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たびたび失礼します。準ド級戦艦とされる摂津と河内について質問です。 旧国名を戦艦名とするという基準ができた後、最初が薩摩(薩の海軍!)、安芸(海の神である厳島神社がある)は順当なところだと思うんですがそれに続いて、なぜか大阪の、それも隣り合った国名が採用されています。 以後の長門や土佐の様に元官軍だったわけではないし、日向(天孫降臨の地)や伊勢(日本神道における最高聖地)の様に天皇制とかかわりがあるわけでもなく、陸奥や武蔵の様な大国であるわけでもないのに…。 何か当時、海軍としては大阪方面の国民や政財界の御機嫌を取る必要でもあったんでしょうか? imokenpi |
- ↑あ、別に大阪の地名が採用されたのが悪いという意味ではありません。為念。
imokenpi
- 隣り合った、は理由不明ですが、
少なくとも豊臣秀吉のお膝元&国際貿易港堺の存在が選定に大きく影響したのは
確実だと思います。
勝井
- 勝井山、んな馬鹿な事はないと思うよ。これは、香取、鹿島等と並ぶ隣接地名からの命名例として分析すべきことです。
BUN
- もともと、摂津国は摂津職(せっつしき)と言いまして、天武年間に都の
行政組織である京職(きょうしき)と対になるなる副都の行政組織として置
かれました。副都の長官であると同時に要港であった(同時に軍港でもあっ
たかもしれません)難波津の管理者でもありました。その後793年(延暦12年)、
摂津職は改められ摂津国となります。つまり、今流にいえば東京都に対する
京都府・大阪府に当たります。
ですから、由緒もあり、海軍や船舶とも深い縁がある国名だと思います。
tk
- 訂正
「摂津職の長官は」副都の長官であると同時に・・・
「摂津職の長官」が抜けておりました。
tk
- すいません。論点がずれておりました。
tk
- ↑3.鹿島神宮、香取神宮は伊勢神宮と並ぶ三神宮ですよね。「延喜式」によれば他に「神宮」はないわけですから、皇室に縁の深い名前として選ばれ、結果的に隣接して見えるのだと思います。
ところが「摂津」「河内」にはそれぞれ「難波宮の故地」「仁徳天皇陵のある百舌古墳群」くらいしかそういう関係が見当たらないんで不思議なんです。
どちらか一つならともかく、旧国名での命名が始まって間もない3番目と4番目に続けてというのが不思議なんです。
imokenpi
- 摂津にしろ河内にしろ、南北朝時代の激戦地で、明治に入って英雄扱いされるようになった楠正成とか新田義貞のゆかりの地で天皇家との
関係が深いところでは有ると思いますが...。
taka
- ↑皇室に縁というのは、祭神が天照大神の系統に属し、なおかつ創建が記紀以前にまで溯れて、新嘗祭等の公式行事の最に勅使が派遣されるような由緒のある神社があるところ=神道の聖地…という様な意味です。
南北朝時代では時代が新しすぎて重みに欠ける様な気がします。そういうたぐいの縁なら日本中どこにでもあるわけですから(^_^;)。
つまり、聖地ではない以上、薩摩、長門、陸奥、土佐、加賀といった、(神道的意味で)並みの国として選ばれたのならそれなりのより世俗的な理由があるんじゃないだろうか? というのがこの質問の動機です。
imokenpi
- 旧日本海軍の艦名を見ると、旧国名以外に、割合、近畿地方の山や川で和歌に出てくるようなもの(龍田、畝傍など)が多く使われています。私の推測ですが、このような感覚で文学的、歴史的由緒のある国名の組合せとして摂津と河内になったのでは?ところで、五畿内のうち、山城国は「山背」(古代はこのように書いたそうな)として戦艦名になっている。で、和泉国が外れたのは摂津、河内に比べ文学的、歴史的由緒がないとされたからでは?(日清戦争時代に艦名として使われてはいるが)。それとも、まだ廃船になってなかったからかな。
アリエフ
- これは結論ではありませんが、香取、鹿島と、富士山を間に挟んで一直線に並び、意味的には対称の関係にある、といった様に地図と定規で見て行くのが正解なのでは?と最近思っています。
BUN
- 角度をかえて、軍艦の艦名を決定し得る実権者がどういう顔ぶれだったか見てみましょう。
軍制上、厳密にどういう立場の人がこれをなし得るのかというのも一つの問題ですが、
いやしくも主力艦の艦名ということになると、
最上層部の意向なしに決めることはできなかったのではないでしょうか?
