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127 ゲシュタポのユダヤ人課長だったアドルフ・アイヒマンSS中佐は敗戦後に国外へ逃亡し、ブエノスアイレスに潜伏していたところ、1960年にイスラエルの情報機関に拉致されてイスラエルへ連行され、裁判のうえ、1962年に絞首刑に処されました。

さて、ブエノスアイレスと在住でメルセデス・ベンツの工場に勤務する平凡な市民であるリカルド・クレメントをアイヒマンである見破ったのは、誰だったのでしょうか?
PIAT

  1. 私の知る限り、3つの説があります。

    @サイモン・ウィーゼンタール説
     ベストセラー小説『オデッサ・ファイル』には、「ウィゼンタールがクレメントの正体をアイヒマンだと見破り、イスラエル情報機関へ通報した」と書いてありました。
    ウィゼンタールはナチスの戦犯を追跡するハンターとして有名な人物で、映画『ブラジルから来た少年』で名優ローレンス・オリヴィエ扮するナチハンターのモデルのようです。

    A西ドイツの検事 フリッツ・バウアー説
    2017年に日本で公開された映画『アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男』によると、アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているとの手紙を受け取ったバウアー検事は、アイヒマンを西ドイツで裁判にかけようとするがとするが、各方面から妨害を受けたため、反逆罪に問われる危険があったにもかかわらず、イスラエルへ情報提供したとのことでした。
    この映画はドイツで多数の映画賞を受けています。

    Bイスラエルの独自調査説
    朝日新聞日曜版に『世界花の旅』という連載があり、アスターの花について次のような記事がありました。
    ○ イスラエル情報機関は戦後アイヒマンの妻子の監視を続けており、妻子がアルゼンチンに移住した後も監視を続けた。
    ○ アイヒマンの妻子はリカルド・クレメントなる人物と同居をしたが、子供達はクレメントを「リカルドおじさん」と呼び、顔もアイヒマンとは違っていた。
    ○ 通常クレメントが花を買うことはなかったが、ある日クレメントがアイヒマン夫人の好きなアスターの花を買って来たので、不思議に思った監視員が資料を調べると、その日がアイヒマン夫妻の結婚記念日であることがわかり、イスラエル政府はクレメントがアイヒマンであると 確信した。

    @説については、イスラエル人スパイ小説家のマイケル・バー・ゾウハーが『復讐者たち』の中で、「ウィーゼンタールの宣伝に過ぎない」と否定していました。(立ち読み)だったので、これ以上は覚えていません) 

    A説については、新しい情報ですが、ドイツ(人および政府)は悪事はすべてナチスのせいにして、ナチスに反する人や行為をやたらと持ち上げる傾向があるように思うので、まだ判断がつきません。

    B説については、記者がブエノスアイレスを訪問し、かつてアイヒマン一家が住んでいた家の借家人にインタビューしています。
    インタビュー中に車で通りかかった中年女性について借家人が「あの人が家主のアイヒマンさんです」と述べた記述もあり、アスターの花をきっかけにアイヒマンの正体がばれたことについては、説得力がありました。

    PIAT



126 日露戦争旅順攻撃中、旅順が外と伝書鳩で連絡しているらしいことから、長岡少将の発案で、鷹匠がハトを妨害する試みがありました。これの陸軍側の直接の担当者は誰だったのでしょうか?

誰か答えて下さい。

125 すみません、次のエピソードの持ち主は雷帝イヴァンであってますか?

ロシア皇帝(←たしか、もしかしたら他の国の「王様」だったかも)はゴキブリが大嫌い。
街のレストランで1軒だけゴキブリのいない店があり、皇帝はそこがお気に入り。
ある日、店の主人に尋ねた「この店にゴキブリがいないのはどうしてだ?」
「陛下、ゴキブリが寄り付かなくなる仕掛けがあるのです。」
皇帝は喜んだ。それを真似すれば宮殿からもゴキブリが居なくなるに違いない。
「ぜひ教えてほしい。自分も真似したい」
「陛下、あのようにしておけばゴキブリは恐れて寄り付かなくなります」
店の主人が指さした場所を見た途端、皇帝は悲鳴を上げて店から逃げ出した。
そこには釘で柱に打ち付けられたゴキブリが死にきれずに足を動かしてもがく姿があった。
おうる

