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680 アメリカ本土を爆撃したと言われる零式小型水偵を搭載した伊25(あたり)の航続距離はどの程度だったのですか?

  1. 伊19型(乙型)は注水タンクまで目一杯重油を溜め込み、足の踏み場も無いぐらい食料を積み込むと14000浬、3ヶ月の作戦行動が可能でした。


  2. カタログデータによると巡潜乙型の航続距離は、16ノットで14000海里(水上)となっています。ちなみに伊25は1942年8月15日に横須賀出港、三陸沖からアリューシャン列島の南にかけての大圏コースをとり約2週間でアメリカ西岸600海里の地点に進出、それ以降は昼間は潜航して夜間は浮上走行で本土に接近、しかし9月に入っての西海岸は波が荒く発進ができずに夜間に浮上しても海岸に平行して行ったり来たりを繰り返し、9月8日


  3. (続き)9月8日の日没後に浮上すると波が静まってきたので、翌日の夜明け前にようやく藤田信雄兵曹長搭乗の零式小型水偵を発艦させる事が出来ました。この時投弾したのは30キロ焼夷弾(中に520個の焼夷弾子が詰まっていて爆発すると100m四方にばらまかれる)が2発でした。成功後、伊25は藤田機が発見した大型商船を攻撃しようとしている最中に敵機の攻撃で損傷、その後も沿岸で敵の商船を狙いましたがはかばかしくないため、再度爆撃を行って帰投しています。


  4. 余談ですが、藤田機が2回目の攻撃後に母艦の伊25との会合に失敗、いったん戻って探すうちに損傷した伊25の重油の帯を発見し、それを辿って無事帰還する事が出来たというエピソードがあります。よくもまあ敵に発見されなかったものです。またそんな油の帯を引きながら平気で敵本土沿岸で作戦実行したものだと半分呆れてしまいます。


  5. このような「損傷時の漏油」は「静粛性の低さ」「潜航深度の浅さ」と並んで、日本潜水艦の生存率が低かった理由の一つとなっています。つまり日本潜水艦は敵の攻撃を受けると容易に外殻を破損して内部の重油をまき散らして敵に目印を与えてしまう訳です。原因は全溶接の米独潜に対し日本の潜水艦は溶接(及び溶接可能な高張力鋼)の技術が遅れていた事と複殻式で内殻の外に重油を積んでいた事が挙げられます。前者はそのまま潜航深度の問題にも直結しています。


  6. 昭和18年夏頃には外殻に関しては全溶接が可能となり、「漏油防止装置」(自動懸垂装置より実戦でははるかに有益だったと言われる)も実用化されたため、漏湯の問題に関してはそれ以降の建造艦では一応の解決もみました。ちなみに同じ昭和18年にドイツから\C型のUボート2隻と技術者10人がもたらされ、この時に溶接可能な高張力鋼St−52の技術も入手しましたが、結局国産化はできませんでした。



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