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大戦中対ソ援助としてベーリング海峡をアメリカの航空機が飛行してソ連に送られたり(最大時200機/月以上)ウラジオストクの港に月50万t物資が陸揚げされたりしていたそうそうですが北極海経由の対ソ援助と浦塩経由の対ソ援助、どのくらい のペースでおくられたのでしょうか? 中立国経由などもあったら教えてください。 太 |
- 米国からの援助物資はシベリア経由(全体量の約1/2)、イラン経由(全体量の約1/4)、殺人航路こと
ムルマンスク/アルハンゲルスク経由(全体量の約1/4)で送られてます。
大塚好古
- 意外とシベリア経由が多いですね。どのような航路で輸送されたのだろうか?北千島とカムチャツカの間を抜けてオホーツク海に入りサハリンの北を回ってウラジオかハバロフスクに着いたのだろうか?日本海軍はシベリアルートを遮断する気は無かったのか(ソ連との関係がまずくなることを恐れて?)、それともそのような余裕が無かっただけでしょうか?
アリエフ
- 対ソ援助妨害は陸軍のほうが熱心で沿海州占領計画などもあったそうですがこれ以上戦線を広げてどうしろっていうんだという妥当な意見が通って計画がつぶれたそうです。むしろ米軍がそのために千島列島に上陸やらなんやらするのでは?という危惧があったのでほぼ敗戦までかなりの兵力が北海道、千島列島に存在しました。
航空兵力も対抗すべき米軍機に対して比較的多かったようで北樺太のオハ油田(確か昭和19年ぐらいまで採掘権が日本にあったはず)が近いので燃料の問題も多少緩かったようです。A20などそれなりに落としている。(糧秣、弾薬、燃料など実際より残り少なくいうのはどこでも同じですが悪天候でそれほど多く飛んだといえなかったからかもしれません)
太
- シベリア経由の場合は米西海岸を出港後宗谷海峡を経てウラジオに入る、というのが基本航路だったようです。
当時日米は交戦状態にありましたが、ソビエト商船を使うことによって日本海軍による拿捕が行われないよう
配慮されています。恐らく本作戦は第二次大戦でソビエト海軍と商船隊が活躍した唯一の事例であると
思われます(汗)。
大塚好古