  1. ここは、軍事に関する質問をするボードです。
    UK


  2. ↑は、教〇か元〇師なんだろうか。 あーやだやだ。

    おうるさま、ピョートル大帝の逸話とするサイトがあります。
    ここの方がけっこう調べておられます。
    4式射撃装置


  3. >>2
    ありがとうございます。

    確かにピョートル大帝だったようです。
    ロシア皇帝の誰かだとは思っていたのですが、イヴァンで検索しても出てこないのでわからなくなっていました。
    助かりました。
    おうる


  4.  北海道にもいないゴキブリが、さらに寒いロシアにいるわけないでしょうし、フランス革命後にようやく登場するレストランが、ピョートルの時代にあるとは思えませんので、調べましたら、やはり違うようです。
     2の方の書き方からすると、わざとアドレスをお書きにならなかったのでしょうが、一応、書いておきます。

     アドレスを入れるとエラーになるので、ピョートル ゴキブリで検索してみてください。
     
    hush


  5. >>4
    はい、その通りでどうやら日本で創作されたエピソードのようですね。

    私も北海道にいないゴキブリがロシアにいるのか?と思いましたが、どうやらロシアにゴキブリはいるそうです。ロシア南部には昔からいて(ロシア南部原産の種もある)北部にはいなかったのですが、近代以降の集合住宅&セントラルヒーティングというロシアの住居環境がゴキブリの生息を可能にしたようです。(おそらく同様の理由から現在ではグリーンランドやアイスランドでも生息が確認されているそうです。)
    北海道にゴキブリがいなかったのも20世紀までの話で、青函トンネルと温暖化の影響で現在では北海道でも生息しているそうです。

    話がそれましたのでここまでにしたいと思います。
    おうる



124 イスラエルのバラク元首相について質問いたします。

バラク氏は元々特殊部隊の隊長で、1972年のサベナ航空ハイジャック事件や1973年のベイルート奇襲作戦では、得意の変装を生かして活躍し、「イスラエルで最も多くの勲章を受けた兵士」と言われています。
ところで、1976年のエンテベ空港人質救出作戦では、バラク氏はどのような役割を果たしたのでしょうか?
当時の人口が静岡県程度のイスラエルが総力を挙げた奇襲作戦にバラク氏が参加しないとは考えにくいのですが、ウィキペディアにも載っていません。
PIAT

  1.  Barak was also a key architect of the June 1976 Operation Entebbeと英語版のWikipediaに書かれていますので、何らかの役割は持ったようです。
     
    hush


  2. hush様 回答をいただき、ありがとうございます。

    「a key architect」という表現は面白いですね。
    architectには「建築家」という意味の外に、「設計者」「企画者」という意味があるようです。
    作戦立案に関わったのでしょうか。
    PIAT


  3.  鄭重な御礼を賜り恐縮致しております。
     ただ、 https://en.wikipedia.org/wiki/Ehud_Barak に書いてあることをそのまま転記しただけですので、よくは存じませんが、彼が立案した計画に基づいて実施されたということではないかと思っております。
     
    hush



123 およそ半年ぶりに人物について質問です。
実は私、二式飛行艇について調べて居て、「玉利義男」大尉なる人物の名前を見たのですが、私が調べて範囲では経歴がイマイチ分かりません。とりあえず終戦後も生存していたこと、海兵68期であることは分かったのですが、所属部隊や本人経歴と参加した作戦すべてについてどなたか知っている人は居ないでしょうか?
みかん段ボール

  1. 経歴などは全部わかりますが、ここに書くのははばかられます。http://naval.way-nifty.com/から私信できいてください。
    たく



122 日本海軍の艦爆偵察員について質問です。
赤城艦爆隊の西山強二飛曹
加賀艦爆隊の吉川克己飛曹長
同じく加賀艦爆隊の中島米吉飛曹長

上記の搭乗員の顛末についてご存知の方がいらっしゃれば、よろしければ教えていただけないでしょうか。

みかん段ボール

  1. 顛末とはどういう意味でしょうか。
    終戦時生存されてたかどうかということでしょうか。
    戦後の消息は答えられないと思いますが。
    平山


  2. 西山さんは19.10.14六三四空彗星隊で台湾沖航空戦で戦死
    吉川さんは攻三(私の知らないところで転勤がなければ)で生存
    中島さんは19.6.19マリアナ沖海戦で隼鷹から飛行隊長阿部善次大尉の偵察員として発艦、ロタに不時着し、終戦まで残留、のち復員生還
    平山



