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戦史、歴史
Ans.Q

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*ここは新規質問投稿欄です。質問への回答ではありません。
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203 呉淞(ウースン)上陸作戦における日本軍の戦死者って、本当に一万人なのでしょうか。
パンジャンドラム

  1.  https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89_%E6%88%A6%E9%97%98
     こちらには、「9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった」と記されています。したがって、上海派遣軍2ヶ師団全体で2640名が死亡、7569名が負傷となります。その合計の死傷者数が1万209名を誤って記した人がいたのかなと思います。
     
    hush



202 日米交渉の最後通告(対米覚書)が真珠湾攻撃の後になってしまったのはあまりに有名です。
これが原因でだまし討ちの汚名を着せられ、アメリカの世論がまとまり、戦意が高揚したのが事実だとすると、その影響は大きく、ちょっと考えると関係者は切腹物ではないかとも思えるのですが、外務省は内部調査の結果、不問に付したようです。

それはさておき、質問ですが、この不手際に対して海軍は抗議など何等かのアクションを起こしたのでしょうか? 山本長官は通告の時間について念を押したともいわれております。 また何もしていないとするとそれは何故でしょうか? 言上げしない伝統精神でしょうか。
ご教示いただけますと幸いです。
とおり

  1. 事実かどうかは分かりませんが、通説では現場担当者のミスとされるこの事件ですが、本国からの打電そのものが遅かったせいで遅れたという説も聞いた事が有ります。
    それが事実であれば上、外務省上層部などのミスが原因で遅れて、責任を取りたくないのでウヤムヤにしてしまったのではないでしょうか?
    きっど


  2. どうもです。

    対米覚書についてはこちらに詳細があります。
    https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html

    送電の遅れ云々ですが、ここの他あちこちに故意説があります。
    http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-0724.html

    しかし、よく知られているように、覚書は十四部に分割され、うち十三部までは前日までに送られ、訂正電と最後の十四部も真珠湾攻撃の遅くとも十時間前には送られています。機密保持のため、おっしゃるとおり十四部は遅らされたんですが、外交官は英語のプロであり、英文タイプも打てるはずでしょうから(仮に全部打ち直したとしても、ダブルスペースで十六ページ程度しかない)、間に合わないというのは全くおかしいのです。現地の落ち度以外の何物でもないと思います。そもそもが事前の別電で、指示する時刻に手交できるよう手抜かりのないように準備せよと訓令していたわけですし。

    まあ、その手の陰謀説はどうでも良いのですが・・・
    とおり


  3. 外交官が英文タイプを出来るでしょうからというところが間違っているんだけどね(笑)

    そんな簡単に出来たらタイピストという専門職はいませんよ。
    じゃんご



201 敗戦まで、日本は、大日本帝国でした。海軍は、帝国海軍でした。
ところで、日本海海戦で、Z旗が掲げられました。
そのZ旗には「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていました。
質問は、帝国ノ興廃・・・ではなく、なぜ、皇国ノ興廃・・・だったのですか?

park123

  1.  このあたり、起草者が何を思ってそうしたのかということが明確になっていない以上、想像以外に方法はないのですが、この国ということを強調したかったのではないかと思っております。たとえば、帝国と言えば、イギリスも帝国ですし、大韓帝国、大清帝国という言い方もありました。これに対して、皇国は天皇の治める国という意味ですので、天皇が道教に由来する言葉であったとしても、通常は日本以外の他の国を指すことはありえません。

     http://www.hodaka-kenich.com/Journalist/2014/04/10030645.php
     また、上記の記事が正しいかどうかは存じませんが、高間省三という人が「皇国の興廃は今日の戦いにありです」と手紙に書いているという話があります。それをもとに加藤友三郎が発案したのが、問題の文面ではないかと言うのです。もっとも、ここに出てくる「忠勇亀鑑」に高間は登場しますが、この文面は出てきません。そして、その手紙がいつ、誰宛に書かれたものかということも分かりませんが、高間は幕末に死亡しており、その頃、帝国という言葉は一般に膾炙したものではなかったと思っております。
     もっとも、帝国という語は、江戸時代に、英語かオランダ語か存じませんが、インペリウムの訳として使われています。ただし、これは英学者か蘭学者が使用したもので、その上、インペリウムは古代ローマのような民族を超えて統治された巨大な国家のことであり、国号として使用されるのは後のことです。
     と同時に、江戸時代は、さまざまな大きさの家が治める国の緩やかな連合体でしかありませんでしたから、日本という国は存在しませんでした。その存在していない統一国家としての日本をどう呼ぶかと考えた際に、王国、または皇国と呼ぶのが、尊皇(王)論者の高間には妥当だったと考えることができます。
     もっとも、二番目に書いたほうは、その手紙の真偽を確認できておりませんので、もしもそれが正しかったら、帝国という言葉が知られていなかったからという考え方もできるというだけです。
     
