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ハ-45、誉発動機について、よく「オクタン価100のガソリンの使用を前提に設計されていた」と書かれていますが、当時の日本の石油精製技術でオクタン価100のガソリンの量産は技術的に可能だったのでしょうか。それともそんなあてもないのに見切り発車で設計が行われたのでしょうか。あるいは、誉は100オクタンガソリンの使用が前提になってはいなかったのでしょうか。 NX |
- >オクタン価100のガソリンの量産は技術的に可能だったのでしょうか。
新司偵に100オクタンガソリンを供給できているので、
「生産」はできたのでしょうけど・・・。
「量産」が問題だったでしょうね。
SADA
- 開戦時の新司偵用100オクタン「特別燃料」、あれ、買って来たみたいですね、どうも。
ただ、陸軍海軍で事情は異なるものの生産の見通しは何とか立っていたようで、この辺の見通しの違いが海軍機の誉大量採用と陸軍機の消極的採用の差に影響しているのかも知れません。
BUN
- BUNさんのいわれるように、日本は対日禁輸措置以前に100オクタン価の燃料を何千キロリットルかを購入しました。その後、国産化しようとして100オクタン価燃料を作る設備も、アメリカから武器禁輸になる直前に購入しましたが。終戦までに設備が100%稼働していたかとなると疑問で、十分に稼働しなかったり、添加物の不足などにより生産量が少なく、全部隊に供給できなかったと考えてます。
源五郎
- 海軍がアメリカから輸入した100オクタン燃料は昭和12年9月に1100kl、同年10月から13年3月までに14000klとベンゼックス42000klを輸入しています。
これに伴って海軍航空揮発油規格を改定。これに基づく昭和12年9月30日付けの出資準備計画では航空燃料所要量として下記の表を掲げています。
100オクタン 95~92オクタン 87~85オクタン
昭和13年 3000kl 27000kl 30000kl
昭和14年 27000kl 27000kl 36000kl
昭和15年 60000kl 36000kl 24000kl
昭和16年 90000kl 30000kl 30000kl
また、この所要量起算根拠の一つとして「発動機更新と使用燃料の変化」という付表もあって、これによると昭和13年段階で100オクタン使用は実験機、95オクタン使用は陸攻と艦戦の一部、後は87オクタン。それ以降順次高オクタン燃料に移行して、昭和16年段階では実用機の大部分が100オクタン使用の見込みとなっています。
現実の推移はこの通りにならなかったのは言うまでもないですが、エンジン及びそれを使用する機体開発の方は既定の100オクタン使用を見越したものとなってしまい、この乖離からくる悲劇の一つの結果が誉だったのだと思います。
ついでに書くと、現実の推移は必要量を確保するのが優先で100オクタンの製造など夢の夢で、特に南方原油の還送が絶望的になった昭和18年秋からは、航空揮発油分留性状規格の50%点、90%点を高めて収率の増加をはかり、これに基づくオクタン価の低下に対して加鉛許容量を増加して既定オクタン価とするなんていう事が行われて、これが誉あたりに使用される事になってしまっていました。
舞弥
- 昭和20年における、我が国の航空ガソリン生産量に占めるオクタン価の割合は以
下に示す通りだそうです。
オクタン価 割合(%)
95~100 1
91 40
87 40
85以下 残り
takukou
- だいたいは舞弥さんの書かれている通りですね。
ちょっと補足をするならば、低オクタンの燃料に四エチル鉛などを混入してオクタン価を上げるというのがどこの国でも行っていた一般的な方法です。日本でも元々のオクタン価の高いものを輸入していたのと、低オクタンのものに加鉛などしてオクタン価を上げていたのの両方をやってました。
また、原油に対して同じ精製方法を行っても、産出された場所によってオクタン価が違ってましたので、同じ量の加鉛などを行っても当然結果のオクタン価が違ってきます。開戦前から良質の原油が輸入できなくなったことも高オクタン価の燃料が使用できなくなったことの一因のようです。
もう一つの理由は、日本の石油精製施設が小規模のものが分散していたため、大量生産がかなり困難だったということがあるようです。
胃袋3分の1
- 陸軍の資料で91オクタン以上の航空ガソリンと87オクタン以下の物を消費量で比較すると、昭和18年2月に各1万トン/月で並び、その後は双方ともほぼ同じペースで消費量が増えて19年3月から6月に各2万トン/月になります。これがピークで後は91オクタン以上のものが2万トンで頭打ちのまま総量は減少して20年に入ると総量で3万トンから2万5千トンに落ち込みます。結果的に19年後半からは91オクタン以上が比率的に5割を越える事になるわけです。もっともこれも上に書いたように4エチル鉛の添加量を増やしてオクタン価(というか正確にはパフォーマンス価になるのかな)を維持するという無理をしている訳です。開戦後に新たに入手できた南方原油はパラフィン系のためガソリンを生成してもオクタン価の高い物を生産するのは難しく、また脱蝋装置がない精製設備では処理不可能という問題もありました。
舞弥
- 精製に関しては、いわゆるフードリー法による高オクタン燃料の製造に
目処が立っていた。という事なのでしょうね。
これには陸海軍共にかなりの期待を掛けていたようです。
九六式水素添加装置はいかんせん処理能力が小さく、装置の製造も難し
いでしょうから‥‥
しかし、それが四日市に完成したのは(2000バレル/日×1基?)