121 こんにちは! お世話になります! ヨーゼフ・”ゼップ”・ディートリヒ武装親衛隊上級大将のニックネーム「ゼップ」の由来を解説して頂けませんか? wikipediaでは記事がなく困ってます 宜しくお願いします
Ad.シュペー

  1.  ゼップSeppはヨーゼフJosephの短縮形です。英語の場合、ジョゼフJosephはジョーJo、JoeまたはジョーイJoeyとなります。
     
    hush


  2. こんにちは! こんなに早く回答がよせられびっくりです 解りやすく解説していただきありがとうございます!
    Ad.シュペー



120 第2次世界大戦中はホモ行為はどの程度容認されていたのでしょうか?
テスト

  1.  どこの国の話なのか、また、誰の容認なのか、そして、それを知ってどうするのかという疑問があります。と同時に、社会人ならばまずされないような侮蔑的な書き方をされておられるので、LGBTの人を何人も知っていながら、同性愛に多少は偏見を持っている私でも、気になっております。
     それはともかくとして、それが日本の話で、国家が容認していたかどうかという視点で申せば(個人が容認していたかどうかというのは、答えようがありませんので)、合意の上での行為ならば、法的には問題ありません。
     もともと、男色というのは、ゼウスとガニメデなどもそうですが、古代ギリシャやローマにおいてはごく普通のことでした。それが、キリスト教やイスラム教が禁止するようになって変化するのですが、オスカー・ワイルドのように処罰されるようになったのは、イギリスでは19世紀になってからです。
     そして、日本は男色の面では特異な地域であり、少なくとも奈良時代に遡る歴史がありますし、宣教師が男色をやめさせようとして大内義隆の不興を買ったという話があります。また、男色を行っていた人のリストには、武田信玄、織田信長、徳川家康、伊達政宗等、誰でも知っているような戦国大名の名が並びますし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉で知られる「葉隠」も男色の心得を書き連ねています。そして、井原西鶴の「好色一代男」にも、女3742人小人725人と関係したいう人物が主人公ですが、この小人とは男色のことで、庶民の間でも通常のことでした。
     幕末においては薩摩で盛んであったようですが、西洋の文化に触れて急速に変化し1872年に刑法の罪状となります。しかし、男色そのものを禁じたわけではなく、1882年の刑法改正で罪状自体がなくなります。法的には問題ないと記したのはこの意味です。
     ただし、それが合意でなかった場合、別の問題になるでしょうが、軍隊のように上官の命令が絶対という社会の中では、泣き寝入りということになるのだろうと思います。
     
    hush


  2. はいどーも


    またよろしくね
    てすと



119 この質問は削除されました
管理者


118 昭和天皇の皇太子時代の欧州訪問のエピソードに「テーブルマナーがなっていなかったので香取艦上で教えた」というのがありますが、それまでの生活で学ぶ機会・教える人はいなかったのでしょうか?さらに言えば、明治・大正天皇はどうだったのでしょうか?
バツ