    hush


  2. 早速のご回答ありがとうございました。
    帝国は一般的な国のことですが、皇国は、
    <この国ということを強調したかった>
    ということですね。この我々が生活している所、を訴えたかったのでしょうね。
    また、<帝国という言葉は一般に膾炙したものではなかった>
    のですね。日本という言葉も、まだ熟していなかった、のですね。
    そして、皇国の興廃・・・は、秋山真之が考え出した言葉、とは断定できないのですね。高間省三を模している、可能性があるのですね。
    言葉一つで、歴史の深み・豊かさが身にしみました。

    park123


  3. >2
     鄭重な御礼感謝申し上げます。
     念のため書いておきますと、「帝国という言葉は一般に膾炙したものではなかった」にかかる「その頃」は、幕末です。したがって、日本海海戦の時代ではありません。
     開国以降、多くの外来語が入ってきまして、それを邦訳する必要が生じました。その中に、英語で申せばEmpireという言葉があり、それを帝国と訳したのが、明治になって根付いたということになります。そして、それはImperiumの訳語としての帝国とは別に発生したものと思われます。
     それは、帝国を「ていこく」と漢音で読むからです。しかし、江戸時代においては、帝は、隋の煬帝のように、「たい」と読みます。これは、明治になって役人が武士から儒学者に移り、彼等が漢音の使い手だったことによります。したがって、「ていこく」という言葉が一般のものになったのは、明治になってからということになります。
     もっとも、厳密に申せば、1789年という早い時期にオランダ語のKeizerdomの訳として帝国が使われています。また、日米修好通商条約において大日本帝国と記したのも事実です。しかし、それを一般の人々が知ることはなかったはずです。統一国家としての日本という概念が希薄だったのですから、余計です。
     さらに厳密なことを申せば、皇国と称された国は、日本以外にもあります。たとえば、一時期のブルガリアやロシアです。しかし、そのようなことを知っている人は少ないでしょうし、もちろん、高間省三の死後の話です。
     したがって、高間の書簡が原典であったということが事実なら、彼の語彙の中には帝国という言葉がなかったからということになるわけです。
     
    hush


  4. 再度のご回答恐れ入ります。
    Z旗のもとなったかもしれない文章を書いた高橋は、帝国という言葉を持っていなかった、のですね。
    一方、<、「ていこく」という言葉が一般のものになったのは、明治になってから>ですね。
    したがって、日本海戦のころは、皇国を使うのが、自然な成行きだった、ですね。
    歴史は複雑であり、その経緯を解きほぐせる人は、楽しいのでしょうね。

    park123



200 中世の戦争について書かれたサイトか書籍を紹介して頂けないでしょうか?
その時の布陣や戦略が知りたいのですが、カンネーの戦いのような大勝利よりも、泥沼化した戦いや、小規模の戦いについても詳しく知りたいです。
デスコン

誰か答えて下さい。

199 こんにちは。
最近気になったのですが、珊瑚海海戦において日本海軍とアメリカ海軍の艦載機搭乗員の戦死者について教えていただけないでしょうか?
みかん段ボール

誰か答えて下さい。

198 カルタゴとローマが戦った『カンネーの会戦』について質問させていただきます。

wikipediaによろと、カルタゴ軍5万人とローマ軍7万人が戦い、完全に包囲されたローマ兵はほとんどが戦死し、「一会戦での戦死者が5万人を超えた例は第一次大戦までなかった」と書いてありました。

近代戦では、包囲されて補給を絶たれたら降伏するか、(日本軍のように)玉砕するしかありませんが、刀槍で戦っていた古代戦ならば、包囲されても、密集隊列を組んで一人一殺すれば、一方的な殺戮にはならないと思います。

包囲されてパニックになったことも考えられますが、歴戦のローマ軍がそう簡単にパニックになるとも思えません(塩野七生に影響されすぎでしょうか?)