昭和19年でしたから。既に、原油の還送もままならない時期ですね。
takukou
- 実際の所、日本には高オクタン燃料を製造するだけの自主技術はありませんでした。この分野で進んでいたのはなんといってもアメリカでしたが、石油禁輸と同時にこうした技術や生産設備も禁輸となったためにそこで立ち往生してしまったのです。この分野では目覚しい革新が行われていた真っ最中であった事を考えれば、これは石油自体の禁輸よりも大きな影響を及ぼしたといってもいいと思います。
接触分解系の技術(フードリー法が代表)はモロにその影響を被っています。陸軍の場合フードリー法は、航空技術研究所、燃料廠の府中研究所でのパイロット試験後に昭和18年に「甲7号」と名づけられた320kl/日のプラントを岩国に建設開始して翌年3月に試運転完了したものの南方原油の途絶でほとんど運転できませんでした。
水素添加系の技術はドイツからの技術導入が可能だったものの、既に海軍が96式及び98式を一応完成していたため、大蔵省と海軍省の反対にあってドイツからの技術導入は中止。海軍の98式を元にした高温圧水素添加分解装置は「甲3号」と名づけられて200kl/日のプラント2基のうち片方が試運転にこぎつけただけでした。
舞弥
- いや、フードリー法(正確には固定床接触分解法)の技術移転はなされて
いたのです。
確かに「フードリー社」と陸海軍の交渉は高額な特許料を請求され断念し
ますが、UOP社が同様な技術を持っている事を突き止め、日本揮発油が
斡旋仲介してパイロットプラントの図面やら技術情報を昭和13年から
14年にかけて入手しているはずです。
ただ、それの実用化が遅れたのは、やはりエンジニアリングの問題だと思
いますが。
もしかして、四日市と岩国の接触分解装置は同じ形式のものなのでしょう
か?処理能力は同じ様なのですが?
takukou
- 確かに日本揮発油(株)経由のUOP社からの図面購入はされていたので技術導入はされていたという方が正しいのかもしれませんね。陸軍の場合はそれを元にしてフードリー法を参考にして東京工業大学の小林良之助助教授の指導の元に一連のパイロットプラントを建設したそうです。その他に先行して熱分解プラントを改造した「甲30号」という簡易接触分解装置(320kl/日)は昭和18年4月から稼動しています。
また本来はUOP社からは図面とかだけでなくプラントそのもの(40000kl/年)を輸入するはずだったのですが、石油禁輸によって断念しています。考えてみると技術とかではなくプラントそのものを輸入しない限り「間に合わなかった」というのが実情だったのかもしれませんね。悲しい。
舞弥
- なるほど、そうだったのですね。ただ、実用化に至る開発途中では
陸海軍の協力体制というのは無かったのでしょうか?
↑にも書きましたが、四日市と岩国に造られた接触分解装置の処理
能力が同じなんで、一寸気にはなるのです。(岩国の装置の写真があ
れば判りそうなんだけども)
また、岩国の接触分解装置ですが、手持ちの米戦略爆撃調査団の資
料では2基掲載(1基稼働、1基未稼働)されているのですが。や
はり、未稼働を含め1基しか完成しなかったのでしょうか?
民間関係の資料はあるのですが、軍関係の資料はせいぜい「戦史叢
書」程度しかないもので‥‥
takukou