  1.  それまで教える人はいなかったと思います。礼法というと、小笠原流等が有名ですが、これは武家のものですし、一般に広まったのは明治以降に学校教育で女子教育の一環として教えるようになってからです。しかも、これは臣下の作法であり、君主のそれではありません。もちろん、有職故実に基づく宮中の礼儀はあるでしょうが、これも臣下の礼です。そして、どちらにしろ、洋食のテーブル・マナーを教えるためものではありません。
     また、皇太子のために設けられた御学問所の御用掛一覧を眺めても、行儀作法の担当者がおりません。一番近いのは倫理の杉浦重剛でしょうが、彼は欧米で学んでいるものの、神経衰弱となり、そこから国粋主義者になった人物であり、欧米流のエチケットやマナーを教えるかというと疑問です。また、総裁である東郷平八郎は8年間もイギリスに留学していましたが、寡黙な人物であり、戦後、昭和天皇が記者から東郷の印象を聞かれて、「何の印象もない」と答えたほどです(艦隊派に担ぎ上げられて軍政に干渉した人物ですので、割り引いて考える必要はあるのでしょうが)。
     30年近く昔、職場のブラジル人数人と食事に行ったことがありますが、元気な連中だったのに、食器の音を立てないのには感心しました。今は、日本生まれの人も多く、女性より先に部屋に入ってくる者もおりますが、基本的なマナーは家庭でしつけられているようです。特に、食器の音を立てないというのは、基本中の基本ですから、それを守らないと社会から相手にしてもらえなくなります。
     しかし、日本でも、中国でも、それは行儀悪いと捉えられても、そこまでのことはありません。実際、洋画を日本で放送する場合、食事のシーンの際には、現在は存じませんが、食器の触れ合う音を入れていました。でないと、あまりに不自然に思われると考えられたからです。しかも、御質問にあります皇太子の洋行については、一大反対運動が生じたように、皇室の一員、それも次代の天皇になるべき人物が海外に出かけることは想定されていませんでした。
     そういう中で、訪問の2年前に御学問所御用掛となり、その後20年近く皇太子に仕えた山本信次郎(兵26)少将(当時は大佐)の場合は、少々、違う背景がありました。クリスチャンだったからです。しかも、暁星中学校時代に信仰を持ち、寺の檀家総代だった父親を3度にわたって説得しての入信ですから、かなりのものです。当然、欧米に対する理解は他の者と大きく異なっていたのです。
     したがって、他の者が、気づかなかった、あるいは、気づいても遠慮して諫言しなかった皇太子のテーブル・マナーには、深く憂慮したはずです。これでは、欧米諸国では相手にされなくなると思ったはずなのです。しかし、それを皆の前で言うわけにいきません。しかし、彼は、フランス語の担当であったがゆえに、皇太子と少人数の中で言える立場にあり、しかも、香取という軍艦の中という特殊な環境でありましたので、余計に、直接、諫めることが可能だったのです。
     もっとも、このことは、1942年の山本の死とともに葬り去られるはずだったと思います。しかし、1993年に御子息が父親の伝記を出版し、さらに児島襄が著作で取り上げたことにより、広く知られることになります。亡父が戦争のことを話し出したのが平成になってからであることを考えると、昭和天皇の死去により、もういいだろうということになったのだろうと思っております。
     皇太子、マナーで検索を掛けますと、このことより、現在の皇太子のことの方が出てきて、ちょっとと思いますが、日本ではあまり問題にならないこと、このこともそうですが、たとえば人前で泥酔すること等は、階級次第では、とんでもないことと考えられます。ただ、それでバッシングするような社会ではなく、門戸を閉ざす方向になるので、多くの高官が留学体験を持ちながら、気づかなかった、あるいは、忘れてしまうことが多いのではないかと思います。したがいまして、明治、大正天皇においても、テーブル・マナーはあまり変わらないのではと考えております。
     長文、失礼致しました。
     
    hush


  2.  詳しい考察をありがとうございます。海軍少佐でもあるのに西洋式のマナーの教育は無かったのか?、とか、それまでにも国内外の要人との会食はあったはずなのに、と考えていました。
    バツ


  3. この場合のマナーは高級ホテルや高級レストランでのマナーみたいな一般常識ではなく外交儀礼としての公式晩餐会や当時のヨーロッパの王侯貴族や国家元首等とのパーティーでの応対や振る舞い方です。

    元々、天皇や皇族は人前で物を食べるのはタブーです。戦後、昭和天皇が訪米の時にアメリカ大統領主催の公式晩餐会での食事の様子を日本の宮内庁と外務省が撮影しないように事前に申し入れていたのにアメリカのTV局が放送したことに日本は強く抗議したほどです。
    現天皇も学習院時代(戦中疎開も含めて)食事は必ずひとり別室で取りました。
    そのような状況の上、戦前の日本には天皇主催の公式晩餐会を開かねばならないような列強の元首は一人も来日していません。
    外国の要人と言ってもせいぜい大使・特使くらいなので拝謁する程度であとは政治家の役目でしょう。
    そしてもし会食等があったとしても日本国内では現人神なので臣下や格下の者としか接しません。
    握手どころかお辞儀、会釈すら天皇は臣下にせず常に胸を張っていなければなりません。