なぜ、一方的な殺戮になったかご教示願います。

PIAT

  1.  そのWikipediaの「カンナエ(カンネー)の戦い」には「ローマの敗因は包囲されたことによりパニック状態になり」とありますので、パニックが原因ではなかったかと思っております。
     そして、ローマの重装歩兵は、槍を多用したギリシャのそれと違って投槍と剣を使っていましたが、盾は大型であり、圧死者まで出るような状況の中では、振り返ることすら困難であったと思われます。
     しかも、後方のみならず、四囲から攻撃される状況の中では、パニックに陥らなかったら不思議だと思うのです。
     あと、ローマとハンニバルの戦闘意識の違いというのも、大きいのではないかと思っております。
     ローマ軍は戦争捕虜を奴隷として売買しておりました。したがって、相手を殺すより捕虜にしたほうが得です。
     これに対し、カルタゴ側は、降伏した野営地の警備兵1万を捕虜にしていますので、敵は殲滅すべきという意識のみではなかったとは思いますが、寡兵ですので、その気概を持って戦わざるを得なかったと愚考致しております。
     これが、ローマ軍が6万もの死者を出した原因の可能性があると思いますが、何分、素人ですもので間違っているかもしれません。
     
    hush


  2. 「歴戦」の軍だからこそ、包囲殲滅戦の恐ろしさをしっていたのではないでしょうか?
    この戦い以前にも記録に残っていない小規模の戦いで包囲戦はあったでしょうし、する側・される側で過去に経験していて、そして、言い伝えられていてもおかしくないのでは?
    普段はROM


  3. hush様  普段はROM様 回答ありがとうございます。

    私には「歴戦のローマ軍は簡単にはパニックにならない」という思い込みがあったと思います。
    『カンネーの会戦』より前にも、エパミノンダスやアレクサンダー大王は敵を包囲して大勝を収めており、ローマ軍も蛮族相手に小規模な包囲戦をしていて、包囲された恐ろしさを知っていたという説は説得力がありますね。

    『孫子』には「敵を完全に包囲すると死に物狂いで戦うから、逃げ道を残しておけ」と書いてあるそうですが、実戦ではそうではないようですね。

    そもそも、不思議に思うのですが、2200年も昔の会戦であり、勝者は後に滅亡し、敗者はほとんど全滅しているのに、何で会戦の様子がくわしくわかるのでしょうか?
    日本ならば、ほんの400年前の『桶狭間の合戦』の様子で論争があったり、最近まで『長篠の合戦の鉄砲三段撃ち』が信じられているのに。

    生き残った将軍の手記でも残されているのでしょうか?
    PIAT


  4.  英語版WikipediaのBattle of Cannaeの脚注によると、戦死者数6万という数字はポリュビオスの「歴史」に出てくるそうです。信長の場合は、死後に毀誉褒貶を含む多くの伝記が出ていて史実が捻じ曲げられています。しかし、第2次ポエニ戦争の場合は、同時代人のポリュビオスがおり、小スキピオの家庭教師だった関係で、正確と思われる話が残ったということのようです。
     なお、英文ですので、私は読む気は起こりませんが、ポリュビオスの「歴史」のカンナエ(カンネー)の戦いの部分はネット上で読めます。御興味がありましたら、どうぞ。
     http://sourcebooks.fordham.edu/halsall/ancient/polybius-cannae.asp
     
    hush


  5. 私見ですが、逃げ道を・・、については味方の損害が大きくなるから追撃戦で被害を抑えつつ戦果を拡大せよ、と言っているのではないでしょうか?
    状況・条件次第でいくらでも変わると孫子だか呉子だかも言っていたような・・・
    普段はROM


  6. 記憶のみ、半分は小説からの印象なので控えておりましたが、個人的に説得力のある説だと思えるので紹介します。

    カンネー会戦のローマ軍は、中央突破を意図してマニプルス隊の間隔を詰めていました。この状態で左右からカルタゴ兵に圧迫され、満員電車の様に密集してしまい、その時点で後方をハンニバルの騎兵に塞がれ、歴戦のローマ兵も一瞬立ち止まり、完全にラッシュアワー状態で身動きが取れなくなります。剣も槍も振るう余地さえない団子状態。中央で圧死するものさえいたと。

