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江戸時代に鉄砲が発展・進化しなかったのは何故でしょう? そしてそのくせ鉄砲術なんて伝統芸能ができちまったのは何故でしょう? 世界一、二を争う鉄砲大国だったのに・・・ 紅葉饅頭 |
- それは、平和だったからでしょう。
はしもっちゃん
- でも、剣術は廃れなかったじゃないですか。そーゆーいみでは刀鍛冶も鉄砲鍛冶も
両方居たでしょうし・・・
紅葉饅頭
- 大阪の陣で徳川家康が真田幸村にあわややられそうになったため、
槍隊の増強が決定したなんて説を、某歴史群像で読んだような記憶が…
イ
- 紅葉饅頭さん、日本史の時間に「入り鉄砲出女」という言葉を聞いたことはないですか?徳川幕府によって銃の所有・流通は厳しく規制され、特に江戸に流入する鉄砲に対しては(反乱抑止のため)非常に厳しい監査体制が取られたのです。ちなみに「出女」とは江戸に居住している外様大名の家族(つまり人質です)が脱出することを取り締まっていた事です。
>でも、剣術は廃れなかったじゃないですか。
実戦兵器としての日本刀の寿命はもともと鎌倉時代後期に終わっており、戦国の頃には槍・長刀などリーチの長い武器と集団戦法に取って代わられていました。戦争の手段としての日本刀による一対一の斬り合いというのは、江戸時代においてむしろ時代錯誤とも言えるのですが、そういう物が「剣道」という求道的技能に発達していったことが即ち江戸時代の平和さを示していると思います。
メカニックとしての鉄砲が進化せず「鉄砲術」という形式的技能に流れていったのも同じ理由ではないでしょうか?
ささき
- その理由は、”徳川幕府の鎖国政策の為、諸外国からの技術輸入が途絶えたからで、銃の発達も進展しませんでした。”
と言う簡単な答えでは終わりません。 !!!!
別の理由が存在し、日本での火縄銃(あえて”和銃”と言う。)は独自に(それなりに!!)発展しています。
「徳川の鎖国政策により、近代兵器への発展が停止したのである。正確には鉄砲の威力の本質を知る
徳川幕府により、停止させられたというべきだろう。」「この反面、和銃は火縄銃としては
世界で比類のない高級な者が輩出している。その実用性はともかくとして、姿態は優に美術品として、
また性能は火縄式としての極限の域に達したと言ってよい。」
和銃全てが近代銃への脱皮を果たさず明治を迎えたのではなく、例えば、オランダ製空気銃をヒントに、
国友藤兵衛の手になる20連発空気銃”早打気砲”が完成しています。
銃床部が蓄気室、銃身上に20発入り弾倉。3cmの桜板を貫通したとの事です。
以上 ”別冊GUN” 昭和56年 国際出版 より抜粋及び要約しました。
又、他書では--
「幕府は林羅山(1583~1657)その他の学者を使って、大名の関心を鉄砲からそらせる為
の思想宣伝もおこなっている。飛道具は武士道に反する卑怯なものだとか、身分いやしい足軽が
あつかうもので武士が手にするものではないと言う思想は、彼によって創始された。
この思想はかなりの成功を収めたとみてよい。」
又、フリントロックに関しての記述。
「(フリントロックは)16世紀後半から200年余、西洋で広くもちいられた。
日本へも早くから紹介されたが、日本の火打石は火花が小さくて不発になりやすい。
このためほとんど普及していない。日本では幕末になって、火縄式からいきなり雷管式に移った。と見てよい。」
以上は岩波新書 NO.750 ”火縄銃から黒船まで” 奥村正二 著よりの抜粋です。
この本は古いですが中々いい本で、当時の火縄銃の製造方法(銃身や ねじ)の解説もあります。
種子島の火縄銃で、初めて日本人は ねじ(スクリュウ)を見たそうです。
質問>.鉄砲術なんて伝統芸能
高島流-->高島秋帆と言う、超人的射撃名人が居たそうですが!!