「河内」「攝津」は明治40年度の計画によって建造された艦ですが、
とうじの軍令部長は東郷平八郎、次長は三須宗太郎。
艦政本部長は片岡七郎。
東郷平八郎は説明不要かと思いますが、
三須宗太郎は「日本海海戦」当時の第1戦隊司令官。
「薩の海軍 長の陸軍」の受け売りですが、東郷平八郎のヒキで、次長職に抜擢されたという噂の持ち主です。
片岡七郎は「日本海海戦」当時の第3艦隊長官。
ともに世紀の大海戦で東郷の下で戦ったという以外に、じつはこの三人を結ぶ糸があるのです。
それは、「浪速」艦長というポストです。
このフネ以後に「浪速」という名を持つ艦は寡聞にして聞きません(あったらごめん)。
「浪速」といわれる界隈をふたつにすれば、まさに「河内」と「攝津」になるのです。
往年、艦長を務めたフネに対する思いがこういう形で結実した、
というのは、フィクションとして笑われてしまうでせうか???
大方の叱正を乞う。
※公平を期するためにつけくわえると、とうじの海軍大臣は斉藤実、次官は加藤友三郎で、ともに「浪速」艦長の経験はありません。
むらじ
- ↑日本の主力艦の名称は2艦がペアになって付けられている傾向は確かにあります。
ただそれは国名や山岳名という「地名」の位置関係にのみ因るのではなく「名前」の意味の面というのもあるのではないかと考えます。
例えば「三笠」と「初瀬」ですが、「三笠」は皇室に縁の深い奈良の春日大社の裏手にある春日山の別名であると同時に、和歌の世界では「近衛の大将」の意味があります。
同様に「初瀬」は現在の奈良県桜井市にある地名であり、天武天皇の勅願寺である長谷寺があるところですが、同時に伊勢神宮の斎宮として未婚の皇女が伊勢に向かう時に通る「初瀬街道」の基点であり、和歌では彼女たちを「初瀬乙女」と呼びます。
つまり「三笠」→「近衛の大将」→「兵」→「男」+「初瀬」→「斎宮」→「巫女」→「女」=男女の理想像=皇民…という意味も併せ持っていたのではないか? …という様なことです。
あるいは、「朝日」と「富士」も共に日本の象徴としてのイメージであることは間違いないのですが、同様に「朝日の宮」というのは「伊勢神宮の内宮」のことであり、「富士の宮」といえば富士山を御神体とする浅間神社のことです。
ものにそのもの通りの名前を付けて呼ぶことを厭い、間接的重重層的な表現であらわそうとするのは日本人の伝統的なメンタリティであり、軍艦の名前もその例に漏れません。そして、こういうメンタリティは「旧国名を付ける」という決まりができても決して消えたわけではなく、何らかの形で反映されていたのではないか…そして、BUNさんのおっしゃる「同心円的命名法」の繰り返しは、その現れの一つではないか? …と思うわけですが、どう考えてみても「摂津」と「河内」にあてはまる理由が見付からないんです(^_^;)。
まぁ、どちらも完成する前に旧式化してしまった艦ですから、海軍としてもあんまり立派な名前は付けなかったのでは…とも思ったんですが、それでは余りにも大阪に失礼ですよね。
…う~ん、気になる。
imokenpi
- ↑むらじ さん。すごい。一気に謎が解けました。具体的な説として発表するならともかく、私的には納得です。
しかし、何か俗な理由があるはずだとは思ってたんですが、元が艦名だったとは気が付かなかった。脱帽です。
こういうのもアリだとすると、艦名の考察というのも奥が深そうですね。
imokenpi
- 蛇足ですが、摂津職はtkさんのおっしゃるように、桓武天皇の時代に廃止されています。
ただ、有職故実の世界においては、奈良朝以前はあまり問題にされないようで、
命名の由来を古代日本の官制に由来を求めるのであれば、
平安貴族がもっとも理想としていた延喜・天暦の時代に重点を置くべきかと愚考します。
古い国は大国上国中国下国にわかれるのですが、もっとも重んじられた大国のなかに大和・河内・伊勢・武蔵があると同時に、戦艦の艦名としてまったく採用されていない肥後や越前があり、いっぽう長門・伊勢・土佐・日向・薩摩などは中国という扱いです。下国は9カ国しかないので、事実上これは「中の下」の扱いとみるべきでしょう。
以上のことから、戦艦の艦名に王朝時代の官制が反映されていたとみるのは、説としては魅力を感じるものの、些か無理があるような気がします。
むらじ
- ↑むらじさん。確か議論ボードの過去ログの中に艦名の由来をさぐった論戦があったはずです。十分ご参考になるかと思われますので、是非ご高覧あれかし。また新たに当該問題について議論ボードを立ち上げられては如何でせうか。また新たな考察が加わるかも知れません。
桃水軒
- 外国艦の艦名に関するやつですね?