    文字通り手も足も出せない状態に追い込まれたのです。
    タンジェント


  7. hush 様
    長年の疑問に答えていただき、ありがとうございました。

    普段はROM様 タンジェント様 回答ありがとうございました。
    カンネーの会戦がカルタゴ軍の完勝になった要因は、ローマ軍の密集体形が完成し、中央突破される寸前に包囲が完成したところにあるようですね。
    カルタゴの騎兵隊が後ろに回り込むタイミングが早すぎれば、ローマ軍は散開して乱戦になったでしょうし、遅すぎれば、中央突破されたカルタゴ歩兵隊は壊乱したかもしれません。

    後知恵で考えれば、敵が後方に回り込んでいることに気づかなかったローマ軍指揮官はアホに思えますが、平原の大会戦で的確に戦況を知り、絶妙のタイミングで包囲を完成させたところがハンニバルの名将たる所以と思いました。


    PIAT



197 戦争中、アメリカ人の蔑称は「アメ公」でしたが、イギリス人は何だったのでしょうか。
大英帝国

  1.  イギリス人単独に対する蔑称は、日本語では思いつきません。
     これは日英同盟等を通じて、イギリスは日本人が憧憬を感じても、侮蔑する対象と考えられなかったことに由来するものと思われます。
     一方、アメ公という蔑称は、大正末期から昭和初期にかけてに登場するのですが、これは、ワシントン海軍軍縮条約、排日移民法の成立と軌を一にします。
     これに対し、対英感情の悪化するのは、日中戦争時に、イギリスが援蒋ルートを支援したあたりからですが、アメリカと一緒にした鬼畜米英という言葉が登場するのは、戦争中期あたりからのようです。
     戦争末期には米英にけもの偏がつく表記も出てきますが、マレーやビルマ(ミャンマー)等で交戦しながらも、イギリス軍が銃後の意識の中に登場することは、アメリカよりもずっと少なかったと思われます。
     戦後、おそらくはアメ公に範をとって、ズベ公、ポリ公、さらには先公というような蔑称が登場しますが、イギリス人に対するそれが出てこなかったのは、憧憬よりも、一般の関心の薄さだったのかもしれません。
     
    hush


  2. hushさん、ご回答有り難うございます。
    銃後では鬼畜米英でしたが、前線では北方、中国、太平洋、それぞれに敵の蔑称がありました。同様に、マレーやビルマでも英軍の蔑称があった筈だと思うのですが、戦記を読んでも出てきません。どなたかご存じの方、ご教示くださると有り難いです。
    大英帝国


  3.  インパールで伯父が2人死んでいたり、高校時代の教師がビルマで捕虜になっていたりしますので、多少の関心はあって、いくらか読んだことはありますが、イギリス兵に対する蔑称は記憶にありません。したがって、一部で使用されていた隠語のようなものはあったかもしれませんが、人口に膾炙したものはなかったのではないかと思っております。
     また、当時の日本人の意識から考えると、イギリス兵よりも低く見られていたであろう現地兵に対しても、土兵、土民兵というような呼称しかありませんが、これは他の地域の現地兵に対しても使用されています。もっとも、これらの言葉は、現在では差別語になっておりますが、1970年代ぐらいまではそういう意識なしに使用されています。
     実際、ABCD各国の一つであるオランダに対しても蔑称は聞いたことはなく、北方におけるロシア、中国、そして、太平洋におけるアメリカほどの脅威を感じていなかった結果ではないかと愚考致しております。
     
    hush


  4. hushさん、重ねて有り難うございます。
    大英帝国


  5.  中公新書(中公文庫)会田雄次著『アーロン収容所』に於いて「イングリ」と書いてあるので、その「イングリ」がイギリス人に対する蔑称だったと思われます。
    板野ファン


  6. 戦記を二、三当たってみたのですが、イングリという言葉は、元々ビルマ人やインド人がイギリス人の事をそう呼んでいたようで、単にそれを受け継いだだけにも見えます。