    しかし訪欧となれば相手は国王や国家元首です。いくら天皇の名代とはいえ皇太子は元首ではありません。
    大英帝国の国王と対等ではありません。もちろん英王室は同盟国の皇太子なので礼をもって迎えてくれるでしょうが、皇太子も目上の国王に対して失礼のないようにしなければなりません。
    皇太子は自分より目上の人との公式晩餐会等は初めてだし、そのような自分が1歩へりくだるようなマナーを天皇や皇太子に教えるような失礼な側近もいなかったのは当然でしょう。

    パーティーの席で王妃や王女から会釈をされたら皇太子は会釈を返すのか?言葉で挨拶するだけで頭は決して下げないのか?
    テーブルに着座する時は国王と同時か?少し後か? それとも国王に「どうぞおかけください」とうながされたら国王より先に座ってもよいのか?
    晩餐会の前に国王から皇太子に歓迎の挨拶があり、その返礼の挨拶はどのように何分くらい立ってするのか、着座でよいのか?
    食事中も黙りこくってただひたすら食べるわけにもいかないでしょう。もちろん口に物を入れて話すなど論外ですが、では話すタイミングは?
    国王には皇太子の方からどの程度話しかけてもよいのか? 話題は国王に合わせるだけでよいか、どの程度食べるか、残すか。もし口に物を入れている瞬間に同席者から話しかけられたらうなずくだけでよいのか(これは ほとんど咀嚼しなくてよい程に小さく切って口に入れれば良いだけの事ですが)。
    例を上げれば切りがないのですが高級レストランで食事を楽しむのとは全く別であることはお分かりいただけると思います。

    外交のもてなしとして食事の席をもうける事は古今東西ある事ですが階層が上がるほど腹を満たすとか食事を楽しむよりも儀礼要素が強くなるようです。


    パスタは箸で


  4.  「明治天皇記」によると、1872年に明治天皇は初めて西洋料理を食べ、翌年にはナイフとフォークの正式な使い方を練習した。また、同年、来日したイタリア皇帝の甥に対してホストとしてフランス料理で饗応した。その後、各国の王族や貴族、政府首脳と、数えきれないほど食事を共にした。
     以上のようなことが、
    http://www.mic.jp/fun/shokuiku/shokuiku002.html
    に書かれております。
     したがいまして、少なくとも明治天皇は西洋式のマナーを習っていたことになりますので、一部訂正します。
     
    hush


  5. >3
     1922年にこの皇太子訪英の答礼としてイギリス皇太子(のちのエドワード8世、ウィンザー公)が、1935年には満州国皇帝が訪日しておりますが、宮中晩餐会は開かれなかったのでしょうか。
     
    hush


  6. >5 「列強の元首は一人も」ですよ。
    いくら相手が要人であっても天皇や皇太子が日本国内において対等あるいは格上の人物と会食した事はありません。
    日本が礼を尽くしてもてなしたからといって決して天皇に対して対等な振る舞いのできる立場の人たちではありませんね。

    英皇太子や満州皇帝のもてなしについては調べていませんが、今回の質問以降の話しで皇太子に関しては英宮中マナーを身につけた後なので問題はないかと。
    ただ満州皇帝は実権のない傀儡で、世間に独立国家であるように繕うため見えるところでは天皇がもてなしていますが、軍部や政府は満州皇帝と天皇が対等などとは思っていないので、「日本の天皇は人前で食事をしないのが伝統」と言って首相あたりと晩餐会をした可能性はないでしょうか。

    パスタは箸で


  7. >6
     非公式ですがタイ(当時はシャム)国王が訪日されていますね。
     http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01006418100
     上記によると、宮中晩餐とあります。
     
