大きく転換してある程度の成功を収めていますが、日本はその技術を模倣できないまま終戦を迎えているので、「実はドイツでは通説とは全く異なり・・」といった話では無いのです。
    BUN


  6. うろ覚えの過去の知識ですが、
    ドイツの直接添加法に用いられたタール、重質油の由来は3系統に分かれます。
    一つ目は、石炭からのコークス製造又は石炭ガス製造などの高温乾溜により発生したタール分からモーターベンゾールやベンゼン、トルエンなどの有用成分を取り除いた残渣
    二つ目はドイツで大量に採掘される褐炭を低温乾溜したタール分、又はこれより軽、中、重油を乾溜した残渣
    三つ目はドイツ並びに大戦中に大増産を遂げたオーストリア産原油を製油した残渣である重質油分、タール分になります。ドイツ、オーストリア産原油はハンガリー産原油とは性状が違い重質な為、重質油分、タール分の取得割合が多かったと思われます。
    ドイツでの直接液化法とは石炭の高温乾溜によって出来たコークスや褐炭の低温乾溜によって出来たコーライトを使って製造した水性ガスから分離した水素と、触媒と重質油、タール分又は石炭、褐炭を粉末にした物を重質油、タールに混ぜた物を、高温高圧の元で反応させる事です。
    と理解していました。




267  かつて軍艦の燃料が石炭であった時、黒い煙は相手に見つけられやすいので、煙が薄くなるような良質の石炭が好まれたと言います。では実際に、煙が黒くて不利になった例、逆に煙が薄くて有利になった例にどのようなものがあるのでしょうか。第一次大戦中にありそうなのですが、お分かりの方教えてください。
電気戦艦

  1.  日本海海戦時、信濃丸は病院船オリョールの灯火を発見して臨検のために近づこうとした際、夜明けとともにバルチック艦隊を発見していますが、ロシア側は気づかなかったようです。
     第1次大戦のほうはよく分かりませんが、 http://geo.d51498.com/kigiken/update2.html 所収のドッガー・バンク海戦に見る機関部の実相を見ますと、いろいろと技術的なことが書いてあり、ドイツ側は有煙炭だったので不利だったと書いてあります。
     多分、専門家の方がフォローしてくれると思いますが、あのサイト復活しないのかなぁ。
     
    hush


  2.  hush様 どうもありがとうございました。信濃丸のことはひょっとしてとも思っていましたが、ロシア側がみつけられなかったのが、煙が薄かったせいなのかどうかよくわかりません。夜間、海上で、月明かりがある時他船がどのように見えるのか想像がつかないのです。
     カーデイフ炭は積出港の名をとっているのであり、実際は、無煙炭から瀝青炭まで色々あったようです。(わたしは、無煙炭が燃えた時の燃焼ガスに関心があります。要は高温の二酸化炭素ガスなのでしょう。炎というものはあまりないのかと思います。ウナギを焼くときの備長炭のコンロの上なのでしょう。)
     高木氏のサイトは大変充実しており、私も常々参照していました。蒸気機関車のデータと比較しながら勉強すると特に興味深いです。これらが紙の本になって記録されることを願うものです。
    電気戦艦


  3.  たしかに「極秘明治37.8年海戦史第2部戦紀巻2」(JACAR Ref.C05110084400)には「十数隻の軍艦と尚他に数条の煤煙とを発見し」とあるのみですね。「1904、5年露日海戦史」はどうだったかなと思って探したのですが、どこへ置いたか分かりませんでした。
     なお、バルチック艦隊は回航中の訓練により放出される煙の濃度は減少していたという意見もありました。
    >これらが紙の本になって記録されることを願うものです
     木氏に期待しましょう。
     
    hush


  4.  「1904、5年露日海戦史」が出てきましたので確認したところ、「午前5時信濃丸発見す」というオリョールからの報告はありますが、「右方霧中より艦隊を追尾して暫時接近せる商船現る」とあるばかりで、煤煙とも何もありません。ロシアの使用している時刻は日本時間とは異なっていますが、30分ほど早く日本側が発見しているようです。
     
    hush


  5. hush様 >4. ありがとうございました。同じ内容のことは「もうひとつのツシマーロシア造船技術将校の証言」293ページにも出ています。「明け方、右舷の方に朝もやの中から白色に塗った汽船が姿を見せ、艦隊の後尾に近づき、艦列を認めると急に転回して霧の中に姿を消した。」とあります。煙のことは出ていません。
    電気戦艦