    「アーロン収容所」はどこか紛れ込んでしまって確認できないですが、場所・時間によっては蔑称的に使われていたのかもしれませんね。
    とおり


  7.  「アーロン収容所」は、まだ、見つけておりませんが、「イングリ」との組み合わせで検索を行って、どのような記載であったかは、概ね分かりました。
     6でとおり様が仰られているように、ビルマ(ミャンマー)でイギリス人を呼ぶ言い方のようで、蔑称ではありません。現地では英語を発音する際、末尾を省略する傾向があり(Seat beltはシッベッと発音される)、Englishをそのように発音するというだけのようです。
     また、検索で分かった文面で判断する限りでは、会田雄次も蔑称として使用している感じはありません。単に、現地でそのように言うので、そのように記載したというだけのようです。
     
    hush


  8.  >とおりさん
     「場所・時間によっては蔑称的に使われてたかもしれません」。まさに、そのとおりだと思いますが、あえて書き込みました。おまけに「アーロン収容所」はウン十年前に書かれた本なので、その頃に現代のような蔑称等差別語に関する概念があったとは、ちょっと(かなり?)思いにくいです。
    板野ファン



196 古代ローマでは紀元前1世紀のマリウスの軍制改革によって、兵の装備を軍が支給するようになっています。
中国では兵馬俑の像からすると秦王朝の頃には既に軍の装備を統一していたようですが、中国において歩兵の個人兵装を統一した(判明している範囲で)最も古い例はいつ頃になるのでしょうか?
おうる

  1. おうる殿、貴君はあちこちで質問しているが、回答を貰っても反応しないことが多すぎないか?
    ZZZZ


  2.  荒神谷遺跡から同じような銅剣が358本出てきたのは有名です。他の地方勢力との戦争に使える純然たる武器は、製造元(日本なら造兵司、兵庫寮の管理する職工たち)が当然有力者の管理下にあるはずです。自弁させるにせよ「統一されていない武器」を将兵が自由に選べるようになったのは、逆にずいぶん後のことではないかと思いますよ。
    マイソフ


  3. 直接の回答ではなく、さらに記憶モードですが。
    兵馬俑から推測するのは危険かと思われます。というのも、あのテラコッタウォリァーズは顔は一つ一つ違うらしいのですが胴体他は型取り量産品らしいのです。よって、統一装備だから型から同じもの(胴体に付いてる鎧・剣など)を沢山つくってオーケーだったのか、省略して量産品をつかったのか不明だからです。
    どうも、兵一人に一体作らせて納めさせたらしく(費用は兵が負担、殉死させられるよりマシ)一般兵は高額の負担に耐えられず、顔 オーダーメイド、他 量産品、で済ませていたらしいです。
    がちょう


  4. 返答が遅くなりましたが・・・

    >>1
    理由が2つあります。
    1つは以前「AnsQで貰った回答にはお礼をするべきかどうか?」を問うたことがあり、その際に「AnsQはデータベース化を意図したものであり、その意味からは単なるお礼だけなら必要ない。ただ、貰った回答を質問者なりに纏める等する場合はしてもらった方がよい」という趣旨の返事をもらいました。なので、複数の回答があった場合は質問者の責任として最後に纏めるようにコメントし、その中でお礼を述べています。が、回答が一つだけでまとめる必要が無かったり、更なる回答が欲しい場合はあえて何もコメントしないようにしています。
    もう一つは個人的な事情です。今年に入って近しい身内に不幸があり、春ごろからは仕事が忙しくなり、初夏から秋口にかけて長期出張、秋に入って出張の終わりと同時に転勤&転勤に伴う引っ越しで多忙だったのが理由です。

    >>2
    武器を量産できるほどの豪族という存在が成立する前の段階であっても、地方間の争いはあったと考えるのが自然かと思います。そうした原始世界(と言っていいかどうかは分かりませんが)では武器は個々人で、武器として使えそうな生活用品を用意するものではないでしょうか?
    日本に限って言えば、文字も青銅器も鉄器もほぼ同時期に大陸からもたらされたことを考えれば、歴史が始まった頃には既に武器は量産した物を兵士に持たせるようになっていた可能性は否定しません。

    >>3
    それは初めて知りました。秦の時代にも武装は統一されていなかった可能性があるのですね。

    皆さん回答ありがとうございました。
    おうる



195 最近、山梨・宇垣軍縮に興味を引かれているのですが、当時存在していた27個野砲兵連隊のうち5個は2個大隊で編成されていたとありましたが、これはどの連隊でしょうか?
調べた限りではこれが分からず書き込みました。
よろしくお願いいたします。
フレドリクス