    hush


  8. >元々、天皇や皇族は人前で物を食べるのはタブーです
     天皇、陪食で検索すると一杯実例が出てまいります。
     そもそも、君主が一人で食事するというのは、武家の伝統にはあるかも知れませんが、宮家にはないと思われます。というのは、神事の後に直会を戴くように、神との食事が重視されたからです。そして、天皇というのは「神」とされていましたから、共飲共食は当然のこととなります。実際、公家の日記や有職故実の類には、宴会の際の席次や礼儀作法が載っておりますが、もちろん、天皇在席の上の陪食の話です。
     日本文化の「伝統」とされるものは、たとえば二礼二拍一礼のように、明治政府によって定められたものも多いのですが、このことは継承されたようで、4で御案内申し上げたように、海外要人との天皇主催の宮中晩餐会が多数行われております。
     なお、今回、御質問にありますテーブル・マナー云々は、外交儀礼としてのそれではなく、一般常識としてのマナーです。山本信次郎が香取艦上での陪食の際に、食器の音を立てる者がいるので、そっと窺ったところ、発生源が皇太子だったというエピソードがあるからです。これは、海軍関係ではよく知られた話ですので、あえて書かなかっただけです。
     また、満洲国皇帝を招いての宮中晩餐会も、もちろん、主催者は天皇ですので、欠席するわけがありません。むしろ、晩餐会は各国大使等を招いており、両国の関係が良好であるということを示す場ですので、燕の巣を用いた料理を出すほどに凝ったものであり、それに欠席するというのは逆効果です。したがって、汪兆銘が来日した際にも同様の晩餐会が行われたはずです。
     
    hush



117 サンケイ文庫『ヨーロッパで最も危険な男』を読んでいると、
PIAT

  1. 文章作成中に書き込んでしまったので、続きを書きます。

    ドイツ兵にアメリカ兵の軍服を着せて連合軍に送り込んだ容疑で、スコルツェニーSS中佐が戦犯裁判にかけられた際、ヨゥ・トーマス英空軍中佐が「自分たちもドイツ兵の偽装をした」と述べて弁護したと書いてありました。
    『オデッサ・ファイル』には、ヨゥ・トーマス中佐がSSに捕まり、局部に電気を流す拷問を受けたと書いてありました。
    ヨゥ・トーマス中佐とはどのような人物だったのでしょうか?
    英語版ウィキペディアには記事がありますが、英語が読めないので、情報提供をよろしくお願いします。
    PIAT


  2. フォレスト・フレデリック。エドワード・ヨゥ=トーマスは、SOEのエージェント。
    SOEは「特殊作戦執行部」として日本語wikiに項目があります。

    SOEは大戦中にはSISをその内部に含んででおり、SISはいわゆるMI6ですから、ジェームズ・ボンドの先輩的な感じでしょうか。


  3. 片 様 遅くなりましたが、回答ありがとうございます。

    『ナヴァロンの要塞』の原作を読んでいると、主人公マロリー大尉は自分の所属をSOEと話していますが、マロリーのような破壊工作に従事していたのでしょうか?

    具体的な作戦内容が分かれば幸いです。
    PIAT


  4. 英語版wikiを機械翻訳してみると、フランスの抵抗運動への支援がその担当で、自由フランスBCRA(情報行動中央局)との連絡将校になり、フランスへも何度からパラシュート降下しているらしくありますね。そこで、レジスタンスの破壊工作に同行したのではないでしょうか。


  5. 片 様   翻訳までしていただき、ありがとうございます。

    まるで名作『深夜プラス1』の主人公カントンがしていた任務のようですね。
    ひょっとしたら、ヨゥ・トーマス中佐がカントンのモデルかもしれませんね。
    PIAT



116 朝鮮戦争で、米空軍トップエースのジョセフ・ L・マッコーネル大尉を撃墜したとの説もある、中共義勇軍のパイロットのJian,Dao-Ping 蒋道平氏の軍歴や戦績(撃墜数など)とともに、交戦時までの総飛行時間や入隊時の学歴などを教えてください。

同じく朝鮮戦争のダブルエースのハロルド・E・フィッシャー少佐を撃墜した、Han, De-Cai 韓コ彩 中将の学歴が小学校1年間だけで、飛行時間も初練・中練・実戦機とでの100時間足らずで出撃したと知ってビックリしたからです。
佐久間多聞

誰か答えて下さい。

115 どうして金正恩の正確な生年月日は不明なのでしょうか?
やむちゃ

  1. 軍事でなく政治を扱う場所で質問して下さい。
    UK



114 海上自衛隊護衛艦やまゆき、ひえいの艦長を務められた?西信義氏のお名前は、何と読まれるのでしょうか。
御教示戴ければ幸甚に存じます。
hush

  1.  なお、?の部分は号という文字から口を取り除いたもので、漢和辞典によると「こう」と読むとありますが、異体字の可能性もあります。

    hush


  2. wikipediaの ひえい やまゆき の歴代艦長の項目に葛西信義さまのお名前があります。
    ”かさい”さま ではないでしょうか。
    たーぼふぁん