  6.  考えてみれば、第2、第3艦隊は全力で航行していたわけではありませんので、煤煙の量も少なかったはずでした。そして、信濃丸は北上中に右舷に艦隊を視認していますので、東側の曙光の中に艦隊が浮かび上がったから見つけることができたが、自身は闇の中に隠れることができたということでしょう(もっとも、5で紹介された本の場合は右側に信濃丸となっていますが、この本に書かれているオリョールは病院船ではなく戦艦のほうですので、時刻は後になります)。したがって、2で疑念を示されたように、全速時ならともかく、巡航時にはそれほど煤煙は上がっていないということになります。実際、航行中と思われる写真の中にも、ほとんど煙が上がっていないものがあります。
     だとすれば、「坂の上の雲」で司馬遼太郎が無煙炭を喧伝していたのは何だろうなとは思いますが、ひとまず、日本海海戦がそうであるという指摘は撤回させていただきます。
     失礼しました。
     
    hush


  7. hush様 どうもありがとうございました。オリョールが2隻いたこと忘れていました。
     カーデイフ炭が評価されていたのは、煤煙の量が少ないというよりも、重量当たりの発熱量が一番大きかったことにあると思います。このことは他の石炭よりも(同一積載量で)航続距離が大きいとか、機関員の疲労が減るとか利点があったのでしょう。帝国海軍は大正期に燃料の練炭への切り替えが進んだので、煙の色はあまり心配しなかったのか、と考えます。では、大戦中地中海に派遣された日本駆逐艦はどんな燃料を使っていたのか、には関心あります。
    電気戦艦


  8. >7
    >オリョールが2隻
     オリョールは鷲のことですので、東ローマ帝国から引き継いだとされるロシア帝国の国章、双頭の鷲を意味すると思われます。このため、1889年にロシア義勇艦隊の客船として進水した際には国を代表するものとしてこの名が使われたのでしょう(もっとも、Eagleと英訳された船名で進水しているそうです)。
    >大戦中地中海に派遣された日本駆逐艦はどんな燃料を使っていたのか
     アジ歴リファレンス・コードC10080069500ピロウス方面に於ける燃料淡水並工場調査報告を見ておりますと、戦前はピロウス(アテネの外港ピレウスのことだと思います)に入ってきていたカーディフ、ニュー・カースルからの英炭の輸入は途絶しており、現地のギリシャ炭を使用せざるを得ないと書いてあります。
     
    hush


  9. >8. hush様
     早速調べてくださりありがとうございます。石油産出は地理的に偏在していますが、石炭は品質の良否は別にしてどこの国にも産出するということでした。幕府海軍は、品質が低いとされる常磐炭を結構使ったらしいです。
     軍艦の命名はお国柄が現れて興味深いですね。ただ、日本では絶対に個人の名前が使われないことは、はっきりしています。我々の精神世界の奥底では、平家物語や方丈記のようなものが強く生きてるのでしょう。
    電気戦艦


  10. >日本では絶対に個人の名前が使われないことは、はっきりしています
     間宮と「しらせ」という例があります。間宮海峡と白瀬雪原と書かれていますが、もとは間宮林蔵と白瀬矗というのははっきりしていますので。もっとも、砕氷艦を軍艦と呼ぶべきかなるとどうなのでしょうね(間宮も特務艦ですが)。
     命名権者である明治天皇が歌人であったため人名は使われませんでしたが、乃木神社とか東郷神社とかが作られたことを考えると、絶対にとは言えないと思っています。
     もっとも、このあたりは、随分と脱線しておりますので、この辺で。
     
    hush


  11. 本来の質問に対する回答ですが、(1)第1次世界大戦時のドイツ潜水艦や通商破壊艦エムデンの獲物の発見には、排煙が大きな役を果たしたと思われます。但し、その濃淡が具体的にどの程度の影響を及ぼしたかは判りません。
    (2)ドッカーバンク海戦で、英国の巡洋戦艦隊は損傷した旗艦の旗信号を排煙のため見間違い、逃げるドイツ巡洋戦艦隊を追撃せず傷ついたブリュッヒャーを攻撃したため、独巡洋戦艦隊を取り逃がしたと言われています。ただ、これもどの程度影響したのかは判りかねます。
    (3)第2次世界大戦の初期に生じたラプラタ沖海戦では、英国の巡洋艦隊は、接近してくるシュッペー号をその排煙により発見しています。ただ、これも具体的にどの程度早く発見できたのかは判りかねます。
    UK



