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2046 こんにちは。素人じみた質問で申し訳ありません。

菊水作戦のとき、主力艦として戦艦大和が出撃していますが、なぜ、大和「のみ」が選ばれたのでしょうか?(護衛の駆逐艦、軽巡洋艦はおくとして)

連合艦隊の最後をかざる象徴としてなら、いまだ長門以下の戦艦、空母もいくばくかは健在であり、この時期に及んでこれらを温存する意味もほとんどないはずです。
また、仮に温存するのであれば、もっとも戦力として(もはや有効性はありませんが)強力な大和を温存し、長門を捨石にしなかった理由がわかりません。

この時期、たまたま出撃できるのが大和だけだった、というくらいの理由なのでしょうか??

また、本当に水上艦艇の一部でも沖縄近海に到達し、何がしかの打撃を与えたいと思っていたのであれば、これらも投入したほうがよかったはずです。

燃料のことを云々するのであれば菊水作戦自体が無意味であるともいえますし、やはり燃料消費量などを考えると大和以外の艦艇を主力にしたほうがよかったはずです。

成功を期すのであれば、この時点での残存空母(葛城、天城などがあったとおもいます)をもって陽動作戦を行うべきだったでしょう。
また、航空特攻を成功させるための囮であったとしたら、やはり大和である必要は感じられません。

繰り返しになりますが、なぜ「大和」であり、たとえば「長門」ではなく、また「大和」一隻であり、それに準ずる主力艦を伴わなかったのでしょうか?

諸賢のご意見を賜れれば幸いです。

山脇

  1.  過去ログにも出ていると思いますが、つまりは、あの時点で行動可能な「部隊」があれだけだったことが全てなのではないかと思います。
     陽動作戦が可能な「艦隊」も「艦」も無かったのです(長門等は既に予備艦状態で人員装備等を下ろしてますので実戦能力は事実上無いです)
     という訳で、大和以外の主要大型水上艦は事実上存在していなかったのです。
     何故大和だけが戦力を残していたのかは、また別の話になると思いますが、どうせどの戦艦でも、戦闘可能状態にしておくのに必要な労力はあまり変わりませんので、一番戦力が充実している(つまり手間に見合った効果を期待できる)大和が戦力維持対象に選択されたのだと考えます。

    SUDO

  2. この時期日本に残存していた戦艦は、大和・榛名・伊勢・日向・長門の五隻。このうち長門は横須賀にいましたから、仮に予備艦状態でなかったとしても、これを呉まで動かすこと自体が無謀(信濃と同じように沈められる危険性が高い)。
    菊水作戦に関してはもはや統帥上の理論などは吹き飛んでしまって、陶酔を前提とした多分に感情的な作戦ですので、そこに合理性を求めてもしかたがないという気もします。成功するなんて誰も考えていない、世界最大の巨艦に「戦って死ぬための場所」を与えるためだけの作戦なのですから。
    tac

  3. 実際に行われた作戦にはその目的と理由を示す作戦計画書が存在します。「死に場所」云々といった俗論よりもちゃんとそれらの文書を読んで、どんな考え方の下で何故大和だったのかを自分で考えてみるのが一番ではないでしょうか。そもそも「菊水作戦」に大和は出撃していないのですよ。
    BUN

  4. >>1 SUDO様
    仮にそうだったとして、それでは「一番戦力が充実している」貴重な戦艦である大和を、特攻隊の囮(としか私には思えない)作戦にあえて投入したのが納得できないわけです。出撃に必要なリソースを考えても。
    >>2Tac様
    巷間そのような言説をよく聞きますが、上記のようなことをかんがみて、本当に当時の海軍上層部はそこまで「イカれ」ていたもんなんでしょうか?
    >>3BUN様
    ご指摘ありがとうございます。「天一号作戦」ですね・・・・・
    そうですね、一次資料にあたるべし!ごもっともです・・・精進いたします。