  3.  Wikipediaの編集履歴を見ますと、今月になってから「葛」の字に訂正されていますね。
     これが、「かさい」と読むのか、「かっさい」と読むのかは分かりませんが、この字が葛の異体字である可能性はありますね。
     ずっと回答がございませんでしたので、あきらめかけていたのですが、お蔭で助かりました。ありがとうございます。
     
    hush


  4. 実はこのお題には私も興味を覚え、苗字辞典のようなサイトを始め、さんざっぱら調べてまわったのですが、ついに見つけられませんでした。
    この字ってJIS第四水準なんですよね。まあ異字体なら字義と関係なく何でもありかもしれませんので、わかりませんが、私は原音に忠実に「コウサイ」ではないかと思っていました(→なまって「カサイ」?)辞令も探したのですが、そもそもカナが振っていなかったと記憶しています。

    ttp://huusennarare.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-beeb.html
    みなさんここはご覧になっているかもしれませんが、ご参考までに。
    とおり


  5. >4
     お手数を掛けたようで申し訳なく思っております。
     この苗字は、サイトはもちろん、「日本姓氏大辞典」という約13万の苗字を集めた本にも載っていませんでした。このため、実際に知っておられる方がおられないかと思って、質問させて戴いたような次第です。それが、今回、
    たーぼふぁん様の御尽力により知りえたことは非常な喜びでありました。
     実のところ、苗字については30年以上調べてきたつもりでしたが、この苗字は初めてであり、改めて奥深さを知らされたと思っています。また、苗字についても、縷々書きたいこともございますが、ミリタリー系の掲示板ですので、このあたりで終了としたいと思っております。
     御協力戴いた方々には、深甚なる感謝を申し上げます。
     
    hush


  6.  つらつら考えていて、これは可西ではないかと思うようになりました。
     http://www.benricho.org/kana/ka.html
     こちらのページにある可の変体仮名が、環境依存文字であるため?でしか表示されない文字と形状が似ているからです。
     この推定が正しければ、本来は可西であるが、苗字を登録した際に可の字が崩されていたため、?という文字になったという推定ができます。
     しかし、日常生活の中では読んでもらえないので、通常は一般的な葛西を使用していたとすれば、Wikipediaでそのように変更された理由も判明します。
     そして、この推定が正しければ、読み方は「かさい」であろうと思います。ネット情報によれば、可西は全国に80人ほどおられるようですが、読み方はこれしかないからです。
     
    hush



113 瑞鶴の搭乗員について伺いたいです。『日本海軍戦闘機隊』における主要戦没戦闘機パイロット一覧によりますと、高岡松太郎一飛兵の戦死日付は昭和17年8月24日との記載があり、主要部隊歴・そのほかに補足する備考欄に「加賀、母艦と共に沈没」と書いてあります。そこで分からないところがあって、瑞鶴は17年8月24日にまだ健在で、その内容は一致していないと取られています。しかも瑞鶴の17年8月24日の飛行機隊戦闘行動調書も確認したところ、高岡松太郎一飛兵の戦死などの記録も見つかっていないです。という状況で、実際状況は謎みたいです。もし何か心当たりがあれば、ご指導をいただけますと幸いです。
しん

  1. 確かに酣燈社版の古い『日本海軍戦闘機隊』の巻末資料では瑞鶴での戦死のような記載になっていますが、大日本絵画版の『日本海軍戦闘機隊【戦歴と航空隊史話】』の巻末資料では龍驤に修正されています。
    なお、ミッドウェーまでは加賀に乗艦していたことは、加賀の飛行機隊行動調書で確認できます。ミッドウェー後、加賀艦戦隊から龍驤艦戦隊へは分隊長の飯塚大尉をはじめ、阪東誠三飛曹や高岡一飛など数人が異動していますね。
    平山


  2. 言い忘れましたが、高岡一飛は龍驤被弾時に母艦で戦死したもののようで、二次ソロモン戦時の龍驤行動調書には名前が出てきませんが、元整備員(確か玉手兵曹)の手記にそれらしい記述があります。
    平山


  3. >2
    玉手修司兵曹の方ではなくて、斎藤義雄さん(元整備員)の「空母龍驤の奮迅」<上・下>でした。
    平山



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管理者 F4U : Ans.Q v1.40 [Shigeto Nakazawa]