266 米西戦争時のグアム島攻略時に、スペイン側は戦争状態である事を知らなかったので、攻略に来たアメリ艦隊に礼砲を打とうとしました。
しかし、礼砲が発射できずに(即応用の砲弾も火薬もなかったらしい)、釈明に来たスペイン軍司令官をアメリ艦隊が捕虜にしたので、あっさりグアム島は陥落しました(ソース『ラバウル烈風空戦録』)。

このエピソードは本当でしょうか?
安井 賢一

  1.  https://www.y-history.net/appendix/wh1401-130.html には、事実であるように記されていますし、私も事実だと思っていました。
     
    hush


  2.  念のため、salute gun ”Guam” Spanish-American Warで検索してみたところ、 https://en.wikipedia.org/wiki/Capture_of_Guam にもそのようにしるされていました。
     
    hush


  3. hushさん、回答をありがとうございます。

    戦争がまだ牧歌的だったからのエピソードですね。
    安井 賢一



265 WWIにおいてドイツはペーター・シュトラッサ―司令の下、ドイツ飛行船体を駆使して英本土の戦略爆撃を行っていますが、この際の発進基地はデンマークのトンデルン基地となっていました。
はて、WWIにおいてはデンマークは確か中立国だったはず。この際の国際法上の取り扱いはどうなっていたのでしょうか?
またのちに英国海軍は空母フューリアスの艦載機でトンデルン基地を攻撃、壊滅させることに成功しますが、この場合も英国とデンマークの国際関係はどのように解釈されたのでしょうか?
備後ピート

  1.  当時はドイツ領です。
     
    hush


  2.  トンデルン(デンマーク名ティナー)は北シュレスヴィッヒに属しており、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン戦争(昨今はデンマーク戦争と呼ぶそうです)によりプロイセン領となり1920年にドイツの敗北によりデンマーク領となっています。
     したがって、当時はドイツ領です。

     愛のない書き込みでしたので、補足しておきます。
     
    hush


  3. いや、いつも迅速正確なご回答をいただいておりますのでその点では、感謝しかありません。当方の不明を反省するばかりでございいます。このたびも詳細な説明の愛ある回答をいただき、どうもありがとうございます。
    備後ピート



264 もしミッドウェー攻略作戦が成功したと仮定して、そこから陸攻隊でハワイ攻撃は無理だといわれていまが、実際、微細でも攻撃は無理でなんでしょうか。
トワイライト

  1. 爆装時の航続距離が全く足りませんし
    爆装を減じて航続距離を延ばす特殊改造を施し
    仮に到達できるようにしても鈍足の爆撃機単独で遠路を飛ばす
    メリットがありません、護衛戦闘機は当然ですがついていけません。
    軍功機能をマヒさせたい、燃料タンク等の破壊工作を行いたいのであれば
    潜水艦からの航空機を発射させ低空侵入が成功率は高いと思われますが
    最終的にはどちらの方法もレーダーで捕捉され撃墜がオチかと思いますし
    ミッドウェーが攻略できるという事は日本側機動部隊は
    壊滅せずという事になるのでしょうから、好きな方位から再度ハワイに空母で
    強襲をかけるほうがはるかに成功率も効率も高いと思います。
    五十六さんは最終的にはハワイを攻略する腹積もりだったようですが
    ミッドウェーは防衛は攻略前ですら困難だろうと目算されてましたので
    保持してても史実のガナルカナルが、攻略したミッドウェーに
    なるだけかと思いますのでハワイ空襲どころじゃない状況になると思います。
    ももんが


  2. 微力でも良いハワイ攻撃ならば、ミッドウェー占領前でも、K作戦として二式大艇で実施できてますね。



263  1939年9月にドイツ軍とソ連軍がポーランドに侵攻して第二次大戦がはじまりましたが、独ソ開戦まで1年半以上、太平洋戦争開始まで2年以上経過しています。
 ポーランド侵攻当時、独ソ戦や太平洋戦争を予想した人物はいたのでしょうか?
PIAT