    過去ログをそのキーワードで検索いたしましたら、かなり以前にBUNさまと今泉様の議論があるのを発見いたしました。読んで勉強いたします。

    山脇

  5.  まあ、4で山脇さんが上げられた「天一号作戦」に関する過去ログを見ていただければご理解可能かと思いますが、一応、特攻・空襲による打撃の後に大和以下は沖縄に突っ込む腹積もりだった訳です。
     まさしく「一番戦力が充実している」戦艦と艦隊(それしか無かったのも事実ですが)であるからこそ、空襲部隊によって叩きのめされた敵艦隊の追撃(日本海軍の艦隊運用の基本スタイル)に投入する事に指定された訳です。
     実際には双方の戦力差や、沖縄までの距離等から成功確率はかなり低い作戦ではありましたが、考え方の基本としては間違っていないとはいえるでしょう(これはマリアナや台湾で日本軍が狙ったのと基本的な部分では同じです)
     現実的には、成功確率の低さから生還を期しがたいものであり、出撃は事実上の特攻になる事は明らかであり、この時点で「戦艦以下を特攻に使うべきか否か」という問題が生じる訳で、これに対して当時の空気が「応」と判断したのであり、特攻することが先にあったとは個人的には思えません。
     陸海空全力攻撃の一環として水上部隊を使いたい、だが、それには生還を期しがたい、だから特攻として行って貰う。そういう考えだったのではないかと考えます。
    SUDO

  6. 「あの時点で行動可能な部隊があれだけ」云々は、事実として間違ってはいない
    のですが、それは因果が逆だろうと思います。つまり、元々「大和以外を使うつ
    もりはなくて、ああいう状態に至った」というほうがより正確でしょう。

    この件は、捷号作戦中の損傷艦の修理方針が作戦実施中に軍令部で検討される段
    階まで遡ります(以下基本的に文献[1]による)。その方針としての要点として、

    一 損傷艦ノ修理事前処置
    (今泉略)
    二 方針
    (イ)(今泉略)
    (ロ)内地ニ於ケル修理緩急順ハ左ニ依ル
    (1)駆逐艦 (2)巡洋艦 (3)航空母艦 (4)戦艦
    油槽船ト駆逐艦ト同位
    (以下今泉略)

    なお、着手時期と完了時期に関しても予定するところがあり、航空母艦と戦艦は
    「修理ニ余力ヲ生ズル都度」「二十年三月頃ト予定」し、「戦艦ノ一部ハ繰上整
    備スルコトアリ」としていました。

    これに対して海軍省は、さらに徹底した小艦艇優先主義を採っていましたが、省
    部の折衝によって、戦艦は後回しにするものの余力が生じたら修理することに落
    ち着いたとされます。

    一方、捷号作戦後の水上部隊の使用方針としては、軍令部としては「戦艦、巡洋
    艦ヲ洋上艦隊戦闘又ハ局地戦闘ニ使用セザルヲ建前トシ」(水上兵力ノ使用ニ関
    スル方針、昭和19年12月5日)としていました。この方針に基づき艦隊編制と用法
    が検討され、例えば戦艦(「大和」「長門」「榛名」)は「一 昭和二十年中期以
    後機動艦隊編制ヲ目途トシテ整備ス 二 修理完了次第東京湾方面(一部呉方面)防
    空艦トス 三 人員交代後一応訓練ヲ終了セバ昭南方面ニ進出訓練セシム」と用法
    を規定し、一方「現乗員ハ上記用法ニ応ズル基幹員ヲ除キ 他ニ流用 其ノ補充ト
    シテ素質優良ナルモノ(練度低クテ差支エナシ)定員補充員トス但シ主砲関係員ナ
    成ルベク交代セシメズ」などとしていました(昭和20年12月27日決裁)。

    艦隊編制は「大和」「長門」「榛名」を以って第一戦隊を編成しこれを第二艦隊
    直率にする改定を経た後、機動艦隊再建を断念したことよりこの編制をさらに改
    めこれら戦艦を聯合艦隊付属とする旨軍令部は予定していました(実施は2月5日
    を予定)。

    その一方聯合艦隊首席参謀神重徳大佐は「第二艦隊二ハ大和ヲ旗艦トシ使用シ度」
    「第二艦隊ヲ特攻的ニ」使用したい意向をもっており、これにより当初軍令部一
    部一課として戦艦を聯合艦隊付属とする方針を、大和を第一航空戦隊に編入、長
    門を横鎮部隊、榛名を呉鎮部隊に編入するよう改めています(2月10日)。なお、
    鎮守府部隊に編入された戦艦は、「主砲関係者ノ大部及各科基礎員」を残留させ
    る以外は抽出は差し支えないとしています。

    このような経緯があって3月17日の例のGF電令作第五六四A号の発令となり、以前
    記述した通りの経緯で海上特攻隊の出撃につながっています。

    確かに作戦時海軍に残存していた艦艇は他にもあるわけですが、それらはそれ以
    前に修理方針や使用方針、人員の補充方針が定められそれに則った状態にあった
    わけで、それら経緯も含めて作戦実施の過程を理解しないと片手落ちになるので
    はないかと愚考致します。

    [1]防衛庁防衛研修所戦史室,戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊<7> -戦争最終期
    -,朝雲新聞社,1976

    今泉 淳


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