誰か答えて下さい。

194  もしかしたら艦船のコーナーに投稿すべきかもしれませんが、銅の取引相場について質問です。

 18世紀に英海軍が艦船の喫水下を銅板で覆うようになってから、木造船の銅板被覆は急速に広まりましたが、このことは当時の銅の相場に影響を与えたのでしょうか?
おうる

  1.  逆に、1865年から1870年にかけてアメリカでの銅相場はポンドあたり30せんとから19セントまで急落し、その原因のひとつは銅板被覆木造船の鋼製船への切り替わり、もうひとつは南米銅山の開発による供給増大だと書いてある本があります。

    https://books.google.co.jp/books?id=bnXXES5-LRcC&pg=PA34&lpg=PA34&dq=copper+price+wooden+ship&source=bl&ots=uVzDLYcrfb&sig=sKWV88KcSzMPxWQwQG4laqu_odU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj_3sqlxZzTAhUQOrwKHUhLANQQ6AEIMTAC#v=onepage&q=copper%20price%20wooden%20ship&f=false


     立ち上がり時期についてのWikipediaの記述によると、ちょうどそのころ新しい銅山がウェールズなどで操業を始め、相対的に安い銅が使えるようになったと書いています。また同項目の後ろのほうに民間船での採用比率も載っていますが軍艦ほど高くはなく、銅供給と銅相場に銅板被覆の普及(の遅れ)が引きずられたような印象を受けます。
    https://en.wikipedia.org/wiki/Copper_sheathing
    マイソフ


  2. 回答ありがとうございます。

    逆に低下していたというのは意外でした。
    おうる


  3.  相関と因果は違うと言うことです。銅相場が供給側の事情で下がっている事情があったから主要軍艦に銅被覆を施す予算措置が認められたのであり、それがある程度民間船舶にも広がって使われる銅の総量が増えると、それが一気に不要となることが銅相場を下落させる要因のひとつとして働きました。
    マイソフ


  4. 質問は、18世紀の話です。回答は、19世紀後半の事実です。何か、チグハグしていませんか。
    UK


  5.  質問の範囲を越えた回答をしているのは確かです。

    ・18世紀、銅相場は新鉱山の登場など供給側の要因で軟化傾向にあった。
    ・この軟化傾向を背景として、高額の新規出費となる軍艦の銅板被覆はイギリス政府から裁可され、ほどなく大型艦艇に普及した。
    ・民間船舶での採用はこれより遅れ、最も普及した時期でも30%ほどであった。
    ・19世紀、鋼製船への転換と銅鉱山のさらに新たな開発が重なり、需要側・供給側両方の要因が同方向に働いて銅相場は低下した。

     以上の事実をもとに、私はこのように考えました。

     18世紀に銅相場が上昇したという事実はなく、「銅板被覆の普及が銅相場を高騰させたという史実はあるか」という質問に対する答えは「ノー」の2文字で済む。一方、19世紀に「銅板被覆需要の消滅が銅相場を下落させた」という事実も、単一の要因ではないが認められる。このふたつの、一見矛盾する事実は、「銅板被覆を当初採用したのは大型軍艦に限られ、民間船の銅板被覆はさらなる同価格低下を待って徐々に進んだので当初は銅価格高騰が観察できなかったが、民間船への普及が進み銅板被覆のための銅需要が銅需要に占める割合が19世紀には高くなっていたため、当時の観察者が鋼製船への転換を銅相場下落の要因のひとつに数えた」と考えれば筋が通ります。もとの質問は18世紀に関するものですが、「銅板被覆需要の銅相場に対する影響の有無」と広義にとらえれば、「18世紀には「まだ」なかったが量的な問題であり、一般的に影響しないと考えるのは誤りである」というのが私の答えです。

    マイソフ



193 江戸期において国持ち・四品以上などの大名は徳川家より松平の称号を賜姓されていますよね そこで疑問なのですが細川家はなぜ除外されたのでしょうか? 細川家は鎌倉・室町以来の名門の血筋ですし国持ちの大身です どうしても納得のいく理由がわからず困っています
ツバメ号