  1.  現在(2022年10月)ロシアとウクライナの戦争では、ロシアが敗色濃厚となっており、核兵器の使用が懸念されています。
     私はなんとなく、世界中で大動乱が起こるような気がします。
     後世、「2022年2月に第三次大戦が始まった」と言われるのではないかと思い、質問いたしました。

    PIAT


  2. 先ず、ヒトラーはポーランドに宣戦布告をして侵攻する際
    英国が宣戦布告をしてくるのは想定外だったみたいです。
    かなり取り乱したと言う話です。
    但しナチスドイツとソ連は、いくら中立条約を結んでいても
    いずれ破綻するだろうと言う感じだったと思います。
    まさのり


  3. 質問文における「予想」の意味、あるいは定義が不明確と思われます。
    太平洋戦争ですが、満州事変勃発時に米大統領は対日水師発動を命じようとしたが、時の海軍長官が職をかけて反対したのと、英国が噛んでいるのを知ったので取りやめ、取合えづ重巡は条約の限度いっぱい建造することにしたのは有名です。フランスの降伏後は、日独伊、ビーシーフランスの4か国との戦争を念頭に両用艦隊計画のもとで海軍の大拡張に取り掛かりました。はっきりと、戦争を覚悟したというより開戦を決断したのは独ソ開戦後のようですが。
    日本においても、日独伊三国防共協定に反対した人は、将来の日米間の戦争につながることを恐れたのが一因です。はっきり書くなら、いつ戦争が勃発してもおかしくない状況でした。
    独ソ戦でも、将来何かが生じると恐れていた人は多数います。インターネットで調べても、ソ連はドイツの侵攻の危険性を十分認知しており、ある程度の準備はしていたようです。
    なお、現在のロシアによるウクライナへの進行でも、ロシアに接するいくつかの国は、御承知のように徴兵制を復活したり、復活しようとしたり、軍備の増強を図ったりしていました。
    結局、そのものずばりを予想した人は少ないでしょうが、かなりの確率で生じると予想した人は多数いるようです。
    あと、解答者のまさのり氏ですが、何故ヒトラーは英国が宣戦布告をしてこないと思っていたか、英仏両国はナチにのみ宣戦布告をし、ソ連にしなかったのかを調べても如何でしょうか。
    UK


  4.  予想した人はいるでしょう。「我が闘争」にはスラヴ民族を隷属させ、東方に領土を拡大して大ゲルマン帝国を建設すべきと明記されているからです。ロシア人はスラヴ民族でありますので、ポーランド侵攻と分割が独ソ不可侵条約の結果とはいえ、両国の蜜月が長いものではないと考えた人が多いでしょう。ただ、スターリンはそういう具申を無視しており、大粛清も手伝って、独ソ戦は完全な奇襲で始まっています。したがって、4にある「ソ連はドイツの侵攻の危険性を十分認知しており、ある程度の準備はしていた」というのは、どなたが書いているのだろうと思うのです。
     一方、太平洋戦争については難しいかもしれません。というのは、日独防共協定は1931年ですが、その3年後の39年に独ソ不可侵条約を締結してポーランドに侵攻しているからです。防共とは、統一協会の文鮮明の作った勝共連合の共と同じく、共産主義を意味します。つまり、ドイツは日本との協定を無視して、共産主義の総本山であるソ連と手を組んだわけです。「我が闘争」には日本を侮蔑する内容も散見されますので、ヒトラーらしいわけですが、そこから枢軸国対英米蘭中等連合国26ヶ国とその植民地との戦争に発展するというのは読みにくいでしょう。ただ、日中戦争の推移とそれによるアメリカの権益との衝突を考えるとあり得ると思ったでしょう。また、それだけ虚仮にされても40年に日独伊三国同盟を結び、北部に引き続き、ヴィシー政権下のヴェトナム南部に侵攻したことによりきな臭さを感じ取った人は多いでしょう。
     ところで、4の中で分からない点がいくつかあります。
    >「予想」の意味、あるいは定義が不明確と思われます
     その時点で独ソ開戦や日米の衝突を「予想」した者がいるかですよね。何の疑問もなく答えられるのですが、何か問題があるのでしょうか。
    >満州事変勃発時に米大統領は対日水師発動を命じようとしたが、時の海軍長官が職をかけて反対した
     1931年だとフーヴァーとチャールズ・F・アダムズですが、そういう話は存じません。スティムソン・ドクトリンのことでしたら、国務長官ですし、職を賭すような話があったかなと思うのです。もし、「有名です」がこれにかかっているのなら、笑われるだけのことかもしれませんが、出典を御教示いただければ幸いです。
    >戦争を覚悟したというより開戦を決断したのは独ソ開戦後のようです「が」
     最後の「」を付した「が」のかかり具合が分かりません。まさか、戦争を覚悟したから両洋艦隊法を可決したという訳ではないと思いますが。
    >日独伊三国防共協定に反対した人は、将来の日米間の戦争につながることを恐れたのが一因です
     巷間、そう伝えられていますが、若干の疑問があります。山本五十六はその中心人物ですが、「半年か一年の間は随分暴れてご覧に入れる」と述べたと近衛の手記にあります。対米戦争の回避を訴えた一節ですが、これだけを取り出すと短期決戦なら勝算ありと取られかねない文言です。また、大山事件にしても非武装の将校が軍服着用の上、サイドカーで中華民国軍が警備する飛行場のゲートに突入したわけですが、時の海軍大臣、次官は米内、山本です。「我が闘争」の原文を読んだ堀が、そのような国とと言い出したからかなと思っています。
    >何故ヒトラーは英国が宣戦布告をしてこないと思っていたか、英仏両国はナチにのみ宣戦布告をし、ソ連にしなかったのかを調べても如何でしょうか
     それで何が分かりますか。
     