そろそろ、どなたか引き継いでください。
軌跡の発動機?誉
- 日本が鉄砲大国であったかどうかは少々疑問ですが、フリントロックの導入が遅れただけの事で、大枠で見て産業革命前の国としては、銃砲は発展していたんですよ。
それに、高島秋帆の砲術は最新の洋式のものですし、ペリーの上陸を迎えたのも、高島門下の幕府洋式銃隊です。銃の生産技術も衰えてしまった訳ではなく、その転用で日本は比較的早い時期にゲベール銃の国産化に成功し、銃の輸入に頼らずとも国産銃で武装をまかなうことに成功しています。
「伝統芸能がてきちまった」と悪口雑言を並べられるような歴史は日本にはありません。
BUN
- そういえば、この前の「開運鑑定団」に、和製の
ホイールロック銃が出ていましたね。
たしか、数百万円の値段がついてたような。
こういう個々の技術的発展があっても、江戸時代
では需要がなかったという面もあったのでは
ないでしょうか。
「戦争がないのに高価な銃をそろえても。」
「城を勝手に修復したという理由で、改易に
なった大名もいるのに、新式銃なんか
幕府に睨まれてしまう。」
なんて理由もあったのではないでしょうか。
老中が大名家や旗本に発行した「銃の携帯許可証」
なんてのも残ってるそうです。
これがないと、箱根の関所は、通過できなかった
とか。
刀剣に関しても、刀の長さの制限なんかの
触れも出てるようですし、江戸時代の刀は
は細身で実戦的でないなんて話も聞いた
ことがあります。
(このあたり刀剣に一家言ある方のお話が
聞きたいものです。)
なにをさして伝統芸能と言うか不明な点が
ありますが、道場や師範について修行して
免許皆伝してもらうという点では、剣術や
弓術なんかも同じではないでしょうか。
要するに国家が組織的に研究を行い、
統一したマニュアルで全国的に兵員を訓練
するという国家体制でなかったという
ことでしょう。
RM
- 前装マスケット銃(ゲベール銃)や前装ライフル銃(ヤーゲル銃)はナポレオニックスタイルの兵器で、旧式のアーケスバスに対しては優位でしたが、後装ライフル銃(ミニエ銃/スナイドル銃/エンフィールド銃)には対抗する術がありません。幕末でも、近江国友村などでゲベール銃は生産されていますし、幾つかの雄藩は後装ライフル銃も国産化しています。最終的には、エンフィールド銃のスナイドル銃への改造も行っていました(生産、ではありません)。
しかし、これらの銃も、速射可能な新式後装ライフル銃(シャープスM1859/スペンサー銃/ドライゼ銃/シャスポ銃/ヘンリーライフル等)には対抗できないことがプロシア=オーストリア戦争や南北戦争の戦績から窺えます。これらの新式後装ライフル銃の国産化はさすがに技術的に手に負えず、輸入に頼らざるを得ないのが現状だったようです。
sharman
- 軍用銃以外にも目を向ける必要があるやに思います。地方諸藩、特に山村においては、イノシシ等を追い払うための「おどし鉄砲」がかなり多く所持されていたのではないかとの議論があります。所持の名義人も村だったり、士分ではあっても実際は農民たる庄屋だったりすることが多かったのではないか、とも。
「おどし鉄砲」の中にも、狩猟には使える程度のものも混じっていたようですが、原則的には音が鳴ればいいわけで、技術的な改良を促す圧力は(軍用・実猟用に比して)弱かったことが想像されます。
はたの
- 高島秋帆他の洋式兵術は「免許皆伝・・・」といったものとはかなり趣が違います。門弟6000人を抱え、幕府の支持も得た高島流は半ば公式の兵術と言っていいのではないでしょうか。軍装の開発もこの当時に基本的なものが出来上がっていますし、洋式兵術の日本への導入運動といった眺め方もできると思います。
また、私は戊辰戦争までは基本的にゲベール銃レベルの戦闘であったと思います。ミニエー銃を使用した歩兵操典の導入は各国でも数年の幅でバラつきがありますが、日本へは戊辰戦争直前に入っていたはずで、幕府崩壊までには新式歩兵操典での訓練を終了していた歩兵部隊は存在しなかった可能性があります。ですから、ミニエー銃の本来の優位を100%発揮するような戦闘は行われず、旧式操典に準拠した戦闘が行われていたと考えて良いのではないでしょうか。
だからといって、旧式操典による歩兵部隊が戦力として大きく劣る水準にあったと断言することもできないと思います。
BUN
- 盛り上がってる所すいませんが、後装式の銃を鎖国中に見たり買ったりした人
(抜け荷じゃなくて正規ルートで)はいないんでしょうか。それともその時
オランダはこうしんこくだったのですか?