大変興味深く拝見しました。
話題性としては古今東西にまたがってくるので、魅力はたっぷりですが、
初手からあんまり大風呂敷を広げてしまっても、前途遼遠に過ぎて企画倒れになりそうで怖いです。
とりあえず気になるあたりから各個撃破で実績作りをするのが先決のように感じるのですが。
むらじ
- ↑15のむらじさんへ。蛇足の蛇足ですが。
旧国名は廃藩置県まで現役の地理区分として使われていますし、律令制に基づく国守の任免も行われていますよね。
もちろん大岡越前守とか吉良上野介とかいっても越前や上野とは何の関係もないですが、位階制度として公式行事の際には重要な意味を持っていたはずです。
逆に言えば大国、上国に含まれない国が艦名として選ばれていたら、そこには何かそれなりの同時代的世俗的な理由(薩摩、長門、土佐の様に)があるのではないかとも思うのですが。
imokenpi
- あー、ごめんなさい。書き方がわるかったようです。
戦艦のナマエが律令官制としての国名に基づいていることを否定したわけではなく、
その国名のなかから艦名を選ぶさいの基準が、律令制度における価値観とはあまり関係ないということをいいたくて「王朝時代の制度は反映していない」と書いたのです。私のミスです。
その、少々場違いかもしれないモノサシをむし返すようで恐縮なのですが、
9ヶ国ある下国のなかから唯一、戦艦のナマエがでています。
壱岐です。たしかロシア戦艦ニコライI世だったと記憶しております。
旧ロシア戦艦から日本戦艦となったフネにはほかに、
相模(ペレスウェート)肥前(レトヴィザン)周防(ポピエーダ)丹後(ポルターワ)石見(アリヨール)がありますが、
これら捕獲艦のために律令制において格の低いとされた国をことさ選んでいるわけではないようです。
(※くれぐれも、私自身がこれらの国を「格が低い」なんて思っているわけではありませんよ。念のため)
ちなみに相模・周防・肥前が上国、丹後・石見が中国です。
壱岐・丹後・石見は日本海海戦を意識して日本海側の国を選んだように思えますし、肥前は薩長土肥のうちでまだ使われていなかったからではないかと想像できますが、相模となるとちょっと想像がつきかねます。
むらじ
- ↑鎮守府があるからかな?安芸や肥前もそうだけど。
むらじ
- 私は艦名に数百年程度の新しい歴史が反映されることは無いと思います。
唯一あるとすれば鎮魂の意味での命名でしょう。
大戦果の顕彰という意味よりも、日本海で全滅した敵艦隊と戦死した味方将兵の鎮魂の命名が
日露戦争での捕獲艦になされているような気がします。
また、比較的頻繁に交代する軍令部長、艦本部長などが、
果たして独力で長期に渡る連続性を持つ軍艦の命名を行っていたのでしょうか?