    hush


  5. >その3年後の39年に独ソ不可侵条約を締結して
     8年後ですね。
     
    hush



262 軍事についてはほとんど知識がないのですがよろしくお願いします。
先日、YouTubeでアメリカ海軍を紹介する動画を視聴しました。
その動画でアメリカ海軍の構成員の人数が紹介されていたのですが、
☆大将9名
☆中将37名
☆少将61名
☆准将118名
☆大佐3067名
☆中佐6486名
☆少佐10267名
☆大尉19860名
☆中尉6846名
☆少尉7156名
☆准尉1900名
☆士官候補生4539名
☆下士官208088名
☆水兵75746名

このように紹介されていました。
軍隊の構成員の比率は軍事の知識がないわたしのイメージだと
おおよそピラミッド型になるような気がしていたのですが、
この構成員比率を見ていると必ずしもそうではないのでしょうか?
特に気になったのは、大尉の人数が中尉と少尉を足した人数より多いことです。
これに士官候補生を合わせてもほぼ同じ人数になります。
少佐の人数を注目して見ても、中尉、少尉よりもかなり人数が多いようです。
なぜこのような比率になるのでしょうか?
よくわからないのですが、少尉や中尉の退職率が高いとか、大尉から少佐に昇任する人数が少なくて、大尉のままで歩留まりしている、こんな感じになるのでしょうか?
なにしろ軍事知識がないもので見当違いな質問なのかもしれませんし、勘違いが多々ある可能性も有りますがよろしくお願いいたします。URLは一応把握していますが、貼って良いのかわからなかったので留意しました。
カーペンタリア

  1.  2017年のアメリカ軍全体の階級別人数一覧 https://www.factmonster.com/us/military/us-military-ranks を見ても同様の傾向がうかがえます。また、旧日本海軍の現役海軍将校名簿1926年度版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1905450 の兵科将校を見ますと、大将2ページ、中将2ページ、少将5ページ、大佐18ページ、中佐32ページ、少佐47ページ、大尉66ページ、中尉40ページ、少尉43ページ、少尉候補生7ページとなって、大尉の数が多いのが分かります。
     旧日本海軍の場合、ほとんどの人が大佐まで進級しますが、陸軍はそうではなく、アメリカもO-3からO-4へは半分程度しか昇進しないと書いてあるサイトがあります。
     また、 https://www.businessinsider.com/how-much-military-service-members-make-2019-2#o-1-38256-10 によると、アメリカ海軍のO-1(少尉)は2年間で自動的にO-2(中尉)になり、O-3(大尉)には3年間の勤務が必要です。そして、4年間の勤務後にO-4(少佐)になれますが、これは資格を得たというだけで、自動ではなれません。
     つまり、退役などがなければ、士官学校の卒業生や大学で士官教育コースを受けた者のほとんどは大尉になれますが、少佐になるには障壁がある上に、大尉のまま4年以上過ごす人が多いので、大尉の数が多いわけです。
     なお、O-3は、ものによってはLieutenant(中尉)とし、大尉の階級をなくした訳もありますが、一般的な訳に従いました。
     