  1.  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%93%81%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%98%87%E9%80%B2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%AE%B6%E4%B8%80%E8%A6%A7
     こちらで見ると、細川家以外にも、藤堂家とか、他にもありますね。
     
    hush


  2. wikiは調べて関連項目などにも目を通したつもりでしたが見落としがあったようですね 申し訳ありません 記事紹介大変助かりました 考察を進めることが出来ます hushさん ありがとうございます
    ツバメ号



192 珊瑚海戦の際のアメリカ空母部隊の動きについてです。ヨークタウン隊とレキシントン隊は5月1日早朝に、空母戦開始前の最初の合同をしますが、その後分離して給油に移ります。その後かなり両隊の距離が開いてしまい、その結果としてヨークタウン単独でのツラギ空襲となります。なぜ相互に連絡が難しくなるほど(視界内に止まるとか方法はあったと思いますが)分離したのでしょうか。

アッシュ

誰か答えて下さい。

191 過去の議論ボードを見ていたら、鈴二号作戦という作戦がありましたが、これはどういう作戦や計画なのでしょうか。
レイテ島に対する増援作戦というのはなんとなく解るのですが、詳細の内容が知りたいです
二号とあるからには、鈴一号作戦や鈴三号作戦なども計画されていたのでしょうか

戦史叢書を読んでみたのですが(南西方面海軍作戦とか)、詳細の内容についてはどうも見つける事が出来ませんでした。
もし自分が読み損ねただけでしたら本当にすみません
天ヶ崎

  1. アジ歴 C14020653400 参照。
    BUN


  2. 紹介ありがとうございます
    読んでみる事にします
    天ヶ崎



190 ハプスブルグ家について質問いたします。
スペイン・ハプスブルグ家は1700年のカルロス2世の死をもって断絶しています。
近親結婚が続いたことにより、王族が虚弱になってしまったことが原因だそうですが、そこで質問です。
@ スペイン・ハプスブルグと同じく近親結婚をつづけていたのに、オーストリア・ハプスブルグ家は現在も続いています。また、マリア=テレジアのように頑健な皇帝や、フランツ・ヨゼフのような長命な皇帝もいます。両家の違いはどこにあったのでしょうか?
Aカール5世を始めとして、ハプスブルグ家では下あごが突き出た顔をした人物が多かった(歴代スペイン王は全員)のに、時代が新しくなると、オーストリア・ハプスブルグでは下顎が目立たなくなります。何か理由があるのでしょうか?
PIAT

  1.  御質問に答えがつかないのは、一つは、ここが軍事の掲示板であっても、世界史の掲示板ではないということ、もう一つは、近親婚を繰り返したと言っても、そのすべての関係を把握するのが難しいということがあろうかと思います。
     ただ、御質問にあります名や王朝名は艦名にもなっておりますので、私なりに調べてみましたが、考えてみると、近親婚とはいえ、別の遺伝子も入ってきているわけです。たとえば、マリア=テレジアの曽祖父フェルディナント3世は、結婚相手のフランツ1世シュテファンの祖父でもあるのですが、マリア・テレジアの母親はブラウンシュヴァイク・リューネブルク家の出です。
     また、オーストリアのハプスブルク家の場合、マリア・テレジアが娘のマリー・アントワネットをフランス王家に嫁がせる等、各国と友好関係を結んでおりますので、スペインよりも外来の血が混じってきております。それでも、ルドルフ皇太子のように虚弱な体質の人も生まれていますが、@については、他の遺伝子がスペインよりも入る要素が強かったからというのも一因だろうと思っております。
     Aについても、メンデルの分離の法則から考えても、遺伝子上大いにあり得ることなのですが、さらにいろいろな家系の血が流れてきたオーストリアの場合、特に不思議なことではないと思われます。
     
    hush


  2. hush様 お礼が遅れて申し訳ありません。

    確かに板違いの質問でしたが、失礼ながら、この板は異様に博識な方が多いので質問させていただきました。
    詳細な回答をいただき、ありがとうございました。

    PIAT



189 ビルマの戦いにおいて質問があります。某Wikipediaでは、ビルマの戦いにおいて国民党軍が10万名戦死したとかかれてますが、この情報源はいったいどこの情報なんでしょうか?
んふぅ

誰か答えて下さい。

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管理者 F4U : Ans.Q v1.40 [Shigeto Nakazawa]