BUN
- ↑19.むらじ さんへ。
鹵獲戦艦は「日露戦争の結果獲得」という意味で、海戦のあった場所の名前を付けた。つまり、単に壱岐や相模ではなく「壱岐沖」「相模沖」という意味ではないかと思います(相模沖は太平洋の意味であり、ウラジオ艦隊と上村艦隊の戦いですね)。
ただ、艦自体は旧式ですから、将来の主力艦に使いたい「いい国名」を残して日本海沿いに選んで行った結果、ああなったんではないでしょうか。
imokenpi
- 神奈川沖で上村艦隊、というのは解釈が飛躍し過ぎ、無理があります。
また、戦勝を誇るという考え方も日本の皇室の伝統とはかけ離れているのではないでしょうか。
相手を全滅させたら祭るのが神道の常識ではないかと思います。
証拠となる文献がある訳ではありませんが、相模は横須賀を本拠地とする帝国海軍の、
日本海海戦での戦死者の鎮魂を象徴しているのではないかと思います。
BUN
- 10で歴史的由緒があるからと書きましたが、軍隊や造船にゆかりの深い地域の旧国名を取ったという御当地主義も関係しているような気がします。むらじさんが指摘されていたように鎮守府のある所だと、戦艦以外のものも含め、安芸(呉)、肥前(佐世保)、丹後(舞鶴)、相模(横須賀)全部そろっていますし。そして戦前は阪神地区が日本最大の工業地帯で、摂津、河内両国に当たる大阪、神戸、堺付近には海軍とゆかりの深い造船、軍需工場が林立していました。
アリエフ
- 摂津、河内の建造計画時に民間造船所や関連産業の主力艦建造に対する貢献は殆ど無いのですが、この辺は如何ですか?
BUN
- ↑別に特定の艦との関係ではなく、海軍の艦艇建造全体に大阪周辺における造船業等の工業がかなり貢献、又は縁が深かったからではなかろうかとの意味です。私の邪推で確たる根拠があるわけではないのですが。
アリエフ
- 21・BUNさんへ
「比較的頻繁に交代する軍令部長、艦本部長などが、
果たして独力で長期に渡る連続性を持つ軍艦の命名を行っていたのでしょうか?」
について。
そうすると、艦名を決めていたのは誰でしょうか?
むらじ
- ↑23.BUN さんへ。
別に反論というわけではないのですが、鎮守府の所在地名が鎮魂の意味を持つなら、同時に戦勝の意味も持ちうるのではないでしょうか(同じ兵士が戦ったわけですから)。
問題はその「地名」をどう読み解くかというメンタリティの問題です。その時に大和朝廷としてのメンタリティが、大日本帝国成立後の皇室にどういう形で継承されていたかは一概には言えないでしょう。
明治というのは日本人の価値判断に大きな変革をもたらした時代であり、近代国家としてのアイデンティティを確立する過程にあったわけですから、単に朝廷の伝統で一まとめにはできないのではないでしょうか。
逆に言えば、従来の伝統では律しきれない要素が混入してくる中で、それを排斥せずに伝統の一部として取り込んでいく…という流れがあったのではないか? それが一見するとイレギュラーに見える部分であり、価値観の転換(or拡大)の現れではないか? と思っているわけです。
imokenpi
- 自説に固執するようで申し訳ないんですが、そういう柔軟な考え方が、私、出来ないんです。
雑多な説の継ぎ接ぎではなく、もし一つの基準があるのなら、それは一貫したものである、とまず考えなくては検討を先に進めることが出来ないからです。
とにかく、この問題に関しては、歴史雑学をいくら組み合わせても答えは出ない、と思います。
ある立場の、ある考え方にとって、何が問題で何が問題でないのかを見極めて、推論を進めるべき事柄なのです。
BUN
- ↑23.BUN さんへ。
別に反論というわけではないのですが、鎮守府の所在地名が鎮魂の意味を持つなら、同時に戦勝の意味も持ちうるのではないでしょうか(同じ兵士が戦ったわけですから)。
問題はその「地名」をどう読み解くかというメンタリティの問題です。その時に大和朝廷としてのメンタリティが、大日本帝国成立後の皇室にどういう形で継承されていたかは一概には言えないでしょう。
明治というのは日本人の価値判断に大きな変革をもたらした時代であり、近代国家としてのアイデンティティを確立する過程にあったわけですから、単に朝廷の伝統で一まとめにはできないのではないでしょうか。
逆に言えば、従来の伝統では律しきれない要素が混入してくる中で、それを排斥せずに伝統の一部として取り込んでいく…という流れがあったのではないか? それが一見するとイレギュラーに見える部分であり、価値観の転換(or拡大)の現れではないか? と思っているわけです。
imokenpi
- ↑ごめんなさい。二重投稿です。無視してください。
imokenpi