紅葉饅頭
- >11.後装式の銃を鎖国中に見たり買ったりした人
後装銃に限りませんが、坂本竜馬なんか そのものズバリの人物では!!
その他補足。
「1859年(安政6年)6月、修好条約締結国に対して 長崎、横浜、函館の3港が開かれた。
これで事態が一変した。幕府の統制力の衰退もあって、公然、或いは密貿易の形で大量の西洋製鉄砲が
入り込んできた。」
小銃輸入実績 単位 丁(下段、輸入金額$) *銃の種類は雑多。
長崎 横浜 兵庫、大阪 函館
1863年(文久3) 不祥 不祥 不祥 不祥 ($37980)
1865年(慶応1)25850丁 不祥 不祥 不祥
($160000)
1866年(慶応2)21620丁 不祥 不祥 不祥
($270000)
1867年(慶応3)65367丁 102333丁 不祥 不祥
($980000)($1330000)
1868年(明治1)36514丁 106036丁 14285丁 不祥
($620738)($1600000)($122766)($51058)
前記 ”火縄銃から黒船まで” より抜粋。 表は一部分のみ引用。
軌跡の発動機?誉
- 日本が鎖国中に、量産された後装式軍用銃というのが、そもそも思い浮かばないのですか・・・。
BUN
- >10 幕府は伝習隊等にシャスポ銃2連隊分を有していましたが、これに対するドクトリンは少なくとも後装銃装備を前提としたかなり近代的なものではなかったかと推測します。装填速度を考えると前装マスケット銃と前装ライフル銃(前装ミニエ銃や前装の1853年式エンフィールドライフル銃も含め)の優劣は付けがたいものがありますが、装填時に立位姿勢をとらなくても済む後装ライフル銃は地形の防御効果を生かした射撃が可能ですから、ある程度錯綜した地形において同兵力で戦うのならその優位性は絶対的であったと思います。ただ、世の中、そんなに都合の良いことばかりではなかったようですが…………。
>12 こんなに輸入していたとは驚きです。南北戦争で南軍が輸入したエンフィールドライフル銃ですら40万丁ということですから、武器商人にとって日本はいいお得意さまなんですね。
sharman
- 兵士がそれぞれの遮蔽物にを利用して散会して戦闘する、という光景は少し、近代的過ぎませんか?私はそういう事が疑問で仕方がありません。
BUN
- シャスポー銃を装備してた幕府部隊は、
フランス陸軍将校の訓練を受けていた
のではなかったでしょうか。
後装式小銃は、プローン主体で戦闘可能
なのでプローン射撃を行うだけで被弾率の
低下、命中率の向上がかなりあったように
思われます。
ただ、当時の歩兵戦術では、兵士が身近の
遮蔽物を利用できようになっていたかどう
かは幾分、疑問の余地があると思われます。
RM
- すいません。スカーミッシュ戦術自体はアメリカ独立戦争の頃からあるのですが、第2帝政期のフランス軍やプロシア軍がそれを使っていたという確証がなかなか探せなくて…………。少なくとも、ナポレオニックのフランス軍軽歩兵はスカーミッシュ戦術が可能でしたし、イギリス軍軽歩兵は前装ライフル銃を駆使していました。
sharman