    hush


  2. hushさん、おはようございます。質問にお答えくださりありがとうございます。
    リンク先、大変良いサイトを紹介頂き助かります。今は、翻訳もすぐできますし便利になりました。
    階級の昇任にはいくつかの決まり事があるのですね。少しずつ理解できればと思いました。
    大変有意義な勉強をさせていただきました。心よりお礼を申し上げます。
    ありがとうございました。
    カーペンタリア


  3. 医師、技術者、法務など能力や資格で軍に採用された人はピラミッド構造の構成外ではないでしょうか
    給与は階級内でのランクを上げれば済みますが階級は部門の上位クラスだとほぼ決められてるのが
    軍隊でしょうからそんな人たちが大尉あたりに集中しているのではないかと推測します


    tu


  4. >3
    >医師、技術者、法務など能力や資格で軍に採用された人はピラミッド構造の構成外ではないでしょうか
     旧日本海軍の場合、軍医中将、技術中将、法務中将を頂点とするピラミッド構造です。陸軍も同様かと思われます。
    >そんな人たちが
     そんな人たち=医師、技術者、法務等の人という意味でしたら間違いです。
     単に大尉辺りからの昇進の時間がかかったり、困難だからです。
     
    hush



261 なぜアメリカは大日本帝国に対してナチスドイツほど大規模詳細な戦史編纂をしなかったでのでしょうか?
りんごろう

  1.  質問は、アメリカがドイツに対するほどには日本との戦争を詳細に記録しなかったのかという意味なのでしょうか、それとも、アメリカはドイツほどには大規模かつ子細に戦史を残さなかったのはなぜという意味でしょうか。前者についてはそのようなことはないように思えますし、後者については国民性の違いでしょう。
     
    hush



260  壇ノ浦合戦で平家軍が大敗したため、多数の船(何百艘)が遺棄されたと思いますが、これらの船はどうなったのでしょうか。流れ着いたところの個人あるいは村落が勝手に私有物にしたのでしょうか、あるいは九州方面の最高指揮官である範頼が指示を出し、全てを集約した後で何らかの処理をしたのでしょうか。
電気戦艦

  1. 呼び水程度に、素人の想像ですが造船するというのは、手間費用がかかりますので、普通に使えそうな船は地元民の漁師等や源氏側の水軍が再利用じゃないでしょうか?
    後年の大英帝国海軍も拿捕帆船には拿捕賞金を払って再艤装して、編入させてたくらいですから
    まさのり


  2. まさのり様 どうもありがとうございました。おっしゃる通り船は今も昔も高価なものでしたから、誰かがまた利用したことは確かだと思います。問題は、見つけた人が、これは幸いとばかりに、自分のものにしたのか、あるいは、権力が介入して再配分方法を決めたのか、ということです。何か文書がないと今となってはわからないとは思うのですが。
    電気戦艦


  3. この時期はまだまだ情報・管理が行き届いてないと思うので、個人或いは地域の長や豪族等が略奪していった
    という感じだと思います。時期はだいぶ後になりますが
    戦国時代や関ヶ原では戦が終わった後に、金目の物を強奪する地元民等が居たようでしたから
    まさのり


  4.  ただ、使い道があったのかが疑問です。

     漁船に使うには大きすぎるし無駄な設備もあるし、旅行文化があるわけでもないので旅客業は成立しない、海上輸送に適した船だったかどうかとなるとこれまた疑問。地元豪族なら既に自前の船を持っているでしょうから、自分の船より新しい船なら手に入れたかもしれませんが、そうすると今度は古い船が要らなくなる‥‥‥それでいて当時の船なんてメンテナンスしなければあっという間に使えなくなってしまう代物ですから
    おうる


  5. おうる様 新しい視点ありがとうございました。この合戦に参加したのは、両軍とも各地で活動していた水軍でした。水軍は海上通行料を経済基盤としていました。ということは、瀬戸内海を初め西日本海域での海運は思うより大規模だったのでしょう。平家についていた水軍の遺棄船舶は源氏についた水軍にはそのまま使えるでしょう。漁民にとって使い勝手がいいかどうかはわかりません。当時の漁の形式によるのでしょうが、今すぐには何とも言えません。
    電気戦艦


  6. まさのり様  >3.
    確かに陸上の戦闘の場合は、近在の農民が武器などを収集し、専門の武器商人に売るのが普通だったと聞きます。またいいものがあれば、自分のものにもしたのでしょう。戦闘で死んだ兵士の遺体埋葬なども同じ人たちがやったとすれば、手間賃として道具をもらうのは当然かもしれません。ただこの部分は私の単なる憶測です。
    電気戦艦


  7. 難破船とその積み荷の所有権は発見者にある、というのが江戸時代以前の不文律でした。出港した船が強風で帆が破れたので港に引き返したら、港の人々が、帆が破れたから難破船だ、だから積み荷は発見者のものだと船に押しかけ、根こそぎ奪っていた事例もあるようです。まぁ、これは船員と港の人々の間にトラブルがあったので、港の人々の仕返しなのではと想像します。「難破船とその積み荷の所有権は発見者にある。」というルールはヨーロッパでもそうだったそうです。イギリスでは、難破船の生存者も発見者の所有物、すなわち奴隷にされた事例があります。
    あと、船は解体すれば材木になります。建物の建築や補修に使ってもよいし、売ってもよい。傷んだ部分は燃料として使えます。昔の人にとって木は現代の鉄と石油ほどの価値があります。
    青龍


  8.  壇ノ浦で使われた船がどのようなものであったかは、ほとんど分かっていません。ただ、「平家物語」に「源氏の舟は三千余艘、平家の舟は千余艘、唐船せうせうあひまじれり」とありますので、平家側には日宋貿易に使われたような大型船がまじってはいたようです。しかし、それ以外の船は和船だろうと推定はできても、兵船なのか、漁船なのかも分かりません。おそらく、搔き集められたものでしょうから、種々雑多なものであったと思うばかりです。
     一方、「吾妻鏡」のほうは「平家五百余艘分三手(平家五百余艘を三手に分け)」とあるだけで、戦の具合もほとんど書かれていません。もちろん、明治になって出てきた潮流の変化云々もありません。「及午剋平氏終敗傾(午剋に及び、平氏終に敗れ傾く)」とあるばかりです。では、合戦図を見ればわかるかというと、壇ノ浦にしろ、屋島にしろ、残っている図は16世紀のもので、平安末期のものではありません。
     ただ、平家側として九州の山鹿、松浦の名が出ておりますが、うち、松浦党は遣明貿易の護衛を室町幕府から任されています。山鹿のほうは没官になっておりますが、松浦党が勢力を維持できたということは、自らの船を持ち帰れたのではないかという想定もできます。
     というのは、源氏は西国に興味が薄かったからです。
     源氏は、東国を自らの地としており、平家の勢力の強かった三関より西は朝廷のものと考えていたようです。当時の戦いは殲滅戦であったとは思えず、大勢が決したのちは逃れるに任された船も多かったのではないのでしょうか。
     推測を重ねれば、いくらでも出せるのでしょうが、多少とも根拠らしいものを示しながらとなると、この程度しか出せません。
     
    hush


  9. 青龍様 >7.
     貴重な情報 ありがとうございました。そういう時代もあったのですね。平安時代末期では、船を作るための板材は、まだ大型の鋸がなかったので、クサビで元の丸太を割った後で、チョウナを用いて表面をはつって用意しました。結構な価値があったでしょう。

    hush様 >8.
     ありがとうございました。言われて気づいたのですが、殲滅戦ではなかったというのは、そうだと思います。平家の船団は4個で組織されていましたが、そのうちの粟田重能に率いられるグループが寝返りました(最初からのつもりのようです)。ですから、このグループは源氏から攻撃されるわけはなく、そのまま四国に帰って行ったのでしょう。そのほか四国や九州の山間部に逃げ落ちた平家がいるのは確かです。

    電気戦艦



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